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戦国小町苦労譚  作者: 夾竹桃
天正六年 織田政権

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240/246

千五百七十九年 十月中旬

「何たる失態か!! この輝元一生の不覚……」


暦は九月の末となり十月が目前に迫る頃、吉田郡山城から見える風景に異物が現れた。

それは確かに前日までは存在しなかったもの(・・)であり、決して存在して良いものではあり得ない。

突如として現れたソレは城であった。それも急ごしらえの木造建築とは異なり、見事な漆喰塗りの城壁を備えた重厚な城だ。

掲げられた旗印は信長のものである永楽通宝と、秀吉のそれである総金とがたなびいている。

要するに毛利家の本拠地から目と鼻の先に敵軍の城が突如として現れたのだ。

一夜城が出現した場所も問題であった。

吉田郡山城の東側を流れる江の川を北上すること約二キロメートル程にある高小屋山の尾根同士が作る谷の傾斜に(そび)え立っている。

仮に東国は小田原征伐に参戦したものが居たならば、この一夜城が持つ特異な形状についても見覚えがあっただろう。

城の中腹辺りに突きだした船舶の甲板にも見える構造物は、その用途を想像することが出来ない輝元にとって奇妙で異質な城に見えた。


突如として喉元に刃を突きつけられた形となった毛利陣営だが、さりとて吉田郡山城は郡山全体を利用した巨大な山城であり、一朝一夕に落とせるような代物ではない。

広大な敷地面積を利用して城主やその家族、一部の重鎮たちが住む館も設けられ、平時と戦時のいずれに於いても使用できるよう設計されていた。

反面、山間部の盆地に築城した上に防衛上の都合から交通の便は非常に悪い。

そのため史実に於いて後の居城となる広島城が完成すると、家臣たちは挙って広島城下へと移り住むことになる。後に江戸幕府が発した『一国一城令』が施行されるまで吉田郡山城は存続し続けていたため、何らかの理由で破棄されなかったと言われている。


「あの城は危険だ! 直ちに叩き潰さねばなるまい!」


「待て、あの城に掲げられている旗を見よ。右府(うふ)(信長のこと)と筑前守(ちくぜんのかみ)めの旗印、奴は墨俣でも一夜城を築いたと聞き及んでおる。此度(こたび)もどんな絡繰(からく)りを仕込んで居るや知れぬぞ」


「そうは言うが手を(こまね)いても状況は好転せぬではないか! 奴らが調子に乗って第二、第三の城を築かれては取り返しがつかぬ。軽く一当てして奴らに目にもの見せてくれようぞ」


輝元としては一夜城の存在をとても看過できない。諸将の誰かが口にしたように、いずれにせよ実際に一夜城を攻めてその堅牢さを測る必要があった。

唐突に出現した城とは言え、まさか中身が空と言う訳はないはずだ。空城ならばむざむざ相手に軍事拠点を提供することになるため、一夜城を築いた意味がない。

それに秀吉軍の本隊は山陰地方を西へと進行している最中のはず、最後に報告を受けた折には出雲(いずも)国を侵攻中だったのだが突如として中国山地を越えた安芸(あき)国に現れるなど妖術としか思えなかった。

順当に考えるのであれば秀吉軍の一部先遣部隊が一夜城を築き、本隊到着まで籠城を続けると考えるのが妥当だろう。

うかうかしていると山陽方面から南部を西に向けて侵攻中の明智軍と合流されてしまい、明智・羽柴連合軍が総力を挙げて攻めかかってこられては如何に堅牢な吉田郡山城とて落城は免れない。

時間は敵方を有利する一方で、こちらは窮地に追い込まれてしまう。ここが決断の時と腹を決めた輝元は皆に告げた。


「皆の者良く聞いてくれ! あの一夜城には恐らく羽柴軍の一部隊が少数で籠城しておる筈だ。本隊が険しい山々を越えてここまで辿り着くなど荒唐無稽(こうとうむけい)なことが起こりようはずがない。あの一夜城は我らの領土に打ち込まれた(くさび)よ、準備が整わぬうちに一気呵成(かせい)に攻め落とすが吉と見た!」


