ブレ伝世界、再会。
私たちはどうやら、魔王城の中、あのヘリポートのような広いベランダに居たようだった。
力が抜けた。そう笑うハヤテはその割りに抱き締めてくる力に変わりはなくて、私も離れたくなかったから甘んじてそれを受け止める。
「…間に合ったって?」
どういう意味? 尋ねた私にハヤテは返事をせずに、顔をじっと覗いてきた。
額がぶつかる程に近い。
「…その前に確認したいんだけど、チナツで良いんだよな?」
そっと離れてぺたぺたと触れてくる。玉座の間で同じ事をされたな。ハヤテもそれが思い浮かんだのか、目が合って同時に笑った。こくりと頷く。
「千夏だよ。他の誰かに見える?」
「いや、…夢じゃねえよな、これ」
こてりと首を傾げたハヤテがおかしそうに笑う。夢じゃないよ、つねってあげようか? 訊いた私に、結構です、とまた笑ってくる。
上機嫌そうな様子。もう飲んでる? 当たり前か、遅い時間だろうし。毎晩部屋で飲んでいたハヤテだ、…そもそもどうしてこんな場所に居たのだろう。
「いっぱいね、話があるんだけど」
「…その前にちょっと。場所移動しないか」
寒くないか。訊いてくるハヤテに首を振る。涼しくもない、温い風が流れている位なのだから。
ちらりとハヤテが窓の中、城の廊下に目をやった。誰かに見付かったら何か言われるかな。良いよ、移動しよう、ハヤテの部屋? そう言うと、少し固まってからハヤテは頷いた。
何、今の間。
「都合悪かった?」
「…いや。行こう」
人差し指を立てて唇に当てたハヤテに、何だかうきうきして吹き出しそうになった。分かってるよ、静かにね。
久しぶりに入った部屋はやっぱりあの甘くてスパイシーな匂いに満ちていて、思わず深く息を吸い込んだ。
何だろう、私、匂いフェチだったのかな。すんすんと鼻を鳴らす私を見て、何してんだよ、と呆れたようにハヤテが漏らしていた。
「この匂い好きなんだもん」
突っ込まれると恥ずかしい。へへへ、と笑いながらソファーに座った。
前に見た時にはテーブルの周りには酒瓶が沢山転がっていたのに、今日は一本だけで妙にさっぱりしている。片付けたばかりなのだろうか。
無言で正面に座ったハヤテが、体を折りながらはあ、と深くため息を吐いた。本日二度目だ。
「何そのため息」
「本当に…」
間に合って良かった。
ぐったりと座り込んで、力なく吐き出したその言葉にどういう意味かを尋ねる。さっきも言っていたけど、何かあったのだろうか。
「お前、魔王陛下と何かあった?」
「こうちゃん? 元魔王でしょ?」
ああ、うん。何とも言えない顔で続きを待つ男に、ここまで連れてきて貰ったよ、と答えた。私へのお礼なんだって、と。
「お礼…」
ふっと笑って頬杖をついた。テーブルに落とした視線につられて、私も空き瓶のラベルに目を向ける。読めない文字で名前が書かれている。
「さっきな。ついさっき」
「うん」
「この部屋に居たら、陛下の声がして」
「…うん?」
「今から送るから、急いで受け取れ。間に合わないとひき肉になるぞって」
とんでもねえな、陛下。手を伸ばしてきたハヤテが、テーブル越しに私の頭をぐりぐりと撫でた。
唖然として口を開けた私を見て、間に合って良かったろ? と困ったように笑う。
「こうちゃん…」
「結構ギリギリだったな、あそこに着いて直ぐお前が来たから」
「…後で蹴っておく」
「そうしてくれ」
かちゃかちゃと瓶を回収したハヤテが、何か飲むかと訊いてくる。お茶が飲みたい、あの薄くて渋いやつ。そう言うと、了解と笑ってハヤテは立ち上がった。
「ご機嫌だね。今日もいっぱい飲んだの?」
酒のにおいはしないけれど、いつになくよく笑うハヤテにそう問い掛ける。
ぴたりと止まった男は歯切れ悪く、あー、と微妙な返事を返してきた。
ポットとカップを手にしてテーブルに戻ってくる。どかりとソファーに座りながら、私の様子を窺うようにお前さ、と小さな声を出した。
「何しに来たの。用は済んで、一回帰ったんだろ」
「…え…」
「あー、いや、違う。来るなって意味じゃない」
ぼそぼそと言われた言葉に、じくりと胸が傷んだ。来てはいけなかった? ハヤテに会いたいが為にこうちゃんの力を借りてここまで来てしまったけれど、やっぱり迷惑だった? 厄介払い出来て、せいせいしてた?
