千五百八十年 四月下旬
兵庫津で受けた衝撃の余韻が冷めやらぬまま、島津一行は京へと向かった。
会談の地が信長の居城たる安土ではなく京であることに、歳久は僅かな違和感を覚えたが、帰路の負担が減るならばと楽観的に捉えることにした。
数日も経てば、当初の困惑は「諦めにも似た慣れ」へと変じ、京に到着する頃には、彼らは織田の理をなかば受け入れ始めていた。
「会談は明日との由。なれど相手は織田、直前で差配を翻し、こちらをじらす可能性も捨てきれませぬ」
宿で一息ついた歳久は、険しい表情を崩さぬ義弘に声をかけた。
義弘が不機嫌なのは、この宿が静子の手配によるものだからだ。
当初は反発した義弘だったが、歳久の「また同じ無様(銭の不通用)を繰り返す気か」という一喝に、渋々ながら毒気を抜かれたのである。
「兄者、まだ納得が行かぬか」
「そうではない。奴らの情けに縋らねば一夜の宿すらままならぬ、己の不甲斐なさが歯痒いのよ」
「案ずるまでもありませぬ。ここは敵地の京なれば、織田の眼は至る所に光っておりましょう。不案内で右往左往して隙を晒すより、どっかりと腰を据えて構えておれば良いのです」
歳久の言葉に、義弘はようやく短く笑い声を上げた。肩の力を抜き、弟の方へ向き直る。
「確かに、いつまでも些細な不満を口にするのでは島津の将として見苦しいな。ならば織田に見せつけるが如く、存分にふんぞり返ってやろうではないか」
「その意気ですよ」
こうして、島津にとって束の間の安息は終わった。
翌日、正午を回る直前に案内の役人が訪れ、会談の場が整った旨を伝えてくる。
わざと非礼な振る舞いをしてこちらを揺さぶったり、土壇場での延期を申し渡されたりすることを覚悟していた歳久は、拍子抜けするほどに丁重な対応に戸惑いはしたが、長居をして薩摩を空けるよりは得策と思い直し、すぐさま義弘と共に宿を発った。
案内されたのは二条城ではなく、その付近に構えられた広大な屋敷であった。一見して個人の邸宅だが、その威容は平城を彷彿とさせ、張り詰めた空気は、そこに「重要人物」が座していることを無言のうちに示していた。
(こやつら……できる)
門を固める衛士、庭を二人一組で巡回する兵、その一挙手一投足に寸分の隙もない。
引き締まった体躯と、射抜くような視線、そして微かに漂う血の匂い。
薩摩の精鋭と比べても遜色のない、修羅場を潜り抜けた手練れどもだ。
義弘は、これほどの練兵を従えられるのは信長本人をおいて他にないと確信した。
「ひとつ、手合わせをしてみたいものよ」
義弘が低く、地を這うような声で歳久に耳打ちする。
「兄者、その物騒な物言いは控えてくだされ。その騒ぎで会談が頓挫すれば、私は本国の又三郎兄者(長兄の義久のこと)と又七郎(末弟の家久のこと)に吊るし上げられまする」
「仕方なかろう。強者を見て腕が鳴らぬようでは、薩摩隼人の名折れじゃ」
不穏な会話を交わしながら、二人は会談の間にほど近い控え室へと通される。
案内役の小姓はここで待つように伝えると、さっと一礼をして立ち去った。
歳久はその洗練された所作に目を見張る。先刻の物々しい会話も耳に入ったはずだが、噯にも出さずに己の職責を全うしていた。
「うちの荒くれ者どもと、一人くらい交換したいものですな」
「……お主も、さっきのわしと大差ないことを申すな」
「兄者と違い、私はただの感嘆です。他意はありませぬ」
良く回る口だと呆れながらも義弘たちが雑談に興じていると、小姓が戻り入室の許可が下りた。
二人は居住まいを正し、武士としての矜持をその身に纏う。
媚びる必要はないが、侮られるような醜態は見せられない。
襖が開けられた。二人は同時に一歩を踏み出し――そして同じくその場で立ち尽くした。
「遠路はるばる、よくぞ参られた。九州よりの長旅、さぞかし難儀であったろう。まずは大儀であった」
上座に鎮座していたのは、天下人・信長その人ではない。
豪奢な打掛を纏い、泰然と微笑む静子の姿がそこにはあった。
硬直は一瞬、すぐさま平静を取り戻した二人は前へ進み出たが、その心中は対照的である。
歳久は静子の本質を見抜かんと目を凝らし、義弘の体からは抑えきれぬ怒気が陽炎のように立ち上っていた。
(舐め腐りおって……!)
