表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国小町苦労譚  作者: 夾竹桃
天正六年 織田政権
235/246

千五百七十九年 六月中旬

織田信忠が領主を務める美濃(みの)国の一角に、周囲をツルリとした継ぎ目のない見上げる程に高い石壁で囲われた物々しい建物が存在する。

戦国時代に於いても珍しいコンクリート壁に覆われた建物は、所謂(いわゆる)監獄であった。

重厚な鉄扉で厳重に出入りを管理された監獄へ、貴人と思われる一行が案内役の獄吏(ごくり)を伴って入ってくる。

一行の中程にあって張り詰めた面持ちで(うつむ)いているのは、静子の後継者たる四六であった。

外界と内部を隔てる高い外壁の上部には鉄条網が張り巡らされ、ここが非日常の空間であることを主張している。

俗世から切り離された監獄内には、明治時代の網走監獄を参考に作られた下部を欠いた雪の結晶に似た構造の建物が並んでいた。

それらを睥睨(へいげい)するように八方に監視塔が立ち並び、新式銃で武装した兵士が巡回している姿が見える。

これほどまでに厳重な警備を敷かれている岐阜監獄には、他では扱い切れない重罪人が収容されていた。

たとえば主君である国人を弑逆(しいぎゃく)せんと企てた者であったり、外敵を引き込む手引きをするなど外患を誘致した者であったりと国家を転覆せしめる程の罪を犯した咎人などが対象となる。


貞吉(さだきち)……何故こんな愚かなことをしでかしたのだ)


四六は無意識に唇が白くなるほどに噛みしめながら、かつて机を並べて共に学んだ友のことに思いを馳せた。

学友の名は宇野貞吉、中国から渡来した宇野氏の系譜であり、薬を売買する外郎(ういろう)氏に連なる背景を持つ。

目端が利く貞吉の父である貞次郎は、従来の漢方に根ざした薬とは異なり、症状に応じて処方される尾張由来の新薬に商機を見出した。

そしてこれを一手に担うことにより、一代で堺にその人ありと噂される程の豪商へとなり上がった。

商売を通じて得た伝手を使って息子の貞吉を静子の学校へ送り込み、最先端である尾張の学問を学ばせつつ更なる飛躍の足掛かりにしようとしたのだ。

順調に利益を伸ばしていた事業を拡大するべく、貞次郎は尾張の新薬取扱量を増やそうと試みる。

しかし新薬の卸元である静子からは了承が得られなかった。

曰く、新薬の製造設備は尾張にしかなく、製造能力の限界があるため当分は従来通りの取扱量を維持するとの回答だった。

当てが外れた貞次郎の心に魔が差した。どのような製法で作られているのか解らない尾張の新薬は、錠剤という形で提供されている。

これを砕いて小麦粉等で嵩増しし、散薬(粉薬)として流通させれば今まで以上の利益が得られるのではないかと。

幸いにして尾張の新薬を取り扱えるのは貞次郎のみであり、中でも消炎鎮痛剤はその圧倒的な効能から万能薬とすら称される程なのだ。

少々混ぜ物をした程度では解らないだろうと思ってしまった。

そしてこの思い付きを実行した貞次郎の商売は、一時的に売上を伸ばしたものの急激な顧客離れを招いて破綻へとひた走ることになる。

更に間の悪いことに貞次郎の悪事が静子の知るところとなり、新薬取扱いの条件として提示されていた改造の禁止に抵触したとして取引を打ち切られた上に賠償金を請求されてしまう。

急成長したが故に傲慢になり、欲をかいたが為に破滅するという何処にでも転がっていそうな話なのだが当事者達は生き残りに必死であった。


実家の商売が窮地に陥っていることを貞次郎からの文で知った貞吉は、有力者の子女が集まる静子の学校という環境を利用して投資詐欺を企んだ。

その手法は架空の投資話を持ち掛けて資金を集め、かき集めた出資金を持ち逃げするという単純なものだ。

しかし貞吉は今まで堺でも勢いのある大店(おおだな)の息子として羽振りが良かったことと、領主の息子である四六と友誼を結んでおり、その四六もこの投資に出資していると(うそぶ)いてそれなりの出資金を集めることが出来てしまった。

