精神安定剤
足を下ろしたら固くて柔らかい感触がした。
構わず踏み潰して床に靴底を擦り着けていると、足元まで迫っていた手が諦めたように冷たい地面を掻いていた。
足を上げるとそれは目玉だったもので、多分持ち主は目の前の男だろう。片目を手で覆い、空いた手で転がった目玉を取ろうとしたところ、偶然自分が踏んでしまった……って事だろうか。
「拾ったって、元通りにはならないのに」
堪らず呟いた言葉に、男は見えない目を覆いながら眉をしかめて睨んでいた。
八つ当たりだ。
別に自分が男の目玉をえぐったわけではないのに、目玉を拾って押し込んだところで元通りにはならないのに、たまたま踏んずけて地面に擦り付けてしまっただけの自分を、男は心底憎らしげに睨んでくる。
男の体はボロボロだ。片方の目玉はえぐられ、頬には切り傷、首から下も打撲や火傷、ナイフを刺されて流れた血もそのままに、床を這う虫のようだった。
それでも生きているのは、本人の意思ではなく生かされているからだろう。
どれもこれも致死には遠いが確実に精神を侵していくような傷だった。
「死にたい?」
聞いてみると男は微かに口角を上げ、それから血の混じった唾を吐き出した。それが床に引っ付いて、自分にかからなかった事に安堵する。
強い目が、私を責めているようで思わず左腕を服の上から摩った。
「どうします?」
黒いスーツに身を包んだ男が、ボロ切れのようになった男の髪を掴み上げながら言う。
どうするもこうするも、自分に決定権はないのだけど。見物気分で来たら周りには畏縮されてしまった。
私はまだ小娘で、地位があるのは親で、だから周りは畏縮してしまうのだろうけど……。
「パパに聞いてみるね」
でも、何となくこのボロ切れのような男は気に入った。反抗心があって、周りに居ないタイプだからだろう。
単純な自分に苦笑する。
「もしもしパパ? 今ね、横浜の倉庫見物にきてるの」
パパは甘えた声で「そうかそうか」と言っていた。ボロ切れのような男のことは知っているようで「死んだか?」と聞いてくる。
「まだ……でもわたし、これ欲しいな」
パパは少し考えてから「ペットには獰猛過ぎる」と難色を示す。それでも甘えた声で何度かねだれば、諦めたように「仕方ない」と言ってくれた。
「私の家に運んで」
「はい」
それがボロ切れ男と私の出会いだった。
ボロ切れ男は私の部屋に運ばれて、直ぐに首輪と鎖で繋いであげた。
医者を呼んで治療もしてやれば、麻酔を使ったからかベッドで苦悶を浮かべながら意識を失っている。
ボロ切れ男には足首から下が無かった。逃げられないように切り落とされたんだろう。その上でじわじわと拷問され、多分次は薬漬けにされていたはず。
まだ薬は使われていなかったけど、使っていたなら2~3日もせず、ミキサーにかけられて肉片にした後どこかの新しいビルに埋められてただろう。
「……っ」
「気づいた?」
ボロ切れ男の眉はこれがデフォルトかのように険しい角度で止まっている。吸い飲みに水を入れて口に運ぶと、怪訝な顔をしながら飲でいた。
「意外に素直、薬が入ってるかもよ?」
「水の味しかしない」
掠れた声で喉が潰されていたのが分かる。でも完全に潰されたのではないだろう、安静にしていればいずれ治るような掠れ方だった。
男の頭がぐらりと揺れて、枕に落ちる。疲れているのか、麻酔から覚めきっていないのか、瞼を閉じて寝息を立てていた。
程なくしてうなされた声がする。額に汗をかく、苦しそうな息を吐いていて、熱が出たのだと分かった。それが三日三晩続いて、やっと微熱に落ち着く頃には、私の体重が4Kgも減っていた。
「起きれる?」
スープの上澄みと重湯をベッドサイドに置くと、ボロ切れ男はウンザリした顔でそれを飲み干した。それが限界。
三日三晩寝ずに看病した私は、倒れるように男のベッドへ突っ伏して眠る。弱った動物を拾った時でさえ、こんなに頑張ったことはなかったのに。そう思いながら意識は薄れていく。
目を覚ましたのは暗闇の中で、意識をなくした時も夜だったから、そんなに寝ていないのかと錯覚した。
実際は丸一日寝ていたらしく、ベッドへ突っ伏していたのもきちんとベッドの中で寝かされていた。
