千五百七十八年 十二月上旬
京から西へ向かうことしばし、丹波国は篠山盆地にて早朝から轟音が響き渡っていた。
静子と光秀との会談から数日、静子が光秀に預けた砲兵部隊が展開して実弾演習を繰り広げている。
これは光秀が最新式の大砲がどの程度の兵器なのかを確認すること及び、砲兵たちの練度を確かめるという狙いがあった。
砲兵隊長の号令一下、篠山盆地から西に聳える白髪岳の麓に向かって何門もの大砲が火を噴く。
轟音と共に撃ち出された砲弾は、山なりの弾道を示したのちに着弾し、その衝撃で内部に詰められた炸薬が更なる爆発を引き起こして地形を変えてしまう。
余りの光景に光秀は息を飲むことすらままならなかった。
それは従来のいくさを根底から覆し、価値観の破壊を齎した。
この大砲を前にしては堅牢な山城に籠って防戦を続け、援軍を待つという守備側の常套手段が意味をなさない。
頼もしく思えた城門や石垣を、飛来する砲弾が薄紙を破るが如く破壊していく様が容易に想像できてしまう。
そして戦慄しているのは光秀だけではなかった。
これだけ騒音を立てていれば、否が応でも西国の放った間者の耳に入ってしまう。
鳴り止まぬ砲声と、火柱と共に土砂を巻き上げ、形を失っていく山肌を目撃した間者達は震え上がった。
これほどまでに砲声が続くということは、潤沢な火薬を用意していることを意味し、金の無駄遣いにも思える実弾演習が自分たちに向けた示威行為であると理解する。
城壁や石垣に見立てて作られた石積みが、易々と破壊されていく光景を目にした間者達は、もはや織田家は複数の家が集まれば打倒できる相手ではないことを痛感する。
しかし、そんな砲兵部隊にも弱点は存在した。
間者達は砲兵部隊の進軍と展開に膨大な時間を要することを見抜いている。
つまり、砲兵部隊に張り付いて監視していれば何処を狙っているかを把握でき、また奇襲を仕掛けて潰すことも可能だと考えた。
大砲とはなるほど大した射程と、恐ろしい破壊力を持ち合わせているが、一度懐に入ってしまえばその大威力が故に接近した際に使用できない。
間者達は自軍の騎馬での突撃に対して、為すすべなく蹴散らされる大砲部隊を幻視せずにはいられない。
値千金の情報を得たことに満足した間者は、引き続き監視を続ける者を残すと方々へと散っていった。
「良き働きであった!」
西国の慌てようを知った信長は、満面の笑みを浮かべていた。
静子及び光秀が派手に動けば動くほど、彼らは多くの間者達から監視されることになるが、同時に彼らの一挙手一投足に敵国は振り回される。
差し迫った脅威が存在する故に、信長に対する監視を甘くせざるを得ないのだ。
また信長は御馬揃えを終えて以降、安土城へと入城して鳴りを潜めていた。
「毛利の連中がどんな顔をしているのか、それを見ることが叶わぬのが残念じゃ」
「それはもう、蜂の巣をつついたような大騒ぎでしょう」
信長の茶飲み相手を務めている森可成は、少しおどけたように応じる。
そして実際に西国では各国の国人たちが右往左往していた。
東国征伐で猛威を振るった大砲の噂は、民たちを通じて漏れ聞こえていたのだが、荒唐無稽な与太話として一笑に付していたのだ。
それが丹波国という近場で、まるで見せつけるかのように実弾演習をしている。
その凄まじさを複数の間者が同様に報告してくるのを受けて、彼らの尻に火が付いた。
これまでであれば敵の大軍が迫ってきたとて、城に籠って防戦を続ければ時間稼ぎ程度はできる。
それが高所も堀も、城壁さえも何の役にも立たないと知り、恐慌状態に陥ってしまったのだ。
「それで、静子殿に命じて京まで砲兵を呼び出した本当の狙いは何なのですか?」
「銃を知らねば銃口を額に当てられたとて恐れまい? それと同じことよ」
