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戦国小町苦労譚  作者: 夾竹桃
天正六年 織田政権

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千五百七十九年 十一月中旬

元服式と具足始めを終えた安堵感など、瞬く間に消し飛んでいた。

続く祝宴の席こそが、静之にとって真の戦場であったからだ。

広間に充満するのは酒と肴の匂い、そしてむせ返るような野心と嫉妬の熱気。

上座には信長や信忠、そして静子らが鎮座し、諸侯の挨拶を受けている。

だが、末席に近い場所で挨拶回りを強いられている静之を取り巻く空気は、決して友好的なものではなかった。


「あれが、噂の『静之』殿か。上様のご落胤(らくいん)とも聞くが、なんとまあ、線の細いうらなりではないか!」


「ふん、所詮は『捨て置かれた子』よ。上様のお手がついたとはいえ、数多おる子種の一つ。まともな乳母もつけられず、泥水を(すす)って育ったそうな」


杯を傾けながら露骨に嘲笑を浮かべるのは、近頃織田の軍門に降ったばかりの新参者たちであった。

彼らにとって静子軍とは、後方で物資を運んでいるだけの「商人崩れ」であり、その養子が、かつて信長から捨て置かれ(内情はどうあれ、対外的にはそのように見えている)、育児放棄(ネグレクト)に近い扱いを受けていたという事実は、格好の笑い種であった。

戦国の世では嫡男こそが唯一無二の世継ぎであり、それ以降の子供は所詮、世継ぎに万が一があった際の予備に過ぎないというのは常識だ。

そして静子の名声が広まるにつれ、その後継ぎたる静之のあまりにも惨めな幼少期が掘り返され、揶揄(やゆ)されるようになっている。


「聞いたか? 幼き頃は着の身着のままで薄汚れ、妹と身を寄せ合って寝ておったとか」


「哀れなものよ。静子殿に拾われねば、今ごろは妹もろとも野垂れ死んでおったものを」


「侍として教育も受けて居らぬ野良犬が、一丁前に直垂(ひたたれ)など身に纏いおって……」


敢えて静之のみに聞こえるような声量で放たれる陰口が彼の心を深く(えぐ)った。

静之は幼少期のトラウマが(よみがえ)り、盛大に嘔吐しそうになるのを必至に堪え、能面のような笑顔を貼りつかせたまま酒を注いで回る。


(その通りだ……母上に拾われねば、私は器ともども飢えと寒さで()うにこの世を去っていただろうさ)


悔しさを必死に押し殺してはいるが、心の奥底に暗い炎が揺らめいているのが判る。

だが、怒りに任せてここで暴れたのでは、それこそ彼らの言う「捨て犬」の証明となってしまう。

慶次から受けた「甘えるな」という言葉を反芻(はんすう)し、(へそ)の下に力を込めて踏みとどまっていた。

しかし、その忍耐すらを「怯懦(きょうだ)」と断じる巌の如き巨体が、静之の前に立ちはだかる。


「おい、若造!」


ズン、と腹から背骨に掛けて揺さぶられるような重低音と共に、巨大な影が静之を見下ろしていた。

周囲の新参者らが見せていた嘲笑が瞬時に凍り付く。

そこに居たのは織田家筆頭家老である柴田勝家その人であった。

巨岩を削り出したかのような厳めしい顔貌(がんぼう)に、幾多の視線を潜り抜けてきた古強者(ふるつわもの)の眼光が宿っている。

勝家は静之を前に無言で立ち塞がり、なみなみと酒の注がれた大杯を突き出した。


「飲め」


有無を言わさぬ要求であった。諸将が居並ぶ中、圧倒的上位者から勧められた酒を断れる道理がない。


「……頂戴いたします、柴田様」


静之が震える手で杯を受け取ろうとすると、勝家は鼻を鳴らす。


「手が震えておるわ。これだから『痩せ犬』は肝が据わらぬと言われるのだ」


勝家の言葉には、明確な棘があった。

彼は己では決して成し得ぬ大功を立て続け、織田家の隆盛を築いた静子の存在を認めてはいる。

しかし、古き良き武人の気質を持つ勝家にとって、静子が(もたら)した異質な技術とそれに伴う急激な変革、信長という武家の血統を引継ぎながらも武芸より算盤(そろばん)働きを得意とする静之の在り方は、どうにも受け入れ難いものであった。


