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スマイル  作者: レミィ
10/12

夏の街の少女 3/4

がある。

 この夏の街はクリームが作ったのだから、わざわざうんたら商店で買い物をするときに百円玉をクッキーの空き缶に入れなくてもいいのではないだろうか、と。

 そう言うとクリームは、

「万引きですよ」

 と答えた。

 僕はため息をついた。

 そういうわけで、空き缶の中の百円玉は今回の缶コーヒーとクリームパンで合計二十八枚になる。

随分と溜まった。こうして見てみると壮観だと思う。全部僕のポケットマネーだけれど。

クリームパンは後九十個……と思ったけれど、もうそのカウントをする必要はなくなったのだと気づく。クリームの隠している秘密、この夏の街と僕自身に関する情報はもうすでに全部知ってしまったのだから。

クリームパン合計百個への道。あったらあったで悩みの種だったけれど、なくなったらなくなったで少し寂しくもある。

「ふーふぉふぁん」

「ユウトさん」

「ふふぃふぃふぃふぁふぉー」

「海行きましょー」

「ふぉふぉふぃふぁふぉー」

「泳ぎましょー」

「んくっ……やっぱりさすがの翻訳力」

「その道のプロだからね」

 クリームはけらけら笑う。僕も少し笑う。

 夏の街はやっぱり夏の街だった。太陽の日差しが殺人的で、青空は永遠に青空で、セミの声がぐわんぐわんと大気を揺らしていて、缶コーヒーでクリームパン。いつでもいつまでも夏の街は夏の街で、ここまでもこれからも夏の街は夏の街だった。きっと消えてしまっても夏の街は永遠に夏の街としてあり続けるのだと思う。ここではないどこかで、夏の街は夏の街として存在を保ち続ける、

 海に着いて、やっぱり人なんて気配もなかった。砂浜も波も全部僕らで二人占め。贅沢なもんだ。ここじゃなきゃこんなことはできない。

 僕は砂浜を少し見ていた。そうするとシーグラスが何個か落ちている。けれど拾いはせずにそのままにしておいた。きっと拾いたい人がまた拾っていくのだと思う。

「水着は?」

 と、僕が訊くと、

「あ、そういえばそうですね」

 と、クリーム。

「このまま入っちゃいますか」

「びしょびしょになる」

「すぐ乾きますよ。この天気ですからね」

「まあいいけどさ」

 仕方がない。

 僕は靴を脱ぐと、波が押し寄せないところにそれを置いた。クリームはさっさと先に行ってしまって、くるぶしまで水に浸かりながら僕を待っていた。

 ぺたぺたと裸足で砂を踏みしめて海へと歩みを進める。つま先に冷たい水がぶつかり、すぐに足全体が水に覆われた。一瞬だけ寒さに身震いしたけれど、すぐに冷たさには慣れる。慣れてみるとその冷たさもただ心地よいだけだった。

「なーんか二人だけって味気ないですね」

「いいと思うけどね。優雅で」

「それもそうかもしれませんね」

 クリームはさらに進む。腰辺りまで水がくる深さまで行くと、そこで仰向けになって水の上に浮かんでみせた。手と足をぱたぱたと動かして姿勢を保ちながら浮かんでいる。器用だ。なんだかラッコみたいだと思った。

「海って初めて入りました」

「そうなの?」

「家族があんな感じでしたからね。家族旅行をした記憶もありませんし、わたしもわたしで友達なんていませんでしたから。それに一人で海に行くこともできませんでしたし。わたしはまだ小学生ですから」

「そう思うと、君は随分と大変な人生を送っている」

「同情してくれるんですか?」

「むしろ親近感」

 僕だって同じようなものだ。ただ僕の場合はクリームより数年長く生きている……生きていた分行動範囲が広くなっていた。多くの人が誰かとやることを、僕は一人でやってきた。例えば海に入るとか。

「ユウトさんもユウトさんで、大変な人生を送ってそうですもんね」

正確には送ってた、だけど。

「ま、確かに一般的な人生を送ったとは思わないね。苦労と苦悩のある人生だったと思う」

 ある意味じゃ、なにもなかった人生だとも言えるけれど。

「そんな人生を送ってなきゃ、夜中に公園で缶コーヒーをすすってパンを食べる高校生になんてなってませんからね」

「言えてるね」

 だからこそ、今こんな摩訶不思議な現状に遭遇しているんだ。

 クリームは浮かんでいるのに飽きたのか、今度は素潜りを始めた。上がってくるのを待っていると、急に右足に予想もしなかった力が働き、僕の身体がふらつく。

「な――」

 にが起きたんだ。

というより先に、僕の身体はひっくり返って水の中に沈む。鼻から勢いよく海水を吸い込んだせいで痛む頭で、僕はその力の正体について考えを巡らせようとしたがそんなことをする前にその正体にはすぐに気がついた。