信長の言葉に可成は舌を巻いた。あれほどの金と時間を掛けて兵を動かしておきながら、その狙いは大砲のお披露目に過ぎないと言う。
しかし、既に一線を退いたとは言え古強者である可成は、信長の真意を読み取っていた。
未知のモノに対する恐怖というのは、時間の経過と共に薄まり、更に己にとって縁遠いほどに陳腐化してしまう。
そこでその性能の一端を開示し、差し迫った脅威として正しく恐れさせるように仕向けたのだ。
「なるほど。良く解らぬモノを恐れ続けるのは難しいということですな」
「そうよ! わしは、とりあえず城に籠って様子見をしようという奴らどもが慌てふためく様が見たいのじゃ」
信長は問題を先送りにする日和見主義者達に決断を迫る。
既に毛利攻略は消化試合の様相を見せている。ならば徒に時間を掛けるよりも効率的に進めたいと思うのは自明だろう。
そして織田家に対して対決姿勢を示さず様子見をしている国人達が一斉に軍門に下れば、その流れは一気に加速する。
「最早西国征伐程度に時間を掛けている暇はない。さっさと日ノ本を纏め上げ、伴天連どものように広く世界へ打って出ねばなるまい」
「外国ですか、上様は何処を目指しておられるのでしょうか?」
「静子がわしにこれを献上した折より考えておったのだ。見よ可成! 広大な世界と比べて日ノ本の何と小さきことか!」
そう言って信長はかつて静子から献上された日本地図の巻末付録のページを開いて見せる。
そこには何度も広げられたのか、クセのついた折り込み形式でA3サイズに印刷された世界地図が載っていた。
一枚の長方形の紙の中に世界の全てを詰め込めるメルカトル図法で描写された世界から見ると、日ノ本は広大なユーラシア大陸の端に浮かぶ小島に過ぎない。
「わしらはこんなにも小さな日ノ本で覇を競っておるのだ。伴天連どもは、遥か西のこんな場所から日ノ本まで辿り着いておると言うのにだ!」
そう言って信長はヨーロッパの辺りを指さして可成に示す。
ヨーロッパと日本との距離は直線距離にしても一万キロメートル以上離れており、アフリカ大陸南端の喜望峰を介して日本に至る航路の総距離となれば計り知れない。
この膨大な距離をお手製の海図を元に、数年を掛けて航海して日ノ本に至るのだ。航海技術の差は歴然としていた。
「今は交易に甘んじておるが、奴らとてこちらを圧倒できる算段が付けば日ノ本に攻め入ってこよう」
「その時に日ノ本だけで内輪もめをしていたのでは、到底太刀打ちできませぬな」
我が意を得たりと言わんばかりに信長は頷いた。この時点で信長の年齢は四十歳を過ぎており、当時の平均寿命からすれば人生は終盤戦と言える。
信長としては別段焦りなどしていないが、己の寿命が尽きる前に世界の広さを我が目に焼きつけたいと考えていた。
史実に於ける信長の享年は、本能寺の変時点で四十七歳(当時は数え年であるため四十八とされることもある)だったとされている。
本能寺の変が起こった天正十年(千五百八十二年)まで残すところ三年を前にしているが、西国征伐の目途は立ったと言える状況にあった。
「それにしても静子は仕事を取り上げると実に良い働きをする」
「とおっしゃいますと?」
「大抵の者は、仕事を取り上げられれば信頼を損ねたと慌てよう。しかし、静子は泰然としてまるで慌てる様子を見せない。故にこそ周囲は動揺せずにはいられない。取り上げられた仕事に変わる大役を命じられたのではないかと」
主君より仕事を任されるということは、その仕事が重要であればあるほど信任が厚いと言える。
現在静子が信長より託されている一番の大仕事は東国管領であり、戦乱の傷跡が残る東国を纏め上げ繁栄させるという途方もなく重要なものである。
御馬揃えを成し遂げた褒美の特別休暇とは言え公表はされておらず、それまで忙しなく動き回っていた静子が突如として隠遁生活を始めればどう思うだろうか?
