千五百七十九年 八月下旬
安芸国の北部に位置する高田郡の最北端に川根村が存在する。小高い山と村のすぐ側を流れる大きな川に挟まれた典型的な寒村であり、村人以外に訪う者など居ないような場所に突如として客人が現れた。
日がまさに中天へと差し掛かろうとする中現れた客人たちは、見慣れない衣装に身を包んだ物々しい姿をしている。
彼らは村民に促されるままに村長宅へと案内され、大いに歓待されることとなった。
通常であれば田舎の村は閉鎖的であり、よそ者を嫌うものなのだが彼らは村へと大量の手土産を携えて訪れたため時ならぬ宴が開かれることとなったのだ。
「ようこそおこし下さいました。大したおもてなしもできませぬが、せめて腹一杯食うていってくだされ」
かねてより塩不足に悩まされていた村にとって客人が齎した物資は天の恵みに等しく、彼らは村の一角を間借りする対価としてそれらを提供してくれた。
客人の物資は大量の保存食や酒・調味料に加えて衣類や鉄器等の生活必需品など多岐にわたり、村人にとっては喉から手が出る程に欲しい物ばかりであった。
こうして村中の人々が集められ、女衆の作った料理と酒で大賑わいとなる。
宴もたけなわとなったころ、客人たちは村長に自分たちは山を越えて道を作る準備をしていると言い、この村を山越えの道に対する玄関口としたいと申し出た。
しかし山は領主の持ち物であり、村長たちは税を納める代わりに利用させて貰っているに過ぎないため決定権などありはしない。
客人たちもそんな事は百も承知であり、要するに自分たちがやっていることを見ないふりをしてくれさえすれば良いのだと言う。
山奥の山村にありがちな話なのだが、村人たちにとって領主とはキッチリと税は取りに来る癖に災害や飢饉などの際に何の援助もしてくれない存在だ。
そもそも中央との距離があるため緊急時には連絡がとれず、また立地的に外敵に攻められる恐れもないため支援なども後回しになってしまうと言う領主なりの言い分も存在するのだが、村人にとってはそのような事情は考慮に値しない。
村長は客人たちの申し出に返事をすることが出来ないでいたが、積極的に拒絶もされなかったためなし崩し的に黙認する流れが出来てしまった。
要するに客人たちからの物資によって潤ったため、共犯者意識が芽生えたのだ。
村を挙げての大宴会の後、客人は村はずれの一画に小屋を建てて逗留し、連日その小屋に物資を携えた山越えをしたと見られる客人たちが出入りするようになった。
客人たちは皆一様に村人に対して好意的に振る舞い、毎回物資を分け与えてくれるのだ。
気が付けば村人たちは客人たちに対してすっかり警戒を解いてしまっており、山を越えて運ばれてくる様々な物資の運搬を手伝ったりするようにすらなった。
そうしている間にも、客人たちの小屋はいつの間にか複数の倉庫が立ち並ぶ物資集積基地へと変貌しており、村の総人口を超える人数が駐留するようになっていた。
村人も一時期は増え続ける人員に警戒していたのだが、彼らは手すきの時間に村人の農作業を手伝ったり、大雨で通れなくなった道の修繕なども自主的に行ったりと村の運営に貢献してくれている。
こうしてすっかり客人たちが村に溶け込んだ頃、ついに山越えの本隊が村へとやってきた。
山陰から幾つもの山々を越えて川根村まで到達した秀吉軍の本隊は、秀吉の腹心たる福島正則によって率いられて到着する。
本隊の兵士たちは畳一枚分ほどの大きさで漆喰様の外観を持つ薄い資材を大量に持ち込んできていた。
福島は幼少より秀吉に仕え、史実に於いては『賤ケ岳の七本槍』筆頭に数えられた武将である。
秀吉とは従弟(福島の母が秀吉の叔母となる)にあたり、同じく血縁にあたる加藤清正と並んで重用されている。
福島の到着によって村長は彼らが秀吉軍の一部隊であると初めて知らされ、領主である毛利輝元と敵対する勢力を招き入れてしまったと気が付いた。