頃合いを見て逐電しようとしていた貞吉だったが、四六の名前を使ったことが災いして早い段階から行動を把握され、姿を消す前に拘束されるに至る。


こうして捕らえられた宇野親子は、その罪の重さから凶悪犯のみが収監される岐阜監獄へと送られた。

この時代に於ける国主に対する罪は連座が基本であり、当事者である貞吉は勿論のこと、関係者が全て捕らえられる。

中でも最も罪が重いと判断された貞吉だけは家族と離されて独房に収監され、四六たち一行は彼の許を訪れた。

重犯罪者隔離房と呼ばれる貞吉の部屋は、コンクリート打ちっぱなしの部屋に重厚な鉄扉で厳重に施錠されている。

四六には特別に面会が許可されているため、独房への立ち入りではなく鉄扉に備え付けられた格子窓から内部へと呼びかけた。


「貞吉、其方(そなた)に確認したいことがある」


「ふん! 俺にはお前なんかと話すことは無いな」


慣れない独房暮らしで憔悴しているようだが、貞吉は四六の声を耳にした途端悪態をついた。

まるで反省した様子の見られない貞吉に四六は嘆息すると、貞吉にとって重要な事柄を告げる。


「貞吉、お前が犯した罪はお前だけではとどまらぬ。このまま申し開きをしないのであれば一族郎党が根切り(皆殺しのこと)となるが、それでも構わぬのか?」


「なっ……」


己が犯した罪の重さを自覚していなかった貞吉は、あまりのことに絶句してしまう。

自分が処罰されるのは仕方ないと諦めていたのだが、両親や弟妹達にまで咎が及ぶとなれば黙っていられない。

一気に顔色が蒼白となり、震え出した貞吉に対して四六は感情を込めない平坦な声色で更なる事実を告げた。


「お前の父は尾張三位(さんみ)様(静子のこと)との約定を破り、粗悪な薬を新薬と偽って売り捌いた罪で別棟に捕らえてある。父親の助けを期待しているのならば無駄だと言っておこう」


「父上までもが捕まったのか……もう我が家は終わりだ……」


「私はかつて友であったお前に対する処断を委ねられている。この意味が解るならば、何故このような真似をしたのか申し開きをしてみせよ」


茫然自失の(てい)であった貞吉は、四六の告げた言葉を耳にして瞳に狡猾な光を宿す。

品行方正で誰にでも分け隔てなく丁寧に接する四六ならば、如何様にでも言いくるめられると思ったのだろう。


「貴様には解らんよ! 大国尾張の跡継ぎとして何不自由なくぬくぬくと育った貴様に、その日の(かて)にすら事欠く貧しさなど知りえまい!」


「虚言を(ろう)するな! お前こそ食に事欠くような貧しさを知るまい。それに貧しいからと言って領主に連なる者の名を騙ることが許されるとでも思ったか!」


貞次郎の商売は静子と(よしみ)を得てから急拡大したが、それまでも越中で生産されていた煎じ薬や丸薬などを扱っており、かなり裕福な家庭だと言える。

貞吉は四六が世間知らずの二代目だと思っているが、彼こそ育児放棄によりその日の食に事欠く生活を長く過ごしたため、この手の泣き落としは通じない。

四六との境遇の差から困窮ぶりを訴えれば丸め込めると思ったのだが、あてが外れた貞吉は一転して情に訴えることにした。


「そうだ……俺は貧しい暮らしが恐ろしい。父上からの文で実家の商売が傾いたと知り、つい魔が差してしまったんだ。二度とこのような真似はしないと誓う、貴様から御領主様に執り成しては貰えまいか?」


「判った」


(かたじけな)い! この恩は我が一生を掛けて――」


赦されたと思い饒舌に話し始めた貞吉の言を遮って、凍えるような声音で四六が告げる。


「何を勘違いしている? 私が判ったと言ったのは、お前がまるで反省する気がないということだ。ここからは私人としてではなく、尾張領主の跡継ぎたる公人として沙汰を言い渡す」