何らかの不手際を起こしたか、それとも信長の勘気に触れて不興を買ってしまったのではないかとの憶測を生んでいた。
「静子の名は実に使い勝手が良い」
「は、ははっ」
朗らかに笑ってみせる信長とは対照的に、休暇すらも政治的に利用されてしまう静子を思うと笑みが引き攣らずにはいられない可成であった。
そのころ足満は土佐国にて鉱山技師と共に鉱床の試掘と、選鉱を繰り返していた。
選鉱とは、採掘した鉱石を有用なものと不用なものとに分別する作業を指す。
なぜ選鉱が必要かと言えば、一般に鉱石中に含まれる有用な鉱物は重量比にして数パーセントもあれば高い方であり九割近くが廃棄される。
足満の目的は鉄鋼製錬時に於ける添加物として用いるマンガンの確保であり、鋼鉄が製錬可能な高炉は尾張にしか存在しない。
つまりは採掘したマンガンを尾張まで輸送する必要があるのだ。その際には海運を用いて輸送するのだが、荷物は軽い方が良いのは自明だろう。
故に土佐国にて極力選鉱を繰り返し、マンガン鉱石ないし金属マンガンまで製錬した状態で輸送したいと考えていた。
特に今回出土している菱マンガン鉱は、焙焼と呼ばれる工程を経ることにより、飛躍的に品位(鉱石中に含まれる目的の鉱物・金属含有量。1トン中に含まれるグラム数で評価される)が上昇するという性質がある。
その為、足満は土佐国内で三段階の選鉱を実施しようと考えていた。
第一工程は採掘した鉱石を粉砕し、その粒度及び色彩を確認することにより目視で選鉱する。
お目当ての菱マンガン鉱は鮮やかな赤色を呈することが多いため、容易に目視で選別することが可能である。
第二工程として鉱石粉末を流水に晒し、比重により沈殿する速度の違いから鉱石を選り分ける比重選鉱を行う。
実際に砂金や砂鉄の選別などで有名なパンニングはこの原理によって行われている。
第三工程として鉱石粉末が溶解しない範囲で空気が存在する環境下にて加熱処理を行う焙焼選鉱だ。
ここまで選鉱処理を繰り返せば、鉱石粉末中のマンガン品位は選鉱前と比べて数十倍程度には高まっているため輸送効率が上がるのだ。
「概ね選鉱手段は決まったが、採掘と選鉱を大規模に行うとなれば工場を建設した方が良さそうだ」
「鉱石を粉砕するにあたって人力や水力では余りにも非効率ですから、動力機器を尾張から持ち込む必要がありますね」
「そもそも採掘に関しても人力に頼る部分が多いため、多くの人夫を雇う必要があるな」
足満は鉱山技師と打ち合わせをしながら周囲を見渡していた。
今回発見された鉱山は、山間部ではなく比較的沿岸部に露頭しており、足満の視界には地元の漁師たちが漁港付近で働いている姿があった。
「あれは何をしているんだ?」
足満が長曾我部から派遣されている地元の案内役に問いを投げかけると、彼は答える。
「あれは夏に漁獲した鰹を加工して、鰹節を作っている小屋になります」
「ほう、鰹節か!」
「ご存じでしたか? 生魚のままでは保存が効きませんが、煮上げて何回か燻し、乾燥を繰り返せば腐らない鰹節になるのです」
「鰹節を薄く削って出汁を取れば、煮物なども美味くなるな」
「そうですね、それでもカビは生えますので手の空く冬の間に燻しては乾燥させているのです」
「ん? わざとカビを付けて熟成させるのではなかったか?」
「さて? そのような話は聞き及んでおりませぬが……」
思案顔になった足満は、これから建設予定である選鉱場の就労人員確保及び、その衣食住を賄う手段について頭を巡らせ始めた。
少し時は遡り、御馬揃えが終わって静子が一週間の特別休暇から復帰したころ。
各地から御馬揃えの為に上京してきていた面々は、各々国許へと帰っていった。
静子軍に関しても予定されていた会談を半ばあたりまでこなした処で、京屋敷を運営できる程度の人員を残し、他は尾張へと帰還するよう命じた。