「静子殿は見事な手腕を以て乱世を変えて見せた。然るに貴様はどうだ? 上様の血を引いてはいるものの、中身は飢えた(わっぱ)のままではないか!」


勝家の鋭い眼光が静之を射抜く。

これは単なるいじめではなく、信長の血を引く者が、地獄のような幼少期を経てなお『牙』を失わずにいるかを見極める、非情なる試金石でもあった。


「答えよ! 貴様は織田の世の為に何が出来る? 槍働きも出来ず、首級を挙げたことすらない貴様に誰が命を預けたがると思っておる」


周囲の新参者たちは我が意を得たりと言わんばかりに嫌な笑みを浮かべている。

静之は血が滲むほどに唇を噛みしめていた。

鉄の味がする。

彼の視界は怒りと恥ずかしさ、悔しさから真っ赤に染まっていた。

幼き頃、満足な食事すら与えられないまま生きる為に泥にまみれて雨水を啜った記憶。

その経験が彼を猛然と突き動かした。

静之が覚悟を決めると自然と手の震えは収まった。

彼は大杯を勝家から両手で受け取り、それを(あお)ると喉を鳴らして一気に飲み干していく。

荒い息を吐きながら、酒精が回ったことにより充血した酔眼で織田家屈指の猛将を(にら)み返す


「私は泥の中で飢えて育ちました故、御覧の通り体格がふるわず槍働きでは柴田様に遠く及びませぬ!」


「ほう、開き直るか?」


そんな静之の気炎を面白がるように勝家が聞き返した。


「いいえ。ですが、泥に(まみ)れた者にはなりふりを構わぬ戦い方がございます。槍が振えぬのならば知で働き、誰よりも多くの利を織田に齎して見せましょうぞ! それが死すべき運命(さだめ)にあった私を拾い上げて下さった母より受け継いだ私の『牙』に御座います!」


一瞬の沈黙の後。

勝家は不愉快そうに鼻を鳴らすが、その瞳からは侮蔑の色が消えていた。

彼は空になった杯を奪い返すと乱暴に酒を注ぎ、なんと片手でそれを呷って飲み干して見せた。


「……飢えた犬かと思うたが、どうやら痩せ狼ぐらいには育ったようだな」


吐き捨てるように言い残すと、彼はその場を立ち去った。

勝家という嵐が過ぎ去った後、静之は膝から崩れ落ちそうになるのを必死で耐える。

遠く上座から、その様子を手にした扇子の陰に隠れながら固唾を飲んで見守っていた静子は、満足げに頷いていた。







翌朝、静之は早朝から冷たい井戸水で顔を洗っていた。

昨夜の祝宴の疲労は残っているが、不思議と気分は悪くなかった。

己の出生、そして惨めな過去と向き合い、それを武器にすると腹を括ったからだ。


「起きているようですね。支度(したく)は出来ていますか?」


背後から掛けられた声に、静之は即座に振り返り姿勢を正す。

そこには旅支度を整えた静子の姿があった。

今日より静之は、大坂方面の視察に向かう信忠の軍に同行し、その後は尾張へと戻る手筈となっている。


「母上、お見送り感謝致します」


「挨拶は後です。出発の前に、貴方に見せておかなければならないものがあります。ついて来なさい」


静子の口調には拒否を許さぬ響きがあった。

共に並んで馬に乗り、早朝の道を駆ける。静子が前を見据えたまま口を開いた。


「昨晩は随分と揉まれたようですね」


「……お耳汚しを致しました。ですが、事実は事実。私は今後も槍働きでは織田家随一にはなれませぬ、それならば私は私が一番になれる道を歩みまする」


「ええ。貴方は上様の血を引きながらも、世の底辺を知る者です。それ故に他者の痛みや苦しみに気付き、泰平の世を動かす唯一無二の為政者となれる可能性を秘めています。温室育ちの公達(きんだち)(一般には貴族の子弟を意味し、静之以外の五位を賜った諸将を指している)には、今から見せる『怪物』は扱えませんから」


