ブレ伝世界、二日目夜。
ご飯を終えたのはついさっきで、だからハヤテは部屋に戻ったばかりだ。
どんな仕事内容なのか知らないけれど朝から一日仕事をして、私の服と靴を買いに行ってくれたらしいハヤテ。城下町まで行ったにしてはいやに早かったけれど、そこは魔法でサクッと行ってきたようだ。夕飯を食べながら軽く説明はされた。転移の魔法は便利だそうだ、私は体感出来ないけれど。
疲れてるよなあ。でも明日まで我慢出来そうにないなあ。ミノタウロスは早々に退室してしまったから、頼むとしたらハヤテしかいない。
ベッドの横と壁の間をうろうろと何度も往復する。かつりかつりと踵が鳴る。履き物、とてもよい。
寝てしまおうか。いや、特訓の時間を少しでも遅らせたい。帰る為にも魔王は絶対に倒したいけれど、あれは辛かった。ベッドに座ってため息を吐く。今日もスプリングは、優秀。
我慢かなあ。天井を見上げた時、コンコンとノックの音がした。
慌てて立ち上がりノックを返す。ハヤテの部屋からだ。慌てるあまりコココココン、と何だか激しいノックになる。
「うるせえな」
台詞の割りに柔らかい返事が来た。壁越しだから確認は出来ないがこのテンションはきっと、今日も飲んでいる。
「何?」
「何、はこっちの台詞だ。かつかつかつかつうるせえから。部屋で競歩の練習でもしてるのか」
どうやら遮音性はあまりよろしくないようである。足音が聞こえるならば、いびきや寝言も余すことなく伝わってしまうような気がする。
「えっと、えっとね」
「どうした」
「…ちょっとだけ、出てみたくて」
サンダル買って貰ったし。ぼそりと呟いたのに、壁はよほど薄いのかしっかり伝わったようで、ハヤテはそうか、と言って壁から離れていくようだった。言っていた通り、足音がばっちり聞こえる。遠ざかっていくけれど。
どういうことだ。そう思っていると、廊下側の扉が姿を表す。
「早く言えよ。散歩くらい付き合ってやるから」
さっき見たばかりの服だ、まだハヤテもお風呂に入っていなかったのだろう。緩めの寝間着とは違う、少しぴったりサイズな多分、仕事着。
「疲れてるかなあと、思って」
「遠慮したのか」
子供が気にするな。そう言ってハヤテが笑う。
子供ではないと言い返したいところだったけれど、大人であるとも言い難い年齢で、私は何も言えずにただ黙って頷いた。
「どこに行きたい?」
「そもそも何があるのか分かんない」
城の外まで行くつもりはなく、ちょこっと一人で歩いてみたかっただけ。息抜きのようなものだ。
ハヤテを引き連れていくつもりは毛頭なかったが、そういえば私は監視中の身であるのだ。私が出たいと言うことは、この男を付き合わせてしまうということ。
やっぱり良い。大丈夫。そう言おうと思ってハヤテを見ると、目を細めながら私を見ていて、それに気付いた瞬間に心臓が飛び上がるのを覚えた。
━━何で、そんな、優しい目で見てるの。
「…あそこ行ってみたい。昨日、村から来た時ハヤテと降りたとこ」
ばくばくする鼓動を落ち着かせるように深呼吸をする。我が儘ではない? 大丈夫だろうか? 囁くような声しか出なくて、そう告げた言葉にハヤテは良いよ、と答えてくれた。
「長居はしねえぞ」
「うん」
歩き出したハヤテの背中を追う。ゆったりとしたその速度にやっぱり心臓がぎゅう、となって、私はこっそり自分の胸元を握り締めた。
昨日も思ったけれど、やっぱりこの廊下は豪華だ。燭台の火がちらちら揺れて、夜だから少し不気味さこそあるけれどラスボスの拠点としてイメージするようなおどろおどろしさはない。