「……腹ぁ減った」
ボロ切れ男が言う。そういえばスープの上澄みに重湯しか飲ませていない。
あれから徐々に固形物を増やすつもりが、結局また1からやり直すはめになってしまった。
食欲があるのを若干不憫に思いながら、丸一日前に出した食事と同じ食事をさせる。不服そうな男は、味があるからとスープの上澄みだけ2回もお代わりをしていた。2日後、やっと粥から軟飯になった男は、ミキサーですり潰されたおかずもよく食べていた。
これなら夜には消化の良い普通食にしても問題なさそうだ。
「看護師?」
「なんで?」
「手当とか飯とか」
「手当は医者、食事は趣味」
「で、治ったらまた拷問? それとも殺されんの?」
ボロ切れ男は短く刈った髪を撫で付けながら言う。日常会話みたいに。
それは諦めからなのか、裏社会で生きてきて長いからなのか、自分の辿る道をよく知っているようだった。
「死なないわ……拷問は、感じ方次第かしら」
「感じ方?」
「パパから貴方を貰ったの」
だから首輪を着けて鎖で繋いで飼った。食事も世話の一環だ。ボロ切れ男は足が無いから、トイレだけは面倒だけど、それも躾れば何とかなるだろう。
ボロ切れ男は人間ではなく私のペットになった。
「捨てられないようにするか」
眉間のシワを伸ばして、ボロ切れ男はあどけない笑顔を向けながら「わん」と鳴く。
それからの順応性は高かった。
傷が癒えると男は四つん這いで歩くようになって、いつでも私の後ろをついて来る。顔の傷は残ったし、足首から下は切り落とされて自力で立つことも出来ない。拷問されて男のモノも切り落とされていたから、盛ってもこなかった。
男には裸で過ごさせていたけど、ブラブラと揺れるものが無いのも見慣れてしまった。
性奴隷にする気はなくて、本当にただペットが欲しかったから、私は満足していた。
ボロ切れ男は従順で、眠る時は私を抱き寄せて眠るのもまた良かった。足りない何かを埋めてくれるようで、ボロ切れ男の声も耳に気持ち良い。
「お嬢、今月分です」
「ありがとうございます」
「お嬢はすっかり変わりましたね」
「……え?」
スーツ姿の主治医は、私を見てそんなことを言った。
変わっただろうか? 思わずボロ切れ男を見るけど、視線を合わせてはくれなかった。
「倉庫見物にも来なくなりました」
「あぁ……そうですね」
「穏やかになりましたね」
「隠居時かしら」
「寂しがる奴は多いでしょうね」
「あんなに恐がってたくせに?」
「それがよかったんでしょ……さて、これ書いてください」
「はい」
目の前には診断テスト。はいといいえが5段階にわかれている。
ペンを滑らせながら、気づくと前向きな答えばかりをしていた。
「調子も良さそうだ、来月から少し薬を減らしましょう」
「はい」
気づけばいつも摩っていた左腕。そこには無数の浅い切り傷がしみになって残っている。
ボロ切れ男を連れ帰る前は、無意味に自分の腕を傷つけていた。死なない程度の傷はいつしか癖になって、気づけば血まみれだったこともある。
私はいつも笑っていた。倉庫見物に行っては死にぞこないを見て自分の度胸の無さに笑うしかなかった。
あんなに苦しくて痛いはずなのに、生に執着しては次第に諦めていく様を、私はいつも羨ましく思っていたのだ。
ボロ切れ男を連れ帰ってから、私の腕は徐々に傷が治っていった。瘡蓋になって、しみになって、ポコポコと段差が出来る汚い腕だ。いつも塞がらない傷からは、すぐに血が滲んでいたのに、今は新しい傷をつけない限り血は流れない。
ボロ切れ男は私の治療も見ていたのだろう。傷が癒えてからは私に薬を渡す係のようになった。朝、昼、晩、調子の悪そうな時、薬を咥えて私に近づく。それから薬を飲むのを見届けて、そっと私の汚い腕を舐めた。
私はボロ切れ男に依存していった。
生まれも育ちも、私が生きるには周りの力が強すぎる。誰も視線を返してくれない孤独を、私は小さな頃から感じていた。
指が飛ぶ、耳が飛ぶ。
初めて見る光景に私は目を奪われて微笑んだ。縋るその目が私を頼っているようで、倉庫見物が生を感じる場になった。
