実在する魔法
技術街に存在するとあるガラス工房にて、画期的な新製品が産声を上げようとしていた。
この新製品を製造するにあたって技術的なハードルは低いものの、製造に必要な素材の調達が難しく今日まで手を出せないでいた。
最初にネックとなったのは硼砂である。
冶金の際に用いられる添加剤として古くから知られており、ここ日ノ本でも活用されているのだが、日ノ本ではほぼ産出しないため舶来品となる。
これに関しては隣国である明より全量買い付けているため、なかなかの貴重品となっていた。
この硼砂を混ぜたガラスは熱耐性が高くなる傾向があり、耐熱ガラスとしての用途が期待できる。
この耐熱ガラスを熱して柔らかくしたものを熟練のガラス職人が『手吹き』と呼ばれる手法で膨らませていく。
こうして広口の薄いガラス容器を製造し、まだガラスが柔らかい間に底にごく薄い石を三個貼り付ける。
次にガラス容器の底に別で作っておいたガラス管を接着し、ガスバーナーでガラス容器の底を熱することによって貫通させた。
このガスバーナーについても、尾張で石油蒸留設備が稼働したことにより開発されたものだ。
原油を分留していく過程で、最も低い温度で分離されるのが石油ガスであり、その主成分はプロパンやブタンなどの混合気体となり可燃性を持つ。
これを金属容器に圧力を掛けて押し込めることで液状化させ、逆止弁を取り付けて噴出させるようにしたのがガスバーナーだ。
当然ながら爆発の危険性があるため、取扱いについては十分な注意が必要となるが、便利な熱源として尾張の技術街に普及しつつある。
こうして作られたガラス容器の内側に更なるガラス容器を作るべく、再び手吹きによってガラス容器が膨らまされる。
今度は外容器の内側に貼り付けられた石によって容器同士の間に空間が形成され、外容器と内容器が中空状態(厳密には石の部分が接している)となった。
この二重容器を作成するのに熟練の技術が必要であり、失敗しては叩き割られてガラス材料に戻されるというのを繰り返していた。
二重構造を保った容器は、内容器の広口部分を外容器側へと折り返し、外容器の口部分に接合する形で接着してゆっくりと冷やされる。
この冷却にはかなりの時間を要するため、その間に銀メッキ溶液を準備することになった。
ここで使用する銀メッキ溶液が今回の最難関であり、非常に複雑な工程を経て準備されている。
銀メッキ溶液の成分はシアン化銀カリウムであり、これを得るためには複数の工程を経る必要があった。
炭酸カリウムと消石灰に水を加えて反応させることにより水酸化カリウムを作り、これを電気分解することで金属カリウムを単離する。
次に得られた金属カリウムを溶融させた状態でアンモニアと反応させることにより、カリウムアミドが得られる。
これに赤熱した炭素を反応させると、ようやくシアン化カリウム(青酸カリとも)となるのだ。
これに銀を反応させることは比較的容易であり、詳細は割愛するが銀イオンの錯塩を溶かした液体として銀メッキ溶液が完成した。
この製造過程で得られる青酸カリは推理小説などで殺人に用いられる程度に毒性が高く、危険な物質だが工業の世界に於いては欠かすことの出来ない物質なのだ。
こうして得られた銀メッキ溶液を、二重構造の容器に対して底部のガラス管から注いで容器から溢れるまで注ぎ続け、中空部分の空気を排出しつつ銀メッキを施す。
この状態で容器を轆轤(陶芸などに用いられる回転装置)に固定して一定速度で回転させ続け、満遍なくメッキが施されるようにする。
最後に二重構造の容器を上下ひっくり返し、中に入っている銀メッキ溶液を排出しつつ、ガスバーナーでガラス管を焼き切ることで内部を真空にした。
これほど複雑な過程を経て何ができるかと言うと、現代では何処のご家庭にも当たり前に存在するであろう魔法瓶だ。
真空に隔てられた二重のガラス容器により、内部のお湯などがいつまでも温かいままに保たれるという仕組みである。
更にガラス表面に銀メッキによる鏡面処理を施すことにより、放射熱の反射を促して更なる保温効果を高めたわけだ。
このガラス容器のままでは簡単に割れてしまうため、外側に樹脂製の外装を取り付け、注ぎ口を取り付ければ魔法瓶ポットが完成する。
熟練のガラス職人の手による高度な加工と、危険な化学薬品を用いた高度な製造過程を経て作られた魔法瓶ポットの第一号は静子に献上された。
その魔法瓶ポットが静子邸に於いてどのように用いられているかと言えば……。
「む、梅干しが無くなってしまったな。どれ、取ってくるとするか」
「おい、勝蔵。ついでにこれにお湯を貰ってきてくれ」
腰を上げた長可に対して慶次が声を掛けた。その慶次の手に握られているのが献上品である魔法瓶ポットだった。
彼らはサツマイモを主原料に醸造され、連続式蒸留によって得られた焼酎をお湯割りにして楽しんでいた。
「この魔法瓶とやらは本当に素晴らしい発明だな。こうして縁側で酒を飲んでいても、一向に湯が冷める気配がない」
「難しい理屈は判らんが、静っちが作った物の中でも一、二を争う程に重宝するのは事実だな」
長可が慶次からポットを預かると、厨房に向かってゆき追加の梅干しと沸かしたての湯を調達してきた。
そして縁側にどっかと座ると、空になった湯のみの底に種を抜いた梅干しを一つ放り込み、焼酎を注ぎながら箸で梅を解す。
次いでポットから熱湯を注いでお湯割りに仕上げると、ちびりと口に含んで味を確かめた。
「くぅ~! 清酒も旨かったが、この焼酎の梅干し割りを考えた奴は天才だな!」
「教えてくれたみつお殿に感謝せねばならんな」
「そうすると、みつおに飲み方を教えた御仁は既に焼酎を知っていたことになるな」
「焼酎は近頃新しく作られた酒だぞ? 尾張以外にこのような物があるとは思えんが……」
「まあ、旨ければ何でも良し! さあ、飲むぞ!」
大量生産できれば画期的な変革をもたらすであろう魔法瓶ポットは、静子邸で呑兵衛達に独占され続けるのであった。