千五百七十九年 四月中旬
今更改めて語るまでもないことだが、信長に対する静子の忠誠心は高い。
それは彼女が信長に仕えて以来一貫しており、幾度も訪れた信長の危機に際しても小動すらしなかった。
それどころか信長が危機に陥る度に静子の機転や奇策によって大番狂わせを実現しており、その最たるものが武田信玄の野望を挫いた三方ヶ原の決戦である。
戦国最強とまで謳われた武田軍と、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田軍との激突は日ノ本中の国人が固唾を呑んで見守る一大関心事であった。
大半の国人は第二次織田包囲網で消耗した織田軍が劣勢であるとの評価だったが、蓋を開けてみればたった一度の会戦で武田の趨勢を決する程の勝利をもぎ取って見せた。
この一事だけを見ても静子の上げた戦功は比類なきものだったのだが、彼女が自ら戦功を誇ったことは一度たりともない。
功名心や立身出世に興味を示さず、下剋上が当然の乱世に於いて稀有な忠誠を示し続けている。
この忠誠心というのはあくまでも静子自身に帰属するものであり、彼女の後継者たる四六が静子同様に主家たる織田家に忠誠を誓ってくれるかは判らない。
血筋で言えば信長の直系に当たる四六なのだが、幼少期より織田家にて虐待を受けていた四六が主家に良い感情を抱いているとは信じがたい。
静子からの報告や、折に触れてお忍びと称して信長自らが見定めてはいるものの、四六の内心までは推し量れないでいた。
更には静子が近衛前久と猶子を結んで以来、近衛家に於ける静子及び四六の立ち位置は非常に重要である。
武家と公家との橋渡しは勿論、十分な戦力を持ちえない公家に対する軍事力の提供をも担っている。
野蛮で無教養な武士が多いなか、静子軍の将兵たちは身なりも整っており規律を遵守する集団として朝廷からも高く評価されていた。
静子の影響力は軍事方面だけにとどまらない。
早い段階から教育の拡充及び技術者の育成にと腐心してきた結果、静子の薫陶を受けた知識人や技術者たちは多くが第一線で活躍しており、彼らの多くは知識や技術を与えてくれた静子に恩義を感じている。
直接軍事力に直結しない技術に関しては、積極的に広めるようにしていたことも相まってその影響力は日ノ本中へと広がっていた。
こうした縁故が紡ぐネットワークによって尾張を中心とした巨大な経済圏を形成しつつあること自体が問題となり始めている。
信長の天下統一を十年早めたと言わしめる彼女の財産を継承する者は、望むと望まざるに拘わらず日ノ本を転覆し得る存在になってしまう。
今のところ四六に危険な兆候は見えないが、人間というのは豹変しうるものであるため油断できない。
信長や前久が慎重な態度になるのも無理からぬことであろう。
静子という特異な存在だったからこそ許されていた権力・財力の一極集中は、四六が後継者として名乗り出た途端に表出することになってしまった。
「ふぅ……」
信長の口から深いため息が漏れた。自身の覇道を陰から支えてくれた力が、織田一族の未来に影を落としかねない代物となってしまったのだ。
恐らく静子が存命ならば大きな問題は起こらないだろうが、その先についてはどうなるか判らない。
天下人たらんとする信長には千年栄華とはゆかずとも、百年先を見据えた国家運営を考える必要があったのだ。
単純に解決するのならば集中した権力及び財力を幾つかの家に分散することが考えられる。
しかし分散すればするほど手綱を握ることが難しくなり、また二心なく仕えた忠臣の力を削ぐような処遇は織田家に対する求心力を弱める結果となるため悩ましい。
逆に力の一極集中を許したままにすれば、野心ある人物が当主となった途端に乱世へ逆戻りしてしまう可能性がある。
こう考えると如何に静子が得難い存在であるかが良く解るというものだ。
