千五百七十九年 六月中旬
秀吉軍の山越えは難航していた。
当初の想定よりも植生が険しく、物資を積載した荷駄が通れるよう整地するのに想定以上の時間を要するためだ。
中でも秀吉軍を苦しめているのが伐根作業だった。
伐根作業とは樹木を伐採した後に残る根っこを地面から引き抜いて除去することを言い、地下深くまで張り巡らされた根を掘り返すのは尋常では無い労力を要する。
当初より伐根作業が重労働になることを見越して機材を静子に要請しており、効率的な道具を幾つも用いているのだが、それでも尚時間を要しているのには理由があった。
一つは長らく人の手が入っていない山奥に差し掛かるにつれ、植生が極相状態になっており背丈の高いカシやシイなどの広葉樹が樹冠を作り日差しを遮ってしまう。
これによって地表付近は常に薄暗く、湿った腐葉土が厚い層となって堆積し、その上を地衣類が覆っていた。
こうした植生によって昼間でも暗い上に、ぬかるんだ腐葉土に足を取られたり、広葉樹の根の上に繁茂する地衣類によって滑りやすかったりという人間には過酷な環境となっている。
もう一つの要因としてカシやシイの種子であるどんぐり類を主食として住み着いている大型動物の脅威があった。
山犬、狼に始まりイノシシや熊までが生息しており、とりわけ好奇心が強く攻撃性の高い熊との遭遇が秀吉軍の斥候部隊を苦しめている。
北海道などと異なり、山陰地方であるためヒグマは生息していないもののツキノワグマであっても人類にはかなりの脅威となるのだ。
こうして秀吉軍の本隊は伐根作業に忙殺され、先行する斥候部隊は厳しい環境と野生動物の襲撃によって疲弊していった。
「もっと腰を入れて突き込まねえか! そんなへっぴり腰じゃ、根っこどころか蔓だって切れるか怪しいぞ」
秀吉軍の本隊に於いて兵士たちを監督している黒鍬衆が発破をかけた。
静子軍にて黒鍬衆でも熟練の男は皆から親方と呼ばれ頼りにされている。
その親方が指揮する秀吉軍の兵士たちは、支給された『根切り』と呼ばれる扁平ながらも鋭い刃を持った鋤のような道具を振るう。
根切りとは読んで字のごとく木の根を切断するための道具であり、製造が容易だが比較的脆い鋳造ではなく日本刀などと同様の鍛造によって作られているため強靭だ。
ゆうに10メートルを超える背丈を誇ったカシの木を伐採し、残った切り株を伐根すべく周囲の根に対して兵士たちは体重を掛けながら根切りを打ち込む。
作業がし易いように地面を掘って根を露出させ、土や石をどけた上での作業は困難を極めた。
足元が覚束ない状態では満足に体重をかけて根切りを振るえず、腰が引けてしまうために親方から怒声が飛ぶのだ。
それでも何とか主だった根を切断すると次に登場するのが技術街の職人たちが生み出した精髄たる『チェーンブロック』であった。
チェーンブロックとは歯車と滑車に金属の鎖を絡ませて巻き上げることで重量物を持ち上げる装置である。
逆回転を防止するためのラチェット機構や小さい力で大きな重量物を動かす動滑車を始め、数百点にも及ぶ高い精度の部品を組み合わせて作られているチェーンブロックは、港湾などで活躍しているクレーンにも利用される重要かつ高価な装置なのだ。
チェーンブロックの外観は上下に金属製のフックが付いたクレーンの先端に環状になったチェーンがぶら下がっているというものである。
「よし、支持架を立てろ!」
親方の号令で単管パイプが3本持ち寄られ、結合用のヘッドを取り付けて三脚を構築する。
各脚の先端がパイプのままでは安定性が悪いため、三脚ベースと呼ばれるパイプ受けに滑り止めのスパイクが付いた土台を履かせることで安定性を確保させた。
それぞれの三脚ベースが広がってしまわないよう、各三脚ベースをロープで結んでテンションを掛ける。
この状態で三脚に対して下方向へ全員で押し込んでしっかりと固定されていることを確かめた。