不安はいつもある。死にたいのに死ねない意気地の無い自分が堪らなく嫌で、何度も何度も袖に隠した傷痕を擦った。
いつからかそれが癖なって、少しでも不安を感じると袖を擦るから、袖が血で汚れて包帯が手放せなくなった。
今と違う、少し前の自分。
縋る目に依存していた私が、縋る先を見つけてしまった。
ちらりと下を見ればボロ切れ男と直ぐに目が合った。
片方が無い1つだけの瞳がずっと私を観察して、何か望もうとすれば先回りをして望むことをしてくれる。だから多分、ボロ切れ男は裏社会の下っ端で、何か失敗したとか、そんなつまらない事で拷問されていたんだろう。
「お嬢」
「ん? お腹空いた?」
「違う、なぁ俺義足が欲しいんだけど」
「えぇ~やだよ」
「四つん這いじゃ不便なんだよ」
「いいじゃん部屋にしかいないんだし」
「頼むよ」
「何で? 逃げたいとか?」
「いや、ここに不満はないからお嬢が飽きるまでは居るよ」
「そのうち言うんでしょ? 次は服が欲しいとか、携帯が欲しいとか」
「あぁうん、服が欲しいなら義足の前に言うわな」
「あー……そうね」
「だめか?」
「だめ」
何を思って義足なんて言い出したのか。
それでも最初から望みが薄いと思っていたのだろう、直ぐに諦めたようだった。
「なぁ」
「まだなにかあるの?」
「そろそろ名前とか付けてくれても良くないか?」
「名前?」
そういえばなかったっけ?
いつも「あんた」とか「きみ」とかで何とかなっていたから、気にもしなかった。ここはペットらしい方がいいのか、人間らしい方がいいのか、少し迷う。
「山田くん」
「座布団は運ばねぇからな」
ボロ切れ男の眉間がいつになく深いシワを刻む。とても嫌だったようだ。
「ポチ」
「安直」
「みーちゃん」
「猫のつもりか? 俺が?」
「じゃあなにがいいのよ」
「あんたセンス無いな」
もうお嬢とも呼ばれなくなった。酷い。
ウンウン唸っても結局名前なんて思いつかなくて、ボロ切れ男に名前はつけてあげられなかった。
「薬の時間」
「あぁもうそんな時間か」
「ベッド来い、寝るぞ」
「眠くない」
「夜更かしすんな」
「絵本でも読んでよ」
「ここに絵本は無いな」
「じゃあなにか話して」
「何がいい?」
「さるかに合戦」
ボロ切れ男の眉間に深いシワが刻まれる。
どうしてそう縦じわを固定するような顔をするんだろう?
ボロ切れ男は一瞬唸ると、私を見上げて諦めたようにため息を吐いた。
「むかしむかし、さるとかにが喧嘩して、かにが勝ちましたが人間が美味しくいただきました。おわり」
「なにそれ」
「さるかに合戦の詳細なんてしらねーよ」
「じゃあ美女と野獣」
「むかしむかしお嬢と俺がいました。おわり」
「なにそれこわい」
「ほらベッド行くぞ」
ぐいぐいとボロ切れ男が私の足をを引っ張る。
仕方なく椅子から立ち上がると、ボロ切れ男は四つん這いでベッドに向かって、両腕に力を入れて上ると、サイドボードに薬を並べ始めた。
「粉薬がやだ」
「オブラートに包んでやろうか?」
「飲みづらい」
「ゼリーのやつもあるだろ」
「飲みたくない」
「飲め」
飲むけど、ちょっと駄々をこねてみた。
でも薬に関しては譲ってくれなくて、直ぐに諦める。
「うべぇっマズ」
「次こっち」
「はいはい」
睡眠薬はもう無い。
ボロ切れ男に抱かれて眠るようになってから、寝入りが良くなったから。
「布団はいれ」
「うん」
それでも寝るのは怖い。
寝て見る夢は悪夢ばかりで、私は度々起きてしまう。
ボロ切れ男が来る前のように、いつ寝ていつ起きてるかも分からず、頭が常に霞み掛かっているようなことは無くなったけど、怖い夢を見るから眠るのは嫌いだった。
この世の虫とは思えない形や色が足からはい上がり、私の身体が真っ黒に覆われていく。
焦ってもがけばもがく程、虫達は活発に動き寄ってくる。
髪の毛間に入り、頭皮の上でうごめき、口から漏れる悲鳴は虫が入り込んで喉の奥がざわめいていく。
「ッひ!!」
「……お嬢」
ビクリと肩を震わせて、体が硬直する。
ボロ切れ男はギュッと私を抱き込む腕に力を入れて、何度も優しく頭を撫でてくれた。
「大丈夫、大丈夫、何も怖いものなんか無いから」
「ふっ……う」