呼吸がしづらくなって俯いた私の前に、カップがかちゃりと置かれた。薄い色のお茶だ、飲まなくても味が分かる。
「…パジャマ。借りてたでしょ。返さなきゃって、思ったから」
そう言って渡そうとしたけれど、私はどうやら紙袋をあのベランダに置いてきてしまったようだ。
慌てる私に、ああ、とハヤテが声を出す。
「別に良かったのに、あんなもん」
あんなもん、の為に、来ちゃってごめんね。口実が欲しかっただけなんだけどさ。
さっきは会えてあんなに気分が上がったのに、またハヤテのにおいを嗅げてあんなに嬉しかったのに。当のハヤテが突き放してくるようで、私の涙腺が働き始める。
迷惑なのに押し掛けて、その上泣かれたらもう鬱陶しくて仕方ないだろう。それが分かるから堪えようと努力はしたけれど、そう思えば思うほどじわじわと視界が滲んでくる。
「…ごめん、すぐ、帰る」
「…チナツ?」
馬鹿だ、馬鹿みたいじゃなくて、馬鹿だ。
空回りした恋心にはしゃいでいるのは私だけで、再会してハヤテも喜んでる? なんて勘違いして浮かれる私は本当に馬鹿だ。
お人好しなこの魔族は、知り合った私が、自分のせいでミンチになってしまうのを防げて安心していただけだったのに。
何でもないよ。出した声は震えていて、もう私がどんな顔をしているのかは俯いていても丸わかりになっている事だろう。
「…隣行って良い?」
「…」
「あー。返事ねえけど、行くわ」
ぎしりとソファーが傾いた。あの匂いがまた私を包んで、抱き締められたのだと分かる。
何なの。突っぱねようとした私を抑え込むようにハヤテが力を強めた。
「陛下と、帰ったんじゃねえの、お前の故郷に」
宥めるように背中を叩かれて、ひく、としゃくり上げる。帰ったけど、だって、ハヤテが居ないんだもん。
「なあ。何で泣いてんの」
「…ハヤテ、が」
「俺が?」
「つっ、冷たい、から」
ハヤテの服で涙を拭くのは何回目だっけ。三回目かな。出会ってのべ一週間位で、私は何度この男の前で泣くのだろう。
顔を埋めた私の髪を、そうっと指で絡めてきた。うなじに触れるそれがくすぐったい。
「俺が、優しくする訳にはいかねえだろ」
「何で? 魔族だから?」
「お前が陛下のだから?」
言われたそれが理解出来ずに、思わず顔を上げた。驚いた顔が見下ろしている。
「は? 何それ?」
「…いや、お前、陛下と一緒に帰っただろ?」
「うん、それが何?」
「…陛下と親しげだったし、…違うのか?」
こうちゃん。魔族の誰も知らなかった、魔王の名前。
それを呼んで、さも親しそうに会話をして、魔族の誰も寄せ付けない最強を誇る魔王その人が、その力を出すこともなくただ一度の攻撃で敗れた。
きっと傷付けるのを恐れたに違いない。あの小娘は何者だったのだ。共に帰ると言って消えた二人。どういう関係だったのか。
魔王陛下は配偶者は居ないと語っていた。ならば、恋人ないし婚約者だったのではないか。
「…陛下とチナツが消えた後、ケンガがそう分析してたけど」
あんまりだ。魔王の右腕、魔界の宰相!
次会う事があればその顔を一発殴らせてもらおう。にやつく顔を思い浮かべて私は決意した。
魔王以上の魔王じゃないか! とんでも宰相め!