ことがここに至れば既に後の祭りであり、今更秀吉軍の居場所を密告したとて処罰は免れない。
更に彼らから齎された戦況を聞くにつけて、どうも毛利方の敗北は時間の問題であり、引き続き秀吉軍に協力する方が良い未来が開けると判断した。
福島は村長らに今後もこの山越え街道を整備し続けて、山陰と山陽を結ぶ物流経路の出入り口として彼らの生活を安堵すると約束する。
こうして双方の利害が一致した為、村人総出で協力する体制となり、村はずれの物資集積基地は福島率いる秀吉軍の駐留拠点として拡大を続けた。
一方、肝煎りの塹壕戦で光秀軍に敗北を喫した浦上宗景は、生き残った軍を率いて天神山城まで逃げ戻って籠城を続けていた。
前の会戦では吉井川を挟んで空堀を構え相手を待ち受ける必殺の陣を敷いたというのに、まるでこちらの策を予期していたかのように対応されて潰走する。
置き土産とばかりに最低限の足止め工作はしたものの、準備に多くの資金と労力を費やした挙句に何の戦果も得られぬまま敗走したとあって浦上軍の士気は地に落ちていた。
それは浦上本人にとっても同様であり、知将として名高い明智光秀にとっては己が思いつく程度のことなど児戯にも等しいと思い知らされる。
すっかり弱気になってしまった浦上は、織田軍と敵対するにあたって袂を分かった宇喜多直家に遣いを出して協力を求めることにした。
浦上と宇喜多との関係性は複雑であり、かつて宇喜多は浦上に仕える家臣であった。
しかし信長が足利義昭を将軍に据えた際に、将軍に従わない姿勢を取っていた主家の浦上と対立して反旗を翻すに至る。
そして義昭が信長と対立した結果放逐され、将軍職を返上して毛利家預かりになりながらも復権しようと画策する様を見て、流石の宇喜多も義昭を見限ってしまった。
主従が対立する原因が宙ぶらりんのままだが、その後も二人は和解することなく宇喜多は独立独歩の姿勢を貫いていた。
浦上としては落ち目となってはいるものの西国の雄たる毛利家に迎合することなく、織田軍に対して存在感を示した上で有利な条件のもと和睦するのが狙いである。
和睦前提ではあるものの織田家に敵対する姿勢は共通しているため、宇喜多とも手を結べる可能性があると踏んだのだ。
しかし宇喜多も斎藤道三、松永久秀と並び戦国の三大梟雄(残忍で勇猛な人物のこと)に数えられる人物であり一筋縄ではいかない。
「よもや主君を追い出して国を奪った奸臣に対して協力を呼び掛ける程までに落ちぶれたか」
宇喜多は居城たる備前岡山城にて浦上からの使者を前にそう言い放つと、暫し瞑目して考え込む。
かつての主君たる浦上は、内政にこそ問題があるもののいくさ巧者で知られる人物だ。
彼をしてすら鎧袖一触に侵攻してくる明智軍の存在は、備前・美作の国主として見逃すことが出来ない。
彼らの主君である織田信長が西国平定を掲げている以上は素通りしてくれるはずもなく、必ず一戦交えることになるだろうことは想像に難くなかった。
既に瀬戸内海での大海戦の結果は皆が知るところとなっており、海路を通じて逃げのびることも叶わない。
そうなれば因縁のある相手ではあるものの、浦上と協力態勢をとる方が己にとって利があると考えた。
「良いだろう! 使者殿、御勤めご苦労であった。こちらはこちらで勝手に動くが、協力はすると主君に伝えられよ」
浦上の使者は露骨に安堵した表情を見せると、一礼して謁見の間を辞した。
浦上が一番恐れていた事態は明智軍と宇喜多軍によって挟み撃ちに遭う事であり、少なくとも明智軍と交戦中に背後を襲われる心配が無いだけでも交渉の甲斐があったというものだ。
浦上からの使者を帰した後も宇喜多は思索を続けていた。
日ノ本の趨勢は既に織田に傾いており、どれ程抵抗を続けようとも最終的には敗北を受け容れるしかないことは理解している。
既に東国全体が織田の支配下となっている以上、時間を掛ければ掛ける程に織田を利することとなり窮地に追い込まれるのは自明だった。
