千五百六十七年 五月上旬
その後、三河武士たちは丹羽の屋敷を辞去すると帰途についた。
そして轡を並べて馬を歩かせながら三河を目指す。真ん中を忠勝、右を康政、左を正重、周囲を彼らの部下が囲っていた。
真ん中の忠勝はどんよりとした濁った眼をしたまま押し黙り、まるで通夜のような重苦しい雰囲気を辺りに漂わせていた。
「まぁ元氣を出せ」
暫く無言で馬を歩かせていた三人の内、最初に重い沈黙を破ったのは康政だった。
彼は前を向いたまま隣にいる忠勝に言葉を投げる。
「う、うむ……ま、まぁ共同栽培が成立すれば、七日に一度は顔を合わせる事になる」
仮に尾張国の信長と、三河国の家康が共同栽培に合意すれば、三河側は忠勝を、尾張側は静子を代表者に任命するだろう。
と言っても共同栽培というより、静子が量産するための栽培方法を確立し、それを忠勝が三河国へ持ち帰るだけだが。
「某は学がない故、もしもの時はよろしく頼む」
「まぁあの娘の説明が本当なら、決して悪い話ではない。何よりも……そうだな、あの娘が人を騙すような人物には思えぬ」
同調するように正重が頷く。忠勝が惚れている女だから、どんな女傑かと興味がてら彼に着いてきた二人だが、会ってみれば予想を遥かに超える人物だと思った。
何しろどう見てもその辺りの村娘にしか見えないのだ。よく言って純朴、悪く言えば間抜けそうな小娘が、彼らの嘘偽りない感想だ。
「静子殿はそんな真似などせぬ。あの娘の心は、清水の如く清らかに澄み渡り慈母のような慈しみを分け隔てなく与えるお天道様のように輝いておる」
「……まぁ、貴様がそれで良いというのなら、構わぬのだが……な」
「当面の課題は、どうやって殿を説得するかだな」
「ま、それは拙者らが気に病む必要もあるまい。我が殿と織田尾張守殿がどう決めるか、だ」
そうそう、と呟いた後、康政は気軽な雰囲気でこう続けた。
「それまでに手柄を立てて一廉の武士にでもなれば、あの娘も振り向くやもしれぬぞ?」
「それだ!」
予想以上にでかい忠勝の声に、康政と正重、周りの部下がビクリと背筋を震わせる。
だが忠勝は気にする事なく、両手を力一杯握り締めながら言葉を口にする。
「某が強くなり武勲を経て立身出世すれば良いのだ! うむ、そうと決まれば特訓だ!」
「あ、いや、な……?」
暴走している忠勝に声をかけた康政だが、既に彼の声は忠勝の耳に届かない。
何故なら、忠勝は馬をいきなり走らせたのだ。
「こうしてはおれん! 者共! 急いで三河国に戻るぞー!」
「ほ、本多様ー!?」
一人暴走する忠勝に何人かの人間が慌てて追いかける。康政と正重を守る部下は、オロオロしながら康政と忠勝を交互に見る。
「放っておけ……」
疲れたようなため息を吐いた後、康政は動揺する部下に向かってそう言った。
中身が分からぬとはいえ、静子の黒歴史ノートを垣間見た彩はその事をどう報告するかで悩んでいた。
結局『何が書かれているか不明な書を所有している』という報告しか上げることができなかった。
だがそれに対する森可成からの返答は至極簡潔であった。
『暫く監視は止め、静子殿の身の回りの世話に尽力せよ。それから静子殿の所有物は全て返すように』
内容に困惑した彩だが、たかが一匹の間者程度に森可成や信長が全容を話す事などない。
故に信長の言を伝えた森可成の二言目は『身の回りの世話に尽力せよ』だった。
信長は静子から情報を無理やり聞き出すよりも、相談という形で技術を引き出し、ある程度軌道に乗った所で自身が引き継ぐ方が効率的と理解した。
