千五百七十八年 十一月上旬
信長の策略が功を奏し、御馬揃えは十一月上旬に実施することが確定した。
織田家に叛意を抱く公家の心理を上手く誘導し、彼らの無茶な要望を叶える形で日程に融通を利かせたため、仮に失敗したとしても公家達の過失と強弁出来る。
とは言え、信長をはじめ裏方を引き受ける静子とてみすみす失敗してやる気などさらさらない。
それでも土壇場になってからの妨害を未然に防げるだけで意味がある。下手に横やりを入れようものなら公家の責任となることを噂という形で周知させたため、御馬揃えに対する妨害は自傷行為となるのだ。
こうして自縄自縛に陥ったことで沈黙を守る公家達に気をよくした信長は、上機嫌で御馬揃えの日を待つことになった。
「結局、私の順番は公家衆の前になったんだ」
御馬揃えとは現代に於ける軍事パレードであり、その位置取りには政治的な思惑が絡んでいる。以下にその陣容を記す。
先頭には史実に於いて信長から「長秀は友であり、兄弟である」とまで評された丹羽長秀が務め、織田家の中でも勢いのある家臣達が続く。
この中には比較的新参者である明智光秀もおり、織田家家中に於ける光秀の重要性が窺い知れた。
これに続くのが信長の兄弟や、彼の子息たちで構成される連枝衆であり、その先頭には後継者である信忠が務める。
長男である信忠に続くのは、何かと不祥事を起こして問題視されている次男の信雄、めきめきと頭角を現しつつある三男の信孝、これに続く形で信長の弟に当たる信包が配され世代交代を強調する意図が見えた。
次に配されるのが織田家の懐刀であり、武家と公家を繋ぐ者となった静子である。連枝衆よりも後方に配されることに対してひと悶着あったのだが、そこは信長による鶴の一声で封殺されている。
東国管領という高い役職を抱く静子に続くのが、武家と対を為す公家衆であった。
公家衆の先頭を務めるのは静子の義父に当たる近衛前久である。准三后(皇族以外で皇族と同等とする身分)を認められており、関白の座に就いていることからもこの位置なのだ。
公家衆内での並びは概ね官位順であり、この順番によって朝廷での権勢が判る。
公家に続くのが信長お気に入りの騎馬兵こと、赤母衣衆と黒母衣衆に小姓たちが続いた。
これらに続くのが越前衆と呼ばれる集団であり、柴田勝家を筆頭とした越前攻略を務めた武将たちが並ぶ。
越前衆と部隊を同じくするのが越後衆であり、織田家に臣従する形で同盟を結んだ上杉謙信率いる武将が肩を並べた。
更に続くのは色物集団であり、信長が主催した角力大会で優勝した力自慢の力士が務める。
そして最後に大トリを務めるのが信長という布陣となる。
御馬揃えの順番が決まると、静子は諸将の受け入れ準備などがあるため先んじて京入りをした。
遠地より訪れる越前衆などは一週間前に京入りを予定しており、現場が混乱しないよう関係各所と調整をする必要がある。
事前に受け入れ場所などを選定し、根回しも済んでいるのだが信長肝煎りの御馬揃えだけに諸将も予定外の行動をとり勝ちなのだ。
事前に申告していた以上の人員を帯同していたり、民たちの度肝を抜こうとして余計な騒動を起こしたりする。
発奮の機会を得て意気込む気持ちは分からないでもないのだが、そのせいで御馬揃えにケチがついては本末転倒であった。
そして、そんな諸将らを角が立たないように調整出来るのは、信長を除けば静子しかいない。
信忠も東国征伐で手柄を立て、信長の後継者として認められつつあるが、それでも年若いことから軽んじられることが少なくないのだ。
「此度の御馬揃えは上様が音頭を取っておられます。これに水を差さんとする輩はその出自如何に拠らず、厳罰を以て対処しなさい」
