千五百六十七年 一月下旬
正月三が日が終われば特にイベントもなく、冬の野菜や菜種油用の栽培を続けるだけだった。
ようやく玉ねぎの生産も軌道に乗り始め、食用として少しだけ確保出来るようになった。
だが依然として種苗と耕地が不足しており、本格的な増産は望めない状況だった。
静子は自身が生産管理しているものを列挙してみた。
野菜はとうもろこし、ニラ、かぼちゃ、ナス、トマト、だいこん、ネギ、レタス、里芋、小松菜、金時ニンジン、カブの一二種類。
軍需物資として米、大豆、シイタケ、蜂蜜、サトウキビ。非常食として薩摩芋。更には独自の養鶏場で鶏の肉と卵。油となる菜種と疲労回復に最も効く食べ物である玉ねぎ。
規模は小さいが養蚕による絹糸生産と、桑の葉を使った桑の茶葉、そして桑の実。
人口僅か100人程度の村が作付けする規模を考えると、当時としては規格外の多さと言えるだろう。
「いや、よくよく考えてみると結構種類があったんだね」
自分の村で生産しているものを一覧に纏めた静子は、どこか感慨深い面持で頷く。
村を一つの共同農場として捉えれば、現代社会においても一拠点でこれだけの品目を生産することは稀であるが、彼女は自分の努力の結果が出たことを単純に喜んでいた。
「これが結構か……? 俺の目には明らかに異常だと思えるのだが」
囲炉裏の灰の中に埋めていた焼き芋を掘り出しながら少年がそう呟く。
「そうなの、茶丸君? 私としてはもうちょっと生産量を増やしたい所だね。特に絹糸関係を増やしたいかな」
茶丸と呼ばれた少年だが、勿論これは偽名で本来の名前は奇妙丸だ。
父親である信長の言いつけ通り、彼は立場や身分を隠して静子に接近し、今ではこうやって軽口を叩ける程度の関係を築けていた。
これには彩も一役買っているのだが、彼女も少年が信長の息子である奇妙丸だという事は知らない。
静子が知らされているのは信長の血縁者という事実と、信長の兄弟の息子だという嘘だけだ。
流石に信長の親族を無下にする訳にもいかず、最初は訝しげに思いながら静子は彼と接していた。
だが数日もすると彼女は奇妙丸を受け入れて、今では警戒心ゼロで家にあげるほど彼を信用しきっていた。
「しかしまぁよくもこれだけ手がけられるのぅ。これだけあると……お館様はさぞかし喜んでいるじゃろうな。まぁそんな事はどうでもよく」
そう言って話を脇に退けると、彼は幾分真面目な顔つきになりこう切り出した。
「仮の話じゃが……もし静子が天下をとるならば、一体どういう方法で取るのじゃ?」
「藪から棒に何の話? 子どもにそういう話はまだ早いんじゃ」
「天下を夢見ぬ益荒男などこの世におらぬ。まだ元服してはおらぬが、戦場に出られるようになれば敵を斬って倒して、ひたすら戦い続ければいつかは天下が手に入る。最近までそう思っていた」
そこで言葉を区切ると、居住まいを正した奇妙丸は静子をしっかり見据えてから続けた。
「だが静子から孫子の兵法の内容を聞く度に俺は思う。果たして戦い続けるだけで天下はとれるのか、と。その悩みを解消するためにも、貴様ならどういう方法で天下をとるか聞いてみたい」
「うーん……(戦国時代をモチーフにした戦史ゲームの攻略法みたいなことを言えばいいかなぁ……)」
腕を組んで静子は考える。
そこまで兵法書に詳しいわけではないし、天下をとるなんて考えた事もないから、すぐに答えはでなかった。
しかし奇妙丸の熱意を目の当たりにした彼女は、何かしら助言できることがないかと考えた。
若干悩んだが、ふと以前遊んだ歴史シミュレーションゲームの内容を彼女は思い返していた。
「……損害や問題を無視して大雑把に言うけど、私ならまず畿内……つまり京を押さえるかなぁ。それと同時に搦手で地方の農村に対して飼い殺し作戦を行う、かも?」
「何故疑問形なのじゃ?。ともあれ、なるほど京をまず押さえるか……して、その理由は」
「まず京にいる天皇の権威を取り戻す所から始める。確か数十年前に即位した一〇三代目の後土御門天皇は、天皇という存在の無力さに絶望して『辞めたい』とこぼしたほどだから、今もなお天皇の権威は地に落ちているはず。まずその権威を復活させる事で、国内にいる全ての国人に『天皇の権威、未だ衰えず』と知らしめる」