義弘は信長からの書状にて、先に静子へ面通しを行うと記されていたのだが本気にはしてなかった。
信長と釣り合いが取れるよう、無理を押してまで二人で赴いたのだ、流石にこちらの乾坤一擲の覚悟が伝わるだろうと期待してしまうのも無理からぬことだろう。
その上で現れたのが不惑を半ばまで過ぎた(四十代の半ば)己から見れば、二回りも年若と思われる女であった。
島津の誇りを土足で踏み躙られたと感じた義弘は、容赦のない殺気を静子へと叩きつける。
普段ならば諫めに回る歳久も、今回ばかりは静観していた。
この非礼に対し、島津の「牙」を見せる必要があると判断したのだ。
義弘の殺気に、静子の脇に控える才蔵が愛槍を手に掛け、腰を浮かせる。
相手が動けば一息で前に躍り出て薩摩の二人を斬り伏せんとする体勢であり、一触即発の緊張が高まる中、パチンと乾いた音が鳴り響いた。
それは静子が手にした扇子を閉じた音であった。
「ここは会談の場であろう。その物騒なものを仕舞わぬのであれば、叛意有りと見做すが如何に?」
静子は親子ほども年嵩であろう義弘を真正面から見据え、だが拒絶を許さぬ口調で問いを投げる。
義弘は言葉で言い表せない違和感に襲われた。
(何だ……この女は?)
常人なら竦み上がるほどの殺気を浴びてなお、彼女は微動だにしない。
虚勢であれば、どこかに重心の揺らぎや防衛の構えが出るはずだが、彼女は上座に身を置いたまま、平時と変わらぬ微笑を浮かべていた。
逸らされぬ双眸が、義弘と歳久を冷静に射抜いていた。
義弘は戦慄した。これは恐怖の欠如ではない。
この女は、己の殺気を「理解」した上で、取るに足らぬ雑音として完全に「無視」しているのだ。
得体の知れない不気味さに、義弘は知らず知らずのうちに毒気を抜かれ、殺気を霧散させた。
頃合いを見たかのように才蔵は再び腰を落とし、静子はさらに深く、柔和に微笑んだ。
「まずは茶など、一服進ぜよう」
その様子を見て、歳久は直感した。この会談、一筋縄ではゆかぬ。
「過分なるお心遣い、恐縮に存じます。なれど、今は一刻も早く上様の御意志を承りたく、喉の渇きも忘れておりますれば。お気遣いなく、先へお進みくださりませ」
歳久は遠慮する体裁を取りつつも慇懃無礼に応じて見せた。
要は「お前の茶など要るか! お前如きでは話にならぬから、信長を出せ」という本音を、この上なく丁重な言葉で飾って見せたのだ。
明らかな挑発だが静子はそれを気にする風でもなく、小姓たちを下がらせると再び扇子を開いて口元を隠した。
「左様か。それでは、其の方らの用向きを聞こうではないか」
「その前に、織田殿は何処に居られますや? 我らは島津が当主の名代。礼儀として、織田殿御本人に拝謁し、口上を述べたいとお伝えしておりますが……」
挨拶は建前、その本意は「貴様のような小娘と語る言葉はない」という痛烈な皮肉である。
二人の態度は、静子を徹底して軽んじるものだった。
「上様はご多忙の身。それ故、この件は全て私が委任されておる」
「……」
歳久の眉が僅かに動いた。
「何故、お前達如きが信長公と語れると思ったのか」静子からの意趣返しに、己の皮肉がそのまま返ってきたようで鼻白む。
歳久は静子の柔和な見た目とは裏腹に、深い教養と明晰な頭脳を持ち合わせていることを悟って内心舌を巻いていた。
彼女は涼しい顔で言葉を継ぐ。
「どうしてもと申すのであれば、都合をつけよう。なれど、本日の上様は主上(帝のこと)への拝謁と、神事の差配に追われておいでじゃ。暫し待たせることになるが、構わぬか?」