温厚篤実な女性であり、控えめな態度を取るが故に静子も侮られることが多いのだが、必要だと割り切れば非情にもなれる人物であることは織田家重臣の間では皆が認めるところである。
こうして静子が腹を括って綱紀粛正の号令を発すると、真っ先に行動で示したのが長可である。
取り締まりの為だという大義名分を得た長可は、静子の言葉通り誰であろうと騒動を起こす者へ一切の躊躇なく拳を振るった。
「人は数が集まり、熱くなってしまえば我を忘れる阿呆が必ず出る。そういう奴には口で言っても無駄だ、先に拳で黙らせてから話をするのが一番だ!」
己の父より年上の者だろうが容赦なく鉄拳制裁を加える長可に対し、家臣が多少の手心を加えてはどうかとの進言への返事が前述のものとなる。
彼は己の行いに何ら恥じるところがないと言い切り、身分の上下や老若男女を問わず平等に取り締まった。
その甲斐あってか御馬揃えを一目見ようとする民たちや、御馬揃えに加わる者たちも一様に頭を冷やす結果となる。
そして十一月十二日、遂に信長待望の御馬揃えが開催される。
信長は勿論のこと、静子を筆頭に多くの家臣たちがこの日の為に様々な準備を重ねてきた。
残念ながら史実通り、秀吉は毛利戦の兼ね合いで参加することが叶わない。
怨念が墨に籠っているのではと思うほど筆跡の乱れた、本人自筆の文を静子が受け取っている。
西国攻めの最前線であるため電信装置が置かれており、信長と秀吉は通信使を介して連絡を取り合っていたのだが、ついぞ秀吉帰還の陳情が許可されることは無かった。
御馬揃えへの参列を熱望していた秀吉も、流石に自分が抜けたせいで毛利に負けたとなれば取り返しがつかないため、泣く泣く参加を見送る決断を下した。
代わりに雰囲気だけでも味わいたいとの要望があり、是非とも写真を撮影して送って欲しいと懇願されることとなる。
静子はこれを快く受け入れ、予定よりも撮影班を増やして対処することとした。
記録魔と異名を取る静子だけに、記録媒体であるガラス乾板式フィルムの増産を既に行っており、三人一組の撮影班が沿道のあちらこちらに配置されて京の民に写真の存在が印象付けられることとなる。
「ようやくだね。開催までに紆余曲折あったけれど、今日という日を無事迎えられたことを喜びましょう」
静子が言うように開催するまでに裏で多くの血が流れた。お祭り騒ぎの熱に浮かされて粛清された者などは可愛い方で、なんとこの期に及んでさえもならず者を雇って御馬揃えを妨害しようとした者さえいたのだ。
これに対する信長の対応は苛烈であった。二度と反抗しようなどと思わぬよう、徹底した報復が実施される。
一罰百戒を地で行く粛清に、反織田を掲げていた公家達は震えあがった。
信長の警告が身に染みたのか、それ以降は大過なく準備を進めることが出来ている。
それほどまでに信長が拘った御馬揃えには、時の帝こと正親町天皇も臨席される天覧のイベントであるため、日ノ本中の有力者が一堂に会することとなった。
朝廷だけでなく武家、果ては仏家からも多くの有力者が集う。これだけの面子が揃うとなれば、機を見るに敏な商人がこの機会を逃すはずもなく、普段は堺から動かない大商人たちも挙って押し寄せた。
実質的に日ノ本を動かしている面々が揃うこととなり、それだけの相手を前に信長が天下を掌握したと知らしめるのだから御馬揃えがどれ程重要なイベントであるかが理解できよう。
「うーん。気持ちは判るけれど、流石にこれは派手過ぎない?」
そうぼやきながら静子は己の恰好をしげしげと眺める。騎乗するため馬乗り袴をベースにしているのだが、静子の袴は単色ではなくグラデーションが施されていた。
紫を基調として鮮やかな緋色へと移ろう様は美しく、貴色とされるが暗くなりがちな紫を配しているのに、艶やかに見える。