「な……なにを!」


激昂する貞吉を他所に四六が冷徹に告げた。


「罪人貞吉、其の方は恐れ多くも尾張領主の名を騙り私欲のために学友から金品を掠め取った罪により『打ち首獄門(斬首した後、一定期間晒し首とする刑罰)』に処す」


「貴様! 共に学んだ俺に死ねというのか!」


「それだけの罪をお前は犯したのだ。その咎はお前だけでは済まされぬ。お前の両親及び直系の親族は罪一等を減じて死罪に処すものとする」


父である貞次郎は貞吉の詐欺に加担しており、貞吉の集めた金品を手に堺を脱して西国へと下り、再起を図る計画だと言うやり取りが示された文が押収されている。

これらを踏まえて家族に咎が及ぶ程の罪を犯しながら反省すらしない貞吉にはより重い刑罰が課せられ、押収された出資金は被害者へと返されることとなった。

かつて同じ釜の飯を食った学友の変貌ぶりを憐れに思いつつ、四六は最後の一言を告げて岐阜監獄を後にする。


「さらば、かつて友であった男よ。願わくは来世では真っ当に生きよ」


非情な四六の断罪を耳にした貞吉の怒号と絶叫は、分厚い鉄扉に遮られ誰の耳にも届くことは無かった。

こうして重罪人として貞吉に刑が執行され、布告及び晒し首の過程で学友にも全く容赦しない四六の苛烈さが語り草となる。







四六が護衛を連れて岐阜へと赴いている頃、静子は東国管領の仕事として東国一帯の検地と刀狩りを実行していた。

刀狩りについては史実に於いて秀吉が行ったものと比べて幾分か穏当であり、害獣に対する備え等の正当な理由があれば村ごとに管理台帳を作って管理することを条件に継続して所有することが許された。

管理された槍や刀剣類が犯罪などに使用された場合は、村全体に対して罰が課されるため盗難や紛失などの際には速やかな届出が必要となる。

一方検地に関しては厳密に実施され、測量部隊が派遣され実際に田畑が何処にどの程度存在するかが克明に記録された。

土木工事で培った測量と製図によって各村々の正確な地図が作られ、どの耕作地が誰の所有物であるかも併記され、農民を耕作者兼年貢の負担者として割り当て(一地一作人の原則)た。

しかし、先進的な計測機器による測量は村人たちには何をしているのか見当もつかず、国人や彼らが使役する間者に至るまで精々検地台帳で管理されるようになる程度の認識でしかなかった。

東国に於ける正確な耕作面積及びおおまかな石高を把握し、また以降の検地をスムーズなものとするため度量衡の統一をも実施していった。


「上がってくる報告書を見るに、各村に配る統一度量衡用の原器が足りないみたいだけれど、優秀な事務方が育ったからか増産計画書まで添えられていて私は決裁ぐらいしかやることが無いんだよね」


そうぼやきながらも静子は淡々と書類の決裁を進める。

次代を担う事務方を育てようと尽力した結果、彼女が想像した以上に優秀な文官が育ってしまった。非常事態に対しては経験不足からまごつくこともあるが、それでも過去の事例を元に判断基準を作り、優先順位を設けて対処できる集団が仕上がりつつあった。

こうした背景もあって近頃の静子は専ら決裁するだけの人と化しており、静子のオーバーワークを懸念していた側近たちは大いに喜んだのだが、本人は暇を持て余してしまい不満そうだった。

