ブレ伝世界、二日目。
ごうん、ごうん。鐘が遠くで響いている。
まだ寝たい。うるさいなあ。
そう思って寝返りを打つと、全身に強かな衝撃を覚えた。
「んえっ!?」
驚いて体を起こすと、見覚えのないパジャマを着て見覚えのない布団にくるまっていて、━━ああ、祖父母の家じゃないんだっけ。やっと頭が覚醒してきた私は、打ち付けた臀部をすりすりと擦った。いたい。
自宅ではベッドで寝ていたけれど、たったの一週間祖父母宅で過ごした私は布団で寝るのにすっかり慣れてしまって、何年振りかでベッドから転落したようだ。随分奔放な寝相になってしまった様である、またベッド生活に慣れなくては。
カーテンを開けながら外の様子を窺う。魔界に朝日は昇らないのだろうか、夜ほどではないけれどどんよりした空模様。気が滅入るような暗さだ。それでも閉めっぱなしよりはマシだろうとくるくると纏めて窓を開ける。温い風が部屋に入ってきた。
昨夜、夢の中で私は勇者の証によるスパルタ教育を受けた。なんというかもう、凄かった。
延々サンドバッグを叩き続けた時間がどれくらいだったのかは分からない。夢の中だから筋肉も疲労を覚えず、ぐったりしたのは精神的なそれ。少しでも休もうものなら『そんなものですか? それで魔王を倒せるとお思いですか?』と叱咤激励を浴びせかけられる。
拳は痛まないまま、少しは形になったのか『そろそろ良いでしょう』と言われたのは体感的に一晩中打ち続けた頃だった。ほっとした私に畳み掛けるように『それでは続きはまた明日』と言われてしまったのだけれど。
擦る腕はどこも痛みを感じない。しかし何もない空間に一つパンチをしてみると、昨日布団を殴り付けた時よりはキレがある、ような気がする。イメトレの一種なのかもしれない。
宿題として空いた時間で昨日と同じように実際に叩くことを課されているので、今晩また布団を縛り付けなければならない。
よろしくね、と布団を撫でる。最終的に中身をぶちまけられるようになるのだろうか。私はどこに向かっているのだ。
外から喧騒が聞こえる。魔族たちの出勤時間に当たるのか、おはよう、おはようと聞こえるような気がする。挨拶は大事だ、魔族もそれは多分一緒。
そういえばハヤテは起きたのだろうか。四天王なんかの幹部は城に住み込みなの? 重役出勤なの? 今更ながらに気になってくる。ノックをしようとベッドから立ち上がると、見計らったかのように壁が扉に姿を変えた。
「…ああ、起きてたか。おはよう」
「おはよう。ノックしてよ」
「待ち構えてたなら大丈夫だろ。飯待ちしてたのか」
あくびをしながらハヤテがこちらの部屋に入ってくる。昨夜見たゆるい格好ではなく、昨日の朝に見たような若干ロックな格好。あんまり似合っていない。
「ほら、飯。もうすぐミノタウロスも来るだろうから勝手に出るなよ」
「出られないじゃん、壁しかないんだから」
「そうだったな」
トレーごと寄越されたのはスープとパンと、ジュースか何かの入ったグラスだった。あとは見慣れたみかんのような果物の山。バランスが良いのか悪いのかよく分からないが、これを全部平らげたらお肌が黄色くなりそうだ。
「じゃあ俺は行くから、大人しくしてろよ」
「…行ってらっしゃい」
「……おう」
お腹空いたなあ。匂いを嗅いで途端に空腹を覚えた私は、トレーに釘付けになりながらおざなりに挨拶をした。視線を奪われたままの私の頭をハヤテがぐしゃぐしゃと撫でる。
ちょっと。私の文句はぱたりと閉められた扉に跳ね返されて、見る間に壁になったそこをじっとりと睨み付ける事しか出来なかった。
まあいい。まずはご飯だ。いそいそとソファーに腰掛けた私の元に、ミノタウロスが来たのはそれから少し経ってからだった。
「ミノタウロスさん。しりとりしよう」
「ぶもう」
「う。うさぎ」
「…ぶもう」
