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現実世界、帰還後。

貫頭衣もハヤテの服も、そして勿論地味な下着も、普通に祖父母の家の洗濯機で洗った。祖母は放り込まれた貫頭衣にぎょっとしていたけれど、大丈夫大丈夫私何回も洗ってるから、と押し切ってスイッチを押した。

洗剤と柔軟剤を使われたそれは、お日様パワーで想像以上に柔らかく着心地の良い服に仕上がった。

ハヤテの匂いもすっかり取れて、嗅ぎ慣れた祖父母の家の匂いになったそれを丁寧に畳む。タグも付いていない、この世界では入手出来ない代物。絶対高級なんかじゃないけど、私には価格を付ける事なんか出来ない。

異世界からのお土産だ、どう見てもただの服だけれど、内情を知られたらもしかしたら欲しがる人も居るのだろうか。従兄曰くの、王道RPG、昔の名作。その世界で入手して実体化した、ただ一つの証拠。


まあ、幾ら積まれても売りませんけどね。私は祖父母の家に持ち込んでいた鞄の底に、そっと隠すようにそれらを押し込んだ。貫頭衣を結ぶ為の紐の先、とんぼ玉がきらりと光る。

誰にも渡すものか、これはずっとずっと私の宝物にするのだ。

だって、惚れた男が私に残してくれた、唯一のものなのだから。













私は一目惚れの経験などはない。ハヤテに対してもきっと、一目惚れなんかはしていない。

そこらに幾らでも居そうな、街を歩けば埋没してしまいそうな、ただの一般人にしか見えない魔族。城下町で見掛けた魔族たちよりもずっと地味な顔立ちで、だから逆に悪目立ちはしていたけれど。人々のセクシーな背中を思い出して、くすりと笑う。あれは絶対、似合わないだろうな。

第一印象は悪かった。だって、初めてあの世界で出会った魔族で、威圧感が凄かったのだ。初対面の私に優しくしてくれたターニャを、その村の人々をごうごうと風で脅して、勇者の居場所を突き止めようとしていた。


そういえば、初めて見た時にはハヤテの後ろに禍々しい気配を感じた。城に連れ帰られてからは一切感じなかったもの。あれは何だったのだろう。

魔力を使う時に、何か滲み出るのだろうか。あれは本当に怖かった。だから、ずっとあれを出していてくれればきっと、私もハヤテに対してこんなに苦しい想いをする事はなかったのに。おのれ、ハヤテ。攻略本をぱらぱらと捲りながら、本棚にもたれ掛かった。


ハヤテはずっと優しかった。にこにこと愛想を振り撒く事はなかったけれど、仕事だから面倒を見てやる、と嫌そうにしてはいたけれど。心底嫌がっているのならば、正直四天王であるハヤテは私を部下に押し付ける事だって出来たのだ。

それをしなかったのは理由もあるだろう。ケンガに見付かればズルすんなお前に命じたんだぞって怒られるとか、あわよくば私が何か有益な情報を漏らして、それを自分の手柄にしようだとか。色々あったのだろうとは思う。

けれどもハヤテは常に私に向き合って、面倒を見て、心配して。衣食住の全てを私に与えてくれて。だるそうにしてはいたけれど、何だかんだと世話を焼いてくれた。


そうして私は気付いたら、ハヤテが近寄る度に、仕方ねえなと笑顔を向けられる度に、頭を撫でられる度に。動悸を増す心臓と付き合う羽目になってしまった。


毎晩わざわざドライヤーの役を買って出てくれた。

わがままも聞いてくれた。

お風呂上がりにあの薄い紅茶を飲みたいとぼそりと呟けば、水じゃ駄目なのかとぐちぐち言いながらも豪快にカップに注いでくれた。

些細な事が、大きな事も積み重なって、私の心臓は私の意思に反して独立してしまったかのようにハヤテの全てに反応していた。


駄目なんだよ、期限があるんだから。

ずっとこうして過ごす事は、出来ないんだよ。


言い聞かせても、駄々を捏ねる子供のように、ちっとも私の言う事を聞いてくれない。終いには、━━帰らなければ、ずっとここに居られるんじゃないか? 不穏な考えが過るようになって、こんなの駄目だとその日の私は水のままシャワーを浴びた。