「確かに……筑前守めの本隊は大軍と聞く。突如として現れた城に湧いて出るには時間が足りぬ!」


「ならば早急(さっきゅう)に軍を編成し、一夜城を言葉通り一夜の夢幻としてくれようぞ!」







毛利陣営が吉田郡山城にて一夜城への攻撃を準備している頃、(くだん)の城を築いた福島正則は眼前に広がる光景を前に一人ほくそ笑んでいた。

毛利側からすると一夜にして城が現れたように見えただろうが、実はこの城は二月近い月日を費やして築城されている。

築城予定場所が尾根の影になる谷間であることを利用して、城の基部に当たる石垣などを敵に見つからないよう密かに積み上げていたのだ。

そしてしっかりとした土台の完成を待ち、満を持して上物の城を一夜にして作り上げたのだった。

毛利陣営が動揺していたようにこの一夜城は一見すると漆喰塗りの堅牢な城に見えるのだが、実を言えば殆どは見掛け倒しのハリボテに過ぎない。

何せ一夜にして城を作り上げねばならない為、しっかりと工事をする暇など有る筈がなかった。

これらの建材は協力関係にある川根村にて作り上げ、江の川を通じて密かに運び込まれた上で組み立てられ、プレハブ工法によって建てられている。

一見すると漆喰塗りに見える白壁は、静子謹製の最新建材『石膏ボード』であった。

最終的に大砲を並べる予定の張り出し部分と、重量を支える柱や梁部分以外についてはペラペラの板張りの上から石膏ボードを貼りつけただけの見掛け倒しなのだ。

門外漢である福島には知り得ない話なのだが、尾張に於いて一定の規格に従って製造されている石膏ボードはわら半紙を重ねて作った厚紙に、水と反応して固化する焼石膏と水との混合物をペースト状の間に塗りつけて作られている。

本来は両面を厚紙にして石膏部分を挟み込むようにして作られる石膏ボードだが、相手に漆喰塗りの壁と見誤らせるため片面の厚紙に白い塗装が施されているのだ。

この特注の石膏ボードは遠距離攻撃を防ぐだけの強度を担保するため、一般的な建材ではあり得ない20ミリメートルにも達する厚みで作られているため相応に重量がある。

それを中国山地を越えて運び込むため全て畳一枚分の大きさに揃えられ、これも規格化されたコンテナで固定して川根村まで運びこんでいた。

白く塗装した厚紙は我々の知るペンキに大きく劣る程度の防水性しか無いため、激しい風雨にさらされれば(たちま)ち元の生成(きな)り色を呈してしまうだろう。

ちょっとやそっとの雨や朝露程度には負けないものの、天候が味方してくれたのは幸運であったと言うほかはない。


「くくくっ! 毛利共め焦って攻め込もうとしておるな。炊飯の煙でいくさ支度が丸見えよ」


支給されている望遠鏡を片手に福島は一人呟く。

福島の言葉通り吉田郡山城の随所から白い炊煙が立ち上っており、その様子を見て経験豊富な福島は敵の戦力におおよその当たりを付けた。

初手から全兵力を投入されていれば流石の福島とて一夜城を放棄せざるを得なかったのだが、毛利方も(さき)の大敗で腰が引けており戦力の漸次(ぜんじ)投入という愚を犯すことになる。



毛利陣営の合議にて一夜城に攻め込むことになった有志の兵たち二百名が高小屋山の麓に集合し、突如として姿を現した城の威容を見上げていた。

吉田郡山城から眺めていたのでは見えなかった城の基部が見えるようになると、谷の斜面に対してしっかりとした石垣が積み上げられていることが判明する。

これだけでも到底一夜城では無かったと情報を持ち帰って作戦を再考するべきなのだが、現場の指揮官は更なる情報を得ようと二十名ほどの兵士を選抜して城へと向かわせた。

土塁を上って石垣に兵たちが達すると、城から大小様々な大きさの石が降り注ぎ半数近くの兵士が負傷して撤退するはめとなる。

これを見た指揮官は次に火縄銃を装備した兵と弓兵を用いて、低地から城へと攻撃を試みた。

当然ながら重力の影響や仰角(ぎょうかく)の関係上、遮蔽物に身を隠しているであろう敵兵の姿が見えないため(おおよ)そのあたりを付けての射撃だった。

当たり前のように敵になんら痛手を与えることが出来ず、逆に城の防壁に備えつけられた銃眼から反撃を受けることとなる。

甲高い発砲音が山にこだますると、銃兵と鉄砲兵が一人ずつ倒れ伏した。

流石に状況の悪さを把握した指揮官は、負傷した兵たちを担いで撤退を始め、これに対して一夜城側からの追撃は無かった。



文字通り手も足も出ないまま敗走した毛利陣営だが、それでも実際に一夜城に接近して得られた情報は大きかった。

一夜にして現れた城だと思い込まされていたが、基礎からしっかりと作られた頑丈な城であること。

また地の利を活かして絶妙に攻め辛い(いや)らしい構造になっており、あの城を攻め落とそうするならば寄せ手側(攻める側、即ち毛利方)は受け手の三倍程度の兵数が欲しいことなどが報告された。