また袴の膝より少し下あたりから太股の中ほどまでに亘って幾つもの小さな花が縫いつけられていた。
しかも単純に直線に並ぶのではなく、色の変化に合わせて流れるように配されており、しかも花の中央には所謂スパンコールが施されているため光を反射して大層目を惹く仕上がりだ。
このスパンコールも金属片などの安っぽい物ではなく、薄い樹脂に対して螺鈿を施した高級品であるため、輝いて見えるというのにギラギラとした下品な印象にならない。
上着に関しては袴が小さな花の意匠に対するように、大きな花の刺繍が散りばめられていた。
更に髪を纏める為に挿している簪は、鼈甲の芯材から金属で作られた緋牡丹が幾つも小さな銀鎖でぶら下がるという豪華絢爛なものとなる。
今回自分の衣装を用意した彩と蕭がやたらと花に拘っているなと思っていたが、実際の御馬揃え当日を迎えてみて初めて彼女たちの意図に気が付いた。
それは周囲の誰も彼もが挙ってド派手な恰好をしており、金や銀で彩られた勇壮さや猛々しい印象を与えるのに対し、静子の衣装は女性らしい優美さを示しつつも大輪の花が咲き誇るかのように目を惹く仕上がりとなっている。
御馬揃えは軍事パレードであるため、己の武威を示さんとする方向性を持っており、皆がそれぞれに己の存在を誇示せんと工夫を凝らすことから主張が弱いと埋没してしまう。
それを逆手に取り、真逆の方向性で嫋やかかつ華麗な装いが醸し出す異色さは自然と周囲の目を集め、彩と簫の面目躍如といった処だろう。
(そういう意味では優美ではあるけれど、ギリギリ軍装の域を出ない絶妙なバランス感覚だよね)
振袖や着物ほど派手ではないものの、鮮やかな色使いで女性らしさを主張するセンスの良さに、改めて静子は彼女らの尽力に感謝した。
御馬揃えが終わったら何らかで報いないといけないなと思いつつ、静子は己の順番が来るのを待っている。
イベントの開催に尽力した第一人者となる静子だが、自身も参列する以上は出番が来るまで不用意に動き回ることが出来ない。
撮影班に任せるのではなく、己の目で御馬揃えの隊列を真正面から眺めたい誘惑に耐えていると不意に声を掛けられた。
「義姉上、ご機嫌は如何ですかな?」
うずうずしている様子を隠せない静子に声を掛けたのは、義父こと前久の嫡男にあたる近衛信尹であった。
彼自身は御馬揃えに参列しないが、実父が公家筆頭を務めることから後学のためにと臨席している。
しかし、その装いは全く普段と変わらないものであるため、皆がこぞって着飾っている中に於いては相当に浮いて見えた。
尤も彼自身は他者からどう思われているかなど意にも介さないため、泰然として振る舞っている。
「今の処順調だよ。もうすぐ一番部隊の丹羽様らが出発なされるんじゃないかしら?」
「義姉上は確か六番部隊に当たるのでしたね。予定通りに進行すればご出発は昼前頃になるかと伺っております」
「予定通りいくと良いんだけれどね」
遠くへ目線を投げながら静子は呟いた。御馬揃えは信長の号令一下、主要な武将らが総出で臨む大規模イベントだ。
入念に準備を整え、跳ねっ返りを粛清することで規律を保っているが、いざ大観衆の歓声を浴びて高揚すれば羽目を外す者も現れよう。
そういった行動に出る恐れのある者は事前に調べ上げ、傍らに彼らを掣肘出来るものを配してある。
とは言え不測の事態というのは起こるものであり、運営側となる静子は気を揉んでいた。
「そういった不慮の事態をも楽しんでこその御馬揃えでしょう。そう考えた方が気楽ではありませんか?」
「……そんな風に開き直れれば良いんだけれどね。一世一代の大舞台だからこそ、私の失敗が歴史に刻まれると考えたらお腹が痛くて……」