歳久は二の句が継げなくなった。
帝への奉仕という大義名分を持ち出され、それを差し置いて島津を優先しろとは、口が裂けても言えない。
それを口にすれば、島津は「天下の道理を弁えぬ辺境の土豪」という烙印を自らに捺すことになる。
「案ずるな。九州に関する万事の仕置き(あらゆる決定権のこと)は、私が上様より預かっておる。必要ならば上様の御印を頂戴した証文を持ってこさせよう。検めてみやるか?」
「……いえ、御無用にございます。上様より万事の差配を託された三位様の御威光、この歳久、改めて得心いたしました。無礼なる物言い、平に御容赦を」
静子は再びニコリと微笑んだ。だが、歳久は気づいてしまった。
その唇は笑みを象っていても、瞳の奥に一片の熱も宿っていないことに。
(あの目……不快に思っているのではない。我らを、ただの『数値』のように値踏みしている目だ!)
「それでは再度、尋ねるとしよう。如何なる用向きで参った?」
歳久の背を冷たい汗が伝った。
この会談、一度でも呑まれれば、二度と浮上は叶わない。
彼は背筋を正し、奈落へ飛び込む覚悟で口を開いた。
「単刀直入に申し上げます。我ら島津に、九州の仕置を委ねていただきたい」
歳久は腹を決めて切り出した。これは織田への無条件な服従ではない。
あくまで「相互不可侵」と「武勇の提供」を条件とした、対等に近い同盟の提案であった。
「我らが九州のごとき遠国に、あえて手を下す理由などありはせぬが?」
静子の涼やかな問いに、歳久は直感した。嘘だ。
信長から全権を託された者が、九州の動静を把握しておらぬはずがない。
指一本動かさぬふりをしながら、蜘蛛の巣のように張り巡らされた情報網で、島津の呼吸すら読み取っているに違いないのだ。
だが、それを追求する術を歳久は持たない。
「……九州は今、島津、大友、そして龍造寺が覇を競う鼎立の状態にございます。これに織田家が介入されることをお控え願いたい。その代わり、統一成った暁には、我ら島津の精強なる武をもって、織田殿の西を固める、揺るぎなき外構となりましょう」
瞬間、静子の瞳が鋭く細められた。
歳久は、脊髄に氷柱を刺しこまれたような錯覚を覚える。
先刻の冷徹な「値踏み」に、別の感情が混じったからだ。
それは憤怒でも侮蔑でもなく、底の知れぬ「失望」の色であった。
「……やはり。皆、同じことを申すのだな」
静子が微かな吐息とともに呟いた。
その声は衣擦れほどに小さく、歳久の耳には届かなかったが、場の空気が明確に零下まで冷え込んだことだけは肌が理解した。
「其の方らの要望に応を返す前に一つ尋ねる。島津が九州を纏めた後はなんとする?」
「……それは、いかなる意味にございましょうや?」
「いくさの果てに、九州全土を平らげた後の話よ。其方らは民を如何に食わせ、如何に富ませ、どのような国を形作る腹積もりじゃ? 心構えや夢ではなく、具体的な国の形を私に聞かせてみせよ」
静子の問いに、歳久は絶句した。
隣の義弘も、怪訝な色を隠せず黙り込む。
島津にとって九州統一は悲願そのもの。
宿敵を屠り、領土を広げ、功のあった家臣に恩賞を下す。
それこそが武家の誉れの終着点であり、その先などは勝ってから考えれば良いことだと信じて疑わなかった。 明確な答えなど、持ち合わせているはずもなかったのだ。
「……まずは荒れた土徳を鎮め、家臣に所領を宛がい……」