向かった先は、静子の城下町から遠く離れた山間の谷であった。

周囲を木々が覆っているため、現場に着いて初めてその異様な光景に気が付いた。

かつては谷間を流れていたであろう川が干上がった跡に、美しく均して造成された地面の上に、規則正しく枕木が並べられている。

その上に巨大な蟒蛇(うわばみ)が横たわっているかのように二本の太い金属製の軌条が遥か彼方まで伸びていた。

そして静之の間近には黒光りする巨大な(くろがね)の塊が蒸気を噴き上げている。

まるで寒い冬の早朝、馬たちが鼻から蒸気を立ち上らせるかのように盛んに白煙を吐き出し、腹の底まで響くような低音を奏で続けている巨体に静之は圧倒された。


「これは……何ですか?」


「これが私の鬼札! 鋼鉄の馬こと、蒸気機関車です。これからの織田家を、そして日ノ本を支えるための心臓です」


静子が合図を出すと、周囲に控えていた技術者たちが一斉に動き出す。

彼らは万が一にも機関車が走り出さないよう嵌められて(かせ)である車輪止めを外し、機関車の火室(かしつ)に陣取る男に燃料をくべるよう指示した。

その傍ら、彼らは機関車が走るであろう線路上に置かれていた物体を覆い隠している布を引きはがす。

そこに現れたのは戦国最強と(うた)われる当世具足であり、しかも静之が昨日賜った物と同様に最新素材を用いた特級品が並んでいた。

これは静之の当世具足を作るための試作品であり、最終的には彼の手許に届かなかったとは言え他家の当世具足とは隔絶した性能を誇る逸品だ。

それは新式銃であろうとも貫通させない装甲を有し、戦国時代に普及している火縄銃程度では表面に汚れを残すのがやっとであり、矢や槍、刀では表面の積層装甲を滑るのが関の山だろう。


