ブレ伝世界、一日目、夕方。
何で私なの。それを聞き損ねてしまった。何か条件があるのか、夢の中にしか出てこないのか。どれだけ心の中で語りかけようとも、返ってくる返事はなかった。
ぼうっと外を眺めながらベッドのスプリングを味わっていると、コンコン、と壁が鳴ってその姿をドアへと変えた。ハヤテか、ミノタウロスか。
現れたのは二人ともだった。やっぱり暇なんじゃないか。
「起きていたか。静かだから寝ているのかと思った」
「一人でそんなに騒げないかなあ、私」
魔王を倒さねばならない私にとって、このミノタウロスとハヤテは一番近くに立ち塞がる壁だ。
どうやって突破して行くべきなのか。そもそもどうやって倒すべきなのだろうか。秘められし勇者の力がいざ戦闘になったら覚醒したりするのかな。
試しにハヤテに突進してみた。尋問の際に言われた、傷付けないの言葉を信じてみたのだ。枕相手では何も起きなかったけれど、もしかして魔族相手ならば何か変わるかもしれない、そう思った結果である。何事も簡単に約束をするものではない。
向かい来る私にぎょっとした顔をしたハヤテは、しかし退ける事もなくそのまま私を阻む壁となってそのままそこに立ちはだかっていた。
「…何をしているんだ」
「…いや、何か寂しくなって?」
これではただの助走をつけた熱烈な抱擁である。普通にタックルしただけでは弾かれそうだったので衝動的に回した手が仇となった。
首根っこを掴まれてばりっと剥がされる。あっさり解けた抱擁はやはり、勇者の力などなくただの私個人の力しか籠っていないようだ。
「…おい、こいつは今まで何をしていた?」
「ブモ。ブモモウ」
「やっぱり寝てたんじゃないか、お前。寝惚けるな」
「待って。ブモブモで分かるの」
魔族の絆だろうか、この二人は会話が出来るようだ。
私も話してみたい。ぶもう。二人に微妙な顔で見下ろされただけだった。
ソファーにぺいっと投げられて、どすんと着地する。お尻を摩りながら投げた本人ことハヤテを見ると、上着を脱いで背もたれに無造作に掛けるところだった。
皺になりそう。良いのか別に。
「今日はもう終わり? …なんですか?」
「面倒くさい話し方やめろ、鬱陶しい。普通に話せ」
首を揉んでため息をつきながらハヤテが私にそう言った。
何か馴れ馴れしくしてしまったと思って敬語に戻そうとしたが、本人が気にしないならば良いのだろう。しかし努力は認めて欲しかった。言うに事欠いて鬱陶しいとは何だ。
「終わりではないが、お前の世話も仕事だからな」
ぶつぶつと言いながらミノタウロスを呼ぶ。呼ばれた方はこくりと頷いて、何やらカートを持ってきた。
載っていたのはほかほかの、またご飯である。
「え、もう晩ごはん? 鐘鳴った?」
「お前熟睡し過ぎじゃないか?」
幼児か? そんな言葉が透けて見えて、私は口を閉ざした。余計な事は言うまい。
次々と並べられるのは、昼と代わり映えのないスープやパン、サイズアップした肉、サラダ。
そして毒々しい障気を放つ、某かの皿。何だ、これ。
次々と並べるミノタウロスの手先を、唖然として私は見詰めていた。━━二人分、料理がある。
最後にかちゃりとグラスが置かれた。赤く鈍い色の液体の入った瓶。私の知識と同じであれば、葡萄酒だとは思う。まさか血ではないだろう。…まさかね。
「晩飯は一緒に食うぞ。ミノタウロスにも休憩は必要だからな」
下がって良い、そう言われたミノタウロスはぺこりと頭を下げてから部屋を出て行った。
心なしか足取りが軽い。もしかしてお昼抜きだったのかな、ごめんなさいね。
「…言ってくれれば良かったのに。大食堂まで着いて行ったのに」
私は食べられそうにないけれど、食事抜きは可哀想だ。私を見張っていなければならないなら、一緒に行けば済む話だっただろう。そういう問題ではないのだろうか。
「少なくともあれは見張りの対象が目の前に居て、ゆっくり飯を食うような奴ではないな」
つまりとっても真面目と言うことか。