一見して信長は利益のみを享受している様に見えるが、実際はその技術が他国に漏れたり、自身の領土を狙われたりするデメリットも受けている。
むしろより多くの利益を得ているのは静子の方だ。
彼女は信長の庇護の下で、裏方に徹することで自身の能力を存分に発揮できる環境を与えられている。
戦国の世において女性一人が衣食住に不自由することなく安穏と暮らすことができる環境というのは得がたいものであった。
仮に命を狙われていても、信長が矢面に立ち対処してくれるお陰で労せず身を守る事が出来るのだから。
森可成は彩へ命令を出した後、信長に現状報告をしに彼の居城へと足を運んだ。
「静子が秘密裏に進めている計画は順調か」
報告をしに来た森可成へ信長は開口一番、そう質問する。
「はっ、内容が内容なだけに、おいそれと尋ねられませんが、先日の返答は『良好』との事でした」
「そうか、順調か。くくっ、全く奴にはいつも驚かされていたが、この計画はわしをして心胆寒からしめるものがあったわ。まさかわしの元に来た時から、そのような事を考えていたとはな」
「私も材料から何が出来るか想像がつきませんでした。しかしこの計画が成功すれば、彼女の厚遇ぶりに不満を持つ者たちも口を噤むことになるでしょう」
静子は尾張譜代衆の森可成の配下だが、実態は信長の直臣に近い。
つまり場合によっては一族一門衆の親族や子供、森可成や乳兄弟の池田恒興や重鎮の柴田勝家などの尾張譜代衆に並ぶ場合がある。
女で、しかも身長が高い(戦国時代はどんな美女でも、背が高いというだけで醜女扱いされる)、おまけに婚姻をしていない行き遅れなのにもてはやされている、とくれば面白くないと思う人間が出ても不思議ではない。
実際、彼女の知らない所で何度も静子の扱いについて信長に直訴した者はいる。
そのたびに信長は『才ある者は老若男女問わず。主張を通したければ奴以上の才をわしに示せ』と返答した。
つまり『文句があるなら静子が不要と思えるぐらいの才能をわしに見せてみろ』である。
「奴が門外不出の技術をどこで手に入れたか分からんが、その技術を引き継ぐに足る人材を集めておけ」
信長は森可成にそう命じた後、小さく杯を傾けた。
美濃攻略から一ヶ月後、ようやく美濃平定が落ち着いた信長は特定の家臣たちに命令を出す。
しかし今回は戦ではなく、美濃攻略時に特別功を上げた者のみを集めた慰労の酒会を開くだけだ。
その関係で静子の村、及び周辺は物々しい雰囲気になっていた。
何しろ呼ばれたのは森可成を筆頭に、木下藤吉郎秀吉、柴田勝家、滝川一益などの、後の織田軍を支える武将たち。
黒母衣衆筆頭の川尻与兵衛秀隆、赤母衣衆筆頭の前田又左衞門利家、信長の馬廻衆である布施藤九郎、朝日孫八郎。
美濃攻略時に関わっていないが、度々織田軍を苦しめた知略を持つ竹中半兵衛重治が特例として参加者に加えられた。
そうそうたるメンバーだ。
歴史に名を残す武将や参謀たちが一堂に会する中、非現実的過ぎて現実感がない静子はのん気な顔である事をしていた。
「本日の主菜は、南蛮料理の天ぷらでーす」
それは天ぷらを作る事だ。
菜種油がようやく採取出来た為、彼女はその出来栄えを確認しようと考えた。
油といえば揚げ物、だがコロッケやトンカツに必要なパン粉が用意出来ないので、メニューを天ぷらに変更した。
「くふふ……生産者ならではの特権よね。大量に油を使うなんて、この時代じゃ贅沢だもん」
材料は魚介類を取り扱っている出入りの商人から、今朝釣れたばかりのハゼとキスを生きたまま海水ごと桶に入れて取り寄せさせた。それから自前で用意した幾つかの山菜と薩摩芋だ。
