千五百七十九年 一月下旬
東国を概ね手中に収めた織田領の正月は、終始和やかなムードが漂っていた。
信長の掲げた『天下布武』がいよいよ現実味を帯びてきたためか、主君たる信長へ挨拶に参ずる諸将たちの表情も明るい。
静子はと言えば、東国管領という役職を得たため真っ先に信長と信忠へ挨拶を済ませ、今度は挨拶をされる側へと回ることになった。
安土から遠く離れた尾張へと赴く諸将たちは、その異様さに驚くこととなる。
信長の居城たる安土城もそうなのだが、いくさを前提とした城塞として設計されておらず、攻め込まれたらどうするのかと歴戦の諸将は危ぶまざるを得ない。
これに対する回答は信長も静子も同様であり、そもそも本拠地まで攻め込まれた時点で負けが確定しているため、そこで粘るための城砦を作るよりも所領を豊かにする経済へと投資した方が良いと言うものだ。
尾張に関して言えば那古野城が存在し、その城下町の中心に静子邸が存在している。
とはいえ城としての機能は利用されておらず、城主は静子ということになっているが、現実的には巨大な倉庫として利用されているに過ぎない。
今までは静子に挨拶をしようと思えば、安土へと正月の挨拶に赴いた静子が滞在する現地の屋敷を訪ねるのが通例であった。
しかし、静子が東国管領となったため彼女の本国へと挨拶に赴く必要に迫られ、皆が尾張へと挨拶へ来ることになっている。
諸将は当然の流れとして那古野城での謁見があると考えたのだが、案内されたのは平屋の武家屋敷であり、防衛設備もへったくれも無いことに驚かされる。
実は信長の構想によって当初から街全体が木壁と堀で囲まれた要塞のようになっているため、諸将が抱く印象ほど無防備ではない。
それでも舗装された広い道が縦横に走り、活気に溢れた城下町及びその領民の豊かさを見ると、こここそが東国経済の中心地なのだと理解せざるを得ない。
こうして諸将たちに奇妙な感慨を抱かせて正月の恒例行事は終わりを告げるのだった。
静子が正月気分を満喫している頃、西国では切羽詰まった国人たちが頭を悩ませていた。
中でも上月城の落城を知らされた宇喜多直家は、明日は我が身と震えあがってしまう。
上月城で敗北を喫した浦上宗景とは袂を分かってはいるものの、西国征伐中の羽柴軍に対して降伏を申し入れていない以上は敵対勢力と見做される。
自分は策謀を以て乱世を生き抜いてきたと自負している直家であっても、堅牢な城壁さえ障子紙のように破って見せる大砲という物には恐怖せざるを得ない。
しかも今までの行状ゆえか、毛利家から裏切る可能性が高いと監視が付けられており、秘密裡に羽柴軍へ下ることすら難しい。
とは言え、このまま毛利についていても生き残れる可能性が低いと己の勘が告げていた。
(ことがここに至らば、浦上の首を手土産に織田方へと寝返るのも一興か……)
宿敵たる直家が降伏を模索している中、上月城で大敗を喫した浦上宗景は備前国(現在の岡山県)の天神山城まで撤退し、明智軍への対抗策を考えていた。
事前に情報を得ていて理解したつもりになっていた大砲と、実際に己の目と耳、体を通して感じた大砲との乖離は凄まじかった。
直撃すれば地形をも変えてしまう馬鹿みたいな威力はもとより、高台から見下ろしても尚見えないような長距離から一方的に攻撃されるというのは悪夢でしかない。
一軍が生活を出来る場所と言えば城しかないため籠ってはいるものの、明智軍が本格的に動き出せばこんな城とて長くもたないであろうことは明白だった。
それでも実際に砲弾が降りしきる中を逃亡した経験が、宗景に大砲攻略の糸口を掴ませていた。
「なるほど大砲とは恐ろしい武器だ。しかし、弱点が無いわけでもない。斜面や建造物に対しては凄まじい威力を発揮する一方、恐らく真正面及び正面より下に向けては弾を発射できまい」
(更に言えば地面に着弾した砲弾は、その威力を著しく落としていた。ならば地面に空堀を掘って兵を伏せさせ、低い位置から攻撃すれば大砲を攻略できるやもしれぬ……)
宗景の発想は的を射ていた。実際に史実に於ける第一次及び第二次世界大戦では大砲の砲弾が飛び交う中、塹壕と呼ばれる堀のような溝で身を守りながら戦闘が行われていたのだ。
備前国で戦うならば地の利は宗景側にあり、大砲を擁した軍勢が通れる経路に兵を伏せておくことも容易なのだ。
またある程度の軍勢が向かい合って戦闘出来る場所となれば限られており、そこに予め幾つも堀を構築しておけば籠城するよりは余程勝ち目があるのでは無いかと思い至る。
宗景は早速配下に対して国境への罠の敷設及び、土塁で補強した空堀の構築を命じた。
日ノ本初、いや世界初の塹壕戦が果たして功を奏するのか否かは神のみぞ知るところだろう。