現代と比べて戦国時代や江戸時代の武家社会は、血筋というものが非常に大事で神格化されていた。
正当な血統を持つ、というだけで強い武将が集まるほどだ。
三河の山奥の土豪である徳川家が、わざわざ先祖は清和天皇の子孫、つまり源氏の血筋を引いていると名乗っていたのも、征夷大将軍には源氏の姓を持つ者しかなれなかったというところがある。
天下統一を果たした豊臣秀吉も、平家の末裔という事になっていた。そういう名乗りをしていたため、高名な武将の家系図は殆どデタラメだった。
だが血統の正当な中心に居るのは必ず天皇だった。
「後は権威が復活した天皇より正式に征夷大将軍に任命されれば、その時点で殆どの国人は歯向かうなんて考えなくなるよ。何しろ天皇から下賜された権威と地位で、支配を正当化出来るからね。逆らえば天皇に剣を向ける事になり、四方八方全てが敵になるよ。下手をすれば信頼している腹心にすら裏切られるでしょうね」
「しかし天皇や上皇にそれだけの価値があるのか? 言っては悪いが……もはや没落した室町幕府と同格だぞ」
「室町幕府はたかだか二〇〇年程度。対して天皇家は一〇〇〇年以上もの悠久の刻の流れを生き続けた一族だよ。もしも茶丸君がこの日の本に限らず南蛮をも見据えているのなら、長い歴史を持つ王族や皇族は絶対に必要だよ」
その言葉に奇妙丸は最初ギョッとした後、ばつが悪そうな顔をして後頭部をかいた。
「……いつから気付いておった」
「途中からなんとなく、だけどね。茶丸君は今までこういう事、真剣に話さずに軽い雑談程度にしてたもん」
「ちぇ、思わず熱が入りすぎたか、失敗したな。ま、この話を父上に話して俺の手柄にしようと画策していたが諦めるとするか。はっはっはっは」
静子に計画を見破られた奇妙丸だが、本人は特に気にするでもなく快活に笑っていた。
「しかし先ほどの話は興味深い。天下をとる計画、それを考えるのも悪くないかもしれん。武経七書の話も良いが、たまにはこういう夢を語るのも良いだろう?」
「(私は興味ないんだけどねぇ……まぁゲームみたいで気分転換にはなるか)彩ちゃーん、『地図』を持ってきてー」
少しして『地図』が彩の手によって部屋に運ばれてくる。
『地図』と言っても大雑把に日本の形が書かれているだけで、正確に山や川の配置を書いている訳ではない。
それでも他の国人が秘蔵しているものより正確に書かれているが。
「日本の形は前に説明したよね。ここが現在の私たちのいる場所、ここが京……ここがお館様が今攻めている美濃ね」
印代わりに適当にカットした木の破片を地図の上に置いていく。
贅沢を言えばもっと大型の紙が欲しかったが、手に入るだけでも御の字と思う事にした。
「先ほど静子はこう言ったな。畿内を素早く制圧し、それ以外は搦手である飼い殺し作戦に出ると。畿内を攻めるのは分かる。京、それに堺を手中に収めれば、それだけで天下に近づくからな。だが飼い殺し作戦というのがよく分からぬ」
「……そもそも、茶丸君は戦についてどのぐらい知ってるの?」
そう問いかけた静子だが、勿論彼女も戦国時代の戦について深く知っている訳ではない。
しかし彼女には戦場に出た経験はなくとも、それを記した書物から得た知識がある。
「戦とは武功を上げる場所だろ? いくら俺でもそれぐらいは知っている」
「ああ、うん。全然知らないのは分かったよ」
戦場における軍勢の中で武士が占める割合は一割から二割程度で、残りの八割から九割は足軽や百姓(雑兵)であった。
そして軍勢の中で全員が戦に参加する事はなく、荷物運搬や土木工作などの人夫や小姓、専門職などの非戦闘員も含まれていた。
更に言えば軍隊相手に商売をする商人も一緒に付随していた。
つまり軍勢五万などと歴史書に記載があったとしても、実際に戦う兵士の数は多くても五割程度だ。
一〇〇〇人ほども死傷者が出ると軍としては大損害、というのはこういう事情がある。
「武功を上げたいのは武士の人たちだけ。残りの足軽や雑兵の目的は殆どそれ以外なんだよ」