ハゼは見た目が不気味であり、キスは背中が普通に知っている海魚と違う色をしている、と商人は気味悪がっていたのでかなり安く手に入った。
「静子様、何をされるか存じませんが、少しは落ち着いて下さい」
「う、ごめんね。天ぷらなんて久しぶりでね……お、いい感じに温度が上がったね」
全く反省してない言葉を口にしながら彼女はネタを油の中に投入する。
瞬間、油で揚げる音が盛大に響き渡る。余りの音に普段冷静な彩が珍しく取り乱した。
「し、静子様! な、何やら凄い音がしていますよ!」
「落ち着いて、落ち着いて、どうどう……そりゃ揚げてるもん、それなりに音はするよ?」
若干パニック気味な彩を落ち着かせた後、彼女は次々と衣を絡めた素材を油に入れてゆく。
皿に小山をなしている湯気を立てる天ぷらに若干腰が引けていた彩は、おそるおそる質問を口にする。
「これ……は?」
「南蛮料理天ぷら。油で揚げる料理だよ」
「揚げる……? 料理は蒸す、煮る、焼くの三種類だけですが……?」
「んにゃ、揚げるや炒めるって料理方法もあるよ。まぁ揚げるは、見ての通り大量の油を使うから、そう簡単には出来ないけどね」
「は、はぁ……」
いまひとつ理解が追いつかなかったのか、彼女は生返事を返す。
そうこうしている内に、静子の手によって全てのネタは天ぷらへと変貌した。
「ふっふっふ、これで日ノ本初の天ぷらを食べた人になれるね!」
「ほぅ、貴様はそんな大それた事を考えていたのか」
大皿を天高く掲げていた静子の動きが止まる。錆びついた機械のように首を動かしながら、声のした方へ顔を向ける。
「ホホホ、流石殿のお気に入り。中々面白き女子ですね」
そこにいたのは楽しげな笑みを浮かべた信長と、見知らぬ女性だった。
年は二〇代後半から三〇ぐらい、着物は華美だが決して嫌味が感じられない、髪型は垂髪という風貌だった。
明らかに高貴な身分なのは分かるが、肝心の名前が思い浮かばなかった。
そもそも近年まで歴史に女性の名が残るのは稀であり、仮に残っていたとしてもたいていは通称で残るに留まる。故に静子が女性の名が分からなくても仕方ない。
冷静さを取り戻した静子は大皿を近くの机に置くと、ホコリを払ってその場に平伏した。
身分や名前が分からぬとも、信長とともに行動している時点で、かなり身分の高い女性だと彼女は考えた。
「静子、面をあげよ。そしてその黄色いものは何か説明せよ」
だが静子の考えなど意に介さない信長は、扇子で天ぷらを指しながらそう尋ねる。
「な、南蛮料理の一つ、天ぷらでございます」
天ぷらは南蛮料理を祖とするが、「素材に衣をつけて油で揚げる」という料理法自体は、奈良時代や平安時代に米の粉などを衣にした揚げ物料理が伝来し、精進料理や卓袱料理などによって日本で確立されている。
一方十六世紀に南蛮料理から派生した「長崎天ぷら」が登場する。
これは小麦粉を水で溶き、砂糖、塩、酒などの調味料を加えた衣を纏わせて油で揚げる。衣自体に濃い味付けがされているため塩や天つゆなどは付けずに食べるものであった。
しかしある時、南蛮料理を祖とする天ぷらと昔からある揚げ物料理が混同されてしまったために、古くから起源や語源に混同が見られる。
それらの経緯もあり、今でも西日本では魚のすり身を素揚げしたもの、いわゆる「揚げかまぼこ」も天ぷらと呼ぶ地域がある。
余談だが現代の天ぷらとほぼ同じものが文献等の記録に登場するのは、寛文十一年(1671年)まで待たなければならない。