一月も下旬に差し掛かろうと言う頃、静子は越後に派遣した農業士から齎された報告書を読んでいた。
当初の見込みでは米の収穫量が従来のものに比べて少なくとも三倍にはなろうと思われていたのだが、実際に現地にて作業を行ってみると尾張と比べて随分気温・水温が低いことが判明する。
尾張より持ち込んだ苗を作付けした場合、十分な成長が見込めないことから最終的には従来の倍程度までに落ち込むだろうと括られていた。
他方の三河及び遠江では環境が尾張と大差ないことから、従来の倍程度の収量が見込めるとの報告となっている。
何故三河と遠江では当初より倍の収量見積もりとなっていたかと言えば、目で見ただけで判るような技術改革は既に徳川領に於いても推進されていたためである。
特に即効性があって効果が高い『正条植え』については、本多忠勝が静子の村に迷い込んだ折から徐々に導入されており、徳川領に於いては既に常識となっていたのだ。
これに加えて種籾の選別や、苗まで育成させた上で配布する方式、暗渠排水の導入や先進的な農機具の貸与によって収穫が倍増すると見込まれている。
越後に関しては米の品種改良なども考慮に入れた長期間に及ぶ取り組みが必要となることから、派遣した農業士の何割かは現地に骨を埋める覚悟だと書かれていた。
同様の報告を受けている謙信にとっては、倍ともなれば望外の喜びなのだが農業士たちは満足していない様子だった。
若い農業士たちは越後に根を下ろし、こちらで所帯を持って農業改革に取り組みたいと要望を寄せており、早速便宜を図るよう配下に命じている。
謙信及び越後の人々の目論みとしては、まずは腹を満たす米を確保できれば次は酒である。
尾張で生活して越後に戻った人々がことある毎に口にする尾張の清酒、それを越後で作れるようにしたいと言う熱い思いが本来排他的な越後人を協力的にしていた。
なお三河では米の作付けが順調であるため、計画を前倒しして生活水準を底上げする大豆の生産にも取り掛かることとなる。
一年目は米優先であり、大豆に関してはあくまでも実地検証ではあるが、本格的な栽培を視野に入れての調査が行われることとなった。
「やはり越後の環境は厳しいようですね。農業士は大地に対して長期的な戦いを挑むことを生業とするから少々の事では音を上げない。それにも拘わらず増員を求めるというのは、大規模な工事なり調査なりをしないと解決しない問題が持ち上がったんだろうね」
報告書には肝心の問題についての記載がない。恐らく肌感覚では問題を理解しているのだろうが、それを言語化することが出来ないのだろう。
静子としても増員に否やは無いのだが、その人選については考えたいことがあった。
農業は生活に直結している産業であるため、その振興を進めるにあたってどうしても租税問題を避けて通れない。
適正な税を課す為には農地の測量も必要となる上、それを検地台帳として文書にする必要がある。
それをするには過去分の徴税記録を検め、実際の収穫量を突き合わせて信用に足る文書へと修正する作業が必要だ。
これは様々な利権が絡む上に、過去の不正を暴かれたくない者による妨害も予想されるため、謙信の協力を得られる今こそ大鉈を振るうべきだと静子は考える。
「そうなると次回の追加派遣時には測量技師や文官及び兵員も送り込まないといけないね」
同盟国とは言え他国に兵士を送り込まれることを良しとする国人はいないだろう。
謙信と密に連絡を取り合って慎重にことを進めないと、あらぬ疑いを掛けられる隙を見せることにもなりかねない。
これだけでは越後にとって厳しい施策と受け取られるため、判り易い飴も用意することにした。
それはこの追加要員に酒造り職人である杜氏と蔵人を含めることだ。
杜氏とは酒造り全体を管理する長であり、彼の指示に従って実務を担当するのが蔵人である。
越後の呑兵衛達が憧れてやまない清酒造りのプロフェッショナルであり、越後に於ける清酒造りが許された証でもあった。
静子としては清酒を尾張で独占するつもりなど無いのだが、日ノ本一の呼び名も高く権威を得てしまった以上、政治的に利用されるのも止むを得ない。
信長にとっても清酒を独占することで得られる利益と、己の狭量さを天秤に掛けるようで忸怩たる思いだったのだが、ここは思い切って同盟国での清酒造りを解禁したという経緯があった。
そんな信長の葛藤を知らない静子は、早速越後の名水調査に思いを馳せていた。
日本酒は米を主原料とするが、水も非常に重要な原料だと言える。
米を洗ったり浸したり、仕込みの時にも水が使われるなど酒造りに於いて水は多く使用されるため、当然ながら酒の善し悪しにも大きな影響を与える。
『名水あるところに名酒あり』と言われる程に酒造りに欠かせないのが水なのだ。