「……それは?」
「生きるための稼ぎを手に入れる、それだけだよ」
敵将の首をとったり、城などを落として武功を上げたいと思うのは武士の人たちだけだ。
では残りの雑兵たちが欲するのは何か、それは自分が生きるための稼ぎを手に入れる事だ。
故に戦場で雑兵たちは焼き討ち、掠奪、乱暴狼藉、その他色々な事を働いて、その分捕り品を自分の稼ぎにしていた。
それを生業とする商人も存在しており、流通市場も出来ており、場合によっては合戦後に人身売買の市が立てられる事もあった。
戦場によっては食うに困るあぶれ者、野盗や山賊なども混じり略奪行為が行われた。
戦国大名たちも乱暴狼藉を黙認したり、敵城を攻め落とした後の兵への褒美としていた。
むしろ略奪行為によって領国が豊かになるので一石二鳥であり、推奨する戦国大名がいたほどだ。
それほど当時では合戦後の狼藉は常識で、悪事とは見なされなかった。
「……」
戦場にどこか華やかな夢を見ていたのか、奇妙丸は幾分ショックを受けた顔をしていた。
それを見た静子は慌ててフォローをする。
「ま、まぁそこまで凄惨なのは稀で、ね。と、とにかくそこを逆手に取るんだよ、飼い殺し作戦は」
「逆手に……?」
「うん。雑兵たちが命がけの戦場へと向かう理由は、自分たちが生きていく為に必要と思ってるからだよね。じゃあ、そもそもそういう事をする必要がなくなったら……?」
少し考えて理解が追い付いた奇妙丸が、目を見開いて言葉を口にする。
「そもそも戦場へ行こうとしなくなる?」
「そういう事。雑兵は村の規模によっては強制的に徴発されるけど、食べるのに困ってなかったら家族も働き手を失う可能性がある戦場には送り出さないでしょう?」
「なるほど。確かに雑兵たちの立場からすれば……ん? もしかしてこれが孫子の兵法であった『戦わずして勝つ』か!?」
ようやく合点がいったと言わんばかりに、奇妙丸は両手をポンッと叩いた。
「雑兵たちに食い扶持を与え、徴兵を嫌がるようにする。そうすると国人にとっては戦をしたくても雑兵が集まらず、困った状態になる。静子の話では軍勢の殆どを雑兵が占めるから、そうなると相手の戦力は格段に落ちるだろうな。いくら強い武士がいようとも、その人物だけで万の兵に立ち向かうのは無謀であろう」
「更に言えば、農村への食料供給を断つと彼らとしては非常に困るよね。で、供給できない原因がその地を治める国人にあると言えば彼らの怒りはどこへ向かうかな?」
「もはや国として形を成せぬな。そこへ我が軍門に下るよう交渉をすれば、兵を失わずに国を取る事が出来る」
「(まぁ現実にはそんな簡単に行かないけどねー)遠い所は地図で言えばこの辺り……畿内より遠い場所は、基本的に農作技術が低くて常に飢餓状態なんだよ。だから皆、戦争をして自分の食い扶持を確保しようとする。または戦争して人を減らそうとする」
静子は四国、九州、東北地方などに小さな石を置く。
「その上、この辺りはこちらから出向くとかなり遠いよね。戦をする前から莫大な費用がかかっちゃう。それよりは流通市場を作り上げ、彼らから戦う理由そのものを奪うほうが結果的には安上がりだよ。その土地を支配した後も、経済支配は続けられるからね」
「ほぅほぅ、流石は静子だな。着眼点が俺や父上と全く違う。しかも小憎らしいほど説得力があるな。まぁ問題があるとすれば父上は癇癪持ちゆえ、こういう気の長い話を理解してくれるかどうか……」
そんな事を呟く奇妙丸を静子は胡乱げに見つめていた。だがすぐに彼は信長の血縁者だった事を思い出した。
恐らくここでの話を得意げに、さも自分が考えたことのように親や世話役の人に語っているのかもしれない。
(まぁ子どもの言う事だから、あんまり相手にしてる人いないと思うけどなー)
所詮子どもの戯言と周りが片付けると静子は考えていた。
だから昔よく考えた『この時、自分ならこうするだろう』、という『歴史のIF話』を茶丸に語っている。
孫子の兵法などの武経七書も彼女独自の解釈ではなく、昔読んだ本の解釈を分かりやすく纏めて聞かせているだけだ。