口を突いて出たのは、ありきたりな精神論と抽象的な理想に過ぎなかった。
具体的な経済政策も、民の生活を支えるインフラの整備計画も、彼らの頭の中には存在しない。
歳久が言葉を重ねるほどに、静子の失望は深まり、その光は色褪せてゆく。
静子は静かに扇子を閉じると、憐れみすら混じった吐息を漏らした。
「そこらで構わぬ。相分かった、其方らも『あちら』と変わらぬ」
「『変わらぬ』とは?」
「邪推するな。前の問いに他意はない。同じ問いを龍造寺、大友の使者にも投げたが、三家共に似たり寄ったりよ。其の方らも含め、一様に答えに窮しておったわ」
静子は、部屋の隅に無造作に積み上げられた文の束へ、退屈そうに一瞥をくれた。
「誰もが『治める』ことを目的としていない。ただ、目の前の敵に勝ち、領地を奪うことのみが目的と化しておる。勝利の後の民の姿を描けぬのであれば、島津も他家も、同じと言わざるを得ない」
「なっ! 我らをあの大友や、肥前の熊(龍造寺隆信のこと)ごときと同列に扱うか!!」
義弘が激昂し、その巨躯から圧を放つ。
だが、静子の表情は、凪いだ水面のように動じなかった。
「同じであろう? 己が版図を広げることには執着するが、そこに住まう民の暮らしには頓着しておらぬ。どのような産業を興し、交易を繋ぎ、国を発展させるのか。その理念を誰一人として持ち合わせておらなんだ……のう、何が違うのか申してみよ?」
静子は、信長が自身に仕置の権限を委ねた真意を知っていた。
信長が九州に興味を持たぬのは、覇を競う者たちに「統治のビジョン」が皆無だからである。
彼らの目には、島津も大友も、一国を担う指導者ではなく、ただ単に暴力で年貢を取り立てるだけの地頭に過ぎなかった。
「これまで我らが九州に介入しなかった理由を明かそう。誰が勝利し九州を支配したところで、その者に『国の形』を語る知恵も構想も一片もないと分かっていたからじゃ」
「貴様ッ!」
「では、其方らに返答しよう。上様よりの御意志じゃ。『九州に介入などはせぬ。誰が勝とうと興味はない。統一の後、織田の仕組みの上で滞りなく地を治むるならば、それで構わぬ』……以上じゃ」
静子の言葉は、その冷徹な双眸は、極めて挑発的であった。
それは、「貴方たちの武力など、我らの仕組みの前では何の脅威にもならない」という、無言の宣告に他ならない。
歳久は、奥歯が砕けんばかりに噛み締めた。
命を削り、一歩ずつ進んできた島津の悲願を、「誰がやっても同じ」と断じられたのだ。
しかも、軽蔑してやまぬ龍造寺や大友と十把一絡げにされた。
だが、反論の言葉が見つからない。
実際に、今の島津には、静子を黙らせるほどの具体的な「統治の設計図」など、どこにもなかったのである。
「……いくさの後のことを、いくさの前に語るなど、所詮は画餅(絵に描いた餅)に過ぎぬわ」
義弘が絞り出すように放った反論は、あまりに空虚に響く。
それは「我らには統一後の構想など何一つない」と自ら白状したも同然であったからだ。
「其方らは負けるためにいくさをするのか?」
「何……?」
「いくさをすれば勝つ。それは、勝ちを信じて疑わぬ島津の大前提であろう。ならば、勝った後の備えをせぬのは、ただの『怠慢』ではないか?」
「ぐっ……!」
義弘は言葉を失った。不退転を掲げる島津にとって、「勝った後を考えない」ことは、裏を返せば「勝利を確信していない」と言われるに等しい。
