蕭の郷帰り
戦国時代の婚姻は、女性が男性の家に嫁入りをする『嫁入婚』が常識であった。
平均寿命が短い背景から、結婚適齢期が十二歳前後と早く、有力者同士の婚姻ではその傾向に拍車が掛かる。
特に大名同士の婚姻ともなれば政略結婚が当たり前であり、恋愛感情の入り込む余地などありはしない。
史実に於いて徳川秀忠の娘である珠姫は、御年三歳で前田利常の正室として嫁いでいる。
こうしたことから静子邸に勤める女性もまた、結婚をすれば仕事を辞して家庭に入るのが常であった。
しかし、この流れに頑として抗う女性が一人いた。
「嫌です」
その女性とは、静子邸に於いて表の顔とも言える蕭であった。
彼女は既に結婚適齢期を大きく過ぎ、既に年増との声すら聞こえつつある年齢に差し掛かっている。
これは蕭に魅力がないわけではなく、むしろ彼女を嫁にと望む声は引きを切らない。
良家の子女であり、才女を輩出し続けている静子邸に長く勤めていることは魅力的に映るだろう。
しかし、いくら良い条件で嫁入りを打診されようとも蕭は決して受け入れようとはしなかった。
彼女には静子邸の表方でトップを務めており、まだまだ静子の身分が低い時より裏方の長である彩と共に家を盛り立ててきたと言う自負がある。
戦国時代の常識からかけ離れた静子邸という特殊環境の中、血の滲むような思いで築き上げた成果を、何処の馬の骨とも知れぬ輩に台無しにされるのは我慢がならなかった。
この蕭の頑なな態度には実の両親である前田利家もその妻まつも苦慮している。
一方で天下人の懐刀と称される静子からの信任が厚いという高待遇を失うのを惜しむあまり、両親ともに彼女に嫁入りを強要できずにいた。
こうした経緯から黙認されていた結果、気が付けば蕭の妹の方が先に嫁いでしまう事態となった。
ことがここに及んで両親は焦り始めるが、蕭は依然として従来の姿勢を変えようとしない。
「結婚の条件は変わりませぬ。女子が働くことを馬鹿にせず、嫁いだ後も静子様の許で働くことをお許しくださる殿方です」
「は、はい……」
蕭は実家からの使者に対していつもと変わらぬ言葉を返す。
彼女は嫁ぐに際して一つの条件を出していた。それは嫁入り後も静子邸にて働くのを認めるというものだ。
武家の娘にとって一番の仕事は世継ぎを産み育てることである。
しかし、戦国時代に於いて出産というのは命懸けの大仕事であり、母子ともに死亡率がそれなりに高い。
翻って静子邸に勤めていれば、妊娠初期から出産まで医師による手厚いサポートを受けられるのだ。
これは他家には絶対成し得ない静子邸のみのアドバンテージであり、また妊婦に対して支給される親子健康帳(現代の母子手帳に相当するもの)も非常に人気が高い。
これは出産に伴う様々な基礎知識が網羅されており、母から娘へと受け継がれる家宝として扱われている。
現代知識と戦国時代の生活様式を踏まえたノウハウ集でもあり、たびたび改訂が行われているが旧版のものであっても市販されないことも相まって価値あるものとなっていた。
「父上によろしくお伝え下さい」
実父である利家に向けた文を使者に託すと、蕭は使者を部屋から下がらせる。
色良い返事を受け取れなかった使者は悄然と肩を落として去っていく。
その様子を目にした蕭は、彼が利家から蕭を何とか説得するよう言い含められていたのだと察した。
板挟みになっている使者を哀れに思わないでもなかったが、それでもなお蕭は静子邸を離れがたく思っていた。
静子に対する思慕や、己の仕事に対する矜持もさることながら、打算的な理由も存在する。
(今更他領へと嫁ぐなどあり得ませんわ。私の体はすっかり静子様色に染められてしまっているのですから)
とても他人には聞かせられない内容だが、色っぽい話ではなく尾張様式と呼ばれるようになった生活に馴染んでしまい生活水準を落とせなくなった結果に過ぎない。
蕭は女性とはいえ、表方のトップを務めている関係上、与えられる衣食住のグレードは高くなる。
寝具として未だに高級品であり続ける専用の布団を与えられており、着衣も最高級の正絹を用いて作られた流行の最先端をゆくものだ。
供される食事も豪華であり、昼餉には一汁三菜を基本とし飯は白米、四季折々の野菜を用いた味噌汁や煮物、お浸しなどが並び、更に温泉卵や果物などのデザートまでもが付いてくる。
静子が新メニューを開発する折に同席していれば、未だ世に出ていない未知の美食を味わうこともある。
また静子邸には天然の温泉が湧いているため、一般には贅沢とされる風呂にも入り放題であり、仕事中でなければ長風呂をしても文句を言われることもない。
(これほどの高待遇を与えてくれる家など有りはしない!)
