憧れの男
少年は坂道を転がっていた。
その日は近年稀に見る猛暑日だった。少年はそれをものともせず、ただ体を丸め、坂道を転がり続けた。
そしてスタート地点へと戻る為、坂道を上る。額の汗を拭い、小さな溜め息を吐きながら。
その様子は彼が美少年だったなら様になったのだろうが、悲しくも彼は糞同然の不細工男であった。
坂道の中頃で、少年はふと顔を上げた。向こうから女子の集団が歩いてくる。同じ小学校の子達だ。
「ねーでさーほんとにあれでさー」
「ねーほんとあれだよねーんーほんとそぉそぉー」
少年は彼女達を微笑ましく眺め、すれ違い様に「やぁ」と言いながら片手を上げた。
するとすかさず少女達は「ぎゃあ!」と悲鳴を上げ、凄まじいスピードで少年から離れる。
「わ、まじないってー! ねーあいついつからいたのー教えてよー」
「あたしも気付かなかったんだってーまじきもーつらー」
「もーまじ最悪ーさげぽよー」
「やだーちょっとあんたさげぽよとかふっるー」
「まじありえんわー」
少女達の声が段々と遠ざかっていく。彼は思った。何故自分は、毎回あそこまで避けられるのだろうかと。
いや、仕方ない。彼女達には自分の魅力がまだ分からないのだ。いつもの様にその結論に達した彼は首を振った。
またスタート地点に戻ってきた彼は土下座の様な体勢を取り、体を丸めた。
彼は常に考えているのだ。どうしたらこの坂道を素早く降りる事が出来るのか。そして彼はもう、1つの答えを導き出した。
球になるのだ。自分が複雑な形をしている事を忘れ、球である自分をイメージするのだ。彼はいつも、そう自分に言い聞かせる。
やっとそのイメージが定まり、呼吸を整えて下ろうとしたその時。
「がぶぁ!!」
彼は背中に衝撃を受け、みっともなく体を投げ出して坂道を転がり落ちた。
「うっ、うぅ……」
彼が怒りを覚えつつも顔を上げると、そこには見慣れた男達がいた。さっきの女子集団と同じく、小学校の顔見知り達だ。
「お、おい君達」
「でさーそん時あいつがホームラン打ったの! もー皆わーってなっちゃってー」
「えーあいつすげーなー中学行ったら野球部入った方が良いんじゃねー?」
「でもあいつサッカーまじ好きだよなー」
「ボールが友達的なー?」
「言えてるーあははー」
「おい、君達!!」
男子達の会話が一瞬、止んだ。
「君達の中で誰か、俺の背中蹴っただろ? 怒らないから、ちゃんと謝ろうな?」
「……あ、俺だわ。ごめん」
「……でさー、今度の土曜あいつも混ぜて野球やろうと思うんだけどー」
「おーいいなーそれー」
「じゃー今日は土曜に向けて練習しよっかー」
「おーそうだなー」
「えー俺ゲームしたいー」
男子達は何事も無かったかの様に会話を再開し、どこかへ行ってしまった。
哀れな少年は歯ぎしりをしながら、スタート地点へと戻った。
少年が転がり始めて数十分後。
「……あのぉ、そこの君ぃ」
背後から掛けられた訛りの強い言葉に、少年は振り返った。
それは知らない男だった。だが、どこかで見た覚えがある。
「はい。何ですか?」
少年は警戒しつつも返事をした。
「君ぃ、ランドロー知っとんの?」
「え?」
ランドロー、正式名称ランドローリング。坂道をただ転がるというシンプルな競技。それこそまさに、今少年が特訓しているスポーツだ。
だが、このマイナー競技を何故この男が知っているのだろう?
「そうですけど……あなたもこの競技を、知ってるんですね?」
「あぁ。おらは一応、ランドロー選手の高空降いうもんなんだす」
「えっ!? あ、あの高空選手!?」
少年は驚愕すると共に思い出した。そうだ、このよく日に焼けた好青年は、世界大会を怒涛の勢いで連覇している高空ではないか。
「あっ、あっあっあの、握手、してもらっても、いいですか?」
「もちろんだす。はいよ」
差しのべられた手を、少年は恐る恐る握った。高空が力強く握り返してくる。
少年は夢の中にいる様にぽーっとした気分だった。ずっと憧れていたこの選手に、まさかこんな所で出会えるなんて――。
「君、名前はなんちゅうの?」
「あっ、はい? 名前ですか?」
「うん。あと何年かしたら、大会でご一緒するかも分からんかんねぇ」
高空は爽やかな笑顔を見せた。今まで何百人ものファンを虜にしてきた笑顔だ。
「い、いえいえそんな。俺、そんなに強くないっす。確かに将来性はあるけど……えっと、坂野転って言います。宜しくお願いします」
「坂野君だね、宜しく」
高空は坂野の肩をポンポンと叩いた。少年は誇らしい気持ちで彼を見上げた。
――これが、後にランドロー界の魔王とまで言われた坂野と、伝説の男・高空との出会いだった。