己が今までやってきた裏切りと謀略の数々を思えば織田家に下ったとて決して信用されず、西国平定の後には改易(領地替えのこと)を受けるなどして力を削がれるだろう。
悩む宇喜多に突如として天啓が舞い降りた。己に信用が無いことが問題であれば、家督を息子に譲って隠居した上で宇喜多家は侮れないと織田軍に示せば万事解決するのだ。
宇喜多は御年五十を迎えており、戦国時代の武将としては長寿の部類である。家を残す為ならば己を賭けることに否やはない。
心が決まると宇喜多は不敵な笑みを浮かべ小姓に妻子を集めるよう命じる。
嫡男の秀家が七歳と年若いことだけが懸念事項だが、勝てないいくさであろうとも負けない戦い方が出来ることを示してやろうと闘志を燃やすのだった。
時は少し遡り吉井川の戦いに於いて浦上軍が敗走する様を対岸から眺める明智光秀がいた。
虎の子の霰弾を用いて勝利を決したものの、依然として渡河の手だてもない上に更なる難事が重なる。
それは撤退する際に浦上軍が塹壕として利用していた空堀に対して、吉井川の水を引き入れる水門を開いて逃走したことにあった。
恐らくは足止め工作なのだろうが、対岸にいる光秀にとってそれを阻止する手段などなく、歯噛みしながらも見守ることしか出来ない。
周囲に放った斥候によって得られた情報から、付近の村々からは徹底的に高瀬舟が徴発されてしまっており、一隻たりとも残されていないとのこと。
集められた高瀬舟の行方を知るものはなく、今更建造しようにも相当な期間の足止めを食らう事は必須だった。
その上対岸は浦上の工作によって土を掘り固めて作られた塹壕が、時間と共に泥沼と化すため更なる足止めが予想される。
互いに決して口には出さないもののライバル視している秀吉に後れをとりたくない光秀としては、この遅滞戦術に頭を抱えることとなった。
「地元の者からの話では吉井川に渡された橋はなく、高瀬舟が唯一の渡河手段だったとは……」
「民達も川渡しや運送によって糧を得ていた者が困窮し、皆で扶助し合っているようですがいつまでも続きますまい」
「ならば略奪された高瀬舟の行方を捜さねばなるまい。よもや破壊しているとは思えぬが」
光秀は配下から寄せられた情報を加味し、幾らか手勢を分けて周辺を探索するよう命じる。
それと並行して万が一高瀬舟が見つからなかった場合の渡河手段についても思案していた。
大砲用の測距儀を用いて川幅の概算を求めると、百メートルには及ばないものの相当な川幅であることが判明する。
ここまでの距離となると仮設の橋を架けるようなことも出来ず、川幅が広くなっている以上は下流域だというのに流れも速いため荷物を抱えて泳ぐなど不可能だろう。
本当に打つ手が無くなった場合は、木材を集めて筏を幾つも組んで縄で連結し、吉井川を渡す筏橋を考えるが安定性に欠ける上に必要となる木材は何処から調達するかという問題が残る。
地元住民に尋ねて別の川幅が狭い渡河地点を見出すか、本格的に高瀬舟建造の為に足止めを覚悟したところに朗報が届く。
光秀達が居る地点より数キロメートル程も上流に遡ったあたりに、大量の高瀬舟が石などを積載させた上で川底に沈められているのが発見されたのだ。
流石の浦上とて民たちの糊口を凌ぐ手段を奪っては、今後の統治に支障が出ると判断して高瀬舟を隠すにとどめたというところだろう。
住民たちの協力も募って錘となっている石をどければ、再び高瀬舟は水面へと浮上して元の役割を果たしてくれそうだ。
こうして明智軍は浦上たちの敗走から二週間近くの足止めを食らったものの、再び吉井川を越えて進軍を始めるのだった。
その頃鳥取城に陣取っていた秀吉の許へ周辺を調査に出ていた両兵衛が帰陣する。これに合わせたかのように新式銃を装備した静子軍の二大隊が派遣されてきた。