「ほほほ。近頃の殿はため息ばかりついておいでじゃ、答えの出ない悩みなど考えるだけ無駄でしょう」
「……悩むなというのも無理な相談よ。四六が静子の後継者となれば、静子より与しやすいと考える不心得者が必ず現れよう。静子は『それも後継者の試練』として、余程のことがない限り静観するじゃろう」
「『親という字は木の上に立って見ると書きます。我が子の成長を見守ることこそが親の務め』と静子が申しておりました」
「あ奴はどうも己の力を過小評価するきらいがある。四六が野心を抱く国人に取り込まれれば、織田の屋台骨が揺らぎかねぬことを解っておらぬ」
「ほほほ。殿ならばきっと何とかして下さると信じておるゆえ、無意識に甘えているのでしょう」
濃姫の指摘通り、静子は無意識に信長を頼っているところがある。自分の力が及ばないところは、きっと信長が何とかしてくれるという心理だ。
信長の言う通り静子は己の力を過小評価し、代わりに信長の力を過大評価する癖がある。
そして信長は静子の信頼を内心満更でもなく考えており、こうして先々のことまで気を回しては頭を悩ませているのだ。
なんと言っても尾張は既に東国随一の領国であり、この十年余りで純粋な石高だけでも百万石をゆうに超え、その他の産業や工業までをも考慮すれば五百万石とも評される発展を遂げている。
愛知用水という巨大な国家事業を推進していながらもそれだけの権勢を誇っており、日ノ本の政治や経済、文化などは尾張から発信されていると言っても過言ではない。
尾張一国だけをとってもこれほどの規模だというのに、ゆくゆくは四六が静子の東国管領の地位をも継承することが期待されている。
どれ程の傑物であろうとも、周囲が危惧せざるを得ないのは当然と言えた。
一方で器については女性であるため、家を継承することがないためそれほど危険視されてはいない。
それでも器と四六が始めた金融事業が名を上げ始めており、器の婿取りないし嫁入りについても考える必要が出てきていた。
「器には幾つか事業を任せる予定だと静子より聞き及んでおりますが、金融及び服飾と美容関係を掌握するということがどれ程女社会に影響を与えることか……」
「世に女がいる限り食うには困らぬようにとの配慮なのだろうが、男が女を求めるのは世の定めゆえ巨大な利権になるのは自明よな」
「それでも農林水産業及び医療、各種工業と技術系を避けているのは四六に配慮してのことでしょう」
いつの世であろうとも、巨大な力を持つ者は冷徹な決断を迫られることがある。それはたとえ血を分けた親兄弟であろうとも、必要ならば見捨てられるのが当然の時代であるため、女の身一つでも生きて行けるようにとの親心だった。
いつか四六と器が袂を分かつことがあっても、人の世が営まれている限り器が飢えることはないだろう。武力によって事業や財産を奪われようとも、器にはそれらを稼ぎ出せる『知恵』と『経験』を積ませたという自負がある。
織田の治世が始まり、太平の世になれば器の事務能力だけであっても喉から手が出る程に欲しい人材だと断言出来た。
「それにしても四六の元服はいつになることやら、大人の都合に振り回されて憐れよの」
言葉とは裏腹に濃姫はとても楽しげな表情を浮かべていた。
二月が慌ただしく過ぎ去り、三月に入ると春の訪れが顕著となり予想よりも遥かに早い雪解けが始まった。
これに慌てたのが毛利側の諸将たちだ。何せ例年通りならば四月の半ばごろまで積雪によって街道が通行不能となり、それまでは停戦が続くと高を括っていたからだ。
ここで現状を嘆いていても雪解けが始まったという事実は変わらない。毛利はすぐさま間者を放つと、秀吉の動向を探る。