「ぶはっ!」

 水面から顔を出すと、被疑者もとい犯人は僕のそんな姿を見てけらけらと笑っていた。クリームってこんなに笑う人間だったっけ。

「執行猶予はつかないね」

「初犯で実刑判決とは厳しいですね」

「前々から気になってたんだけど、君本当に小学生なの?」

 言葉遣いから始まって節々の所作に至るまで、クリームはおよそ小学生とは思えないそれをしている。僕が知っている小学生ってのはもっと生意気で……いや、十分生意気だな。

「家族もあんな感じ、友達もいないってなったら、家で本を読むくらいしかすることがないんですよね。きっとユウトさんがわたしに対して感じている、小学生らしさがないその理由って、そういったことが原因だと思いますよ」

 と、また急に闇をぶっ込んでくるクリーム。

「そんなことより、気を抜いていいんですか?」

「気を抜く? 一体なんの――」

 話だ?

 と言うより先に、やっぱり僕の身体はひっくり返って海の中に突き刺さった。鼻から泡を吐きながら、僕はこのクソ生意気な小学生をどうしてやろうかと考える。

 態勢を立て直し、水面からぬっと顔を出して、僕はクリームの脇の下に手を入れた。

「おっ?」

 そうしてそのまま持ち上げて、後ろに放り投げる。

「ふぎゃ!」

 さすが小学生だ、軽いのなんのって。持ち上げるなんて朝飯前だった。

 背後では水しぶきが上がり豪快な音が響く。これは一本取ってやったと思い振り返ると、勢いよく僕に向かって飛び込んでくるクリームが見える。咄嗟のことで避けることができず、結局僕はクリームの猛進を腹で受け止めてそのまま倒れ込んだ。

 そう簡単に一本取られてはくれないのがクリームという女の子だ。次はどうしてやろうかと考えながらまた水面から顔を出す。けれどそこにクリームの姿はない。また足か、と思い下半身に意識を集中させていると、

「へへ、甘いですね!」

 後ろから首に両手を回されて、そのまま海の中に引きずり込まれる。また鼻から水が入った。形容しがたい痛みが襲う。

 ここまでやられっぱなしだとプライドに傷がつく。いくらクリームが賢いとはいえ僕のほうが数年も長く生きてる……生きてたんだ。知恵を振り絞って策を練る。

 僕はすぐに水の中から顔を出すと、水面を見つめる。クリームが上に上がってくるのが見える。それを掴んでやろうと手を伸ばすが身体をねじられ避けられた。その隙にクリームも水の中から顔を出して、僕らは正面で向かい合う。

 じりじりとお互いに間合いを取り合う。少しでも間合いを見誤れば相手側の策略に落ちてまた海の底に沈むことになる。お互いにそれは分かり切っていたから、一歩も譲らない。

 ぐるぐると回りながら一瞬の隙を狙い合う。まばたき一つですら隙に成り得る。僕は自分に隙ができないようにしながら、クリームの一瞬の隙を見逃さないように神経を研ぎ澄ましていた。

「気を抜いてくれませんかね」

「残念だけど、そう言われても素直に頷けない」

「こんな可憐でおしとやかな女子小学生がお願いしているのに?」

「過去一番で面白いボケだね」

「気に入ってもらえてありがたいです!」

 ――次の瞬間、クリームが両手を水の中に入れた。

 水を掛ける気だ、と思った。

 水を掛けて僕がひるんだその瞬間を狙うつもりだったのだろう。しかし残念なことに、その策略は僕に感づかれてしまった。

 僕は目をつぶる。そうして水の感触を待った。水の感触の後すぐ目を開けて、そうして僕の目の前に差し出されているであろう両手を掴む。後は煮るなり焼くなり好きにする。完璧な計画だ。