今では静子でなければこなせない仕事以外は手順化されて取り上げられてしまい、日に日に仕事が減っていく現状を静子だけが嘆いている。


「四六は情に流されず法を執行したし、器も大人になってからはすっかり遊びにきてくれない……お母さんは寂しいなあ」


信長によって制定された法に則って非情とも言える判決を下した四六に対し、世間は仁君である(と思われている)静子との対比に戦々恐々としているようだ。

往々にして民たちというのはお上に対して好き放題評するものであり、静子も四六本人も侮られるよりは良いと放置している。

四六の成長を目の当たりにし、親としての役目が見守ることばかりになっていることに一抹の寂しさを覚えた。

幼い四六の手を引いて、きらきらとした目で見上げられながら教え導いて居た頃を思い出すと思わず眼がしらが熱くなる。

大々的に褒めれば身贔屓と見られるため、厨房の料理人に対して夕餉に四六の好物を加えるよう言い添えた。


「伊達家と最上家は膠着状態か。どちらも他家の援軍を望めないから決定打に欠けるんだろうね」


東国管領として静子が発したいくさを禁じる法令によって新たないくさの開戦が出来なくなった。

利害が対立した場合は原則として当事者同士での協議の場を持ち、それでも解決できない場合には双方の言い分を書面にして東国管領に調停を申し入れて沙汰を待つ。

その後、提示された和解案を受け入れられないのであれば最終解決策としていくさとなる。要するにいきなり力による解決を図るのではなく、段階を踏めということだ。

しかし、東国管領が仲裁に入って提示された和解案を蹴るということは当然ながらお家の存亡を掛けたいくさとなる。

また東国全体に厭戦気運が広がっており、国人たちは別にして静子の発した禁令は彼らにとって渡りに船であった。

そんな状況下に於いて唯一の例外が、既に開戦していた伊達家と最上家による東北地方の覇者を決するいくさである。

前述の禁令によって当事者同士でのいくさという縛りが設けられ、他家の介入が許されない。


「流石に面と向かって織田家に喧嘩を売る連中はいないか。後はどちらが勝つかだね」


禁令によって当事者同士での解決を原則としているため、第三者の介入が判明した瞬間に禁令に反したとして織田家が総力を以て武力介入すると東国の全国人に対して通達が出されている。

これにより利害関係がある他家にとっては指を咥えて見守るしかない歯がゆい状態となり、伊達家と最上家は互いに独力のみを以て雌雄を決する必要があった。

禁令発布前に優勢であった伊達家としては多少の不満があるものの、いくさの隙を突かれて本国に攻め入られる恐れがなくなるというメリットもあり、奥州の覇者たらんとするならばこれを受け入れざるを得ない。


「さてと、今日はこのぐらいにするかな」


各地から寄せられる決済を終えると、静子は大きく伸びをして仕事を終える。

頃合いとしては昼前であり、制限が掛かるほどのワーカホリックであった静子の働きぶりを知るものからすれば午前中に仕事が終わるなどあり得ない事態であった。

仕事道具を片付けると、静子は才蔵を伴って庭に出る。静子邸の中は小さな池を囲うように前栽(せんざい)がある程度のこざっぱりとしたもので、静子は借景を取り入れた本格的な日本庭園よりも簡素な中庭を好んだ。

因みに静子の好みに対する理解者は少なく、主君たる信長からは貧乏臭いとすこぶる評判が悪い。一時は意趣返し的に豪華絢爛な庭園を造ってやろうかとも考えたのだが、それを維持する労力を思うと二の足を踏んでしまった。


「そう言えば尾張に潜り込んでいた間者は、そろそろ上に報告をしただろうから対処して貰える?」


静子が誰ともなく呟いた途端、何者かが立ち去る気配が起こった。これは静子邸付きの間者達が彼女の命を受けて動き出したことを意味する。

近頃静子は敵国の間者をワザと泳がせていた。意図的に情報を持ち帰らせて欲しいとの秀吉の要望があったため見逃していただけであり、それぞれに監視の目がついていたのだ。

間者達の雇い主である毛利家にとって静子が尾張から動くか否かは戦略を左右する関心事である。

そして間者達が知る限り、静子は一切軍事関連の関与をしていないにも拘わらず西国に九鬼水軍が万全の状態で現れたのだ。

指揮系統としては信長の配下にあるとは言え、軍備全般に於いて静子の協力なしには九鬼水軍の運営は立ち行かないという認識であったため毛利家の動揺は計り知れない。

こういった事情から毛利家としては眼前の秀吉軍のみを注視しているだけではなく、尾張に滞在している静子の動向を是が非でも掴む必要性があった。

決して少なくない犠牲を払って尾張へと潜入した間者達は、それぞれに静子の動向を国許へと報告したはずだ。

毛利家に対して流して欲しい情報は渡せたと判断した静子は、間者の駆除を命じたのだった。


「宜しいのですか?」


今まで監視を付けつつも好きにさせていた毛利の間者達を一斉に処分すると判断した静子に、才蔵は疑問を口にする。


「人って疑問に対する答えが得られないと安心できないからね。尾張に腰を落ち着けている間は良いけれど、移動中を狙われたりしたら面倒だからね。一定の情報を持って帰って貰ったから、もう良いんだ」