それら全ては自分と茶丸の間で終わる話だと、静子はそう認識していたから、気兼ねなく教えていた。
その認識が大きな間違いであるとも知らずに。
信長は奇妙丸が静子から聞き出した『孫子の兵法』を読んでいた。
本来の『兵法』は一〇〇編近くあって難解なのだが、それを魏の武帝である曹操が一三編に整理編集し、注釈や解釈を入れたのが『魏武注孫子』、つまり今日の『孫子の兵法』である。
そこから更に例などを追記したものが、静子の頭の中に入っている『孫子の兵法』だ。
(驚きという話ではない。これほど優れた兵法書が明に存在していたとは……)
闘いの本質とは何か、を記載している『孫子の兵法』は、信長の戦に対する考えを一新するに至るほどの衝撃だった。
(確か静子は奇妙丸にこう言っていたな。『兵法書』を鵜呑みにしてはいけない。それを自分の中でまとめ上げ、実践できなければ宝の持ち腐れだ、と)
たとえ『孫子の兵法』であろうと、ただ読んだだけでは意味はない。
という内容の注意を受けた、と奇妙丸は報告してきた。なるほど、と兵法書を読んだ信長は思った。
信長は報告書をめくる。そこにはこう記されていた。
『戦は国家の重大事である。勝算なき合戦を避け、慎重に対処するべし。そして戦をするなら戦わずして勝ち、敵を味方にする事こそ至上とするべし』
簡単にまとめると『戦争は国民の生死、存亡が掛っている故、国家の重大事と考えるべし。負けると分かっている戦は避ける事。もし戦争をするなら戦をせず勝利をし、敵を丸ごと味方にする事が最上の策である事を心掛けよ』だ。
他にも『兵站こそ生命線』や『間者は戦の中で最重要員』、『戦において情報は第一と心がけよ』等書かれた報告書が置かれていた。
(これらは確かに素晴らしい。だが、やはり最も恐るべきは間者についての報告だな)
どれを取っても織田家の家宝扱い出来そうな資料になるが、特に恐るべきは間者の例を書いた報告だった。
例題は武田信玄。それによれば、信玄は情報収集を重要視し、「三ツ者」とも「素破」とも呼ばれる隠密組織を用いているとの事だ。
組織の人間は僧や商人など様々な人間に扮し、諸国で情報収集を行っている。
また、身寄りのない子供を引き取ったり、人売りから買ったりした少女を集め、間者の術を仕込み、表向きは「歩き巫女」にして全国に配備し諜報活動を行わせる。
収集された内容は多岐に渡り、その国の内情や家臣の動向、保有兵力、城主の能力や趣味嗜好、城や砦の造りなどだ。
信玄は収集した情報を分析し、調略に用いる事で自国に有利な合戦を繰り広げ、常勝軍団を作り上げた事も記載されていた。
これが武田信玄が「足長坊主」と異称されているカラクリだと分かった瞬間、信長は天地を揺るがす衝撃を受けた。
だが武田に関する内容はそこで終わっていない。
別の紙束には、武田氏の戦略・戦術を記した軍学書『甲陽軍鑑』の内容が記載されていた。
これらの内容は、奇妙丸が自身の屋敷に静子を招待した時に記録された内容だ。
そして食事の席で、彼女は奇妙丸に勧められるままお酒を飲んだ。
程なくして酔いがまわり上機嫌になった彼女は、急に武田の事を語り出したのだ。
その内容が武田の情報収集、そして『甲陽軍鑑』の二つだ。
後日、信長が静子へ『飲酒禁止令』を出したのは言うまでもない。
信長は静子が酒の席で語った内容と、自身が得ている情報を照らし合わせた。
幾つか不明確な所はあるものの、限りなく事実に基づいた報告だと信長は理解した。
(……武田の側近ですら知らぬ事を、あの小娘がどうして知っているかは謎だ。だがこの情報が真であるなら……いや、今は考えるのはよそう)
だがそこまで理解した上で、彼は武田に対して手を出す事をよしとしなかった。
今まで通り細心の注意を払いつつ、武田や上杉家に対して贈物を献上して親密な関係を維持するべきと彼は判断した。
(報告書が真か否かに関係なく、今しか出来ぬ事以外に目を向けるべきではない。この報告の真贋を確かめ、活用するのはその後で良い)
信長は最後の紙を見ながら小さくほくそ笑んだ。
そこにはこう書かれていた。
『武田徳栄軒信玄。不治の病を患っており、もって六年から七年程度』