「息して、ゆっくり」
「はぁ、ッはぁ」
「大丈夫、大丈夫」
まるで魔法のような言葉だ。ボロ切れ男が大丈夫と言えば、私はまた安心して寝息をたてる。
毎夜毎夜、夜中に悪夢で目が覚める度、ボロ切れ男は私をあやした。
「お嬢、トンカツ食べたい」
「なに?」
「テレビでやってた」
「じゃあ今日はトンカツにしましょうか」
「みるふぃーゆのやつな」
「はいはい」
日がな1日、私とボロ切れ男は部屋に居る。
インドアな私は父が買い与えてくれたマンションから出る事もないし、ボロ切れ男は自分の意思では出られないから。
「ねー、プール行こうか」
「プール? ダイエットか?」
「下のプール貸し切れるからさ、君運動不足でしょ」
「別に、いらん」
「何で? 暇になったら筋トレしてるじゃない」
「だからだよ」
「えー?」
「筋肉はな、沈むんだよ、俺は泳ぐの苦手なの」
「ふーん」
引き締まった体に無数の傷痕。どれも癒えはしたけど、痕がハッキリと残っている。
それが筋トレをして体に熱が篭ると、赤く浮き出て更に目立った。
「なんだよ、汗臭いぞ?」
ギュッと抱き着けば迷惑そうにしながら頭を撫でてくれる。
汗臭い胸に額を擦りながら、舌をのばして傷痕を舐めると、ボロ切れ男はピクリと反応した。
「誘ってんのか?」
「玉も竿もついて無いくせに」
「お嬢満足させんのに、玉も竿もいらねーよ」
顔を上げるとニヤリと意地悪く口元を歪ませたボロ切れ男と視線が合う。
目つきの悪さは折り紙付きだ。
「誘ってない」
「あっそ、何が気になる?」
「何も気にならない」
「……何で機嫌悪い?」
「機嫌、悪くない」
「悪いだろ」
日がな1日一緒に居るのに、話し掛ければ応えるのに、望めば叶うのに、私は意固地になったようだ。
私を相手せずに筋トレなんかして……そんな風に一瞬思ってしまった。
相手って何するの? 別に何も望んで無いし、話しのネタも無いのに。構ってほしいけど、どう構ってほしいかまでは分からない。ボロ切れ男は私の世話を焼いてくれるけど、世話係でも恋人でもないただのペットなのに。
私は一体、彼に何を望んでいたんだろう?
ボロ切れ男は私を抱き込むと、額と頬に何度も何度もキスをしてきた。
「なに?」
「泣くなよ」
「泣いて、ないし!」
「淋しがりだな」
「淋しがり……て」
「淋しくなったんだろ?」
「別に、そんなんじゃ、ない」
「うそつけ」
「汗臭い」
「悪かったな」
「も、いい離して」
「だめ」
「なんでよ」
「今日は、ちょっと調子悪そうだ」
「え?」
「昨日は夜中いつもより何度も起きてた」
「そう?」
「無理すんな、毎回上り調子なわけじゃないんだから、甘えたい時は素直になっとけ」
「甘えたい……時」
これは甘えたいって事なのかと少し考える。
考えても分からなかったけど、何となく落ち着いたから、ボロ切れ男は相変わらず私の望みを叶えるのが上手いと思った。
「薬、飲んどくか?」
「ううん、あんたがいるからいらない」
「それは光栄だな」
「でも汗臭い」
「あーもう風呂入るよ!」
「うん」
「お嬢もだからな」
「ん、そうだね」
冷たいところが溶けるような、刺が抜けるような感覚がする。
体の力が程よく抜けて、小さく笑えた。
「久しぶりに体、洗ってあげる」
「お?」
「お風呂出たらミルフィーユ豚カツ作る」
「お!」
「ご飯食べながら名前も考えよ」
「どうしたお嬢」
「なんか、気分良い」
「そっかぁ、そりゃよかった」
「義足も、考えていいよ」
「ん?」
「欲しいんでしょ?」
「あーあぁ、うんにゃ。でももういらねーよ」
「へ?」
「しんどくなったら、お嬢は俺のとこ来るだろ? 椅子の上から見るだけじゃなくて」
「椅子の上……?」
「手がな、届かないんだ椅子の上にいると」
ボロ切れ男が天井を見上げるように呟く。
腕をのばして、くっと拳を握ると、小さなため息が私の耳をくすぐった。
「お嬢からきてくれるから、もういらない」
「ふぅん?」
「風呂入る前に電話しとけよ、ミルフィーユ豚カツの材料」
「うん、今からする」
ボロ切れ男の腕から解放されると、汗臭さも無くなった。
立ち上がって、事務所に電話をしてからお風呂へ向かう。