一度上げてしまった生活水準を下げることは現代であろうと難しい。たとえ身を持ち崩そうとも、不相応な生活を続けるといった話は枚挙に暇がない。
すっかり尾張様式に染まってしまった蕭にとって、実家に帰省した折にも至るところで不便を感じるのだ。
静子が長年に亘って続けた生活改善は、今や他国から羨望の眼差しを向けられる程になっている。
東国随一の大国となった尾張には、各国で喰い詰めた流民が流入することが多くなっていた。
しかし、静子は信長の急所となり得るだけにその安全性を担保するため様々な警戒措置が取られている。
身元の知れない流民に対しては、尾張から隔離された外縁都市にて一度受け入れ、戸籍を作った上で代替わりするまでは尾張に立ち入らせない程の徹底ぶりだ。
そんな彼らには立地的に尾張に準ずる生活環境や教育の機会が与えられ、尾張から派遣される職業訓練教師たちに本人の適性を判断させてそれぞれの職業へと割り振っていく。
こうして生活基盤や職業能力を持たせた上で自活させ、時には他国へと派遣するなどして上手く統治が回っている。
「しかし、これ以上我を通し続ければ静子様を通して説得を仕掛けてくるやも知れませんね」
蕭も生粋の武家育ちであるため、政略結婚の重要性は理解している。
幼い頃より労役を免れ、充分な衣食住の他に嫁いだ後で必要となる奥向きの教育を受けられたのは、原資を出している民たちに利益を還元するためだ。
しかし、尾張で静子に仕官して以来その考えは揺らいでしまった。
どこぞの有力者の正室ないしは側室に収まり、世継ぎを作ることで得られる相互不可侵を前提とした互恵関係などは、今後訪れるであろう泰平の世になれば然したる意味を持たないのではないかと。
このまま静子に仕えたまま己の地位を確固たるものとし、尾張の生活水準を祖国にも齎せるように励む方が本意に叶うのでは無いかと思うのだ。
こうした葛藤を抱いたまま蕭が悩んでいると、数日を置いて遂に静子に呼び出されることとなった。
呼び出された場所が静子の私室ではなく、来客を迎える謁見の間であったことから蕭は己の父が予想以上に早く動いたことを知る。
「忙しいなか、ごめんなさいね。実は前田様より文が届いたの」
「(やはり……)無理を承知で申し上げます。その件に関しては、もう暫しご猶予を――」
そこまで口にした瞬間、蕭は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
静子が纏っている空気がいつもの柔らかいものではなく、必要とあらば人に死を申し付ける為政者のそれになっていることに気付く。
人の機微に敏感な蕭は、静子が時間稼ぎの言い逃れを許さず、己の覚悟を問うているのだと理解した。
「蕭が熱心に仕事に取り組んでいること、またその進退に悩んでいることも理解しています。しかし、今回の件については独りよがりに感じます。他者に本音を語りにくいのは判りますが、親にまでそれを隠すのは不義理でしょう」
「も……申し訳ございません」
静子の迫力に圧されて蕭は反射的に謝罪の弁を述べる。
昨今ではめっきり戦場へ向かうことがなくなった静子だが、それでも自ら他者を殺めたことすらある戦場経験者と、前線から遠く離れた後方で安穏と暮らしてきた蕭とでは気迫が違う。
「謝罪は不要です。私が知りたいのは、貴女がどうしたいのかです」
すっかり萎縮してしまっていた蕭だが、静子の言葉を聞いて困惑する。
「確かに前田様より文は届いています。しかし、これまでの蕭の忠勤を無視してまで、前田様に義理立てするほど情け知らずでもありません。ただ蕭を見ていると、ご両親に対して言葉を尽くしていない気がするのです。だからまずは私に思いの丈をぶつけてみなさい」
静子の言葉で蕭は彼女が怒っているのではなく、腹心の悩みすら打ち明けて貰えない己の不甲斐なさに憤っているのだと理解する。
そしてそこまで思って貰える主人に対して閉ざす口を蕭は持ち合わせていなかった。
「申し訳ありません。私事で静子様のお手を煩わせるわけにはいかないと考えておりました。私はこれまでの己の仕事に自負がございます。また私を尾張に送り出してくれた皆に対する恩返しが出来るのは、静子様にお仕えする先にあると思っているのです」
「貴女の想いは、しかと受け取りました。私と尾張の行く末に人生を捧げる価値があると思っての覚悟、私からも前田様にお口添えしましょう」
「え!? 宜しいのですか?」
蕭は静子の立場からして、武家の娘として第一の義務を果たすべきだと諭されるのだと思い込んでいた。
「先にも言いましたが、私は貴女の忠勤とその成果を得難いものだと判断しています。しかし、私も四六と器を引き取って以来、前田様のお考えも理解できるようになりました。我が子に少しでも良い未来を与えてやろうと言う前田様の親心と、貴女のご両親や領民たちへの恩義に報いたいという思いがすれ違っているのが根本的な問題なのでしょう」
「で、では……」
「蕭、貴女に暫しの休暇を与えます。国許へと戻り、心ゆくまでご両親と膝を突き合わせて語り合いなさい。貴女がこれまでに成した功績と、その未来に対する展望及び婿を迎えて家を興すことをも請け負うと書状を認めましょう」
蕭は静子の言葉を耳にし、本当に静子に仕えていて良かったと心の底から思った。
嫁いだ後に従来の仕事を続けるという条件を受け入れる嫁入り先は、蕭が企んでいたようにまず見つかるまい。
それを踏まえて、前田家の権勢を損なわない上で更に蕭が年を経た後も寂しく惨めな思いをしないよう、新しい家を興すことまで考えてくれる主などそうはいない。
「あ……ありがとうございます! この御恩は倍旧の奉公にてお返しいたしまする」
「気負わずとも構いません。頑張ってくるのですよ」
「はっ!」
蕭の目に覚悟を見た静子は満足げに笑うのだった。