暇である。暇に任せてミノタウロスと遊ぼうと思ったのだが、些か無理があるようだった。
もて余した私は洗い物をしようと思い立ったのだが、一軒家にしか住んだことのない私にとって見たことのないサイズであったちんまりとしたキッチンスペースを見て、うわあこれちゃんと料理出来るの? と驚いてしまった。
腕捲りをして意気揚々と皿を下げた私をミノタウロスは後ろから眺めていたが、結局私は水で濡らしておくだけですぐにソファーに戻った。水切りかごどころかスポンジや石鹸もない。まさか食器を洗うのすら魔法を使う? まさかね。
忙しかろう四天王様のハヤテの負担を少しでも減らそうと思ったのだが、結局頓挫してしまってソファーにごろりと横になる。
やることがない。
ミノタウロスに言えば出ても良いとは言われたけれど、裸足で出るのもなあとそれはやめてしまった。ハヤテもケンガもしっかり靴を履いていて、裸足でぺたぺた歩くのを見たのはミノタウロスと私くらいだったのだ。私、そんなに、野蛮じゃないし。いやミノタウロスさんは紳士だけど。見た目の印象として。
「ねえミノタウロスさん。靴が欲しい」
寝転がったままそう呟く。着替えて今は昨日と同じ、シャツとステテコ姿だ。足を天井に突き出してぷらぷらと揺らす。おそとでたいなあ。でも裸足じゃなあ。私のそんな行儀の悪い仕草を見て、ぶもう…と困ったようにミノタウロスが返すのが聞こえた。
「何でも良いから履くものが欲しいよう。魔族の皆さんも大体靴履いてるよね?」
「ぶも」
「ミノタウロスさんは、…おっきいね足!! 特注になりそうだね、だから裸足なの?」
「…ぶもう」
頭も大きい、体も大きいがまじまじと見た足は大したサイズだ。まあ、蹄がある以上靴は要らないのだろうどう見ても。
膝を抱えてゆらゆらと左右に揺れる。私も蹄があれば良いのに。そうしたら靴を履かずとも良くなるのに。段々思考は変な方向に向かっていって、私は立ち上がった。
「ミノタウロスさん。筋トレしない?」
「ぶんも?」
「むきむきで凄いから。鍛え方教えてよ」
「ぶも…」
私がぶら下がっても容易に耐えてブランコをしてくれそうなその体躯。うまいこと、効率の良い筋トレ方法を教えてはくれないだろうか。今は暇だけれど総合的な時間はないし。
ぽりぽりと頬を掻いたミノタウロスは、彼自身も暇だったのか、それとも私を哀れに思ったのか、こくりと頷いて私に近付いてきた。
「さてはお前馬鹿だな?」
ハヤテの呆れた声が私に襲い掛かる。ぶるぶると震えた腕はスプーンの制御がままならず、スープはどんどんこぼれ落ちていく。
あれから昼ご飯までの間、ミノタウロス監修のもと筋力増強に勤しんだ私の体は全身悲鳴を上げていた。
初心者の私に課されたものは、きっと大した事がなかったのだろう。筋骨隆々なミノタウロスにとっては。しかし私の柔な体は三割も達成する事が出来ずに、ハヤテが昼食を持ってくる頃には死んだ目で床に這いつくばる事しか出来なくなっていた。
一週間で筋肉ってつくんだろうか。今更考えても遅いそれに思い当たる。いやでもきっと、多分、本当、やらないよりはマシ。何度も呟いたそれを頭の中で考える。
「暇だったんだもん」
「ミノタウロス、お前も少し考えろ。お前のトレーニングに人間が付いていけると思うな」
「ぶもう」
ぺこぺことミノタウロスが頭を下げる。いや君は悪くないよ、だからまた教えてね。どうにか口に運べた分を飲み込みながらそれを眺める。
「ハヤテ、まだ戻らなくて良いの」
「もう行く」
「重ね重ね申し訳ないんだけど、靴ってないかな。暇だったからミノタウロスさんに付き合って貰ってただけだから」
「…お前何でミノタウロスにはさん付けなんだ?」
靴ねえ。呟きながら出ていくハヤテを見送った。
履き物が来たら散歩をしよう。今度は有酸素運動!