彼らは「勝利」という一瞬の爆発のみを追い求め、その後に続く「統治」という果てなき行路から目を逸らしていたのだ。
「私の指摘は、決して絵空事ではないぞ。現に、合戦の最中に戦後の『備え』を固め、勝利と同時に構想を形にした者がおる」
静子は小姓から分厚い書付の束を受け取った。
その表紙には「四国諸州・基盤整備並びに民生安堵計画」と記されていた。
「その者とは……?」
「四国の覇者、長宗我部殿じゃ」
「土佐の出来人か。奴がどうしたというのだ」
「織田と長宗我部は同盟関係にあったが、実情は軍門に降ったも同然であった。なれど、彼は変わった。四国統一を目前に控えた折、彼は自らこの計画書を携え、我らに接触してきたのじゃ」
静子は書類をパラパラとめくった。
中身は長宗我部とその重鎮たちが、呻吟の末に捻り出した血の滲むような統治策であった。
『土佐は貧しく、隣国もまた疲弊に喘いでいる。通貨は乱れ、山岳の険路は物流を阻んでいる。これでは四国を統べたところで、遠からず民は力尽き、国は内から瓦解しよう。この窮地を脱するには、織田の理が必要なのです』
書類に並ぶ緻密な文字は、長宗我部がただの武将から「国主」へと覚醒した証であった。
「彼はいくさの費用を削ってまで、戦後の復興資金を積み立てておった。飢えるのも血を見るのも、我らの代で終わらせる。次代にこの泥濘を歩ませはせぬのじゃと。そのために、彼は我らに幾度も頭を下げ、知恵を求めたのじゃ」
静子は静かに、されど毅然とした声で続けた。
「其方、戦前の構想を画餅と断じたな? なれど長宗我部殿は、統一の瞬間にそれを『現実』へと変えた。織田の仕組みを迅速に組み込み、混乱も飢饉も起こさせなかった。その結果、今の四国は、かつてない繁栄を謳歌しているのじゃ」
義弘は愕然とした。
長宗我部を「降伏した田舎者」と侮っていた己を恥じた。
勝利の先を見据え、誇りを「実利という名の守護」へ昇華させた男と、勝つことのみに執着する自分たち。
その器の差は、あまりに決定的であった。
「……見事なものだ。奴は誇りを捨て、実利を拾ったか」
「捨てておらぬよ」
膝の上で拳を固く握る歳久の言葉を、静子は即座に否定した。
「長宗我部殿は今なお、誇り高き四国の覇者。だからこそ、我らは彼を重用し続けるのじゃ。彼は『四国を豊かにする』という我らとの約定が守られている間だけ、恭順の意を示しているに過ぎぬのじゃから」
静子は声を潜め、深淵を覗き込むような声音で囁いた。
「もし、我らが四国の民を不当に搾取し、その土徳を汚すような不義理を働けば……彼は即座に、我らの喉笛を食い破らんとするじゃろう」
義弘が目を見開く。
「織田を相手に……反旗を翻すと申すか!?」
「当然であろう? 誰にでも、命を賭して超えさせぬ一線がある。彼は四国の民を抑圧されれば、躊躇なく死兵となるじゃろうて」
そう語る静子は、どこか楽しげですらあった。
謀叛の種を抱える者を、あえて重用するという狂気。
「彼は織田の狗にあらず。狗の皮を被った猛虎じゃ。頭を下げ、腹を地につけていようとも、その牙は常に研ぎ澄まされておる。……『四国を害する者は何人たりとも食い千切る』。その凄烈な牙があるからこそ、我らは彼を信用し、対等な差配を任せられるのよ」
歳久は戦慄した。
恭順の裏に隠された殺意を、静子は承知の上で「管理」している。
この女は、ただの知恵者ではない。
虎の首輪を握りながら、その獰猛さを愛でる女傑なのだ。
「其方の『牙』は何のためにある?」
