ブレ伝世界、再訪。
ハヤテに施された転移のように、内臓が引っくり返るような衝撃も何もなかった。
何の音もしない、ただ目を閉じていただけ。
ほんの数秒だっただろう。ぬるい風を頬に感じて、千夏、良いよ、と声を掛けられた時には、視界一面に石畳が敷かれた街並みが広がっていた。
「…本当に来た」
「魔王様だからね」
おちゃらけたようにこうちゃんが言う。呆然としながらどうにか、ありがとう、と絞り出した。
午前零時、少し過ぎにこうちゃんは魔法を使った。
時計がないこちらの時間が何時なのかは分からない。そもそも日付も分からない。静まりかえった街には人影はなく、ちらほらと灯りが点いているのは店ではなさそうだ。みんな家に帰っている。
ハヤテはどこに居るんだろう。辺りを見渡すと、黒い巨大な影がそびえ立っているのが見えた。一度だけ城下町に下りた時に見覚えがある、あれが多分魔王城だ。
部屋に居るのかな。見上げた魔王城はあまりに遠い。私がいた部屋がどこだったのか、またその隣がどれなのかなんて、この距離からではさっぱり分からなかった。
来れたのは良いけど、でも会うのは難しいのかな。
勇者の証が私から離れた今、私はやっぱりただの人間で、こうちゃんには魔力が残されているから城に行くことだけなら出来るかもしれないけれど、今はきっと「本来の魔王」がその城に居る。それに匹敵するような、上回る程の力を持った人間なんて、危険極まりないよね。
見上げた空は雲一つない晴天で、冷え冷えと輝く月がそこにぽっかりと浮かんでいた。少し欠けたそれに、時間の経過を思う。
取り払われた雲海は、下から見ると邪魔で仕方なかったのに、上に昇ってしまえばまるで二人きりの世界みたいだった。そりゃ勘違いするよね、私なんたって子供だもの、なんて歯を食い縛る。
私とハヤテだけの空間にしてくれていた、あの分厚い雲はもうどこにもない。
「…満月、見られなかったな」
溢した言葉が夜空に溶けていく。
来てしまえば何とか会えるだろうと楽観的になってしまっていた。だって、移動こそが一番の問題だったのだから。
けれど実際問題、魔族と人間が対立する世界で、その魔王軍の幹部に、ただの人間が会えるのかなんて。こうして目の当たりにした魔王城は遠くて、急に道を失ってしまった。
振り向いてこうちゃんを見ると、どうしたの? と首を傾げている。実に憎たらしい。どうしたもこうしたも、ない。
「行かないの? 千夏」
「魔王城に? 行けないよ。部外者じゃん、私たち」
「でも、それ」
返しに来たんだろ?
こうちゃんは私の手元を指差した。紙袋に入れられた、今は柔軟剤の香りがふんわり漂うハヤテのシンプルなシャツとズボン。
貫頭衣と下着とサンダルは、私が買って貰ったものだから良いとしても、借り物はやっぱり返した方が良いよね、とこれだけは持ってきていた。
…会えると思って、少しばかりのおめかしもしてきた。田舎の祖父母宅に泊まる為に持ってきた服は動きやすさ重視で、Tシャツにデニムばかりで荷物を準備した少し前の自分に文句を言った。まさか祖父母宅に来ていて恋に落ちるとは想像していなかったのだから、仕方ないけれど。
結局選んだのはオーバーサイズの黒いシャツにショートパンツで、これが一番マシかな、なんて着替えはしたんだけど。城に滞在中はだぶだぶのハヤテの服を着ていたから、何だか代わり映えしないんじゃない? と気付いた時にはもう、こうちゃんの魔法が発動してしまっていた。
まあ、いつも着ていた、ステテコ姿よりは良いでしょ。開き直って髪を弄る。凝ったアレンジは出来ないし、そもそも時間が無かったからただ一つに結んだだけ。