 しかし、いくら待ってみても水の感覚は訪れない。

 しまった、と思った瞬間にはもう遅かった。目を開けて飛び込んできたのは、僕のお腹に追突する寸前のクリームの姿。もちろん避けられるはずもなく。

「ぶびゃ!」

 僕はまたしても海の底の感触を味わうことになった。そうして鼻から水が入った。

 この小学生には敵いそうにもないな、と思った。



 石垣に腰を降ろして海を眺めながら、海水を思う存分吸った服を乾かしていた。夏の日差しの効力は僕の想像以上で、ものの数十分そうしているだけで服はかなり乾燥してきている。僕は海水を何度も吸って痛んだ鼻の奥を気にしながら、白くて細い足をぷらぷらと揺らすクリームを横目で見ていた。

「ユウトさん」

「なに?」

「楽しいです。とっても」

 噛み締めるように、確かめるようにそう呟く。

「ウミちゃんとのシーグラス集めも、ソラちゃんとの猫の捜索も、わたしの予想していなかった形ではあったんですけど、すごく楽しかったんです。誰かと一緒になにかをするって、わたし今までやったことありませんでしたから」

 僕はゆっくりと目を閉じた。

「楽しい、です」

「……僕も同じだよ。すごく楽しい」

 長い夢を見ているような気もする。この夏の街にいる自分は、本当の自分じゃないような気もする。もしかしたら実際にそうなのかもしれない。むしろそっちの可能性の方がどう考えたって高い。バイク事故で死にかけて、なぜか存在を願った夏の街に僕らは来ている。どう考えたっておかしい。僕はあの瞬間にはもう死んでいるはずだったんだ。でも気がついたらここにいた。これが現実である、と言う方が難しい。

 けれど、現実であってほしいと思う。これがただの夢だなんてあんまりだ。

 それを決めるのは僕でもないしクリームでもない。知らない誰かだ。きっと神様とかいう名前のついたそいつだ。

けれど僕がこの夏の街を現実だと信じること、それ自体は誰にだって否定できない。だから僕はこの夏の街を、ずっと現実だと肯定する。僕がこの街を去って、そうして死んでしまってからも。それでも夏の街は永遠に存在をし続ける。なくなっても、きっと僕が信じた夏の街という現実はどこかに残り続ける。それはちょうど残り香が空間に染みつくように。

「……しんみりしていても仕方ない。まだ夏の街は存在しているんだ。存在しているうちは楽しまなきゃ」

「……そうですね」

 服も乾いた。太陽もまだ僕らの頭上にある。青空だって永遠に青空だ。セミだってうるさいし波だって押し寄せる。

 僕らは立ち上がって歩みを進める。ふと後ろを振り返ると、さっきまで僕たちがいた海は半分ほどが真っ白な空間に呑み込まれてしまっていた。それに気がつかないフリをして、僕はまた正面を向いた。

 歩いて、歩いて、そうしてまた歩いていた。僕らは今まで訪れたことのない場所へと歩みを進めていた。例えば街の北側とか、そうして南側とか。

 北側では民家が延々と連なっていた。大通りからいくつもの細い道が伸びていて、その先はまた細い道に繋がっている。民家には色とりどりの花が植えられていたり、大きな池がある家なんかがあったりもした。

 けれどどれも無人。人はいない。この夏の街に人間は僕とクリームしかいないのだ。

 北側にはとくに面白いものもなかったので、今度は街の南側へといってみる。

 南側には大きな工場跡地がそのままの形で残されていた。なんとか工業、という社名が掲げられた建物が見える。なんとかの部分が掠れてしまっていて読めない。この街はそんなのばっかりだ。なんとか商店、なんとか空港。

「入ってみましょうか」

「ま、跡地だしね」

 勝手に入っても誰にも怒られない。怒る人がいないから。

 正面からずかずかと入っていく。右側にタンクローリー車が鎮座していて、左側にはさびたコンテナがいくつも転がっていた。正面には工場と思しき建物が建っているが、頑丈なシャッターが下りていて中には入れそうになかった。

「この工場がなんの工場だったのか、二人でクイズしてみましょう」

「いいね」

工場の敷地内を色々と見物してみる。なにか分からない廃材が落ちていたり、電気ケーブルがまとめて捨てられていたり、まだ使えそうな工具類が収納されていたロッカーがひっくり返っていたり。けれどどれもなんの工場だったのかを当てるには決定打に欠けるものばかりだった。