例年よりも早い雪解けにも拘わらず、既に秀吉は精力的に活動を始めているとの報告が返ってきたため、毛利家は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
毛利家の当主である輝元は機を見るに敏な秀吉に対し、敵ながら見事と賞賛せずにはいられなかった。
毛利としても決して安穏と過ごしていたわけではないのだが、油断がなかったと問われれば慢心を認めざるを得ない。
出遅れたならば巻き返しを図らねば勝機を逃すため、彼らは軍議を開いて議論を交わし、遠征の弱点である補給を断つ戦略を採用する。
織田軍の補給路は複数の手段で確保されているため全てを潰すことは戦力的に困難であり、最も目立つ大量輸送手段である海運を止めることとなった。
港という荷揚げ場所が限られるため、陸路よりも遥かに輸送経路を絞りやすく、輸送船ごと強奪すれば自軍の備蓄も増えるという一石二鳥の作戦だと毛利側は考えた。
「織田とて阿呆ではない。我らが海運を潰しにかかることなぞ予想しておるであろう。ならば奴らの想定を上回らねば話にならぬ」
「左様。何度も通用する手ではあるまい。一度限りと考えて全軍で当たる必要があろう。村上水軍を取込んで勢いを増した我が水軍ならば、さしもの織田とて敵うまい」
「出し惜しみは下策よ、毛利水軍の全力を以て織田めを叩き潰してくれよう!」
劣勢を挽回する好機と考えた毛利方は、すぐさま水軍の編成を命じた。
海上での奇襲を警戒されないよう、陸側でも秀吉軍へと小競り合いを仕掛け、織田軍側の意識が陸地へと向かうよう誘導することも忘れない。
しかし、秀吉はそれらを見抜く知恵者を抱えていた。散発的とは言え、直接的な攻撃を避けていた毛利方が、積雪が解け切らないうちに仕掛けてくるのはいかにも不自然だった。
そして両兵衛(竹中半兵衛と黒田官兵衛の二人を指す呼称)は、僅かな違和感と戦果が得られないにも拘わらず繰り返される襲撃に、これが陽動であると看破した。
この軍事行動が陽動であるならば、織田軍の目を逸らしたい本命が他にいるはずだと両兵衛は四方へ間者を放つ。
程なくして毛利方が大規模な水軍を編成していることが明らかとなり、彼らはそれを逆手に取ることにする。
「間者からの報告によると用意している船の数や、積み込んでいる兵糧及び矢玉から全軍をぶつける気やも知れぬ」
「我らの補給路を制限する目論見でしょうな。足満殿が仰っていた『制海権』と『通商破壊』をも視野に入っている可能性がありますな」
「我らの気付きをいち早く羽柴様にお伝えするとともに、これを見逃す振りをしつつ水軍と連携して奴らの喉笛に迫る献策をせねばなりませぬ」
「左様。まずは奴らの作戦に引っかかったように見せるため、討伐部隊を編成するとしましょう」
「ならば私が陸側の対処に当たるとしよう」
二人は互いに意見の一致をみせ、陸と海の二手に分かれて対処に当たることとした。
黒田官兵衛は己が海軍について不慣れであることを理由に陸への対処を申し出たため、竹中半兵衛がこれを了承して二人は互いに行動を始める。
官兵衛率いる陸の討伐部隊が、毛利側の放った奇襲部隊を追い回してみせること一月。
いよいよ残雪も僅かとなった四月初旬に大きくことが動いた。
「今年は春の訪れが早く、波も穏やかな絶好の海戦日和だ。未だ水は冷たいが、沈まねば良いだけのこと」
例年と異なり気温の上昇が早く、雪解けもその分早まって大量の冷たい雪解け水が継続的に海へと流れ込んでいる。
その為やや水温が低いものの風が強く吹く日以外は、波も低く穏やかな状態が続いていた。
毛利方は輝元の号令一下、主力の小早(大型の安宅船、中型の関船より小型の船)が六から七百隻ほども集められ船団を形成している。
この時代の手榴弾に相当する最新兵器の焙烙玉も数多く集められ、圧倒的な手数と火力で織田の水軍を鎧袖一触薙ぎ払う算段であった。