スマホで検索してどうにか髪も可愛くしようか、そう思ったけれど、やめて良かった。会えなかった場合、あまりにも自分が可哀想過ぎる。
剥き出しのうなじを異世界のぬるい風が撫でていった。暑いからこうしただけ。別にハヤテがどうとか、関係ないし。誰も聞いていないのに、言い訳を心の中でぶつぶつと唱える。
「千夏はさあ」
こうちゃんがすたすたと歩き始めた。魔王城の方向だけれど、まさか歩いて行くつもりだろうか。
「甘く見すぎだよね、魔王様ってやつをさあ」
その役目は終わったんだよ、こうちゃん。何でかまだ魔法使えるみたいだけどさ。
振り向いたこうちゃんはやっぱり笑っている。にこにこにこ。石畳が歩く度にかつかつと鳴った。
「俺は今、千夏に恩返しする為だけにここに来てるんだよ。来ただけで満足? 同じ空気吸えたから、もう良いよってすぐ帰るの?」
こうちゃんが指をくるくる回している。何も見えないけれど、何かしているのだろうか。
煽るように言われた私は、違う、と首を左右に振った。
「…会いたいよ」
「誰に?」
「ハヤテに」
「会って、何するの?」
「ありがとうって、言う」
「それだけ?」
にやにや笑う。こうちゃんらしくない意地悪な笑顔だ。まるでハヤテのような━━、魔族の王だったから、そんな顔が出来るのだろうか。
「いっぱい、いっぱい、話がしたいよ!」
じゃあしておいで。
笑みを深めたこうちゃんが、くるり、回していた指を私に向けた。
瞬間、覚えのある浮遊感が私を襲う。
「なに、えっ、こうちゃん!」
「俺もね、行くから。先に行っておいで」
どんどんこうちゃんが遠くなる。浮かんでいるのだ、私が。
建物を越えて、みるみる浮上した私にこうちゃんが呑気に手を振った。振った手を上げたまま、びしりと城を指差す。その直後、かつて体験した事のない速度を私は味わう事になった。
景色が線になって流れていく。
「━━!!!」
何かに包まれているようで、そんな速度の割りに呼吸は出来るし周りを見る余裕はある。けれど恐怖で声は出ない。
ぐんぐん近付いてくる巨大な影が魔王城だと認識出来た時、私は血の気の引くのを覚えた。
━━ぶつかる!!
受身というレベルを超えた速度だ。このままではミンチになって終わる。
ひっ、と息を飲み込んだけれど、だからどうなるものでもない。
出来る限り身を縮こめて目を閉じた私は、ぼすり、と何かに飛び込んだのを感じた。
嗅ぎたかった匂いが鼻腔を擽る。私の背中を何かが撫でた。震えているのが感じ取れる。
幻だろうか。
大丈夫だよ。
何度もこうちゃんが言っていた言葉が脳裏に浮かんで、勇気を振り絞って私は目を開いた。
黒い布が目の前いっぱいに見える。縫い目が見えた。どう見ても服、ごわつくそれは私もずっと借りていたものだ。
恐る恐る顔を上げた私の後頭部を何かが掴んで、私はまたその服に顔を押し付けられた。
乱暴なそれに驚いて体を離そうとしたけれど、さっきの移動に生命の危機すら覚えた私の体はちっとも力が入らない。
もどかしくてどうにか動こうとしていた私の肩に、ぼすりと落ちてくるものがあった。はあああ、と長いため息が聞こえる。
「…間に合って良かった」
聞きたかった声が降ってきて、私はまた鼻がつんとするのを覚えた。
嫌だな、何回泣くの、私。
「…痛いとこ、ないか。怪我してないか」
ぎゅうぎゅう抱き締めてくるハヤテの力こそが少し苦しい。
ハヤテだ。ハヤテだ。ハヤテだ!
苦しいけれど嬉しくて、どうにかどこも痛くないよ、と返した。持っていた紙袋を投げ出して、目の前の胸元にすりすりと顔を擦り付ける。
まだ少し震えた手が私の背中をぎゅっと握って、くすぐったい、と小さく笑うのが聞こえた。




