鬼武蔵の泣き所
戦国の世を震撼させる『鬼武蔵』の名は、静子の統治する城下町に於いては畏怖とともに、ある種の憧憬が向けられている。
鬼武蔵こと森長可は気難しく粗暴な印象を持たれているが、それはあくまでも対外的なモノである。
無法の輩を萎縮させる為に武威をひけらかしているが、守るべき領民に対しては自分の印象が悪くならないよう立ち振る舞っていた。
静子のお膝元である城下町に於いてさえ、酒類の提供される花街などでは乱暴狼藉を働く者が現れる。
時として警察機構たる警備隊の手をも焼かせる無法者を、颯爽と現れては一撃の下に叩き伏せる長可の姿に憧れる者は存外多いのだ。
ただし、長可の基本方針が『一罰百戒』であり、凄惨な仕置きを見たものが恐れるようにも仕向けている。
「酒が入った状態での悪ふざけだ。当然赦してくれるんだろう? テメェが吐いた唾だぜ、飲めねえとは言わせねぇ!」
地面に倒れ伏した男の頭部を、長可は手にした得物でコンコンと軽く叩いて見せる。
彼が手にした得物は、出縁と呼ばれる金属製の出っ張りが四方に突き出した先端を持つ、無骨なメイスであった。
辛うじて口が利ける状態の男以外は、余りの痛みに気を失っているのか呻きはするものの、明確な言葉を発することが無い。
気を失っている男たちは五人おり、皆一様に四肢が関節以外の場所から曲がっているという無惨な有様になっていた。
下手をしなくとも命に係わる程の重症なのだが、一般人はおろか治安を守るべき警備隊ですら長可に近づこうとしない。
「お前の理屈じゃ酔った挙句に給仕の女の尻を触るのも、その女がそれに驚いて俺の飯を台無しにしたのも酒の場での悪ふざけだから笑って赦さなきゃならねえんだよな? じゃあ、俺も酒が入っているから飯を台無しされたことに怒ってお前らの人生を台無しにしても赦されるはずだよな?」
その場に居合わせた全員が、心の中で飯と人生では釣り合いが取れないのではと疑問を抱いたがそれを口にする者はいない。
「は、はひぃ……しゅみましぇん」
長可の剛力で散々往復ビンタを食らわされ、顔中がパンパンに膨れ上がって人相が変わり果てた男が謝罪の言葉を絞り出す。
最初に叩きこまれた剛拳によって前歯が全損している男は、言葉を上手く操ることが出来ずに舌ったらずな幼児のような喋りとなっているが、それを笑う者はいない。
それどころか拳ですらない、ただの往復ビンタだけで大の男の顔面がここまで変形することに戦慄していた。
全身凶器と言っても過言ではないほどまでに長可の体は鍛え上げられており、その上で幾つもの荒事を経験して場数を踏んでいる長可は正に敵なしだ。
そんな彼が出没すると判っていても、酒に酔って気が大きくなると不埒な行動をする馬鹿が一定数現れる。
「何だその返事は! 心から反省しているのなら、謝罪の弁ぐらいはっきりと言えるだろう? それともなんだ、貴様の反省は口だけか?」
明らかにまともな口内では無いであろう男に対して、長可は不条理な因縁を付け続ける。
警備隊としては早々に場を収拾して、暴れた連中を連行しようと思うのだが、下手に水を差して長可の機嫌を損ねるのも嫌なので手を出しあぐねる。
警備隊の面々が出来ることなら死人が出る前に撤収したいと願っていると、突如として近くの人混みが『モーセの十戒』が如く左右に割れた。
何事かと思ってそちらに顔を向け、目にした光景に慌てて皆が膝を突いて頭を垂れる。
「俺も暇じゃないんだ。早くしろ」
「ふーん、それじゃあ夕餉を取った後に帰ってくるつもりは有ったのかな?」
「うおお!!」
唐突に背後から女性の声が掛かり、長可は振り返らずに前方へと身を投げる。
勢いのままゴロゴロと転がった後に起き上がり、後方を振り返ると直前まで長可がいた場所に槍の石突を叩きつけた恰好の才蔵と、にこやかにほほ笑む静子が立っていた。
その場に居合わせた野次馬達も、領主である静子に気が付くと揃って頭を伏せる。
場を支配する者が長可から静子に変わったところで、彼女は周囲を見回しておおよその事態を把握する。
「喧嘩をするなとは言わないけれど、警備隊にまで迷惑をかけるのは見過ごせないね」
「いや、待ってくれ! これは武家の面子に関わる問題だったんだ、こいつに頭から飯を被らされて無罪放免とはゆくまい。折角店主が作ってくれた飯も台無しになったしな」
「そうね、食べ物を粗末にするのは赦せないね。でも、警備隊が来たら彼らに場を明け渡すように再三注意したよね?」
長可は言い訳を口にしつつも、現状をどうやってやり過ごすかを思案する。