今までから単発式の新式銃が徐々に各方面軍へと払下げされていたのだが、今回派遣された大隊が装備している新式銃は挿弾子もしくはストリッパークリップ等と呼ばれる画期的な仕組みが施された連発銃であった。
挿弾子とは金属製のガイドレールにライフル弾の尾部を噛ませるように装填し、ボルトを引いて排莢するだけで次弾が撃てるようになるというものだ。
従来の黒色火薬を用いた銃弾であれば燃え滓等が銃身に残るため、一発ごとに銃身の掃除をしない限りは次弾を発射することが出来ないでいた。
ところが尾張に於いて無煙火薬の製造が始まったことで連発銃の実戦配備が可能となったのだった。余談だが秀吉軍の山越えルートを担う斥候達が装備しているのは払下げられた単発式の新式銃である。
それでも火縄銃とは比較にならない性能を誇るため、交戦して鹵獲される可能性の少ない部隊などに配備され、紛失や破損に関しても徹底的な管理がなされている。
たった五連発とは言え従来の火縄銃とは比較にならない連射速度であり、鉄砲隊の持つ制圧能力は飛躍的に伸びていた。
各地に間者を派遣して事前に情報を掴んでいたとはいえ、厳しい戦況のなか更なる戦力が秀吉軍に加わったことを毛利陣営は脅威として受け止めた。
ことがここに至って初めて毛利陣営は秀吉の本気を思い知ることになる。
戦況が秀吉軍優位で推移している状況に於いて、自陣営ではない静子軍の部隊を借り受けるということは手柄を譲ることに等しいのだ。
つまり秀吉は手柄を他者に譲ってでも早期決着を望んでおり、秀吉本人は今年予定されている静子の後継者たる四六の元服式に参加したいのだと思い込まされた。
秀吉はかつて京で行われた信長の御馬揃えにも参加出来ておらず、四六の元服式には是が非でも参加したいというのはまごうこと無き秀吉の本音ではある。
「さてさて奴らの期待に応えて、真正面から毛利攻略のフリをしようではないか」
毛利陣営の推測は若干の真実を含みながらも本質を捉えていなかった。秀吉は年内に毛利の居城である吉田郡山城を落とす気でいる。見誤っているのは静子軍の運用方法についてであった。
圧倒的射程距離と連射能力による制圧能力は頼もしいのだが、秀吉は静子軍を敵軍の正面に立たせるきは無かったのだ。
「兄上! フリでは困ります。本気で正面突破するつもりで行動して頂かねば相手に気取られまする」
「わかっとるわい!」
弟である秀長の突っ込みに対して秀吉はぶっきらぼうに応じる。
鳥取城と毛利家の本拠地である吉田郡山城との間には現在の鳥取県から広島県に掛けて直線距離で百キロメートル以上の距離が存在した。
故に如何に秀吉が本格的に侵攻を始めようとも、山陰地方の鳥取城と山陽地方の郡山城とでは間に険しい中国山地を挟んでいるため差し迫った脅威にはならないと思われている。
しかし皆の予想に反して秀吉軍は鳥取城を出ると猛然と山陰地方を西へと侵攻する進路を取り始めたのだ。
誰しも中国山地の山越えを予想していないだけに、秀吉のこの動きは周防国(現在の山口県)を経由して安芸国(現在の広島県)へと東進し、明智軍と挟み撃ちにすると予想された。
「さて、毛利どもを震えあがらせるには最初が肝要。静子殿の軍に伝えよ、初戦はお任せいたす自由に攻められよとな」
秀吉は静子から鉄砲大隊が単体で独自の作戦行動を遂行できるだけの能力があると聞かされていた。ならば最初はお手並みを拝見し、期待通りであれば毛利が震えあがることになり、期待外れであれば以降は自分が主導権を握れば良いと考えた。
どちらに転んでも秀吉にとって損はなく、東国に於いて猛威を振るったとされる新式銃部隊がどの程度のものかを測る試金石になると両兵衛も秀吉の考えに賛同する。
特に黒田官兵衛は静子軍が開発した新式銃については噂でしか存在を知らず、武田軍を打ち破る契機となった装備の実力をこの目で見てみたいと懇願していた。
「黒田殿が張り切っておられましたな。如何に新式銃を見る為とは言え、軍師自らが最前線に赴くとは困ったものだ」