「牙……」
「長宗我部殿のそれは、四国を守護するための牙。翻って、島津の牙はどうじゃ? 貴方たちは、ただ牙を剥き、外に向かって吠え立てているだけではないか? ……『弱い犬ほどよく吠える』。今の其方らは、その言葉に甘んじているように見えてならぬ」
義弘は、雷に打たれたような衝撃を受けた。
(我らは……ただ牙を誇示し、威嚇していただけか。噛み殺し、国を成すための準備など、何一つ……)
ならば、島津が成すべきことは明白であった。
牙を隠し、研ぎ澄ませ。敵を威嚇するためではなく、真に「島津の領分」を完遂するために。
「……蒙を啓かれましてございます」
義弘が低く唸った。
その瞳から驕りが消え、代わりに宿ったのは、昏い光を放つ執念――島津の狂気であった。
歳久もまた、兄に呼応するように鋭い眼光を静子に向ける。
長宗我部への侮りは捨てた。牙を研ぐ「作法」において、自分たちが劣っていたことを認めたのだ。
「我らは駄犬でも猫でもない。また、長宗我部殿のような虎にもなれぬ。島津という名の、餓えた獣にございます。……三位様、貴殿の御言葉にて、ようやく目が覚めましてございます。厚く御礼申し上げまする。二度と、虚勢にて吠えるだけの犬にはならぬと、此の義弘、深く肝に銘じましてございます」
狂気を滲ませた不敵な笑みを浮かべる義弘を、静子は真っ向から見据えた。
そして、満足げに、されど楽しそうに微笑を返した。
「それは、重畳」
「三位様、一つお訊ねしてもよろしいか?」
勧められた茶を啜り、歳久が静かに言葉を発した。
今度は島津の誰も、茶を供されることを拒まなかった。
彼らの牙は先ほど、その腹の下に隠されたのだ。
茶の一杯や二杯で吠え立て、己の底を見せる必要はない。
「どうぞ、何なりと」
彼らが態度を改めたことを機に、静子も濃姫を参考にした尊大な物言いをやめる。
「端的に伺いたい。貴殿は我らをどうしたいのだ? 挑発したかと思えば、師のごとく諭してみせる。さりとて、我らの牙を恐れる様子もない。まっこと、計り知れぬ御仁だ」
「……先に、龍造寺や大友と等しいと申しましたね。なれど、私はその中で、島津の方々ならば『あるいは』という期待を抱いていたのですよ」
「ほう、それは光栄なことで」
茶請けの菓子を豪快に口へ放り込み、義弘が感情の読めぬ謝意を口にした。
歳久は、静子がなぜ先ほどあれほどまでの「失望」を見せたのか、その理由をようやく理解した。
彼女は島津に対し、九州の他家とは違う「統治者としての器」を、密かに期待していたのだ。
「さて、話を戻しましょう。繰り返しになりますが、我らは九州の仕置に直接の介入はいたしません。なれど、商取引は公平に行います。皆さまの商品は、正当な値で買い取りましょう」
「それは、ありがたきお言葉」
「ただし、龍造寺、大友に対しても同様の構えです。商いはいたしますが、特定の家に肩入れする気はございませんし、誰が何を訴えようと不介入の態度は変えませぬ」
「承知した。不介入……今はそれだけで十分だ」
「……なれど、それには条件がございます。一つ、関所の撤廃。一つ、度量衡(規格)の統一。一つ、我が方の通貨の受け入れ。この三つにございます」
歳久は、思わず息を呑んだ。
それは実質的に、織田の経済圏への完全なる編入――「経済的な属国化」を意味する過酷な条件であった。
だが、彼はもはや声を荒らげることはない。
淡々と、冷徹な仮面を崩さずに応じた。