次にチェーンブロック本体のフックを結合用ヘッドの金属製の輪っかに通してぶら下げ、切株本体と根っこに結びつけたロープをチェーンブロック下部のフックに掛ける。
そうして準備が整ったところで力自慢の兵士が数人掛かりでチェーンを引くと、しっかりと大地に根を張った切株が少しずつ持ちあがり始めた。
「チェーンの破断に気を付けろ! 鎖の隙間に軍手が巻き込まれないようにしろよ!」
軍手とは太い木綿糸で編んだ左右の区別が無い手袋であり、更に指の腹や手のひら部分に滑り止めの樹脂を接着材で貼り付けたものだ。
これも静子軍から支給された黒鍬衆の装備であり、手を保護しつつも高い摩擦力を活かした滑り止めによってチェーンがすっぽ抜けるのを防いでいる。
ギャリギャリと金属同士が擦れる音を立てながらチェーンを引っ張り続けること数十分、ついに数百キログラムはあろうかと言う切株が空中に持ちあがった。
持ちあげられた切株は、根っこで大量の土や石を抱え込んでおり、これを叩き落として少しでも重量を軽くしてから吊るしたまま幾つかに分割され進路上から退けて邪魔にならない位置に廃棄する。
この後役目を終えた三脚は各パーツに分解されて点検と清掃を済ませ、伐根跡の大穴は埋め戻された上で踏み固められてようやく一株の伐根作業が完了した。
このように膨大な手間と時間を掛けて少しずつ少しずつ進んでいくため、秀吉軍の進軍速度は非常にゆっくりとしたものになってしまっている。
それでも大人数かつ事故にさえ気を付けていれば危険の少ない本隊はまだマシと言えた。本当に過酷な状況に置かれているのは、本隊に対する先遣隊として進路を確保している斥候部隊であった。
秀吉軍の斥候は本隊に先行して進行ルートを確保するべく三人一組のスリーマンセルで行動し、数組の斥候がかわるがわる放たれて探索範囲を広げる。
彼らは道なき道を踏破しつつ、地図を作りながらその範囲を拡げていた。
中でも重要なのが給水地点となる川や沢などを発見することだ。従軍している兵站部隊によって十分な糧食は確保されているものの、飲料水以外にも何かと水は必要となるからだ。
人間が水を必要とするように、野生動物にとっても水は生きる為に必要な資源であるため斥候達が野生動物と遭遇する確率は必然的に高くなっていた。
そうこうしている間に斥候部隊が定時連絡の為に集結すると、一組の斥候達が戻っていないことが判明する。
不測の事態に陥り遅れている可能性を考慮して少し待ったが戻る様子はない。件の斥候達については今まで問題行動もなく、脱走した可能性が低いことから捜索隊が組織されることとなった。
斥候一組が帰還しないだけで全体の作戦を遅らせる訳にはいかないため、三組の斥候が捜索隊として活動する間も本来の探索は継続して行われる。
捜索隊が出発して二刻(約四時間)経過した時点で三組のうち一組が報告の為に戻ってきた。
「消息が分からなかった斥候たちが見つかりました。恐らく熊に襲われたと思わしき、凄惨な姿でした……」
「そうか、ご苦労であった。熊の習性については聞き及んでおろう? よもや遺体を回収してはおらぬな?」
「はっ! 現場に残った二組は一組が周辺を警戒しつつ、現場の検証を行っております。その後に遺髪を少し回収して戻る予定となっております」
秀吉軍が山越えを行うにあたって、地元の杣人及び静子から付近に生息している大型野生動物の習性については周知されている。
群れで狩りを行う山犬や狼、低い姿勢で突進してくる猪の危険性と並び、熊全般が持つ特異な習性は念入りに解説された。
それは熊が己の獲物に強い執着を示すことである。熊は己が狩った獲物を食べきれなかった際に、土に埋めて残して立ち去り、あとで食べに戻ることが知られている。
その時に土饅頭と呼ばれる状態から遺体を持ち去ろうものなら、犬の7倍にも達するという嗅覚で収奪者を何処までも追跡してくるのだ。