これらの情報を元に再び毛利陣営は合議を重ねることとなり、最終的に得られた結論としては次の通りとなった。


「かの一夜城に関しては一旦無視するものとする。積極的に攻めてくる姿勢はなく、籠城に徹している限りは目ざわりだが放置する」


輝元は諸将に対してそう宣言した。根拠としては一夜城の規模が小さいため、内部に詰めている兵数を多く見積もったところで五百を超えないと見たためだ。

実際に輝元の予想は的を射ており、福島が一夜城に配置している兵数は僅か三百に過ぎず、部隊の大多数は川根村に滞在して一夜城との物流を水運で支えている。

輝元としては敵の本拠地に寡兵を置いておく意味が理解できず混乱していた。後に秀吉の真意を輝元が知ることになるのだが、それはもう少し後となる。


その頃秀吉が率いる本隊は出雲国の国境(くにざかい)を南下し、開通した山越えルートへと差し掛かっていた。

出雲国沿岸部にて兵站部隊から補給を受けて、部隊を再編制しなおすと険しい山々へと踏み入っていくこととなる。


「これは中々の難所じゃな。これを切り開き、今なお前線で耐えておる福島の苦労が偲ばれよう」


秀吉は実際に山越えルートを進軍しながら感想を独り()ちる。

山中に敷設された道は踏み固められた上に砕石を撒いた上に、水はけをよくするため緩い傾斜が付けられただけの簡素なものだ。

それでも木の根に足を取られ、藪を切り開かねば進むこともままならない山道を通行するよりは遥かに快適と言えた。


「笑い話では済みませぬぞ、兄上。この様子では我らが日向守殿に先んじて高小屋(たかこや)城(毛利側の言う一夜城のこと)に入れましょうが、肝心要の大砲が届かないのでは決定打となりませぬ」


「馬鹿者! それでこそ日向守めに負い目を与えることが出来ると言うものじゃ。なにせ我らは日向守の遅参に対して足並みを揃えるため、敵本拠地を前にして耐えて(・・・)いたのじゃからな!」


「その様な詭弁(きべん)が通りましょうや?」


「通らずとも構わぬ。奴が我らよりも遅れて合流したという事実は変わらぬ。元よりわしは吉田郡山城を落城させずとも構わぬと考えておる。幾重にも堀を巡らせた堅固な城ゆえ、真正面から攻めては消耗が激しすぎる」


元より高小屋城はわざと毛利陣営の目に留まるように姿を晒して注意を払わせ、予想以上の守りの堅さに積極的に攻める必要性が無いと思わせることが肝なのだ。

毛利側から見える範囲では特に変わった様子を見せないようにし、その間に石膏ボードで間に合わせている外壁をコンクリート製の物へと徐々に置き換えていく。

最終的に明智軍が合流する頃にはコンクリート造りの上から石膏ボードを纏った堅固な城へと変わっているという算段だ。

こうして後に西国最後の大いくさと呼ばれる秀吉の吉田郡山城攻めの火蓋が切って落とされた。







西国で毛利と羽柴・明智のいくさが佳境を迎えている頃、東国は奥州に於いて伊達と最上とのいくさも大詰めを迎えていた。

とは言え織田家の威光によって他家の介入が許されず、一対一の構図が保証されている上に、最上家の内部には親伊達派という『獅子身中の虫』を抱え込んでいるため劣勢に甘んじている。

このいくさはいずれかが降伏を宣言すれば終わりを迎えることとなっていた。これは奥州の支配者として雌雄を決する為に始まったいくさであり、片方が他方を軍門に下せばいくさの大義名分が無くなる為である。

それ以上のいくさについては東国管領たる静子が発した禁令に触れるため武力による勢力図の変更はできなくなる。

仮に新たないくさを始めた場合、理由の如何に拠らず織田軍の総力を挙げて鎮圧すると宣言されており、それが大言壮語では無い事を東国の人々は身に染みて理解していた。

こうした背景があるため伊達家も最上家も最初から戦後を見据えたいくさをしており、互いに大きな損害が出ることを忌避(きひ)する為に小競り合いの繰り返しとなって膠着(こうちゃく)状態となってしまっている。