「……流石にその儀は、当主の決断を仰がねばなりませぬ。我らは名代なれど、国を左右する大事に独断の権限はございませぬ故。一度、持ち帰らせていただいてもよろしいか」
「ええ、構いません。存分に検討なさってください」
静子に焦りはなかった。受け入れるか否か、その答えすらどちらでも良かったのだ。
いずれ日ノ本の金融と規格は織田によって統一される。
島津が抗おうとも、その奔流を止める術はない。
拒絶を選べば、島津は戦わずして干上がることになる。
織田の経済という網の目は、すでに九州の隅々まで張り巡らされているのだから。
「……かたじけない」
「それから、此度の旅費の足しにと用意させました。こちらの証文があれば、いつでも受け取れます」
静子は証文と共に、ずっしりと重い革袋を一つ差し出した。
「これは……?」
「帰路の船賃と、手土産代わりの『小遣い』にございます。これは我が方の『新貨』ですので、松乃屋でも問題なくお使いいただけますよ」
歳久が袋を受け取り、軽く揺する。硬質な、高く澄んだ音が響いた。
中を検めれば、そこには精緻な極印が施された、美しく輝く真円の硬貨が詰まっていた。
兵庫津で拒絶された自分たちの古銭とは対極にある、この地における「絶対的な価値」を持つ力。
(……最後まで、徹底しておられるな)
歳久は心中で苦笑した。これは慈悲ではない。
「其の方らの富は無価値だが、我が方の富には力がある」という、経済的敗北を再確認させるための、最後の一撃であった。
「……痛み入ります」
歳久は袋を懐へ深くしまい込んだ。その重みは、島津の誇りよりも重く、冷たく感じられた。
これ以上の長居は無用と判断し、残った茶を一気に喉へ流し込む。
「本来ならば、更なる教えを賜りたいところなれど。何分、いくさの最中に飛び出してきた身なれば。早く戻らねば、兄弟たちに殴り飛ばされます。本日はこれにて」
「会談のために使者が出ている間は、向こうも派手には動けますまい。……ま、確かなことは申せませんが」
「……何故、会談中ならば動けぬと?」
歳久が腰を浮かせかけた姿勢のまま、問い返した。
静子は何でもないことのように、特大の爆弾を投下した。
「簡単なことです。上様の御不興を買うからです。会談中に騒ぎを起こせば、『織田に喧嘩を売っている』と見なされます。そうなれば商取引は全て停止。九州の港は、瞬く間に閑古鳥が鳴くことでしょう」
「……は、ははっ。それは……恐ろしき話だ」
引きつった笑みを浮かべる歳久の背を、冷たい汗が伝った。
信長が、と静子は言ったが、歳久には分かっていた。
この目の前の女が指を一本動かすだけで、九州の経済は死に絶えるのだ。
九州の諸家は、自覚なきままに織田の掌の上で生かされているに過ぎなかった。
「貴重な御話をありがとうございました。では、これにて失礼いたします」
「楽しかったですよ。……次に会う時まで、その首をしっかり守っておきなさい」
最後まで礼節を保つ歳久に対し、義弘は不敵な狂気を宿した笑みを静子に向けた。
次は食い殺す、という獣の宣戦布告。だが、静子はその視線を真正面から受け止めたまま、事も無げに応じた。
「私の首は、高くつきますよ」
「……承知している。そして、貴殿の恐ろしさもな」
こうして、織田と島津の初会談は幕を閉じた。
京の薄暮の中を歩み去る二人の背には、もはや虚勢の吠え声はない。
ただ、深く、鋭く研がれる牙の音だけが、静かに夜に溶けていった。