ゆえに秀吉軍には兵士が熊に襲われて犠牲者が出た際に、遺体を発見しても持ち帰って供養しようとしてはいけないと繰り返し言い聞かせていた。
場所は変わって犠牲となった斥候と熊が争ったであろう現場検証にあたっていた斥候たちは事件の概要を掴みつつあった。
物言わぬ遺体となった斥候たちは土饅頭にもされておらず、凄惨な傷口を晒したまま放置されていた。
一人は片腕が肩口から欠損してしまい、また首筋に牙を立てられたのか咬傷(動物などに噛まれた傷)がある。
別の一人は熊の爪が顔を直撃したのか、鋭い爪傷が刻まれた上で顔面の皮膚が大きく剥がれ、また凄まじい衝撃を受けたためか頸椎が折れて頭があり得ない角度を向いていた。
最後の一人は他の二人から大きく離れた位置に横たわっており、熊の爪による攻撃を腹に受けたのか臓腑をぶちまけて絶命していた。
ヒグマと比べれば小型となるツキノワグマの仕業と思われるが、戦闘訓練を受けた上で武装した兵士が三人も犠牲となったことに戦慄を禁じ得ない。
現場に残された足跡や血痕、木立に刻まれた爪痕と最後の一人が最後まで握りしめていた新式銃の存在から報告が纏められる。
多分に推測が含まれるものの、そう大きな相違はないであろう報告書によれば事件の概要は次の通りだ。
斥候達は日暮れを前にして現地で夜を明かすべく、一人を報告に遣わせて野営の準備を行っていた。
彼らは慣れた手つきで準備を進め、支給された携帯コンロで火を熾し、湯を沸かして食事の準備を整えていたようだ。
何度も繰り返された手順に慣れ切っていたため、そこに油断が生じていたことに誰も気が付いていなかった。
沸かした湯に出汁入りの味噌玉を溶かして味噌汁を作りながら、その香しい匂いに鼻をひくつかせていた折に事件が起こった。
野営地を離れて報告に向かった斥候が消えた闇から大きな物音が響く。
慌てて即席の松明を片手にそちらに駆け寄った二人が目にしたのは、木立に叩きつけられて血を流す男の姿であった。
周囲を警戒しながら介抱しようと屈みこむと、闇の中からのそりとツキノワグマが姿を現す。
「なっ!」
地に伏した男がうつ伏せであったことから傷口が見えず、イノシシに撥ねられたかと思っていた二人は驚愕の声を漏らした。
「どういうことだ、熊は昼間に活動するのではなかったのか!」
「騒ぐな! 杣人が口にしていたであろう? 恐らく炭焼き小屋でもあるのだろう、人の生活圏付近では夜に活動することがあると」
「最悪だな」
疑問を呈した男が吐き捨てるように言い放つ。その間にも熊は大きく鼻を鳴らしながらじりじりと近づいてきていた。
二人の斥候は背に冷や汗が流れるのを感じつつ、慌てて背を向けて逃げ出せば熊が興味を覚えて追跡してくることを思い出し、熊から目を離さないようにしつつ後ずさる。
後ずさったことによって光源の位置が変わり、二人の位置から倒れた男の腸が地面に零れてしまっていることに気が付いた。
「熊公は我らを見逃してくれるだろうか?」
「我らを警戒してはいるが、それよりも興味が勝っているのだろう逃がしてはくれぬだろうよ。野営に際して武器を手放したのが悔やまれる……」
「彼が持っている銃は使えそうだが、彼はもう助かるまい。彼の槍と刀を拝借してこの場を乗り切るしかあるまい。走って逃げた処で熊の足には敵うまい」
意外にも熊は足が速く、荒れた山道であっても時速50キロメートルにも達する速度で走ることが出来るのだ。
平地であってさえ時速30キロメートルにも及ばない人間が、鎧を付けた状態で逃げたところで結果は火を見るよりも明らかだろう。
その時、意識を失っていたであろう倒れた男がうめき声をあげる。その声を耳にした二人は咄嗟に倒れた男を引き起こすべく手を差し伸べてしまった。
それが最悪の結末を引き起こすとは、誰も思わなかったであろう。