あんたは何なんだい。
かちゃかちゃと食器を鳴らして食べ始めたハヤテを見て、私はヘッと鼻で笑った。
「食後の予定は」
「え? えっと、忙しいかな」
「無いな。少し付き合って貰う場所がある」
「きいて」
藪から棒に始まった会話は、もうハヤテの中で結末が決まっているようだった。切り出し方が下手くそすぎると思う。
私相手だから一切気を使っていないという選択肢が浮かんで消えた。まあね。部下にはきっと、もう少し優しくしてあげるだろう。でなければこんな最弱の男、すぐに誰かに取って変わられる筈だ。
水でも飲むようにどんどんグラスを傾けて瓶を軽くしていく男の様は、何だか自棄になっているようだ。味わっているようには見えず、もったいないような気すらしてくる。高いのかどうか定かではない葡萄酒かっこたぶん、がみるみる瓶から消えていった。
勢いに目を奪われていると、グラスを空にした男と目が合い、何だ、というような表情をされる。そして私の手元を見て片眉を上げた。器用なことだ。
「飲まないのか? 渇かないか、喉」
「いやあ、私、お酒はちょっと」
未成年なんで。
へらりと笑って返したけれど、果たして未成年という単語が伝わっているのかどうか。
ハヤテはそうか、と頷いて、少し考えてからにやりと笑った。
初めて見た笑顔は第一印象の通り、どこか意地悪そうな顔。酔って気分が明るくなって、笑いたくなったのだろうか。
何となく跳ねた心臓を抑えていると、続けてハヤテは呟いた。
「味も分からんお子様にはもったいないからな。チナツは水でも飲んでろ」
思わずフォークを落としかけた私に目もくれず、うきうきとハヤテは瓶をひっくり返していた。最後の一滴まで注ぐつもりだ。
初めて笑った顔を見た、とか。
嬉しそうな顔の時に名前を呼ばれた、とか。
何か、何か、何か!
「うるさいハヤテ。きっとおっさんの癖に」
「ああ?」
だすん、と音を立てて肉の塊をフォークで刺す。もしゃりもしゃりと咀嚼して、「食べてるから話せませーん」のポーズを作った。
ハヤテは少しの間私を見たあと、興味をなくしたのか酒を優先させたのか━━多数決を採るまでもなく後者だろう━━最後の一杯になったグラスを少しずつ、舐めるように飲み始めた。
一瞬跳ねた心臓は、もう平静を取り戻していた。
「私、どこに行かされるの」
昼より少し柔らかかった肉塊を飲み込んだあと、ふと気になってハヤテに訊く。グラスから目を離した顔は、別段赤くなったりしていなくて、とても酒を一瓶も飲んでいるようには見えない。
まさか予想を大きく外してジュース? 夕飯でジュース飲んじゃう四天王?
「ああ…」
ご機嫌だったハヤテが、突然うんざりとした顔をした。嫌な用事なのだろうか。
そんな用事に付き合わせないで欲しい。
「俺と同じ、四天王の一人のところだ。俺に話すような調子はやめておけ。余計な事は話すなよ」
「え」
「あれは優しいのは見た目だけだ」
もったいぶって飲んでいた中身を一息で煽ったハヤテは、ふう、と息をついてグラスをくるくると回す。
弄ばれた残った滴は、遠心力を得てゆるやかに形を変えた。
「あれの━━ケンガの命令で、俺はチナツの面倒を見ることになっている」
「偉いの? その人」
「俺よりな。強いから、偉い」
とても嫌そうなその顔は、どう見ても慕っているようには見えない。極力会いたくない、それを隠そうともしなかった。
四天王の中にも偉いとか偉くないとかあるんだな。私はサラダにフォークを伸ばした。ころころとしたミニトマトのような野菜は、なかなか刺さらずにその身を翻す。
「夜になればケンガの今日の仕事は終わるから、その後でお前と面会だ。…一応チナツは様子見にはなっているが…」
お前次第ではどうなるか分からんな。
その言葉の真意を測りかねて、私は思わず首を傾げた。
それは、ここから追い出すということ? それとも、━━殺されるということ?
逃げ出したミニトマトは、ぽろりと皿から転げてその動きを止めた。