画面越しにしか見ていないけれど、ユウマが行った人間領の王城とさほど変わりはないのではないだろうか。埃っぽさもない、きちんと手入れされた城だ。
私とハヤテの足音だけが響く。もう皆家や自分の部屋に帰っているのかな。人気がなくて、一人で歩くのは無理だったかも、とちょっと思う。肝試しでもしているようだ。
「何でお前あんなとこ行きてえの」
「…私、この城で知ってるとこ、あそこと取調室と、あのおっかない人の部屋しかないよ」
「…そうだったな」
明日ミノタウロスにゆっくり案内でもしてもらったらどうだ、と言われたけれど、言葉の壁に阻まれる気がしてならない。ミノタウロスが人の言葉を話せるようになるのと、私がぶもう語を理解出来るようになるのはどちらが早いだろう。どちらにせよ、一週間では間に合わないと思う。
「ハヤテ、よくお城の外行くの?」
「昨日今日は出てないな。用がない」
二人分の影が廊下の壁に浮かび上がって揺らめいている。お化けを見てしまいそう。
怖さを誤魔化すように私はハヤテに話し掛けた。どうでもいいような話ばかりで、答えられた傍からまた違う質問をする。
「何の仕事してるの?」
「部下の育成が主だな」
「ハヤテがみんな、育ててるの?」
「全員手が回るかよ」
幹部の下に幹部候補が居るのだろうか。話しても大丈夫な範囲なのか、意外とハヤテは答えてくれる。
そうして少しだけこの男の事を知り始めた頃、ハヤテの足が止まった。顔を向けた方向には大きなドアがある。目的地に着いたのだろう。
「外は少し冷えるぞ」
「はあい」
ぎい、と重たい音がして、扉が開く。
外にはやっぱり分厚い雲がかかっていて、廊下よりずっと暗かった。
ハヤテの言葉通り空気は少し冷たくて、ぶるりと鳥肌が立つ。半袖はちょっと辛い。
「…何もないねえ」
「何が」
「月とか」
石造りの塀に手を掛ける。城下町の明かりは見えるけれど、遠い。一際輝いているところは繁華街だろうか。
喧騒も何も聞こえない距離は少し寂しい。小高い場所から夜景を眺めながら、ふう、と息を吐いた。
部屋に籠りっぱなしでは気が滅入る。外に出て誰かと会話をしたいけれど、魔族の中にぽんと入っていったのではきっと、危険がいっぱいだ。歩けば少し気も晴れるかなと思ったけれどやっぱりここは私の世界ではなくて、早く帰らなければ精神的におかしくなってしまいそう。
誰か、私を知っている人と、話がしたい。
「…月が、見たいのか?」
私の横にハヤテが立つ。
首を傾げながら私を見下ろすその顔は平然としていて、何故そんなことを言うのか、みたいな表情。
「見られないじゃん」
「手伝ってやろうか」
口の端を上げながらハヤテが言う。どうやって。訊いた私の腕を掴んで、反対の手で人差し指を立てた。
しー、のポーズだ。
「騒ぐなよ」
昨日の朝と同じく、ノーモーションで風が起こり始めた。広いベランダみたいなスペースに塵や小石が舞い、壁にぶつかってぴしぴしと音を立てる。
「なに、」
「見たいなら連れてってやるけど」
上を指差したハヤテの、その目線の先を追う。━━空? この分厚い雲の上ってこと?
「行きたい!」
思い切り返事をした私に、くすりと笑ってハヤテが頷いた。村から移動した時と同じように、風が透明な竜の形に姿を変える。
「黙ってられるか?」
「頑張る!」
何が何でも声を上げない経験は昨日既にした。今日は涙も堪えられたら良い。そう思いながら何度も頷いた私の肩を、ハヤテがしっかりと掴んだ。
「掴まってろよ」
それが聞こえた直後、私は二度目となる浮遊感を覚えた。