「うーん……金属を扱う工場だったのは、なんとなく分かるんですけどね」

「アンドロイドでも作ってたんじゃない?」

「工場内を徘徊している個体が、わたしたちを不審者だと認識して急に発砲してきたりして」

「そのときは守ってよ」

「さすがに銃火器を出されたらどうしようもないですって」

なんてことを言い合いながら、果てしないほど広い敷地内の探検を続けた。

奥に行くにつれて、金属でできた魚の頭のようなものが辺りに転がっているのが目につく。縦横高さともに数メートルを超えるそれが一体なんなのか考えてみるけれど、納得のいく答えが見つからない。もしかしたら本当に魚の頭なのかもしれない。金属でできた魚の、これまた金属でできた頭。

 けれどそんな考えはそれを見てすぐになくなる。そうして僕らのクイズは意味をなさないものになった。

「船、ですね」

「船だ」

 恐らく南西方向に進んでいたのだろう。右手に海が見えて、そうしてそこには何隻もの船が行儀よく浮かんでいた。なんとか丸、そうしてなんとか丸……そればかりだ。そう決められてしまっているのかもしれない。なんとか商店、なんとか空港、なんとか工業、そうしてなんとか丸。

「造船所だったんですね」

「こんな場所があったなんてね」

 これだけ広いと恐らく飛行場から見えたのだろうが、僕はその存在に気がつくことはなかった。まあ、気がついた気がつかなかったなんて、もう今となってはどうでもいいことだけれど。

 横の方に転がっていた魚の頭を軽く叩いてみると、カン、という気持ちのいい音が鳴る。これを繋ぎ合わるとあの一つの船のなるのだろうが、どこをどうくっつければそうなるのか見当もつかない。

 船の中に入れないだろうかと思ったけれど、残念ながらタラップは下りていないので入れそうにはなかった。僕らは諦めて引き返す。

「工場の中にも入れないし、船の中にも入れないし、つまらないですね」

「仕方がないよ。どれもこれも開けっ放しにするほど防犯意識の低い場所じゃない」

 いくら田舎の夏の街とはいえ、一企業が管轄している場所なんだ。僕らはここまで入り込めたけれど、それだって人がいないからできた芸当だ。普通だったらとっくにつまみだされている。

 結局あまり面白いものは見られずに、僕らはなんとか工業を後にした。

 前からそうだったけれど、さらに一層自然以外の音のしない夏の街を歩く。次はどこにいく? とも訊かずにクリームが進む方向に僕はただついていく。クリームは東側へと歩みを進めた。

 不思議と会話はない。僕は黙り、クリームも黙る。セミの合唱が間を埋める。

 沈黙の時間にクリームはなにを感じているのか。それはとても気になることだったけれど、深く考えないようにした。徐々に呑まれて輪郭を失い曖昧になっていくこの夏の街で、僕らの間の沈黙はとても意味のあるもののように思えたから。ただの想像で、単なる憶測で、独りよがりな自己満足だ。

 アスファルトを踏みしめる。緩やかな坂を登り、石段へとやってくる。この石段にも大分慣れたものだ。少し息が切れたけれど、大した疲労じゃない。

 汗が垂れる。

 拓けた場所に出る。

 あの場所への道、それをクリームは進んでいく。右に曲がったり左に曲がったり、やっぱり僕にはどうやって辿り着くのか見当もつかない場所。新緑の葉が僕らの身体を覆い、太陽や夏の街からも隠してくれる。あの場所だけは異世界で、夏の街からすらも切り離された空間だ。あの空間には特別な魔力が宿っている。

 その空間に出て、くぼみではシーグラスが輝いていた。ウミのお友達のお墓。

僕らは無言のまま手を合わせた。数秒後にクリームは口を開く。

「ウミちゃんも、ソラちゃんも、どうして存在していたのでしょう」

 僕はその言葉に対して考えを巡らせた。そうして、

「存在していたから存在していた。存在するべきだったから存在していた。ウミと、ソラ。きっと二人はこの街の一つの形だったんだと思う。空と海……そう思う」

「今頃、なにをしているのでしょうか」

「分かりっこない。僕らはただ、二人が幸せであることを、ただこうやって祈ることしかできない。無責任に、身勝手に、独りよがりに、こうやって祈ることしか」

 死んだ人間の行く末なんて分かりっこない。天国だとか地獄だとか、転生だとかなんだとか、全部都合のいい概念だ。死んだらどうなるのか、本当のところは誰一人として知り得ない。だからどこまでも、僕らの祈りは無責任なものになる。

 僕が死んだらどうなるのだろう。そう考えると、少し不安や恐怖もある。明日終わろうが、五十年後に終わろうが、もうすでに終わってしまっていようがどうでもいいと思えた命だけれど、その現実に直面するとやはり他人事のようには考えられない。

 僕が生きてなにが残ったのだろう?