何の為に喚ばれたの。浮わついた夏休みを過ごす為に来たんじゃないでしょう。肌を冷たく伝う水は頭の中もすっきりと冷やしてくれて、でもその日のドライヤーは何でお前こんな冷えてんのと酷く丁寧にかけられたから、もう本当にやめてくれと私は唇を噛み締めた。あれは確か、五日目の事だった。魔王を、こうちゃんを倒す前夜のこと。


ぼろぼろの攻略本は乱暴に扱っていたらページが取れてしまいそう。そっとキャラクター紹介のページを開いて、ドットのハヤテを指でなぞった。

あまりに女々しくて笑えてくる。こういうのも失恋って言うの? 問い掛ける声には当然返事がない。


グレーのゲーム機本体は、あれからずっとテレビに繋いだままだ。けれど電源を入れることは一度もなかった。

またこうちゃんが何かしでかして、喚ばれてしまうのではないかと思ったのもあるし、…他のどのゲームをしたとしても、ハヤテがちらついて苦しくなりそうだったのもあるし。もうドットは見たくないな、なんて、私はそれからの夏休みはただこの部屋でぼんやり座っているか、見るともなしに漫画をぺらぺらと眺めてみるか。そんな風にして毎日を送っていた。


一階でぼうっとしていては祖父母に心配をかけそうだったからわざわざこうしてこうちゃんの部屋に足を運んでいたけれど、祖母には私の元気のないのはすっかりバレてしまっていた。

けれども、ゲームをクリアしたから燃え尽き症候群かねえ、なんて呆れたように笑われたから、まさか孫がゲームの中の悪役に恋煩いをしているとは思ってもいないだろう。


時間が経てば忘れられるのかな。帰ってから何度目になるのか分からないため息を吐く。

攻略本も鞄に入れて、勝手に持ち帰ってしまおうか。こうちゃんのせいで私はあんな目にあったのだから。

閉じた本を持ち上げて、私はゆっくりそれを下ろした。本棚の隙間に入れて、これで元通りだ。


「ちいちゃーん! お父さんお母さん、来たよー!」

「今行くー!」


戻ってきて、五日が経った。向こうに居たのと同じ位時間が経って、あっという間に過ぎ去った日々に、あれは夢だったのではないだろうかと思えてきた。その度に服を見て、証拠ならあるよと自分に言い聞かせた。

両親が祖父母の家に着いた。この部屋でゆっくりするのも、今日でおしまい。両親孝行と祖父母孝行をして、三日後に私は自宅に戻る。


伯父と伯母も今晩到着するらしいから、今日の夕飯はこの夏で一番賑やかな食卓になりそうだ。


また、ハヤテを思い出してしまう。毎晩付き合ってくれて、二人で食べた夕飯。わざわざ私の為に用意された人間領のご飯。

自分の分だけとは言え食堂から毎日運んでくるのも面倒だろうに、ミノタウロスにも夕方からくらいはゆっくりさせねえと、と私に言い聞かせるように言って目の前で食べてくれていた。

酒が入れば少し機嫌が良くなって、私をからかいながらよく笑っていた。意地悪そうな笑顔。


「やめようよ、もー…」


無意味、不毛。建設的じゃない。

何度も何度も自分の胸に言ったのに、私の胸はわがままばかりを返してくる。だってまだ好きなんだもん。そんなにすぐ忘れられる訳がない。

新しい恋でもしようよ、同じクラスの男子とかさ。思い浮かべた男子の姿に、これは背が低いとかこれは髪が長すぎるとか、ハヤテを基準に全部切り捨てていく自分に気付いて、もう嫌だと膝を抱えた。


冷静になろうとする頭とハヤテだけを求める胸は相容れないまま、私はその喧嘩する苦しさに耐えきれなくて、現実逃避するようにゆっくりと目を閉じた。

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