船舶がこれほどまでに集結していれば、否が応でも人目を惹いてしまう。しかし、ことがここに至れば毛利側にも船団を隠しておく意味が無い。
何故ならば織田軍の大規模輸送船団が土佐(現在の高知県)の港を訪れており、ほどなく瀬戸内海を通じて陸へと物資を運び込むことを掴んだからだ。
支配地域的に織田軍の船団は四国を東周りのルートで回り込んで瀬戸内海へ入るしかなく、毛利としては先に船団を展開して待ち構えるだけで地理的優位を取れるのだ。
両兵衛は毛利の策略にはまった振りを続けており、陸上での小競り合いはすっかり鳴りを潜めていた。
これに気を良くした毛利方は小早を広く展開させ、まるで鶴翼の陣かのように敵を包囲する配置をとる。
これに対する織田の九鬼水軍は縦列で進軍せざるを得ず、四方八方から攻撃を受けて各個撃破されてしまうという未来を思い描いていた。
双方が互いに相手を出し抜いたと考えて戦意が高まった四月十六日、遂に両軍が瀬戸内海にて激突することになる。
「くくく、奴らめ我らを出し抜けたと喜んでおろう。その余裕ぶった面が蒼白に変わるのが楽しみでならぬ」
この日は風がほとんど吹かず、波も凪いだように穏やかだった。九鬼水軍を率いる大将たる九鬼嘉隆は、手にした双眼鏡を懐にしまうと良く晴れた天を仰ぎ見る。
この日の為に厳しい訓練を続け、新しい軍船の慣熟航行に取り組んできたのだ。その成果が今日試されるとなれば、彼の高ぶりようも理解できるというものだ。
嘉隆の高揚は周囲に伝播してゆき、配下たる船員たちも気炎を吐いている。
「本日天気明朗にして海は凪。敵船団発見の報に際し、之を撃滅せん! 送れ!」
嘉隆は伝声管に向かってそう叫ぶと、旗艦にのみ搭載されている電信装置での報告を命じた。
これは固定式の電話を実現する電信装置とは異なり、電池での運用が可能な小型通信装置であり、モールス信号を送受信するものだ。
勿論送信先は陸上にて陣を構えている秀吉軍であり、そこに電信技師として従軍している藤堂高虎が受信して解読の後、秀吉へと通達された。
「お前らよく聞け! 奴らは狙い通り我らを誘い込んで袋叩きに出来ると油断しておる。それが如何に儚い夢であるか、横っ面に拳を叩きこんで目を覚ましてやろうぞ!」
「はっ!」
嘉隆の号令と共に船員たちは甲板を走ってそれぞれの配置へと付いた。
互いの勢力図として淡路島以東の海域は織田軍の支配下にあるのだが、淡路島以西は毛利側が優勢となっている。
このため織田軍は淡路島以東の神戸港にて物資の積み下ろしを行っており、そこから陸路にて各陸上拠点へと運搬していた。
大軍を擁した毛利水軍は淡路島と本州が作る明石海峡を越えて船団を展開しており、九鬼水軍はこれを対処しない限り安心して神戸港へと寄港出来ない状況となっている。
今までは技術力で劣る毛利側が、補給及び支援が可能な母港付近での戦闘を嫌って攻めあぐねていたのだが、今日は神戸港奪取をも目論んで攻め込んできていた。
これに対する九鬼水軍は異様な陣形を取っていた。
通常であれば縦一列に船を並べる単縦陣ならば、旗艦となる主力艦は中央付近に配置される。
先頭に位置する船が真っ先に敵艦隊と接敵することになり、集中砲火を浴びるため司令塔でもある旗艦は後方に配して脚の速い高速艦を先頭に据えるのだ。
しかし、この日嘉隆が取った戦略は、定石を真っ向から無視した旗艦を先頭に据えるという常識外のものだった。
新造された九鬼水軍の旗艦は号して『日輪丸』、今までの旗艦『日本丸』を超える大型の鉄甲船となる。
毛利水軍の主力たる小早と比べれば三倍以上に達する巨大艦であり、最も大型の安宅船と比べても倍以上の大きさを誇っていた。
重厚な装甲版で覆われた船体が迫ってくる様子は、まるで黒鉄の城が突き進んでくるようであり、毛利水軍の水夫たちは圧倒されてしまう。