これは静子が京に留まることで、尾張での業務が停滞しないようにするための措置である。
そこから更に一週間が経過する頃には、最低限の手勢の他は必要なくなったため信長に断りを入れた上で尾張へと向かわせた。
そんな静子軍が帰還するにあたって敵側の間者達は神経をすり減らしながら監視を続けている。
彼らの関心事は専ら大砲の行方にについてである。
静子が尾張から呼び寄せた大砲部隊の大半が光秀に貸与されているとは言え、静子の京屋敷内の練兵場に何門もの大砲が存在していることを間者達は目撃していた。
その大砲がある日を境に突如として姿を消したというから大変だ。たとえ一門きりだったとしても城壁を穿ち、石垣を抉る大砲の存在は無視できない。
長大な砲身とそれを運搬するための大がかりな車両の存在を考慮すれば、何処へ隠そうとも人目には触れるはずだと間者達は血眼になって探しているのだ。
「あっはっは!」
一方で、消えた大砲のカラクリを静子から聴いた慶次は大笑いしていた。
敵方の間者達が暗躍していること及び、大砲の存在が注目を集めていることを報告されていた静子は一計を案じて実行したのだ。
「そんなに面白い処は無かったと思うんだけど?」
「いやいや、充分に面白いし痛快だ。まさか尾張に帰還する家臣達が曳いていた荷駄が大砲だったなんて皮肉が利いている」
大砲はとにかく長大な砲身が特徴的であり、そう簡単にその存在を隠すことは出来ない。
そこで静子はそれを逆手に取って分解した大砲を組み替えて荷車にしてしまったのだ。
荷車の籠部分を底で支える心棒に砲身を用い、大砲を動かすための車輪などはそのまま荷車の車輪へと流用し、機構部分は取り外して行李に詰めると荷物に偽装した。
そこに実際に帰還する兵士たちの荷物や食料・物資なども一緒に積み込んでしまえば、過積載からか鈍重な荷車の出来上がりというわけだ。
敵側の間者達は大砲の形を探し求めて尽力するが、その全てが徒労に終わる。
実際には彼らの目の前をゆっくりゆっくり通過していく荷車そのものが大砲であるという、見えているのに見つけられない状況が皮肉に思えて慶次は笑いが止まらない。
「そう何度も使える裏技じゃないから、ここぞという時に使ってみたけど予想よりも効果的だね」
「奴らが大砲の行方をめぐって空回りしている間に、明智日向守殿が目的を遂げるという訳か」
「大砲の存在感が増したから、その行方については神経質にならざるを得ない。そして消えた大砲について見落としを疑い始めたら最後疑心暗鬼に陥るよね」
少々、否かなり信長の手のひらで転がされた感が拭えない静子だったが、元より利用されることに対する不満はない。
「ところで話は変わるんだけどね。つい最近、花街で喧嘩があったらしくてね。何と相手は九人もいたのに、たった二人に負かされたらしいんだよ」
「それは大変だな。で、その喧嘩がどうかしたのか?」
軽口で返す慶次だが、若干表情が引き攣っていることを静子は見逃さなかった。その二人が慶次と長可の二人であることを静子は報告されているのだが、敢えて口には出さず自白するのを待った。
「普通なら喧嘩に負けただなんて恥ずかしくて隠そうとするよね? でも、今回のお相手はそうでもなかったようなの。何故かその喧嘩で負った傷があまりにも重症だったとして責任を取るよう求めているんだって」
「ほうほう、つまりは当人同士の喧嘩では済まさずに事件として訴えたいってことか?」
「うん、でも目撃証言とお相手の話の内容があまりにも食い違うから受け付けなかったよ」
京の花街で起きた喧嘩は、その発生から二日と経たたぬ内に全貌を静子が知るところとなっていた。
報告によるとタチの悪い客が遊女たちに乱暴しようとしたのを、慶次と長可の二人が咎めたのが発端だった。
衆目がある中、公然と咎められたことで逆上し、大人数で襲い掛かった末に返り討ちにあったというだけでも情けないのだが、厚顔無恥にも静子に対して責任を取るよう抗議してくるのは予想外であった。