「……差し出口を申しました」


今まで定期的に情報を齎していた間者達が突如として一斉に連絡が途絶えてしまう。毛利家にとって静子が動き始めた(・・・・・・・・)と誤解するには充分な状況だろう。

情報量に緩急を付けるだけで毛利としては静子の動向に対して一定の備えを強いられてしまうのだ。

実際の静子と言えば暢気に縁側でお茶を啜っているだけなのだが、神ならぬ毛利が疑心暗鬼に陥るのは無理からぬことだろう。


「真田さんに適当な噂を城下町に出入りする商人へ流すよう伝えておいて。兵たちが動員されているって言う噂が商人伝いで広まれば、毛利側も躍起になるだろうからね」


情報化社会の現代ならばいざ知らず、限られた情報で国家運営をしている戦国時代に於いて噂すら武器となり得る。

突如として一次情報が得られなくなった状況下に於いて、商人達が運んでくる噂話は得難い情報源と言えた。

商人達としても噂話はある意味商材であり、全く信憑性(しんぴょうせい)の無い噂話をするような商人は信用されない。

それ故に噂話にも一定の根拠があると判断してしまい、それが相手の仕掛けた罠だと気付くのは難しいのだ。


「さてさて、毛利家はどう踊ってくれるかな?」


脚色された噂話を元に判断を迫られる毛利家を思い、静子はほくそ笑むのだった。







先の海戦に於ける一方的な敗戦を受けて、毛利は追い詰められていた。

紛糾する軍議の場に於いても、徹底抗戦するか和睦を結ぶかで意見が割れてしまい纏まる様子がない。

どちらを選んでも毛利家の衰退は避けられず、少しでも有利な立ち回りをしようと議論が空回りし続けた。

東国に於ける武田家と北条家の結末を知るだけに、徹底抗戦をして織田家に毛利侮り難しと思わせて有利な和睦を結ぼうとする主張にも一定の理がある。

逆に早々に恭順を示して和睦を結ぼうとする一派が主張する無駄な戦闘を続けて疲弊するより、勢力を保ったまま織田家の支配下での生き残りを画策する方が毛利家の存在感を示せるという理屈も納得できる。

どちらの意見も一長一短が存在し、軍議は結論を出せないでいた。北条家に於いても同様に話し合いによって意見を纏める毛利の合議制は、強力なリーダーシップを発揮するトップが牽引する独任制と比べると動きが重いという欠点が如実に表れている。