 なにも残らなかった。

 やっぱり、そんな気がする。

 このわずかな夏休みの隙間ですら、僕はそんなことを思う。

「行きましょうか」

「そうだね」

 僕らはその空間を後にした。

 また拓けた場所に戻って、けもの道を通り飛行場へとやってきた。果ての果てまでコンクリートが敷き詰められた飛行場。

いつもならそこにいて僕らを出迎えてくれるはずのソラも、そうして猫たちもいない。僕らは二人だけでこの飛行場に立っていた。後ろを振り返って夏の街を眺めてみると、先ほどの造船所に停泊している船が見えた。やっぱり見えていたんだ。僕がただ気づかなかっただけで。 

けれどそれは真っ白な空間に呑み込まれ始めている。

そんなに長くは持たない、とは思っていたけれど、ここまで簡単に呑まれるとは思っていなかった。少し焦ってくる。きっとクリームも気がついているはずだ。僕よりも数段聡明なんだから、僕が気づくようなことにはすでに気がついているだろう。

けれどお互いに、真っ白な空間についてはなにも言葉を交わさない。それを口にした時点で、見えないようにしていたものが見えてしまう気がする。お互いにそれが分かっていた。

「ソラちゃんのいない飛行場って、なにもなかったんですね」

 クリームはそう言いながら、その場で器用にくるくると回ってみせた。軸の左足がぶれることはなく、四回ほどそうすると回転を止める。

「この夏の街にはなにもない」

「かもしれないですね」

「もしくは、あらゆるものがある」

「それも、確かにそうなのかもしれません」

 クリームは笑う。

「なんだか感傷的になってませんか、ユウトさん」

「かもしれない」

「カモシカもシカも?」

「確かにシカだ」

「アシカは確か?」

「シカではないね」

 二人で笑う。少しだけ空気が柔らかくなったような気がする。

このくらいの空気感がいいのかもしれないな。

「さて、これからなにをしましょう?」

「そうやって言われると、なにもすることがないんだよね」

「お仕事もなくなっちゃいましたしね」

「あそこの中を見てみる、とかは?」

 僕は奥にある古びた二階建ての空港ターミナルを指差す。

「面白いかもしれませんね」

「でしょ?」

 無人造船所探検の次は、無人空港ターミナル探検。

 そうと決まれば早速僕らは、無限の広さのあるコンクリート畑の上を歩きターミナルへと向かった。あまりに土地が広く景色が変わらないから本当に僕らは進んでいるのか不安になったけれど、ターミナルは徐々に大きくなり僕らを出迎えてくれる。

 仰々しい両開きのドアを開けてエントランスに入る。ターミナルは吹き抜けになっていて、ここからでも二階部分を見ることができた。天井はガラス張りになっていて、中は随分と明るい印象を受ける。けれど冷房なんてものはついていないため、そのガラスから降り注ぐ太陽光のせいで中は蒸し風呂になってしまっていた。

「あっついですねえ」

「そう言うわりには平気そうな顔をしてるけど」

「そんなことないですよ。暑くてたまりません」

 僕は額から汗が滲み出ているのに、クリームは汗一つ掻かずに涼しい顔をしている。口では暑いといいながら。

 なんだか不公平だ、と思った。なにに対して不公平だと思ったのかは知らないけれど。

 受付カウンターにも待合室にももちろん人なんているはずはなく、ターミナルの中は嫌になるほど静かだった。

 飛行機の離発着を伝える掲示板にはなにも表示がされていない。飛行機はここからどこにも飛ばないし、どこからかここへ飛んでくることもないのだ。この空港は廃止されてしまった、と聞いた。確かソラから聞いたんだったかな。