己が仕留めた獲物を横取りされると思った熊は、一声吼えると手を差し伸べた斥候に襲い掛かる。
「おおお!」
前傾姿勢になっていた男は、前転しながら熊の噛みつきを避けつつ地面に落ちていた刀を掴んで起き上がる。
転がった体勢から立ち上がって振り向いた男は、目の前まで迫る後ろ足で立ち上がった熊に向かって果敢に斬りかかった。
しかし、男が横凪ぎに振るった刀は脂で滑る針金のような熊の獣毛に阻まれて歯が立たない。
一方立ち上がった熊が振り下ろした爪は、男の腕を肩口から引き裂いた。
そのまま体重を掛けて押し倒されて肩口に喰いつかれ、男は絶叫を上げる。
残った斥候は、最初に倒れた男が持っていたであろう短槍(1.5メートル程度の槍)を拾い上げると、今まさに仲間を食っている熊に全体重を載せて短槍を突き込んだ。
決死の攻撃は熊の腹に突き立ち、流石の熊も苦鳴を漏らして倒れた男から頭を離す。
しかし、短槍を突き立てたことで足が止まった斥候に対して熊の反撃が飛ぶ。
体重を掛けて前傾姿勢になっていたことが災いし、熊の一撃が斥候の頭を直撃すると凄まじい膂力によって斥候の頸椎は砕けて折れた。
頸椎骨折によって即死した男が頽れる中、一発の銃声が轟いた。
最初に倒れた男は意識を取り戻し、仲間が熊と戦っているのを見て最後の力を振り絞り、大きく隙を晒した熊の腹へと銃弾を叩き込んだのだ。
「へっ……ざまあ見やがれ畜生が……」
とうに致命傷を受けていた男は口まで込みあがってきた血を溢しながら言い放つと、最期まで新式銃を抱えたまま息絶えた。
比較的柔らかい腹部に至近距離から貫通力の高い新式銃の一撃を食らった熊は、それでも生きていた。
容易く狩れる獲物だと思っていた三人から激しい抵抗に遭った熊は、受けた傷を癒すべく現場から立ち去ることにした。
銃撃で受けた貫通銃創から血を流し、突き立てられた短槍をぶら下げたまま遠ざかる姿は野生の生命力が如何に強いかを証明していた。
「そうか……」
斥候部隊に戻った捜索隊は、部隊長に対して報告を行うと遺体から切り取った遺髪を渡す。
捜索隊は念の為周囲を確認したが、熊の死体は確認できなかったため、遺体の回収を諦めて戻ってきたのだ。
同じ釜の飯を食った仲間を弔ってやれないことを口惜しく思いながらも、斥候部隊全体を危険に晒すわけにはゆかず苦渋の決断であった。
部隊長は懐紙に包まれた遺髪を預かると瞑目し、捜索隊に休憩を取るように指示すると自分の天幕へと立ち去った。
ここまで壮絶な事件は稀だが、この山越え作戦にあたって決して少なくない犠牲が出ている。
それでも彼らが仕える主君たる秀吉が立身出世を成し遂げる為には必要な犠牲であるため、彼らは心に折り合いをつけて日常へと戻っていくのだ。
余談ではあるが、後日惨劇の現場から山を一つ越えた里へと酷く弱った手負いの熊が迷い込み、住民の手に掛って彼らの胃の腑へと収まった。
秀吉軍が山越え作戦に苦労している頃、上月城を出て備前国(現在の岡山県)へと軍を進めた明智光秀も苦境に陥っていた。
上月城で光秀軍と交戦して敗北を喫した浦上宗景は、天神山城にて籠城しながら配下に遅滞戦術を命じていたのだ。
尾張や安土などの一部地域とは異なり、西国の街道は踏み固められただけのものであり、周囲の藪や林などに幾らでも伏兵を置くことが出来る。
兵士数の少ない光秀軍は斥候を放ちつつ進軍してくるため、予め伏せられていた伏兵によって斥候を狩られ少なくない被害を出していた。
虎の子である大砲も、動き回る一個人に対して撃ったところで命中するはずもなく、活躍の場が無いため分解されて荷物に成り下がっている。
光秀軍は散発的な攻撃に手を焼かされつつも天神山城を臨む吉井川の手前まで軍を進めていた。
いくさ慣れしている浦上は、遅滞戦術によって稼いだ時間を利用して吉井川の先に大規模な陣地を構築していた。
