天下人の孤独
封建時代に於ける為政者は往々にして孤独だった。
中央集権型の権力構造をとっている為、組織のトップに様々な責任と権限が集中し、組織の肥大化とともに許容限界を超えてタスクを抱え込んでしまう。
その結果として、トップでなければできない仕事がどんどん増えていき、抱えている問題を誰とも共有も相談もできない状態が発生する。
戦国時代に於いては天下人が正にそれであり、長年仕えてくれた家臣たちですら野心を抱いて下剋上をしないとも限らない。
血を分けた親族であっても家督争いなどで頻繁に殺し合うのだ、他人ならば尚更だろう。
信長も実際に兄弟間で跡目を争っているため、彼が本当に胸の裡を曝け出せる人物は極僅かに限られた。
大多数の国人がそうであるように、信長にも伴侶たる濃姫には気を許し、己の弱い処すらも見せられる。
しかし信長には幸いにしてもう一人、気を許せる人物が存在した。
主君としての矜持から見栄を張りこそするものの、裏切りの心配も無く尽くしてくれる静子の存在がそれである。
「たわけが! 却下だ」
信長は静子から手渡された資料に目を通しながら宣言した。
一考の余地すらなく断言された静子は、勝算ありと思い込んでいただけに驚きの表情を浮かべてしまう。
「提案内容に問題がありましたでしょうか? 確かに今までは徳川様との共同事業かつ、防衛拠点を少なくするためにも規模を拡大できませんでした。しかし、東国でのいくさを禁じた今こそが好機なのです!」
「そうであろうな。確かに綿花の需要は年々高まり続けておる、衣類や寝具は言うに及ばず足満が開発しておる『無煙火薬』にも必要なのだ、増産は必至よ」
「そうでしょう! だからこそ、この綿花作付け計画が必要だと――」
「わしは貴様に対する褒美について希望を聞くために呼んだのだ、誰が仕事の話をしろと言うた!」
信長が秘密裡に静子を安土へと招いたのは、東国管領だけでなく織田軍全般の兵站を一手に担い、またその成果を着実に積み上げていることに対する褒美を与えるためであった。
静子に対する褒美に関しては、信長をして難題であり、毎度頭を悩ませている。
何せ静子には個人的な欲というものが余りない。欲しい物があれば、「無いのなら作ろう」の精神でそれを作り出してしまうのだから始末に負えない。
お陰でこの世に二つと無い宝(主に刀剣)を与えるか、本人に欲しい物が無いかを聞き取る羽目になっていた。
流石の信長もそうそう名刀を何口も下賜出来る筈も無く、今回もヒアリングをしようと気を回したことが弊害を生んでいる。
「仕事ではありません! 趣味と実益を兼ねた褒美です」
「ほう! では、この分厚い作付け計画書はなんだ?」
「東国でも特に旧武田領につきまして、稲作が病魔の蔓延を招いておりますゆえ、食料を補償することでこれを綿花栽培に切り替えようという計画となります」
「民を水から極力切り離して生活させつつ、寄生虫対策を推し進めるという主旨は良い。この計画をいつ策定したのだ?」
「上様にご納得いただけるよう、ここ二月ほど暇を見ては計画を練っておりました」
「普段の仕事はどうなっておる?」
「無論、それはこなした上で時間を捻出いたしました」
資料の出来栄えに自信があったのと、従来の仕事に穴を開けずに成果を出せたことに珍しく静子が胸を張る。
「それで、どこの部分が貴様の趣味なのだ?」
「徳川様と綿花栽培を始めて以降、ずっと綿花の種子を貯め続けてきました。そして東国が平定された今こそがそれを活用すべき時なのです! 旧武田領の民たちにとって食えもしない綿花栽培など不安でしょう、しかし綿の需要は供給量に対して数倍から十数倍ほども見込まれます」
「つまりは、それが民たちの飯の種になるという訳か」
「それだけではありません。綿製の衣類や寝具が普及すれば、冬場に於ける死者の数を減らすことが出来るのです。乱世の終わりを告げる作物、それこそが綿花だと私は思うのです!」
「ああ、貴様は民が健やかに過ごせることに腐心する奴だったな……」
瞳を輝かせて力説する静子に対し、信長は重いため息を吐き出した。
信長は他ならぬ静子自身が貧しい農村から身を興したことを知っている。
最初に静子が村長を務めた村などは、寒さを凌ぐ充分な衣類もなく凍える夜を経験しているのだ。
辛く惨めな思いを今なお続けている民たちに、少しでも早く救いの手を差し伸べてやりたい、静子のその気持ちは尊く素晴らしいものだと信長も考える。
しかし、対外的に見て信長が忠臣たる静子に与える褒美として適しているかは別問題なのだ。
「とにかく、もう少し褒美と見えるよう外面を取り繕え! それでなくば許可は出せぬ」
「『土地の開発利権を与える』では褒美となりませんか?」
「貴様の直轄領が加増されるならば褒美ともなろう、だがそこは森家の所領だ……お前が身銭を持ち出すことの何処に褒美の要素がある!?」
「森家が富めば勝蔵君もご実家に対して面目が立ちますし、延いては彼が私に報いてくれることで私にも利益となります!」
「そのような迂遠な褒美を喜ぶ者など、この世におらぬわ。貴様とて女子の端くれ、何かこう宝飾品やら嗜好品やらを望まぬのか?」
「確かに世の女性はそういった物を好むのでしょうが、生憎と私は興味がございませぬ」
言葉通り静子は自らが着飾ることに興味を持たず、嗜好品についてはそもそも生産者として幾らでも都合を付けられる立場にある。
本人的には美的センスが悪いと考えており、その辺りは彩や蕭に任せきりとなっていた。
「そういえば白粉に関しても禁令を出していたのだったな」
「尾張・美濃以外で普及している白粉には鉛が入っていますから。鉛白は美しい白色を呈し、伸びが良く透明感がありますが多用すれば鉛中毒に陥りますので」
余りに着飾ることに興味を持たない静子が、珍しく美容に関するものに執着していると耳にして信長は喜んだのだが、自らの美を追及するのではなく白粉に含まれている鉛や水銀などの重金属を問題視していただけだった。
「流石に化粧品は貴婦人にとっても重要ですからね、それなりに権力が無ければ話すら聞いて貰えませんから控えておりました。しかし、東国管領の任についた以上、健康被害を抑えるためとの大義名分がございます」
東国管領就任以降、静子の影響力は尾張だけに留まらない。東国全体に対して絶大な権限を持っているため、各国に対して布告を出すことが可能となった。
こうして東国全体に対して白粉の危険性を説き、その製造元については代替品の製法すら伝えるという大盤振る舞いをしている。
「まあ、それは貴様の好きにせよ。それよりも貴様の褒美についての話が先じゃ!」
「ですから、開発許可さえ頂ければ構わないと……」
話が堂々巡りをしていて実に下らないやり取りなのだが、信長は静子とこうしたやり取りをするのが嫌いでは無かった。
決して口にはしないものの、何の衒いも腹の探り合いもない馬鹿なやり取りをする時間が信長の心を休める一助となっている。
(此奴は日ノ本の半分を支配する立場となったというのに、その性根は昔と何も変わらぬか)
「もうよい、綿花については貴様の思うようにせよ。取り敢えず何か外聞の良い褒美をわしが考えておく、貴様はそれを皆の前で受け取ってみせよ」
「本当ですか!? 上様、ありがとうございます!」
信長の返事を聞くや、実に嬉しそうに席を立つ静子に、信長は呆れ顔を浮かべつつも笑みが漏れてしまうのだった。