更に彼らの度肝を抜いたのは、そのあり得ない程に巨大な旗艦が恐ろしい速度で迫ってくることだった。
前述したように本日は風が殆ど吹いておらず、張られた帆が風を受けていないことは明白だ。
それにも拘わらず海上を滑るように白波を立てて猛進してくる日輪丸及びその船団の姿に、毛利水軍は何が起こっているのか判らず混乱に陥った。
そんな最中に鶴翼の陣の根本、最も多くの船が配置され厚みがある箇所で火柱が上がった。
数の優位を背景に敵を包囲して圧倒する鶴翼の陣は、その性質上背後を突かれると途端に包囲陣形が仇となって対処に時間を要する。
それは秀吉軍の要請を受けた明智光秀の大砲部隊による陸上からの対艦砲撃であった。
これは両兵衛の手によって陸上での敵兵の展開を排除し、毛利水軍の明石海峡突破を読んだ上での痛撃だった。
元より弾数の限られた大砲部隊に無理を言って予定外の軍事行動に駆り出したため、支援砲撃は一斉射のみであったのだがその一撃は大きかった。
予想していなかった陸上から砲撃を受けた小早と、その付近の船々はパニックに陥って迷走し始める。
砲撃によって積んでいた焙烙玉に引火して火の手が上がり、更には密集していたことも仇となって炎上した小早が他の小早とぶつかり、火の手が他の船へと移っていく。
「何をしておる、 早く火を消さぬか!」
炎上した小早が死の狂走を見せるなか、業を煮やした毛利水軍の武将が叫ぶ。
そんな混乱に乗じて、驚異的な速度で距離を詰めてきていた九鬼水軍の日輪丸が突如として火を噴いた。
一見すると武装していないように見える日輪丸だが、それは船首及び船尾に限った話であり、舷側にはずらりと砲門がならべられており、それらが一斉に火を噴いたのだ。
陸上からの砲火を受けたのは鶴翼の陣中央部だけであり、両腕部分は当初の予定通り九鬼水軍を包みこむように距離を詰めていたところへ逆撃を受けた形となる。
日輪丸に続く九鬼水軍の船団も、日輪丸には劣るがそれぞれに数門の艦載砲を積んでおり、それぞれが当たるを幸いに砲撃を繰り返す。
そんな混迷の極致にあっても流石は熟練の毛利水軍というべきか、即興でそれぞれに小集団を構成しなおすと反撃を開始した。
しかし、哀しいかな互いの船体のサイズが違い過ぎた。虎の子の焙烙玉は乾舷(水面から甲板までの垂直距離)を越えられず、漆黒の装甲に焦げ跡を残すのが精々だ。
火矢を放つも同様に装甲板に阻まれて効果を上げられず、運よく甲板まで届いたとしても火の手が上がる様子は見られない。
逆に九鬼水軍側の砲撃は毛利側の数が多いこともあいまって、狙いを付けずとも容易に命中して次々と毛利水軍の小早を沈めていった。
鶴翼の陣系から両翼をもぎ取った形となったことに気を良くした嘉隆は、伝声管の蓋を押し開けて大声で命じる。
「機関全開! 全速前進だ!!」
「はっ!」
嘉隆の言葉を受けた部下が大きな声で返事をすると、信号檣と呼ばれる帆柱上部の物見櫓で紅白の手旗を振り始める。
こうして呼応するように手旗信号が伝達され、九鬼水軍の船団は一気に速度を上げて直進した。
前にも述べたように日輪丸の兵装は両側の舷側についており、船首方向には一切の武装が存在しないかのように思われた。
しかし、日輪丸の速度が上がり船首が水の抵抗を受けて若干持ち上がると水面下に隠されていた兵装が明らかになる。
そして日輪丸を先頭とした一団は鶴翼の陣中央部へと速度を落とさないまま突き進み、一本の槍が獲物を貫くかのように突き抜けた。
「がはははは! 流石は日輪丸よ、面白いように蹴散らせる」
日輪丸はこの時代の船舶にはあり得ない速度で突き進み、水面へと姿を現し始めた衝角を槍の穂先に見立てるようにして敵の船団へと激突した。
巨大船の圧倒的質量及び、頑丈な鋼鉄の装甲板に鎧われた船体を持ち、レシプロ型蒸気エンジンを備えた最新型の日輪丸に体当たりされた毛利水軍の軍船は呆気なく轢き潰される。