元より吉井川には橋が架けられておらず、船渡しによって対岸へと軍を進める必要があるのだが、渡し船の姿は一艘もない。
川向うの陣地には突貫工事で作り上げたであろう、荒い工事跡が見え隠れする空堀が広がっている。
そこに兵を伏せた上で、掻き集めた火縄銃を持たせていた。
手にした望遠鏡でその様子を眺めていた光秀は大きくため息をつくと深い皺の刻まれた眉間を己の指で揉みほぐす。
「早速大砲の弱点を見つけて対処してくるとは、浦上は侮れぬいくさ巧者と言えよう」
光秀軍も吉井川を挟んで陣を張り、対岸の浦上軍を睨みながら軍議を行う。
大砲の特性については静子や足満から説明を受けていたため、塹壕を掘られてしまうと苦しい立場になるというのは理解していた。
更には渡河が必要な河川を挟んで陣を張られては、兵数に劣る光秀軍では対処のしようがない。
本当であれば数多くの渡し船を準備し、一斉に渡河を図って飽和攻撃を掛けるのが一番の対策になるのだが、秀吉と光秀のライバル意識が悪く作用する。
互いに相手よりも先に毛利へと迫り、相手が遅れてくるのを待ってやったというイニシアチブを取りたいが為に進軍を急いでいたのだ。
吉井川の存在は後の世で『東の大川』とも呼ばれた岡山三大河川の一つであるため、光秀も事前に知ってはいた。
しかし、実際に目にする吉井川の威容は想像を遥かに上回っており、到底徒渡し(歩くまたは泳いで川を渡ること)出来るような川幅と深さではなかった。
恐らく浦上の手によって渡し船たる高瀬舟が根こそぎ接収されているため、軍議の場に於いてもついぞ解決策が提示されることは無かった。
「仕方がない、塹壕対策として渡されていた秘策の一つを使う他あるまい……」
光秀は費用面から使用を躊躇っていた塹壕対策に手を付けることを決断する。
光秀軍は分解して運搬していた大砲を再び組み立てると、対岸の浦上陣地に向けて配置し、厳重に封の施された軍用弾薬箱から砲弾を装填した。
まずは挨拶代わりに通常の砲弾を浦上の陣地に向けて発射する。測距儀にておおよその距離にあたりを付けて発射された砲弾は、狙い過たず空堀へと着弾する。
しかし、砲弾は浦上が見抜いた通り表面を少し抉っただけで大した成果を上げることが出来ない。
数回繰り返して観測射撃が行われた後、較正したデータを元に仰角が調整された大砲が一斉に火を噴き上げた。
それは従来の砲弾と異なり、放物線を描いて飛翔した後、下降し始めた処で炸裂し、小さな無数の鉛玉を広範囲にバラ撒く。
これが塹壕対策その一として支給されている『霰弾』であり、砲弾内部に無数の鉛玉を抱えた小爆弾が包み込まれている。
これは主となる砲弾が発射された際に同時に着火するが、内部の導火線によって時間差を置いて炸裂することで上空から死の雨を降らせるという仕組みとなっていた。
小爆弾の炸裂によって熱され、重力加速度を乗せて打ち出される多数の鉛玉は高温とその重量によって破滅的な被害を齎す。
「な……一体何が起こったのだ!?」
陣地の後方で対岸からの砲撃を見守っていた浦上は、阿鼻叫喚の地獄絵図となった自軍の様子に絶句した。
当初浦上は、対岸から散発的に撃ち込まれる砲弾が齎す被害が想定範囲内であることに安堵し、油断しきっていたのだ。
浦上が目論んだように、光秀軍からの砲撃は空堀に伏せた兵たちに大した被害を与えられていない。
そもそも火縄銃の弾薬すら貴重な中、それよりも遥かに大量の火薬を消耗するであろう大砲がいつまでも攻撃し続けられるはずがない。
弾薬が尽きてしまい焦れて無理やり渡河をしてきたところを、対岸から火縄銃と火矢で攻め立ててやればあっさりと光秀軍を追い返せると見込んでいた。
ところが蓋を開けてみれば、一斉に砲撃を受けた自軍の陣地では至るところで火の手が上がり、重傷や致命傷を負った兵たちがうめき声をあげている。
浦上がその衝撃から立ち直れない間にも光秀軍からの追撃が届く。