腕まくりをしたその腕は、もう不自然なボコボコした皮膚も無くなって、ただシミになってしまった傷痕だけがあった。
お風呂場にあるのは安全刃の剃刀で、以前使っていた刃が剥き出しのものは無い。
ボロ切れ男の髭を剃るためだけに使用する剃刀を手に取って、それを私はごみ箱へ捨てた。
「新しいの、何処だっけー」
すぐ前までは鬱々とした気分で握りしめ、いつの間にか真っ赤になった腕を見て、薬を沢山飲んでは生きているのか死んでいるのかも分からない日々だった。
霞み掛かった頭は、記憶だって飛び飛びで、真っ赤になった腕を見ていたと思ったら倉庫で耳が飛んでいるのを笑っていたり、布団から飛び起きたり、今自分がどこにいて、何をしていたのかもハッキリしない、そんな毎日。
今は違う。
さっきあった事も、昨日の事だって当然のように思い出せるのだ。それが少し不思議な気分になる。
「み る ふぃー ゆ!」
変な掛け声に部屋を見れば、腹筋をしているボロ切れ男がいた。
私は顔を綻ばせながらお風呂の栓をして、スイッチを押す。
「変な掛け声しないでよ」
パタパタと彼に近づく私の足音は、きっと誰よりも軽快だ。
END...
後書きオマケ
【睡眠導入剤】
「良い話、聞きたい?」
お嬢が泣きそうな顔して俺に言った。多分、お嬢にとっては悪い話って事なんだと思う。よく分かんないけど。きっと。
「良い話?」
「うん、聞きたい?」
「んー……聞かね」
お嬢がそんな顔する話しなら、聞かなくてもいいや。だって聞いたら泣くんでしょ。絶対。
「じゃ、じゃあもう少し、後にする」
「うん? うん、話さなくてもイイけどな」
お嬢。俺の飼い主との出会いは倉庫の中だった。
堅気じゃない下っ端で、つまらないミスをした損害は結構なもんで、もちろんつまらないミスは俺がしたんじゃなくてもっと上役の人で、身代わりに埋められる予定だった。
人生短かったなぁ、なんて事は思ってなくて、そん時は痛いし熱いし苦しいしふざけんなって思ってた。多分。
ちょうど目玉を抉られた所でお嬢が倉庫見学に来て、よりにもよって俺の抉られた目玉を踏みやがった。しかもばっちぃとばかりに靴底を地面に擦り付けんだよ。思わず睨んだら笑ってんの。狂人かと思ったね。そんで何を思ったのか、お嬢は俺に聞いた。
「死にたい?」
ふざけんなお前が死ね! って、言ったつもりだったんだけどな、後から聞いたら血の混じった唾吐いただけだった。喉潰されてたしな、そん時。
どこを気にいられたのか、そんな死に損ないの俺をお嬢は拾った。
目も無い足も無い、ついでに竿も玉も無い俺を、何がしたいのか拾ったんだよこの馬鹿ご主人様は。意識朦朧だったから拾われて数日は殆ど覚えてねーけど、コレだけは覚えてる。すげぇ腹が減ってんのに看病疲れしたお嬢が途中で爆睡して俺の貴重な食事タイムが丸一日抜かれた事。あと爆睡した場所が俺のベッドに持たれかかりながらだったから、踏ん張りも利かねーのに無理してベッドまで持ち上げて、見事に傷が開いたこと。
俺の看病してたんだから、なんにも言わないけどな。
最初はな、死ななくてラッキーくらいに思ってた。所詮悪の成り上がりっつか成れの果てっつか、志しがあって入った世界じゃなかったしな。運は良いが面倒くさがりがネックだったわな。だからいつまでもチンピラだったわけだし。
拾われて命拾いできたから、後はあの手この手でなんとか楽しようとか思ったんだよ。取り入るのは下っ端に似合って得意だからな。
ところがどっこい。ご主人様はえらく儚い人だった。
もぅ見てらんねーの。自傷行為っつーのか? 隙あらば腕切り刻んでフラフラしてんだよ。ほっせェー体でさ、どこ行こうとしてんのか、ガンガン家具にぶつかりながらな。
見えてるようで見えてないんだよな。現実と頭の中がグッチャグチャになってんの。だって俺のこと何回か「母さん」って呼んだこともあんだぞ。流石に産めねーわ。竿も玉も無いけど無理。
お陰で堅気じゃない危ない主治医とはやたらと仲良くなったし、お嬢の気を紛らわせる術なんて俺に勝る奴はいないね。絶対。面倒くさがりもお嬢の前では封印。つか、進んで世話焼いてんな。何でだろうな?