どちらが優れているとかではなく、限られた時間の中で決断を迫られるという状況に於いて合議制の弱点が露呈した形だった。


そんな毛利家に対して更なる試練が訪れる。

長らく軍を動かさなかった静子が大坂に大規模な拠点を構えることとなり、多くの将兵が大坂へ移動を開始したとの報が届いたのだ。

東国が安堵され、西国の要である毛利が風前の灯火となっている状況での動員は様々な憶測を呼んだ。

やれ毛利を一気呵成に攻め滅ぼすための後詰であるだとか、九州までをも併呑するための先駆けであるだとかの噂話が飛び交う。

そんな混沌とした状況に於いて唯一確実に言えることは、西国の国人達にとって京まで攻め上がって天下人となる道が事実上閉ざされたということだ。

大坂は西国への玄関口であり、そこに大規模な軍事拠点など構えられては上洛など夢のまた夢でしかない。

今まで様子見を決め込んでいた西国の国人たちも、遂に織田家と戦って果てるか軍門に下って生き残るかの決断を迫られる時が訪れる。

そうした周囲の状況をよそに静子は久々の大規模工事に胸を躍らせていた。

静子軍の中でも兵站部隊の中核をなすのは土木工事を一手に請け負う黒鍬衆である。

土木工事を含む拠点構築及び維持の専門家でありながら、戦闘も熟せる技術者集団だけに大規模拠点の構築となれば面目躍如たる活躍が期待される。


「大坂城建設は上様肝煎りの公共事業、資金に糸目は付けないから多くの人を雇って存分に金を落としなさい」


大坂に大規模な軍事拠点を構える理由、それは石山本願寺があった跡地に西国を睨む要塞として大坂城を据えることにあった。

現在は丹羽長秀及び津田信澄が石山本願寺跡地を守備しているのだが、信長は西国を押さえつける関門としての同地を高く評価していた。

石山本願寺は付近に淀川の本流を擁し、海上から京へと繋がる陸の要所として戦略的にも経済的にも適した好立地と言える。

信長は大坂だけでなく、伏見にも同様に軍事拠点を構える気でいた。

南に巨椋池を擁する伏見は、大坂と京とを水運で結ぶ要であり、大坂を押さえるならば伏見を押さえないのは片手落ちと言えた。


(私が神戸を開発することと、献上した日本地図だけで利水の巨大構想を思いつく上様の発想は時代を先取りしすぎているよね)


静子は信長から一連の構想を聞かされ、彼がどうして周囲にそれを明かさなかったのかを理解した。

静子は現代の知識を持っており、水運及び海運が発達した状況を知識として持っているため理解できるのだが、他の者たちにとっては信長が巨費を投じてまで石山本願寺跡地を開発する必要性を理解できないだろう。

信長の構想では大坂を日ノ本最大規模の港として整備し、大坂から四国を経由して九州へと至る西回り航路と、紀伊半島を回り込み尾張を経由して東国及び東北へと至る東周り航路を整備するつもりだ。

海運としての航路は既に確立されているものの、信長としてはこの東西航路に対して定期就航便を運用することで物流の支配を目論んでいた。

静子を通して兵站の概念を学び、経済と物流の関連性をも理解した信長であれば水運の要である大坂の重要性を理解できるのだが、戦国時代の常識に縛られている余人には理解されないという隔絶も生まれてしまっている。


「だからと言って最初から理解を求める努力を放棄するのはやめて欲しい……お陰で関係各所に私が説明して回ることになったんだから」


信長は誰も理解できないだろうと最初から説明を放棄してしまい、静子に対して計画の詳細を共有した後は完全に彼女へ丸投げしてしまった。

お陰で静子は信長の計画を家臣達にも理解できるよう噛み砕いた資料を作成し、それを持って説明行脚の旅を強いられる。

これに際して静子は信長に一つの要求を突きつけた。それは静子以外に成し得ない仕事であるだけに、進捗は要である静子が動かないことには望めない。

仕事量に対して制限を掛けられている現状では、説明に赴けるようになるのがいつになるか判らないため、この計画に関してのみ一切の制約を設けないとの言質を取ったのだ。

こうして見事交渉を成功させた静子だったが、信長を筆頭に静子の側近たちが揃って渋い表情で嬉々として仕事に取り組む彼女を眺めていたことは語るまでもない。

(くびき)から解き放たれた静子は、早速大坂城の図案を描き始めた。

史実に於ける大阪城(・・・)は秀吉時代のものと家康時代のそれとでは異なる様式となっている。

これは豊臣色を払拭するため、徳川秀忠が大規模な改修工事を行ったためだと言われており、現代では秀吉が築城した際の遺構は埋没している状態だ。

歴史マニアの静子としてはそういった政治的な思惑が無いため、それぞれの図案から良いとこどりをして草案を描き起こした。

これを叩き台として専門家が細部を仕上げ、正式な大坂城の図面となる。

建設資材に関しては今まで苦労を強いた分、尾張の豪商たちに還元すべく彼らを優先して発注するが、勿論各地の商人達にも声かけを忘れなかった。


下準備を続けている間に季節は巡って六月中旬に入る頃、静子は各地で動員した黒鍬衆と合流しながら、尾張から安土、京を経て大坂へと到着する。

義父である近衛前久(さきひさ)の許へと派遣され、石山本願寺跡地で治水と干拓工事に従事している黒鍬衆に面会に赴き情報交換を行った。

現地での開発に関する挨拶をするため、静子は黒鍬衆たちと別れて守備を担う丹羽と津田をはじめとする有力者との会談をもつ。

既に大坂開発を行っている前久に対して説明を行うため、静子は大坂に一週間ほど滞在した後京へと戻るのだが、大坂との連絡を密にするという名目で京にとどまることとなった。