「訴えを却下する際に、当事者同士で損害賠償請求する分には止めないって言い添えたから、数日の内に何か仕掛けてくるかもよ?」
「その当事者ってのが誰かは判らないが、そんな恥知らずに煩わされて可哀想なこった」
慶次の返しに静子は筆を止めると小さく息を吐いた。
「これ以上の大騒動に発展しても嫌だから、徒党を組んでの私闘をした場合には相応の罰を与える旨は通告しておいたよ」
「そうすると残る手段は一騎打ちか、闇討ちかだな」
静子の馬廻衆である慶次も長可も、いずれも音に聞こえた武芸者である。
数を恃んで奇襲してすら負けたというのに一騎打ちは選べまい。とするなら残る手段は闇討ちしかあり得ない。
幸いなのか何なんのか、慶次にしても長可にしても割と頻繁に夜遊びをするため、闇討ちをする機会には事欠かない。
「そうだね。流石に闇討ちとなれば逆襲されて命を落としたとしても文句は言えないよね」
本来、武芸者に喧嘩を売るということは、互いの矜持を掛けての戦いとなる。
誰の目にも明かな決着というのは、どちらかの死を以て付けられることが多い。
しかし、今回の喧嘩では重傷者こそ出たものの、誰一人として死んではない。
彼らはそのことを重く受け止めるべきであったのだが、頭に血が上ってしまったのか反省することが出来ずにいたようだ。
「良いのか?」
「折角拾った命なのに、それを無駄に捨てる者にかける情けはないわ」
一方的に叩きのめされて面子が立たないと考えるのは理解できる。
しかし、彼らと同様に長可にも名門森家直系としての面子がある。道ばたでいきなり襲いかかられて、果たして彼が相手を殺さず捕縛するだろうか。
そう考えた静子と慶次はすぐ同じ答えに辿り着いた。
「平和になると武威を示す機会がなくなるから、こういう小競り合いが多かれ少なかれ起きると考えてはいたけれど……」
「静子!!」
静子が言葉を紡いでいる途中、それをかき消すかのような長可の怒声が響き渡った。
声色を聞いた二人は、既に手遅れだったと同時に察した。
結論から言えば、長可には一切のお咎めなしという沙汰が下された。
夜道で突然斬りかかられ、やむを得ず反撃したという長可の言が認められたからだ。
彼の証言を裏付けるように、花街の住人たちが多く証言をしてくれたというのが大きい。
しかし、市街地で暴れた上に人死にまで出たとなれば当然信長の耳にも入ってしまう。
信長は報告を耳にした際、目に見えて顔色が変わる程に激怒したという。
信長にとって京の治安が保たれているということは、天下統一に於いて重要事項であり、それを妄りに破らんとする者は反逆者に等しい。
ここの処、ご機嫌が良かっただけに周囲の人間はその落差に震えあがった。
その信長の怒りを知った静子は、これ幸いと言わんばかりに信長のご機嫌を窺うという大義名分を掲げて京を後にした。
「義父上も随分と手を回してくれたけれど、朝廷の足止め工作がねちっこくて困っていたんだよね」
面倒な会談さえ済めば、さっさと尾張に帰りたかった静子だが、朝廷はあれやこれやと理由を付けて静子を京に引き留めようとしてきた。
義父である前久も尽力してくれたのだが、関白の意に逆らってでも静子と縁を得たいと望むものが多く、全てを抑えることが出来なかった。
そろそろ強硬手段に訴えるべきかと思案していた折に、今回の事件が勃発した。
その結果として信長が激怒しているとなれば、当事者の主君としては弁明に赴かねばなるまい。
流石の公家達も、前久だけでなく信長の怒りを買ってまで引き留めることは出来ず、静子は無事に京を脱することが出来た。
こうして安土へ到着すると、静子は即座に信長へと遣いを出す。
「登城は不要。貴様は任を全うせよ」
しかし、信長からの返事はそもそも安土城へと来ることすら無用だというものだった。