まず単なる木造船の小早と大型の鉄甲船ではそもそもの重量が違い過ぎる上に、高速で垂直にぶつかられたのだから小早の船体が裂けてしまうのは当然の帰結だ。
我々が普段目にする船は大きく分けて二種類あり、その船体を構成する部材の浮力によって浮かんでいるのが筏であり、もう一つの船舶は船体の構造によって押しのけた水の分だけ浮力を受けて浮かんでいる。
当然ながら小早は船舶であり、船体が裂けてそこから水が浸水すれば浮力を保っていられずに沈んでしまうのだ。
「それにしても蒸気えんじんとやらは凄まじいものですね。この巨体が波を蹴立てて進む様には圧倒されまする」
日輪丸に搭載されているレシプロ型蒸気エンジンとは、従来の小型高速艇が搭載していたスターリングエンジンに変わる大出力を実現した外燃機関の一種である。
詳細については割愛するが、燃料によって火を起こしボイラーの水を水蒸気へと変え、その蒸気の圧力によってピストンの往復運動を行う。
それをフライホイール(弾み車)と呼ばれる装置によって回転運動へと変換し、その回転運動で水中のスクリューを回すことによって推進力を得ている。
燃料には伊勢国で採掘された石炭が用いられ、船の機関室では今も灼熱の火室へと水夫たちが燃料を投じ続けているだろう。
液体燃料として原油から軽油及び重油を精製できるようになったため、現在はディーゼル機関の開発が進められているのだが、爆発を伴う燃焼に耐えるだけの部品が準備できていないのが現状だ。
「ひぃ! あんな化物を相手に出来るか!」
焙烙玉も火矢も通じない上に、体当たりは当然としてその余波である引き波ですら毛利水軍の小早を損壊させる様子に兵士たちは恐慌に陥った。
もはや集団としての統率を完全に喪失しており、それぞれが個々に逃げ出そうとして渋滞を作っては砲撃を受けて爆散する様は地獄のようだ。
こうして毛利水軍の陣形は崩壊し、それを貫いた九鬼水軍の一団はその高速航行が仇となって遥か彼方まで遠ざかって行った。
そのまま速度を落としつつぐるりと転回しながら大きく回りこむように戻ってくると、その船団の横っ腹を毛利水軍たちに晒す。
毛利水軍の多くは算を乱して方々へと逃げ始めているが、それでも思うように逃げられない船々が団子状になっている。
「さて、大勢は決したが中央付近には有力な将兵を乗せた小早がおろう。この機会に沈めてくれようぞ!」
「応!!」
九鬼水軍の追撃によって毛利水軍は完全に潰走する。こうして午前八時丁度に始まった会戦は、夕暮れを待たずして雌雄を決することとなった。
終始九鬼水軍が優勢に進めていたものの無傷とはゆかず、旗艦の日輪丸は衝角アタックの衝撃及び焙烙玉の集中攻撃を受けたことにより船体の修理が必要となる。
また突撃を敢行した船団を構成していた高速船達は全艦無事であったものの、物資を積載した輸送艦を護衛していた九鬼水軍側の小早や関船は、鶴翼の陣両翼の残党と交戦して二百隻近くを失った。
一方毛利水軍側は主力の小早七百隻のうち実に七割を超える五百隻を失い、残る船々は散り散りに逃げたため行方の判らないものも多い有様だ。
この一戦によって壊滅的な損害を被った毛利水軍は、最早作戦行動を起こせるような戦力はなく、これによって淡路島以西の制海権を放棄せざるを得なくなる。
こうして織田軍の支配する港は明石港及び姫路港へと数を増やし、更なる物流の促進によって毛利を追い詰めることとなった。
海戦に敗れたことで瀬戸内海の支配を奪われ、四国は長宗我部の手に落ちた。
この一報は程なくして日ノ本を駆け巡り、九州に於ける親毛利派の国人たちもその方針を変えざるを得なくなるだろう。
こうしてこの日を境に毛利は織田に対して敵対するか臣従するかの決断を迫られることとなる。