再び上空で花を開いた地獄の花火が驟雨(一時的に激しく降る雨)となって浦上軍を蹂躙した。
「退け! 皆の者、退くのじゃ!!」
浦上が叫ぶと撤退の陣太鼓が打ち鳴らされ、無事な者が我先にと算を乱して逃げ始めた。
空堀を掘って兵を配したがために、即座に逃げることが出来ず、負傷した兵士たちは救助されることなくその命を落とすことになる。
「いくさには勝ったが、採算が合わぬな……」
高台に立って双眼鏡で対岸の陣地の様子を眺めながら光秀が呟いた。
必殺の霰弾が齎した被害に泡を食って逃げ出す姿は敵ながら哀れですらあった。
表情の優れない光秀が手にした書類に記された霰弾の値段は、驚くべきことに通常の砲弾の20倍にも達する価格となっている。
それを二斉射もしてしまったのだ、とてもでは無いが快勝と評するわけにはいかない。
それでも塹壕対策その二として預けられている砲弾よりは遥かに安いのだから、その二に手を付けずに済んだことに胸を撫でおろす。
「霰弾は確かに効果的だが、青竹を束ねて空堀に屋根を作られるだけの対策でさしたる戦果をあげられなくなる……」
光秀は浦上が霰弾に恐れをなして、塹壕作戦を放棄してくれる未来を祈らずにはいられなかった。
西国攻めの主要人物が苦戦する中、久しぶりに安土城を訪れている静子が信長と会談をしていた。
今となっては信長こそが天下人であると誰しもが口にするようになっているが、その事実を頑として認めない人物が存在する。
それは足利幕府最後の将軍であった足利義昭を庇護する毛利家であり、毛利家を西国の雄として恃む国人衆であった。
九州については殆ど手付かずの状態となっているが、既に大勢は決した状況であり、今更反織田を掲げる可能性は低いと思われる。
九州統一を目指す島津家にしても、織田家に反旗を翻す為に統一するのではなく、いち早く九州を纏めあげることでより良い条件での臣従を目指していると言えよう。
「毛利の跳ねっ返りどもが未だに囀っておるようだ」
毛利家の頑なな様子を耳にしても信長は然したる興味を示さない。
秀吉軍にせよ光秀軍にせよ、想定よりも遅れてはいるものの着実に作戦を遂行しつつある。
当初の見込みより多少ズレ込むことはあっても、大きく計画が狂うことは無いだろうというのが信長の見立てであり、大きな問題は発生していない。
翻って毛利を盟主と戴く反織田勢力は、市場から締め出され経済的に困窮しつつあるというのに何ら有効な対策を打てずにいる。
現状を正しく認識し、沈みゆく船を捨てて未知なる大海原へと飛び出す勇気があれば助かる未来もあったかもしれない。
しかし、かつての栄光を忘れられず毛利と未来を共にする道を選んでしまった事で、彼らの運命は閉ざされてしまった。
「未だに毛利に縋っておりますが、勝ち目があると踏んでいるのでしょうか?」
信長との会談中だが室外よりの呼び声に応じていた静子がため息を吐いた。
どんな状況下でも油断せず情報を集めるよう指示している静子だが、毛利を筆頭とする国人衆の頑なな態度には辟易としてしまう。
報告を持ってきた間者を下がらせると、静子は信長に中座を詫びた。
「火急の要件かと中座しましたが、西国攻めのお二方からの要望でした」
「構わぬ。必要とあらばわしを待たせることも厭わぬのが貴様の強みよ。それで、連中は何を要求しておるのだ?」
「羽柴様は熊除けになる忌避剤を望まれ、明智様は消耗した弾薬の補充ですね。いずれも今から指示を出せば次の定期便には間に合うでしょう。それと毛利勢と繋がっている商人たちが秘密裏に支援物資を送ろうとしているようです。大した量ではないようですが、搬入経路が判明次第鹵獲もしくは焼却するようにいたします」
静子があれこれと事業を興しているのは経済振興も勿論ながら、物流に監視の目を光らせる為でもあった。
便利なインフラを整備すれば、必然的にそこに相乗りしようと利に敏い商人が集まってくる。