そのお嬢も、俺っていう優秀なペットが出来たからか立ち直りかけてる。たまに甘えてくるようにもなった。俺得。
安定してきてからは立ち直りも早かった。甲斐甲斐しく世話したしな。でもなんでかね、今だに寝るのは嫌いなんだとよ。毎日悪夢見ては浅い眠りで飛び起きてんだから、仕方ないっちゃ仕方ないけどな。
「ねー」
「あぁん?」
「コッチとコッチ、どっちが好き?」
「スーツ? なんだ、ついに服着せる気になったか」
「まぁ、ねー」
「このままで問題無いっちゃ無いけどな、確かにあの医者が来る時位は気になるな」
「裸、嫌だった?」
「知ってっか? あの医者ホモだぞ」
「うそ!? 狙われた?」
「けつ撫でられて突っ込みたいとは言われたな」
「ど、どうしたの?」
「近くに鉄アレイあったから投げといた。あと筋トレにも力を入れた」
「うわぁ、見たかったなぁ」
「…………で? なんでスーツなんですかねー、スウェットでいいだろ」
「あーまぁ、ね」
何を隠してやがりますかね、俺の可愛いご主人様は。
日課の筋トレをしながらお嬢を見ても、困ったように笑うだけだ。なんかあれだな、調子は悪く無ぇけど、多分悪くなるなこれ。
「お嬢」
「ん?」
手招きすると、スーツを置いて近づいてくる。貧血は無さそうだな。精神的な何かか、面倒な。
「ちょっと、汗臭い」
「甘えてんだから受け止めろよ」
「甘えてるの?」
「見えねぇか?」
「眉間にシワ刻んで迫ってくる狼……は何か恰好いいな、熊みたいな感じ」
「そこは恰好いいままにしとけよ、ほれワンワン」
「何? なんなの?」
「だから甘えてんだって」
ホールドしても逃げる素振りは無し、と。んじゃ何がネックになってんだ?
「もー汗臭いってば」
「何隠してる?」
「な、にって?」
動揺はすんだよな、うーん、絶対 "良い話し" ってのが関係してるよな。んで "良い話し" はお嬢にとっての "悪い話し" って事か。
「スーツ、グレーのやつにするかな」
「あ……うん、グレーか、似合うねきっと」
声のトーンが落ちたな。どっちのスーツがってより、スーツを選ぶ行為自体がハズレだった気がする。多分。
スーツ、スーツ、スウェットじゃダメって事か? スウェットって言ったら困りはしたが苦笑いだったよな。悪い反応じゃなかった。
スウェットは良くてスーツはアウト。でもお嬢が持ち掛けた選択肢はスーツをどっちにするか…………あぁうん、はいはい。
「良い話し、断っとけよ」
「へ!?」
「俺このままがいいから」
「なっ何で? 分かったの?」
「俺が外に出るようになる話しだろ?」
「……うん」
「訂正しとけ、良い話しじゃなくて悪い話しな」
「悪い話し、なの?」
「悪いだろ、お嬢との時間が減る」
「減るといや?」
「わんっ」
最後のは答えてやんね。いや答えてるか。
俺みたいなのに、何で今更お呼びが掛かったのかは知らねーけど、この生活は気に入ったからなぁ。
「そっか、ふふ、うん」
「笑え笑え、もっとかまいたくなる」
「あーもぅ本当に汗臭い! あと髭痛い!」
「昨日剃ったぞ?」
「今日も剃りなさいよ!」
「面倒くせぇ」
「はいはい、ほらお風呂の準備するから離れてよ」
「……もーちょい」
「だめ、髭剃ってあげるから放して」
「はぁ」
「何で渋々なのよ」
このまま気分良くなってくれたら上々。でもお嬢の場合はもう一押しだな。
「風呂上がりの世話も追加な」
「は……?」
「甘えたい盛りなんだよ」
「っもう」
俺の世話で忙しくなっとけ。そしたら疲れて夜もグッスリ、悪い話しなんてすぐ忘れるって、なぁ?