ブレ伝世界、六日目3。食らえ私のドロップキック!
手の中の葡萄は、こうちゃんの話の間にすっかり温くなってしまっていた。放り返すと、食べないの? とこうちゃんが首を傾げた。美味いのに。何にも知らないようなその顔に、込み上げた怒りが膨れ上がるのを感じる。
「こうちゃんは多分、魔王を依り代にしたんだね」
「依り代? 何の話?」
「私が依り代にしたのは、勇者。勇者が魔王を倒さないと、この世界はおかしくなっちゃうんだって」
するべき役目を放り投げて、のんびり過ごしていた魔王。シナリオ通りなら魔界を拡げるべく暗躍していたはずの魔王は、ただただ玉座を温め続けて部下に全て丸投げしていた。
そうしてシナリオから逸れて歪み始めた世界に生じた淀みは空を覆っただけではなく、人間領どころか魔界にも異変を来たし始めている。動植物や魔物の異常。被害に合うのは、何の力も持たないただ普通にこの世界で生きているだけの人たち。
「だから、私がどうにかするね」
こうちゃんから離れて、扉の前まで距離を取った。
不意に全身が青い光に包まれる。全てがきらきらして見えて、勇者の視界はこんな感じなのかな、と思った。
勇者の証が、剣を、と言ったのが聞こえる。そんなもの要らない。いつの間に握り締めていた剣をがしゃりと床に放り出し、私は玉座目掛けて走り出した。伝説の勇者の剣が、からからと空しく音を立てるのが聞こえる。
こうちゃん、━━魔王は、目を真ん丸にしてただ私を眺めていた。
「食らえ魔王、私の渾身の━━…ドロップキック!!」
勢いのままに床を蹴って、こうちゃんに向かって思い切り足を突き出す。
鳩尾に当たったその体重とスピードの乗った両足に、ぐえ、と蛙の潰れるような声が出た。
着地なんて考えていなかったから、重力のままに床にどしんと転がる。青い光は私から離れて、足が当たったこうちゃんの鳩尾に留まり、ぶわりとその体を覆った。
夢の中の訓練よりずっと簡単だったそれに、こうちゃんの馬鹿! と立ち上がりながら思わず叫ぶ。
動くサンドバッグなんかよりずっと当てやすい、玉座から一歩も動かない魔王。そんなものの為に、そんなもののせいで、私はこのところずっと苦労していたと言うのに!
「やるならちゃんと魔王をやる! やる気がないなら辞めちゃってよ! こうちゃんのせいで世界中おかしくなるところだったんだよ!!」
青い光はこうちゃんを突き抜けて、空へと向かった。ばきり、遥か頭上から大きな音がする。
げほげほと噎せるこうちゃんは魔王の衣装ではなくなって、よれたジャージ姿になっていた。多分、部屋でゲームをしていた時の格好だろう。
未だ踞るこうちゃんを、鼻息一つふんと掛けて見下ろして、私は空に目をやった。
分厚い雲が割れている。光が城に、街に、世界に降り注ぎ始めた。どんどんその範囲が拡がっていくのが見える。
魔王は小娘のドロップキック一つで、退治された事になったようだ。一撃で構いません、そう言っていた勇者の証の声を思い出す。本当に一撃で済んでしまった。
一撃で倒せるのならば、ユウマでも大丈夫だったんじゃないだろうか。そう思ったけれど、もしかしたら元の世界で知っている従妹の私だったからこそ、こうちゃんは油断して何も手を出さなかったのかも知れない。
普通に勇者がこの場に現れていたら、温存し続けた魔王の力でもって、ユウマは一捻りに━━近付く事すら叶わずに、倒されていたのかも知れない。喜んで魔王の玉座に座っていたこうちゃんならば、まあ夢だし魔王なら抵抗するよねなんて、そうやりかねない。
噎せた事で涙目になったこうちゃんが私を見上げてきた。何も掛ける言葉はない。これは、こうちゃんに都合の良い夢なんかじゃないのだ。蹴られて痛む胸こそがその証拠になるだろう。
一体どれくらいの期間、太陽が覆われていたのかは分からないけれど、外からまた歓声が聞こえた。割れた雲に気が付いた人間が、魔族が、皆空を見上げているのだろう。
「陛下、━━チナツ!!」
ばたんと扉が開いて、転がるようにハヤテが飛び込んできた。廊下の喧騒が一気に部屋に響いてくる。玉座の間の扉は見た目に豪華なだけでなく、遮音性にも優れているのだろうか。
「お前、部屋に居ないと思ったら、こんなところに…」
駆け寄ってきたハヤテにぺたぺたと頬を触られる。もしかして、心配してわざわざ部屋に見に来てくれたのだろうか。怪我を探っているのか、あちこち確認してくる手がくすぐったい。
「ハヤテ、怪我してない?」
「お前こそ! 何で玉座の間なんかに居るんだ? あの壁はどうした?」
声を荒げるハヤテに、ふふ、と笑ってしまった。そこで転がっている魔王には目もくれずに、いつになく慌てて私に触れてくる手。ねえ、これは、自惚れても良いやつなのかな?