静子のスタンスとしては定められたルールを守るならば、敵味方を問わず対価を支払う事でインフラを利用させることにしている。
これによって従来の非効率な物流手段は徐々に淘汰され、今のように秘密裏に物資を輸送しようとしても監視の目に止まることとなる。
知らぬは当人たちばかりという図式が出来上がっていた。
「別段放置しても構わんぞ」
「我らの物流経路は毛利の支配地域を迂回する形で構築されております。つまり必ず何処かで我々の知らない物流経路に乗り換える必要があり、それを発見するのが真なる狙いです」
「中々に容赦が無いな」
「敵に裏をかかれて痛い目を見ておりますゆえ。努力でそれを回避できるのならば、この程度の苦労は如何ほどのこともございません」
「宇佐山では貴様も死地に身を浸しておったな……」
静子の言葉に信長が何処か遠くを見つめるような目をする。振り返ればあれこそが最初の転機だったのだろう。
「それで、西国攻めはどうなっておる?」
「羽柴様の山越えは概ね順調であり、時間さえかければ解決するようです。伐根作業が難攻しているため、追加でチェーンブロックを手配するように致します。山越えさえ成れば、毛利は突如喉元に刃を突きつけられた状態となります。あとは明智様と連携して一気呵成に攻めることで、遠からず毛利は落ちましょう」
「サルめの軍は頭数が多いゆえ、機材さえあれば効率が上がるという訳か」
秀吉の山越えは地元民をしても自殺に等しい暴挙であり、険しい山々を越えて秀吉軍が眼前に展開した際には毛利勢はさぞかし慌てふためくことだろう。
「この件に関しましては、私も羽柴様への支援を惜しむつもりはありません。是が非でも成し遂げて頂いて、山陰と山陽を繋ぐ街道が開通すれば中国地方全体が活性化することでしょう」
「余りサルだけに構い過ぎるなよ。日向守めが嫉妬しおるぞ」
光秀からすると静子の支援が秀吉側に偏っているように見えるようだ。双方のライバル意識あっての色眼鏡込みではあるのだが、当事者にとってはどうしても己が軽んじられているように思えて面白くないらしい。
「お二人からは四六の元服にご参列頂けるとお返事を頂戴しておりますゆえ、今年中に決着が付くように均等に支援して参ります」
「わしとしては元服に託けて貴様の覚えを目出度くする為に骨を折っておるように見えてならぬ」
「私としては、どちらも織田家にとって必要なお方ゆえ便宜を図っているだけです。元服にご参加頂けずとも態度を変えることなどあり得ません」
「そうは申しても『魚心あれば水心』と言うであろう? あ奴らもそれだけ必死ということだ」
「私はそんなことよりも東国の状況を良くする方へ注力したく思います」
「いずれにせよ貴様が口を出せるのも数年だ。そのうち上杉や徳川が独自の対応を取り始めよう。貴様は連中が良からぬ事を企てぬよう目を光らせておれば良い」
「そうですよね」
謙信も家康も信長に従ってはいるものの、彼らとて一国一城の主たる面子がある。
一挙手一投足に至るまで指示をするようでは不満を抱くようになるし、それは同盟の崩壊を意味する。
仮に主君たる彼らがそれを納得したとして、末端の家臣にいたるまでもが同じように納得できるかは別問題であり、多くの不満を抑えつけるような主君は排されるのが世の常である。
適度にガス抜きをしつつ、大筋ではこちらの思惑に従うように誘導するのが望ましい。
「方向性さえ合っていれば細かいことまでは求めません」
「それで構わぬ、奴らとて一端の国人よ。己の言動に対する責は理解しておろう」
「そのような未来が訪れぬことを祈っております。東国はそれで良いとして、毛利平定後についてのお話をお聞かせいただけますか?」
既に毛利討伐は規定路線であるが、その後について色々と決めておく必要があると考えた静子は再び信長と意見を交わすのだった。