「京に来るたび朝廷の引き止め工作があるのですが、今回はしつこくて辟易します」


定期的に京を訪れている静子だが、毎回朝廷より暫くの逗留を要望する声が上がるのだ。

東国管領の任に就いている静子としては、京に滞在する期間を最低限として原則は尾張から采配を振るいたいと考えている。

かつての荒廃していた京は過去となり、今や京の治安は警ら隊によって維持されている。

それにも拘わらず静子を長く滞在させたいというのは、朝廷による静子の取り込み工作にほかならず、言い換えれば信長との離間工作であった。

当然ながら公家達の思惑を把握している信長は不敵な笑みを浮かべつつ返答する。


「敵対行為とも取れる行動を見逃す代わりに、わしの要望を通させる布石よ。貴様には迷惑となろうが、暫し相手をしてやってくれ」


静子の愚痴に対して信長は苦笑を浮かべる。

静子としては地位も名誉も権力も欲していない為、朝廷の調略に(なび)く可能性が皆無であり、彼らの干渉はひたすらに面倒でしかなかった。

それに加えて朝廷側が静子を引き止める大義名分として掲げる『京の治安維持の為』というお題目が気に入らない。

かつて静子は京の治安維持警ら隊の設立に関与しており、彼らとは長らく良い関係を保っているだけに朝廷のお題目が彼らの働きを軽んじているように思えて我慢ならないのだ。


「そろそろ現状を受け容れられないのでしょうか? 私が上様を裏切る筈がないというのに……」


「万に一つの可能性であっても、奴らには闇夜の灯火のように眩しく見えるのだろうよ。その愚かさがわしに利を齎すゆえ、今しばらくは遊んでやろう」


「それで、此度は何を要求されるのですか?」


「なにそれほど難しいことではない。西回り航路開発に当たって瀬戸内の支配者がわしであると宣旨(せんじ)を出させるのよ」


長宗我部(ちょうそかべ)殿が求めて止まなかった地位ですが、上様のことですから手回し済みなのでしょうね」


信長は敢えて静子の言葉に答えることなく笑みを深める。

武家は暴力装置であるため、その後ろ盾は朝廷の権威によって無法者との区別がなされる。

つまりは朝廷の宣旨さえあれば、瀬戸内海の統治を信長が行うことが保障され、これに異を唱えることは即ち朝敵として討伐されることになるのだ。

尤も事実上の西国最大規模を誇っていた毛利水軍が壊滅に等しい敗北を喫し、完全に瀬戸内海の制海権を手放した状態で信長に敵対するものが現れるかは怪しいところだろう。


「となれば私掠船(しりゃくせん)取締令(とりしまりれい)の布告が必要ですね。毛利水軍を破ったとは言え、小規模な海賊衆が生き残っていますから」


「確かに定期就航予定の商業船に海賊行為をされれば、商人たちが扱う商品もその分の値上げをせざるを得ないからな。ならばそれも朝廷に出させよう。取り締まる大義名分は幾らあっても良い」


「上様が瀬戸内を支配することに対する西国の国人たちからの突き上げは、朝廷に矢面に立って貰えば良いですね」


「貴様も(まつりごと)が板についてきたではないか」


「上様ほどではありませんよ」


まるで時代劇の悪役かのようなやり取りに、信長は呵々(かか)と大笑するのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 個人的には、信長モノ最高! [気になる点] 前久と足満は、従兄弟で義兄弟。ということは、足満婦人が居られると?登場したら、何となく濃姫、お市さまと同じなのかな?こんな方が静子の元に来られる…
[一言] 当時の御奉行様って市長・県長・警察署長・裁判長なんかの複合職で過労死待ったなしな職業だったって聞いたことがあるけど、暇で死にそうになるほど仕事を細分化して人財を育てきれてる静子凄すぎる。 …
[一言] 久しぶりの更新感謝
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