現在秀吉軍の最前線を務めるのは静子軍だけではなく、両兵衛が帯同している秀吉軍の本隊も加わっていた。
敵軍からすれば秀吉の馬印である千成瓢箪が掲げられているため、秀吉本人が先陣を務める大侵攻だと理解できた。
鳥取城を出た秀吉軍が最初に向かったのは、伯耆羽衣石城であった。
羽衣石城は南条氏が代々治めており、数年前に病死した先代当主の南条宗勝の後を継いで嫡男であった基続が当主を務めている。
基続は先代の死を毛利の謀略によるものだと考えており、秀吉の調略に応じて織田方についたという経緯があった。
このため秀吉軍は羽衣石城で補給を受けるとそのまま素通りして西進を続け、伯耆蛇山城を目視できる距離にまで至る。
静子軍の活躍を期待して盛り上がりを見せる秀吉軍とは対照的に静子軍は冷静そのものである。
城を見れば即座に攻め入るかと思いきや、事前に先遣部隊を派遣した上で数日を掛けて情報収集を行っていた。
城主である塩見氏は攻め入ってきた秀吉軍の大軍を見て籠城を決め込み、降伏の呼びかけには応じようとしていない。
こうして当初の予定通り城攻めが行われることとなり、その先鋒を務めるのは静子軍となった。
彼らは事前に収集していた情報を元に現地に赴いて監視の目が薄い箇所を割り出す。
それらの情報を統合して作戦を立案すると、彼らの動向を気にして帯同していた黒田官兵衛に向かって告げた。
「我らはこれより作戦行動に入る。作戦の詳細は語れぬが、数日中にも城を落としてみせよう」
そして官兵衛は彼らが口だけではないことを知ることになる。
彼らは実に堅実であった。部隊を真正面から攻略に挑む本隊と、陽動や奇襲を行う遊撃部隊とに分けて蛇山城へと攻め入った。
蛇山城は土塁を巡らせた広大な曲輪を備えており、主郭からは静子軍の侵入が丸見えになっているのだが彼らは臆することなく主郭へと攻め上がる。
ただし城の正面口に相当する大手側は東側に存在するため、搦手口となる西側から曲輪へと侵入した。
彼らは長射程と貫通力を活かして次々と防衛設備を沈黙させ、新式銃では決定打に欠ける場面においては擲弾筒を更に小型化して兵士が携帯出来るようにした手榴弾で対応する。
安全ピンを引き抜き導火線の燃焼が始まったのを確認してから投擲し、約十秒後に炸裂するという代物だが矢狭間等に対しては充分な効果を上げた。
静子軍本隊は鉄製の枠組みの内側に木製の板を張り、その上にガラス繊維と呼ぶには太すぎる代物を編んで樹脂で固めた盾に身を隠しながら前進する。
彼らの携帯する盾は比較的軽量ながらも火縄銃の弾丸や矢、投石を通さないため防衛方はみるみる窮地へと追い込まれていった。
「いやはやこれは想定しておらなんだ。こうも容易く城を落とされては、こちらの面子が立たぬではないか」
静子軍のあげた戦果を聞いた秀吉は笑うしかなかった。日ノ本の城郭は爆発物を想定しておらず、設置型の罠に鉄砲及び矢や投石などを組み合わせて敵を撃退するものだ。
それを静子軍は真正面からスペックで殴りつけて勝利をもぎ取った。
遮蔽物に身を隠して遠距離攻撃が出来るという防衛側の利点を爆発物の投擲で覆し、城門や櫓などの防衛設備も木製の物は制圧射撃を食らって沈黙し、石造りであれば油壺や手榴弾の投擲によって無力化してしまうのだ。
これらを間近で見ていた黒田官兵衛は開いた口が閉じられない様子であったのだが、秀吉はそれらを笑って流すだけの余裕がある。
彼にとっては途中の小さな戦功など問題ではなく、最終的に光秀よりも前に郡山城へと辿り着き毛利を攻め落とせば良いと考えていた。
「我らの動きによって毛利は西側だけでなく東側からの攻撃にも備える必要がでるだろう。精々奴らを焦らせるために攻めよせるぞ!」
秀吉の言葉通り、毛利側は秀吉の動きに呼応するように山陰の様子を窺うべく周防国への防備を厚くするよう行動を取り始めた。それが秀吉の罠であるとは知る由もない。