江戸幕府が開かれたのが慶長九年(1603年)であることを考えると百年近く時代を先取りしたことになる。
天ぷらの語源に関しては様々な説があり、どの説が正しいのかはっきりした事は分かっていない。
一節にはポルトガル語で「四季の斎日」を意味する「テンポラ」が語源という説もある。
四季の斎日とは季節のはじめの三日間に祈りと節食をする、ローマ教会独特の習慣だ。
この期間中、ローマ教会の信者は肉を食べる事が禁じられるため、期間中は魚などに小麦粉の衣をつけた料理を食べていた。
この料理が日本に伝わり、「テンポラ」が「天ぷら」になったと言われている。
つまり静子の説明は微妙に間違っている。
彼女の知っている天ぷらは、長崎天ぷらを江戸の料理人が「江戸の三味」の一つになるまで改良した江戸料理だ。
その調理法が各地に広がり、最終的に伝来時の原型を留めていないという意味での日本料理の代表的な一品となった訳である。
とは言え、歴史に詳しいと言っても料理の歴史まで詳しいわけではないので、彼女が天ぷらイコール南蛮料理と考えたのも無理は無い。
「ホホホ、南蛮料理とは珍しいものを作るのぅ」
口元を手で隠しながら笑う女性が信長より前に出ると、彼女は迷いなく天ぷらが盛られた皿の前まで移動する。
そして静子や、信長や彼から更に後ろにいた女中が何か言う前に、女は箸を手に取って天ぷらを一口食べた。
「……ふむ、表面のものは歯ごたえがあるのに、中にあるものは柔らかい。二つの歯ごたえが何とも言えぬ食感を出しておる」
「の、濃姫様! そ、そんな毒が入っているやもしれませぬものを!?」
(濃姫って信長の正室じゃない!?)
思わず濃姫に顔を向けた静子だが、当の本人は周りの視線など歯牙にもかけない。
「殿のお気に入りが妾を毒殺か、それもまた一興。女子、名は何と申すのじゃ?」
「うぇ! は、はい! 静子と言います!」
「静子、今日より妾に仕えよ」
それが自然の摂理の如く、濃姫はいとも簡単に問題発言を口にした。
はいとも、いいえとも言えない静子は、助けを求める視線を信長に向ける。
「静子はやらん。コヤツにはまだまだ働いてもらわねばならんからな」
呆れたようなため息を吐いた信長だが、嫌そうな表情をしてはいなかった。
むしろ濃姫との会話を楽しんでいる節もある。
「おやおや、殿方の嫉妬は器量を疑われかねませぬ」
「ふん、何とでも言うがよい。ともかく、貴様に静子はやらん」
信長と濃姫、一見して夫婦仲は悪そうに見える。
しかし二人の雰囲気を感じた限り、夫婦仲はそれほど悪くないように静子は感じた。
濃姫は緊張感のある会話を楽しんでおり、信長は緊張感のある会話で心地よい張りを得ていた。
取り方によっては夫婦仲良好、とも言える。
(胃が……胃に重圧が……ッ!)
だが二人の会話は周囲にとってはハラハラの連続で、とてもではないが気の休まる時がない。
「まぁこの女子とは長い付き合いの予感がしますし、機会など幾らでもありましょう。殿、妾にこの女子を取られぬよう、ゆめゆめ注意なさいませ」
信長をからかう事に満足したのか濃姫はにっこりと微笑んだ後、台所から立ち去った。
「あやつめ。静子、後で話がある。準備しておけ」
「は、はい」
静子の返事に満足そうに頷いた後、信長も台所から立ち去った。
「ふーむ、色々と質問攻めにあうだろうけど……まずは天ぷらを食べるかー」
そんなのん気な事を呟く静子は、後に壮絶な後悔をする。
簡単に「はい」と返事をするのではなかった、と。