口調は普段と変わらず穏やかながら、静子が若干怒っているのが口ぶりから察される。
彼女が必要以上に笑みを浮かべて、抑揚の無い喋り方をするときは相当に拙い状態だ。
(しまった、時間を掛け過ぎたか。喧嘩自体に対して怒っている訳じゃなく、警備隊をここに張り付かせたまま粘ったのが駄目だったか。確かに他所で問題が起こった時の対処が遅れるよな……)
冷や汗を流しながらも長可は冷静に状況を分析していた。
長可はつい先ほどもまで甚振っていた男など既に眼中になく、今はどうやって静子の怒りを鎮めるか、また手にした槍をくるりと回して革製の覆いを付けたままの穂先を向けてくる才蔵の対処を考える。
上手い方策が見つからないままひりついた空気が支配する場に沈黙が流れる。
誰もが固唾を飲んで見守る中、三十秒ほどたった後、静子が盛大に肩を落としながら大きく息を吐いた。
一応長可の反省を見て取った静子は、傍らに立つ才蔵に声を掛けると引き上げる支度をし始める。
「警備隊の皆さん、そこで伸びている人たちを詰所に連れていって下さい。勝蔵君はご店主に料金をしっかり支払ってから帰ってくること」
「は、ははっ!」
静子からの指示を受けた警備隊の動きは迅速だった。
長可が倒した破落戸を怪我の具合を見て診療所へ送るか、詰所へ送るかを見定めると担架に乗せて運び始める。
自分の足で歩ける者は二人のみであり、六人中四人までがそのまま診療所へと送られて治療を受けることとなる。
辛うじて歩いている者も、片足を引きずっていることから長可の容赦なさが窺えた。
静子が場の解散を命じると、野次馬達も一人、また一人とその場を立ち去っていく。
最後に残されたのは静子と才蔵、長可と彼の部下数名だけとなる。
「それで、暴れた理由は何?」
「いや、だから飯をだな……」
「建前は別に良いの。君があそこまで相手を痛めつけたなら、相応に理由があってのことでしょう?」
「……ふん、たまたま虫の居所が悪かっただけよ!」
「そういう事にしておきましょうか。ふふっ、君は相変わらず優しい子だね。口ばっかり達者になって小憎らしいけれど」
「ふんっ!」
普段の長可であれば、頭から飯を被らされようと気を失うぐらいの仕置きで勘弁しているのだ。
無法を働く者に対して容赦ない裁きが下される様を見せつけるように暴れたということは、件の酔漢たちを使って店に嫌がらせをしている等の看過できない何かがあったと静子は察した。
静子が己に向ける慈愛に満ちた視線が恥ずかしく、長可は憎まれ口をたたきつつもそっぽを向く。
(優しい……子?)
静子の台詞に、長可を除く彼の部下全員が疑問符を浮かべていた。
それを感じ取った長可が部下たちを睨みつけると、彼らは慌てて姿勢を正しその場の片づけに取り掛かる。
流石の才蔵も静子の言葉に戸惑っていたが、直ぐに切り替えると静子に声を掛けた。
「静子様、そろそろ……」
「あ、会合の時間だね。じゃあ勝蔵君、コレで口直しでもしてきなさい」
それなりに金子の入った袋を長可に投げ渡すと、静子は軽く手を振りながら才蔵とともにその場を立ち去った。
「あ、あの……差し出がましいのですが、静子様の護衛が随分と少なくありませんか?」
「あん? そんな訳があるか。お前が気付いていないだけで、静子の周りには数十人もの護衛がおったわ」
「え!?」
「静子のゆく先々には、領民に扮した護衛が警戒しているぞ」
静子から渡された金子を確認しつつ、長可は部下の問いに答える。
城下町に来た時から、長可は警備隊とは異なる連中が街の要所要所に散らばっていることに気付いていた。
皆がまちまちの恰好をしており、統一性など皆無だが一様に街の様子を静かに窺っている点は共通している。
そこから長可は静子が城下町に下りてくる用事があるのだとは推測していたのだが、想像以上に早く訪れたことに肝を冷やしていた。
「気が付きませんでした」
「恐らくは真田殿の命だろう。見事なものだ」
間者を統べる真田昌幸の手腕を長可は褒め称えた。
「とは言え、お前らも油断するなよ。才蔵が俺に近づくのを見逃しているようじゃ、いくさ場で命を落としかねん」
乾いた笑いを浮かべながら長可は思い返す。石突とは言え、あの勢いで叩かれたら長可とて昏倒は免れない。
次に静子の手を煩わせたら確実に当ててくるだろうことが理解できた。
「よし、忘れる為にも飲んで食おう。幸い、静子から金を貰ったんだ。豪遊しても許される、はず」
「大丈夫ですよね!?」
「安心しろ、骨は拾ってやる」
「安心出来ませんよ! ちょっと森様!」
部下の必死な叫びを無視して長可は呵々と笑いながら夜の街へ足を向けた。