返事の内容から判断するに、信長の激怒は朝廷に対するポーズであり、何かしら狙いがあって周囲に怒りを見せているのだと理解した。
それを理解した上で再度使者を遣わし、登城しての謁見を願い出る。
すると静子の予想通り、今度は書状すらなく使者に対して当分は会うつもりがない旨、かなり立腹である様子で伝えられた。
一見すると、信長から不興を買ったようにも思えるが、実際には「静子ですら面会が叶わぬほどに信長が立腹である」と周囲に示すための行動だった。
こうすることで京での愚行をするものに警告し、綱紀粛正を図るというのが信長の狙いだ。
信長の思惑はどうであれ、静子は一芝居打った後、尾張へと帰還する。
「お帰りなさいませ、静子様」
彩や蕭の出迎えを受けつつ静子は自邸へと帰りついた。
旅の疲れを落とすべく入浴を済ませた後、静子は報告書を読みふける。
特に大きな問題はなく、謙信や家康の元への技術者派遣、関東の地形調査などは順調に事が進んでいた。
足満からの報告書に於いて選鉱場の他に、鰹節工場も建設したいとあり少し混乱したものの許可することにする。
未だ小競り合いは東国の各地で起こっているが、それでも戦国時代が終焉を迎えつつあると静子は考えていた。
しかし、この時期の対応を誤ると武官と文官との間に修復不可能なほどの深い溝を刻むことになりかねず、注意深い対処が求められる。
こうした確執は時間とともに激しさを増し、最終的には戦乱状態へと逆戻りすることになりかねない。
(家督を四六へと引き継いだらあっさり崩壊って言うのは二代目あるあるだよね。学校での成績は優秀であり、後継者としての態度も堂々としたものであると聞く……そろそろ本格的に経験を積ませる時期かな?)
少々不安は残るが、いつまでも子ども扱いは四六に対して失礼だと静子は思う。
「四六を呼んできて」
小姓に四六の呼び出しを命じた。
唐突な呼び出しだが、幸いにして在宅していた四六はすぐさま静子の許へと駆けつける。
「お呼びでしょうか母上」
颯爽と現れた四六が、軽妙な所作で静子に礼をした。
器と同様に長足の進歩を見せる四六は、若い衆の間では既に一定の支持を受けており、それが自信に繋がったのか、己を卑下するような雰囲気が薄れていた。
「ええ。そろそろ貴方の元服をする頃合いかと考えているのですよ」
四六はかつて彼が宣言した通り、静子の後継者足らんと日々努力を積み重ねていた。
しかし四六は未だ元服を行っておらず、その一点のみが家臣から懸念すべき点だと思われている。
今更詳しく語るまでも無いが、元服とは武家の男子に於いて成人となるべく行う通過儀礼だ。
元服を経て初めて周囲に大人として認められるため、それまではどれ程の功績を上げていようとも半人前の扱いとなる。
それほどまでに重要な儀式なのだが、今までは四六本人の意向によって行われていなかった。
「貴方の希望通り、元服を先延ばしにしてきましたが流石に限界です」
「承知いたしました。母上のご期待に沿えるよう、一層奮起致します」
静子としては説得が必要かと考えていたのだが、あっさりと四六は元服に同意した。
彼女が訝し気な表情を浮かべていることに気付いた四六は、少しはにかんだ様子で語った。
「偉大な母上の後継者となるのです。周囲から元服を待望される程度には人望を集めねば、とても名乗れませぬ」
「そういうことですか」
己に自信がないからというのが先延ばしの理由かと思っていたが、四六は静子が考える以上に後継者としての立場を固めようとしていた。
彼の言うとおり、周囲が四六に元服を求めるということは、成人して静子の後継者になる事を期待していると言えた。
「四六、貴方の覚悟は分かりました。ならば母から言う事はありません。元服後、後継者として相応しいと認められるように頑張りなさい」
「承知しました」
四六の返答に静子は若干の寂しさを覚えつつ頷いた。