奥州とは対照的な戦況を見せているが備前(びぜん)国(現在の岡山県東部)であった。

明智軍と浦上との交戦を見守っていた宇喜多(うきた)直家(なおいえ)が遂に動き始めたのだ。

直家は最終的に織田方と和睦を結ぶことを目標に掲げ、少しでも有利な和睦条件を勝ち取るために己の命を費やすと決めている。

そこで幼い嫡男たる秀家に家督を譲り、直家は直属の手勢のみを率いて居城の岡山城を後にし、備中(びっちゅう)国は忍山(しのぶやま)城へと移った。

その上で秀家の名代として長船(おさふね)貞親(さだちか)を指名し、彼の名で明智軍に対して遣いを出し、宇喜多家の臣従を申し出る。

長船は使者に託した書状の内にて、宇喜多家は織田家に臣従する用意があり、これに頑なに反対した前当主たる直家を絶縁の上で備前国から追放したと伝えた。

直家は追放されたことを恨みに明智軍に対して迷惑を掛けるやもしれないが、宇喜多家は関与しない故に好きに処断して欲しいと書き添えてあった。

非常識かつ勝手な言い分だが、それでも対外的には宇喜多家とは関係の無くなった一個人に対してまで責を負う必要はない。


長船よりの書状を受け取った光秀は渋面を作ると、重々しく口を開いて宇喜多家の臣従について信長へと(はか)る旨を返答する。

詳細な条件等については信長の判断を待つことになるが、山賊に等しい武装勢力となった直家の存在が気がかりであった。

浦上への対処だけでも頭を悩ませているというのに、ここへきて非道かつ謀略に満ちた乱世の梟雄(きょうゆう)たる直家が加わったことで光秀は胃の腑が傷むのを感じる。

光秀としては敗走した浦上など放置して西へと進みたいところだが、放置したまま背後を突かれるのも面白くない。

そこで吉井川を渡った先にて陣を張り、軍の再編成をする合間に斥候を放って浦上が逃走した先を調べることにする。

予想に反して浦上の行方は容易に知れた。聞き込みをするまでもなく、取り戻した高瀬舟を操って渡河を手伝ってくれた民が教えてくれたのだ。

なんと浦上たちは吉井川沿いに北上を続けた先に存在する中州と浅瀬が出来ている地点を渡り、吉井川の東側に存在する天神山城へと入城したという。

土地鑑の無い光秀が渡河できる地点を見つけ出せるか判らない上に、折角吉井川の西へと渡河しながら再び戻る手間を考えれば取り得る手段は決まっていた。

光秀は再編成した軍を纏めて西へ向かうことを決め、浦上に背後を突かれる可能性を承知した上で放置することにする。

長船からの使者が言い残した内容に拠れば、出奔した直家は西に向かって備中へ入った可能性を示唆されていた。


「このまま進路を西に取った場合、備中にて件の前当主とぶつかるやも知れぬ……」


明らかに作為的な直家の進路について光秀としては思う処があるのだが、それでも先に進まないという手はないため光秀一行は直家を追うかのような形となった。



一方で天神山城にて直家からの返事を受け取った浦上は落胆していた。

明智軍という差し迫った共通の敵があれば手を結べるかもしれないと期待していたのだが、あっさりと期待は裏切られてしまう。

しかし浦上とて歴戦のつわものであり、直家に敵対されぬのならばと明智軍の動向を探ることにした。

浦上としては渡河した明智軍が再び戻ってくる可能性は薄いと考えており、彼の予想通り明智軍はこちらに構わず西へと進路を取ったようだ。

直家は浦上の使者に対し、自分は備中国の忍山城にて明智軍を待ち受けると伝えていた。

このことから明智軍を東西から挟み撃ちに出来ると考えた浦上は、早速光秀を追いかける形で備中へ向けて出陣することにした。


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― 新着の感想 ―
楽しく拝読しております。静子ちゃん、ノブを救うことができるかなぁ?(ドキドキ) > 吉田郡山城攻めの火蓋が切って落とされた。 火蓋は「切る」、で、切って落とすのは「幕」です。
静子が本能寺の変を危惧するのは分かるんですが、逆に通信とか整備されて人脈もある彼女にも知られずに準備って至難の技のような… それよりはこのお話しでの全国統一がどんなになるか気になりますねぇ 徳川のよう…
これで通算、3度目の読破完了です 新話も3話入り中々の読み応えでした、ほんとに何度読んでも引き込まれる、正に大秀作と思います。漫画も伏せて読んでますが、小説のほうが自分には想像をひらめかせれるのでより…
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