「よ、よろしいのですか? あれほどの業物を……」


「良く見ておきなさい。これが時代の変化です。血筋も、武勇も、過去の栄光も、すべて等しく無意味となる瞬間です」


ボイラーの圧力が限界に達し、甲高い汽笛が静寂の谷間を切り裂いた。

(きし)みをあげながら動き出した車輪が回りだすと、鋼鉄の巨獣はその体を前へと押し出し始める。

最初は緩慢だった動きが瞬く間に加速し、やがて馬をも凌駕する速度へと達した。

牽引している車両は機関車を除くと一両のみであり、炭水車(燃料と水を積載した車両)を含めて二百トンに迫ろうかと言う巨大質量が、線路上の鎧へと突き進む。

静之が身構える暇すら無かった。

凄まじい金属音と共に、最新鋭の甲冑は飴細工のようにひしゃげ、粉砕されて砕け散る。

最早原型を留めていない当世具足と対称的に、傷一つないように見える列車は薄紙でも突き破ったかと言わんばかりに走り去っていった。

あまりの破壊的な光景に、静之は戦慄を禁じ得ない。

あれがもし人の隊列であったならば、たとえ重装備を纏った騎馬武者であったとしても辿る運命は同じだろうと容易に想像できた。

どのような高貴な生まれであろうと、どれほどに剣の腕が立とうとも、この圧倒的な質量と速度が織り成す暴力の前には等しく無力にすぎない。


「こ、これは……兵器、ですか?」


「いいえ、ただの荷車です。人や物を運ぶためのね。ですが、この『物流』に逆らう者がどうなるか、理解出来ましたか?」


青ざめる静之に対し、静子は冷徹に続ける。


「この鉄道に対する妨害行為は、置き石一つであっても通貨偽造と同等の『国家反逆罪』とみなします。犯人は一族郎党すべて処刑、つまり族滅です」


「ぞ、族滅……そこまで厳しくなされるのですか」


「それだけの価値と力が、この鉄道にはあるからです」


静子は懐から一枚の図面を取り出し、静之に見せた。

そこには尾張を中心とし、西は安土、東は徳川領を経て関東へと伸びる壮大な路線計画が記されている。


「母上、これほどの事業、我々だけで管理しきれるのでしょうか。莫大な金と人が必要になりまする」


「そこで『株式』という仕組みを用います。この事業の権利を細分化し、配分するのです」


静子は指を折りながら説明する。

港湾事業に携わって来なかった静之は知らぬことながら、既に株式は織田家の勢力圏に於いて大きな事業を推進する際に何度も運用されてきた。

信長、信忠親子、そして静子。この三者で全体の六割を保持することが決まっている。

これで経営の主導権は揺るがない。だが静之が気になったのは、残りの配分だった。


「徳川殿に一割、徳川家臣団に一割……合計二割も徳川家に渡すのですか?」


「ええ。徳川様は賢いお方です。この意味を即座にご理解されるでしょう」


静子は口元を緩め、悪戯っぽく笑った。

鉄道は莫大な利益を生む。だが、その維持管理――夏場の草刈り、冬の雪掻き、線路の警備――には膨大な労力を要する。

その「泥臭い実務」を、株の配当という甘い蜜と共に沿線の徳川家に負わせるのだ。

さらに、これは将来的に徳川家を関東へ転封させる際の布石であり、彼らを織田の経済圏に縛り付ける『黄金の鎖』でもあった。


「利益を与え、共犯者にし、逃げられなくする。それがこの事業の真髄です。静之、貴方がこれから学ぶべきは、剣の振り方ではなく、この『利権の振り方』ですよ」


「……はい! 肝に銘じます」


圧倒的な力と、それを操る政治的知略。

静之は震える手で拳を握りしめ、深く頭を下げた。

自分が継ごうとしているものが、単なる家督ではなく、化け物を御する手綱なのだということを、骨の髄まで理解した瞬間だった。







その後、静之は信忠の軍に合流すべく、街道へと向かった。

軍列の先頭には、織田家の嫡男であり、名実ともに次期天下人と目される信忠の姿がある。

彼は静之を見つけると、親し気に、しかし為政者としての鋭さを伴って手招きした。


「遅かったな、四六。……いや、今は長門であったか」


「はっ、お待たせ致しました、少将様」


この時信忠は朝廷より従四位上に叙され、左近衛少将(さこんえのしょうしょう)の官職を賜っていた。

巷では『岐阜少将』と呼ばれており、信忠自身は御大層な官職に辟易(へきえき)している。


「堅苦しい挨拶は良い。此度(こたび)の旅、お前には私の側でしっかりと世を見てもらう。……静子の『新しい玩具』は見たか?」


信忠の問いに、静之は唾を飲み込みながら頷いた。


「はい。あれには……人の世を変える力にございます」


「左様。あれは父上が天下を平らげた後、この国を束ねる(かすがい)となろう。私は表から天下を統べるが、お前にはその裏で、あの化け物を飼いならす役目を担って貰う」


信忠は、静之の目を真っ直ぐに見つめる。

そこには、かつて『捨て置かれた弟』を見る哀れみなどなく、共に織田の天下を支える『同志』を見る信頼があった。

正当な後継者として光の中を歩んできた信忠と、影の中で泥を啜って生きてきた静之。

生まれも育ちも違う二人の兄弟が、今、鉄の道という未来を通じて結びつこうとしていた。


「励めよ。お前が支えねば、織田の屋台骨は揺らぐぞ」


「……御意。この身命を賭しまする」


静之は深く頭を下げた。

その背中は、昨日までとは明らかに異なる『重み』が圧し掛かっていた。







時を少々遡り、静子と静之が機関車の猛威を目の当たりにしている頃、遠く離れた木陰からこの実験を目撃している者がいた。

怪しまれぬように炭で体を汚し、異人特有の髪の色を誤魔化して炭焼き人に変装した宣教師である。

彼は歯の根が合わぬ程の恐怖に(さいな)まれながら、無意識に胸元で十字を切っていた。


「オー、デウス!! なんという悪魔の所業か……」


彼らの国許ですら見たことのない鋼鉄の馬。

その圧倒的な威容に加えて、馬など比較にもならない速度で爆走する姿は、彼が今まで歩んできた人生を根底から揺るがす程の衝撃を与えた。

マスケット銃や大砲など児戯(じぎ)に等しい。

技術力と産業の次元そのものが異なっていた。

この地に主の教えを広め、ゆくゆくは植民地とする? そんな虚しい絵空事は一瞬で灰燼(かいじん)に帰した。

この眠れる獅子を刺激すれば、東洋のちっぽけな島国に祖国が丸呑みされるかもしれない。

自分たちが未開の原住民に押し付けてきた仕打ちを振り返り、己がその立場になるかもしれないという恐怖が彼の脚を(すく)ませてしまった。

そんな宣教師の様子を更に離れた物陰から見つめる一対の目があった。


(静子様の思惑通り、南蛮人にも正しくこの脅威が伝わりそうだ。かのお方が何をお考えかは判らぬが、掌で転がされる毛唐どもが哀れでならぬ)


そう一人()ちると、真田正幸が放った間者は気配を断った。



そして安土城では、信長が京からの報告書に目を通し、満足げに鼻を鳴らしていた。


「案外、朝廷も引き際を心得ているようだな」


静之が京を離れて以降、朝廷からの接触は一切ない。

彼らが欲していたのは『静子軍』という武力だ。

指揮権を持たぬ静之個人には、まだ利用価値がないと判断したのだろう。


「尾張三位様より、鉄道の試運転が成功したと文が届いております」


「ふん、あの鉄の塊か。家康もさぞ困惑した顔で、それでも喜んで株を受け取るであろうよ」


信長は窓の外、東の空を睨む。

天下統一はもはや通過点に過ぎない。

鉄の道が日ノ本を覆い尽くした時、この国はかつてない強大な帝国へと変貌する。


「手を掛けてやれなんだ子が、まさか一番の化け物に育つとはな。静子め、余計な玩具を与えおって」


口では憎まれ口を叩きながらも、その声は弾んでいた。

愉悦に満ちた信長の笑い声が、安土の天守に響き渡った。


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