それゆえ、日本酒の酒蔵は名水が得られる地域に集中していることが多い。
中でも兵庫は灘の宮水、京都は伏見の伏水は酒造に適した名水として有名だ。
なお、どちらの地域にも尾張から派遣された職人たちが現地で酒造に従事していることは言うまでもない。
「でも、今は時期が悪いんだよね。今の時期は何処の酒蔵も人手が足りないだろうし……」
冷暖房設備が望めない戦国時代に於いて、冬は雑菌の繁殖を抑え酵母による発酵を促進する適温を管理しやすい。
温度を下げることは難しいが、燃料さえあれば温度を上げることは容易いからだ。
こうしたことから冬は酒の仕込みが最も活気づく時期であり、この時期の職人たちはそれこそ猫の手も借りたい程に忙しい。
またこの時期の仕込み具合によって最終的に得られる酒の味が左右されるため、職人たちに越後行きを打診し辛い時期であった。
静子の立場は多くの酒蔵を抱える蔵元(酒蔵のオーナー)であり、職人たちにとって己の碌(給料)を与えてくれる存在であるため彼女の希望を断ることが難しい。
しかし、静子としては本人の気持ちを無視して強制的に移住させるという暴挙は避けたい。
とはいえ今の時期の職人たちに余計な負担を掛けたくない静子は悩んだ末に妙案を思いついた。
それは掲示物による募集、いわゆる張り紙と言う奴であった。
尾張領民の識字率の高さもあって、飯処などに張り出された越後への酒造職人募集のちらしは多くの耳目を集めることとなる。
いずれ自分の酒蔵を持ちたいと野望を抱く、若き職人たちが飛躍を夢見て新天地へと向かう日はそう遠くないだろう。
喫緊の懸案を片付け終えた静子は、腰を据えて取り掛からねばならない報告書を取り出す。
それは外洋航行への足掛かりとして目を付けていた青ヶ島に関する報告書であった。
数回に亘る航行の結果、数隻で船団を組めば問題なく青ヶ島へと到着できるようにはなったのだが、青ヶ島には中継地とするには致命的な問題があるようだ。
報告書によれば島の外周をじっくりと調査した結果、外洋航行できるような喫水線の深い船舶が接岸できるような場所がなく、また波が荒いため停泊していることも難しい。
積載していた数人乗りの小舟に乗り換えて、島へと上陸自体は出来たものの海岸線に切り立った崖が多く、沿岸部に物資集積所を作ることすら困難というものだった。
「地図帳だけからじゃ読めない情報もあるよねえ……まさか、ここまでの難所だとは思わなかった」
静子と信長が青ヶ島を中継地として選んだ理由として、恐らくこの時点では誰も入植していない無人島であり、地図帳を見る限りは港湾も整備された良立地に思えたからだ。
しかし、現地を訪れた水夫達の見立てではおよそ港など望めない難所だと思われる。
実際に島へと上陸した技師たちが沿岸部および、高所から見下ろす形で島の写真を撮影してきたのだが、明らかに中心地が窪んだすり鉢状のカルデラ地形だった。
凪いだ水面に落とした水滴が作り上げる王冠のような地形と言えば判り易いだろうか?
つまりは周囲全てを山に囲まれた盆地であるため天然の水がめとしては機能するのだろうが、何をするにも外界を隔てる山が邪魔になる。
無人島となるにはそれなりの理由があるのだということを思い知ると同時に、こんな過酷な土地にさえ入植して港を作った先人の努力に頭が下がる思いだ。
中継基地の第一弾からこれほど高難度の島に挑むのは無謀であり、静子は計画の見直しを余儀なくされる。
「となれば付近で補給が可能な中継基地の候補は……八丈島かな。あそこは北条氏の領地で島民も多いから、織田方とは確執が生まれそうで候補から外した経緯があるんだよねえ……」
そうは言っても背に腹は代えられぬと思い至った静子は、早速報告書の要諦を纏めて計画変更の上申書作成に取り掛かった。
八丈島は青ヶ島と比べると約60キロメートル本土よりに位置し、室町時代には代官が派遣されて統治が始まったようだ。
こんな離島にまで統治の手が伸びた原因の一つが特産品の『黄八丈』と呼ばれる絹織物にあった。
当時としては珍しい鮮やかな黄色が珍重され、時には統治をめぐって権力争いすらあった程である。
日本三大紬の一つに数えられ、島内に自生している植物による草木染で黄色、樺色、黒色を基調とした鮮やかな発色が特徴だ。
現時点では領主が決まっていない為、便宜的に東国管領である静子の直轄地という扱いになっている。
「本土と島とを定期就航便で結べば利便性も上がるし、外界との交流も増えて島民の生活水準も向上するかな? 逆に外部からの干渉を嫌う気質だったりしたらどうしよう……」
とにもかくにも一度現地へ船団を派遣しないことには何も始まらないと腹を括った静子は、信長に対する文を認めるのであった。