何がおかしい、むっとした顔でハヤテが言う。ジャージ姿のこうちゃんをそっと指差すと、そこでやっと気付いたのか目を見開いて私とこうちゃんを交互に見始めた。
ハヤテも意外と、表情豊かだよね。
「陛下…? これは、チナツ、お前が?」
「うん」
頷くと、へにょりと眉を下げてハヤテが笑った。あー、俺、ケンガに怒られるわ、これ。素面なのにあまりに素で言われたそれが何だか面白くって、それだけ? と返す。
「いや、何かあるとは思ってたけど。…チナツ、お前、やっぱり勇者だったのか?」
見張り失敗だ。がっくりともたれ掛かってきたハヤテを慌てて支える。正面から抱き着くように肩に額を乗せてくるハヤテの声が私の耳を擽った。
その近さに、頬が熱くなってくる。
「私は勇者じゃないよ、その代わりだよ」
「…代わりなら結局、勇者って事だろ」
手元に置いて、逐一見張っておけば良かった。そう言ってハヤテがぐりぐりと額を押し付けてくる。
甘えてる? 何だか恥ずかしい。ふと見ると驚いた顔のこうちゃんと目が合って、私は全力で睨み付けた。慌てたようにこうちゃんが目を逸らす。
「…やっぱり敵だったんだなあ、チナツは」
ぼそりと囁かれて、不意に胸が苦しくなった。 言葉に反してハヤテは私の背中に腕を回してくる。
「敵じゃないよ」
「陛下を倒しただろう」
「私はね、この世界の、みんなの味方だよ」
歪みを正す為だけに呼ばれた。それだけ。魔王と勇者をあるべきシナリオ通りに戦わせる為に、ちょっと修正する為だけにここへ来た。だから、どっちの味方というものでもない。
「話しても信じてくれないだろうと思って、何も言えなくてごめんね。怪しかったでしょ、私」
「…まあな」
怪しかったおかげで、俺が見張りになったんだけどな。笑ったハヤテには何だか力がない。
私もその背中に腕を回すと、ぴくりと肩が跳ねた。
「…チナツ、お前、どうするんだ」
「え?」
「陛下を倒しただろう。どうやったのかは知らないが、結果としてお前がこの世界で一番強いという事になる。名乗りでも上げるのか?」
やっぱり良い匂いのするハヤテの肩に鼻を埋めて、思い切り吸い込む。何だか変態みたいだ。気付いたハヤテも呆れるように、お前何してんだ、と言ってきたけれどそのままにさせてくれるようだった。声が面白がっている。
ああ、とても残念だ。
「ハヤテ、私、私ね」
「…どうした?」
落ち着かせるように髪を撫でられる。鼻がつんとしてくる。泣くな、泣くな。
「帰らないといけないの」
「帰るってお前、どこに?」
遠くから来たんだろう。どうやって帰るんだ? 大人びた顔が私を見下ろす。送ってくれようと考えているのかもしれない。首を左右に振って、唇を噛み締めた。
「ずっと遠いとこだよ。きっともう、会えないね」
ぽつりと溢した言葉が広い玉座の間に落ちる。仕事を終えた私の元に、青い光がふわりと外から戻ってきた。




