徳川の麦とろご飯
尾張と三河で綿花共同栽培の会議がある日の事、たまたま参加出来る機会が得られた家康は、気まぐれで会議に参加する事にした。
会議でも度肝を抜かれる事は多かったが、その日彼が一番驚いたのは飯時の事だった。
「(平八郎、何故彼女が食事を作っておるのだ?)」
それは尾張陣営の食事を静子が作っている事だ。静子は尾張陣営のトップ、どう考えても食事を作るという下働きをする人間ではない。
しかし丹羽を筆頭に誰も彼女を止めない。むしろ若干そわそわして、出来上がるのを待っているように見えた。
「(流石は静子殿! 自ら食事を作る事で、家臣を労うとは……)」
「(うむ、お前に聞いたわしが馬鹿だったようだ)」
感激して涙を流しそうな勢いの忠勝に、生温かい目を向けた後、視線を静子へ戻す。
「静子殿。失礼とは存じますが、貴女様の料理に思量し、見学させて頂きとうございます」
「え、あ、はい。どうぞー」
近くで見学しているお陰で、麦飯を炊いている事は分かったが、すり鉢で下しているものが何か家康には分からなかった。
実は静子がすり鉢で下しているのは天然の自然薯だ。皮を剥いた芋を直接すり鉢で下し、その後出汁を加えてのばす。
味を整える為に酒、味醂、醤油、卵、味噌などを加えて汁にすれば、麦飯にかけるとろろの完成だ。
残った出汁は味噌汁を作る時にも使う。
「完成っと」
飯を盛って上からとろろをかけ、味噌汁とお新香を添えて「とろろご飯定食」の完成だ。
旨そうな匂いに家康は思わずつばを飲み込む。実際、旨いのだろう。尾張陣営の人間は、旨い旨いと言いながらかきこむように麦飯を食べていた。
(うぬぬ……欲しい! されどここで素顔を晒すわけには参らん!!)
鋼の意志で食欲を押さえこむ家康に、何も知らない静子は悪意のない追い打ちをかける。
「お二人も如何ですか?」
「ぐむっ! そ、某は――」
「頂きます!!」
再び揺らぎかけた家康の言葉をかき消して、空気を読まない益荒男・本多平八郎忠勝の声が響き渡る。
家康の殺気が忠勝に向けられたのは言うまでもない。しかし彼は自分に向けられる怒気を感じない程度には舞い上がっていた。出された麦とろご飯を、一心にかきこんでいた。
(平八郎ッーーーーー!!!)
固く握り拳を作った家康は空を仰いで、一つ息を吐いてからこう言った。
「某、身体を患っております故、皆様に顔を背けて食す事をお許し下さい」
麦とろご飯の匂いに、機が熟するまで辛抱強く待てる家康の鋼の精神はついに陥落した。
「それは仕方ありません。気にせずどうぞー」
彼は麦とろご飯定食を静子から受け取ると、忠勝を背にして腰を下ろす。そこでようやく頭巾の前だけを外した。
瞬間、麦とろご飯の匂いに辛抱たまらなくなった家康である。
「静子殿、旨いであります」
遠くから家老が下品な食べ方を諌めるよう睨んでいるが、家康は無視して周りと同じように麦飯をかきこむ。
(ああ……たまらぬ)
晴天の下、なんとも言えぬ開放感を感じた家康は、その後麦とろご飯を三杯おかわりした。
後日家康が忠勝に、あの時の麦とろご飯のレシピを、静子から聞き出すよう命じたのは言うまでもない。