 階段を登り二階へとやってくる。お土産屋やそば屋などがそこにはあり、ガラスの向こうには飛行場の滑走路が見えた。

「お土産買っていきましょうか」

 そう言いながらクリームはお土産屋に入っていく。なにもないお土産屋で、一体なにを買うつもりなんだろうな。

 入ってすぐ、空になったショーケースが僕らを出迎えてくれた。きっとそこには色とりどりの土産品がずらりと並んで、ここへ来た観光客を喜ばせていたのだろう。

あれ、この夏の街に観光客はほとんど来ないってハツミさんが言ってた気がするな……まあ昔は違ったのかもしれない。

お土産屋の中を物色してみるけれど、やっぱりなにもなかった。まあそりゃそうだろう。

「つまんないですね」

「そう言われてもね」

「隣のおそば屋さんに入ってみましょう」

 そっちにもなにもないと思うよ。と僕が言うより先に、クリームはすたすたと入っていってしまう。僕も仕方なく後を追う。

 なにもないと思っていたけれど、そば屋には調理器具などがそのまま残されていた。そば切り包丁からそばを茹でる機械まで。撤去するのにお金がかかるから、そのままにしておいたのだろう。しかし包丁まで置いていっているところを見るに、かつてのここの店主はそば屋からは足を洗ったのかもしれない。

「一緒にそば茹でません?」

「肝心のそばがない」

「ですよねえ」

 残念ながら、そばの材料まであるわけじゃない。厨房に置いてあった冷蔵庫の中を見てみたけれど、なにも入ってもいなければ駆動もしていない。電気なんてとっくに流れていないのだと思う。

「確かにそばを食べたい気分だけれども……ん?」

「どうしました?」

 ふとテーブル席の一角を見ていて、その違和感に気がついた。

「布団が敷いてある?」

 テーブルと座布団を脇の方に寄せて、一組の布団がそこには敷かれていた。

 そうして、

「あ」

 見ちゃいけないものを見た。

 咄嗟に目を逸らす。クリームは頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。

 けれどすぐに気がついたようで、

「あー、ソラちゃんここで寝泊まりしてたんですねえ」

 夜中にまで飛行場にいて大丈夫かと思っていたけれど、大丈夫もなにもそこに住んでいたというわけなんだ。布団のそばに衣類が山積みになっているのが見えた。ブラウス、スカート、ストッキング……そうして下着。

 まあ、こんなところに入った僕が悪いんだけど、それはそうとしてももう少し自覚を持ってくれてもいいんじゃなかろうか。仮にも乙女が、人が簡単に入れる場所で衣類を脱ぎ散らかしてそれで山を築いているなんて……。

 そう思ったけれど、脳内のソラがこう言う。

『……なんで?』

「だから、君だって女性なんだし、僕みたいなのに見られるのは嫌でしょ」

『べつに、きにしない』

「……」

 言いそうだ。

「なんだか掴みどころがなくてちょっと変わった人でしたけど、こういうのを見るとちゃんと生きてたんだなって思いますね」

「確かに、そうかもしれないけどね……」

 ずっと目を逸らし続ける。ガサゴソ音が聞こえるがそちらを向くことはできない。というかクリームは一体なにをやっているのだろうか。

「ソラちゃんの匂いがします」

「嗅ぐな嗅ぐな」

 まあソラなら気にもしないどころか、なぜかうれしがりそうだ。

 なぜそんなことをするのか理解に苦しんだが、そういえば僕が怪我をして療養している間、クリームとソラは一緒に猫捜索隊として活動をしていたことを思い出す。僕は知らない、二人だけのなにか特別な絆があるのかもしれない。そう思うと、なんだか少し嫉妬してしまう。

「さて、まだ色々と見るところはありますよ」

 ぷはっ、と息を吐いて恐らくソラの服から顔を離したクリームは、僕の隣にやってくる。そうするとソラの香りが僕の鼻にも届く。

懐かしい香りだと思った。なにかに形容することができない、ソラという人間の香り。ソラに限らず、人間にはその人特有の香りがある。ウミの香り、ソラの香り、ハツミさん……はタバコの匂いしかしないけれど……それにもちろん、クリームだって。

 ターミナルの中には他に面白そうなものはなかった。執務室や管理室、仮眠室のような場所もあったけれど、やっぱりどこも物は片づけられてしまっている。

 もう一度ターミナルの二階へ行くときには、頭上から覗く太陽はもう随分と傾きはじめていた。滑走路も真っ白な空間に呑み込まれ始めているのが分かる。ほんとに、僕の予想よりも早い。

 もしかしたら、今日一日ですら持たないのかもしれない。


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