「義姉上は既に人事を尽くされておりまする。ここで何らかの事故が起こったとして、義姉上が責を負う必要はございませぬ。問題を起こしたものに帰するべきかと」
「それはそうなんだけど…… ここまで来たら平穏無事に終わって欲しいよね」
「お気持ちお察しいたします」
静子が控える待機所から遠く離れているにもかかわらず、ここにまで届いてくる喧騒に耳を傾けながら静子はため息を吐いた。
諸将やその家臣達も意気衝天たる様子を隠そうともせず、御馬揃えに臨む意気込みが並々ならぬことが察せられる。
好事魔多しのたとえにあるように、このような時こそ問題が起こると危惧する静子は、どうか無事に終わりますようにと神仏に願うのだった。
「普段熱心に信仰していない身からすると憚られるんだけれど、ここに至っては神仏にお縋りするしかないよね」
「義姉上の願いが聞き届けられんことを祈っております」
そんな信尹の応えに苦笑を浮かべる静子に一礼すると、彼はこの場を辞した。
会話を終えた静子が改めて進行状況を確認する。既に三番部隊までが出発しており、四番部隊の先頭が出発の合図をやきもきしながら待っている状態だ。
意外に長く話し込んでいたのだなと考えながらも、静子は自身の順番である六番部隊の先頭で待機していた。
すると五番部隊の先頭を務めるはずの信忠が騎乗したまま静子の許へやってくる。
彼の顔に緊張はなく、どちらかと言えば時間を持て余している様子が窺えた。
「よう、静子。俺の暇潰しに付き合ってはくれまいか?」
「これは若様、ご機嫌麗しゅう。勿論、お望みとあらば喜んで」
「堅苦しい物言いはよせ。楽にせい」
お互いに何度も繰り返したお決まりの手順を経て言葉を崩す。
静子と信忠は長い付き合いながら、信忠は信長の後継者である。
家臣である静子が、主君の跡継ぎに対してぞんざいな物言いをしていると、信忠が静子に軽んじられていると周囲が誤解する可能性があった。
それ故に、最初は上下関係を意識した言い回しを用い、信忠が礼を排するように命じて言葉を崩すのが常となっている。
まったく迂遠なことだと思いつつも、これで面倒が回避できるなら必要な手間だと考えていた。
「そう言えば面白い話を二つほど小耳に挟んだぞ? 何でも珍しい鉱石が見つかったとかで足満が土佐国に赴いておるらしいな。他にも九鬼水軍を使って外洋航行の準備をしていると聞き及んだ、確か青ヶ島と言うたか?」
「本当に耳が早いね」
足満が土佐に向かっているのは未だ信長にすら報告していない極秘の情報であり、何処から信忠が聴きつけたかが気にかかるところだ。
また足満の目的までをも察知していることから、鉱山技師か掘削機材の技師あたりに見張りを付けているのだろうと察する。
目論みが外れた折に肩透かしをさせるのも悪いと考え結果が出るまで伏せていただけで、別段隠すほどでもないと判断した静子は口を開いた。
「私は鉱石とかは良く判らないんだけれど、足満おじさんが日ノ本を統一するためには絶対に必要となる鉱石だって張り切っていたんだよ」
「絶対に必要とは大きくでたな。それはこの辺りでは採れない物なのか?」
「量とか質に拘らなければ比較的色々な場所で採れるとは言っていたけど、本土から切り離された四国が理想的な位置にあるんだって」
「それで重要な鉱物っていうのは何なんだ?」
「まずはマンガンだね。クリプトメレンって言うぶどうの粒みたいな形をした黒っぽい塊がいくつもくっついた石が見つかったんだって。それで付近の試掘を続けていたら、菱マンガン鉱って言う赤く透き通った菱型の石が纏まって出土したから本格的に採掘するらしいよ」
「くりぷ……なんだって? その『まんがん』とやらは何が出来る?」
「さっきから質問ばっかりだね。えーと、足満おじさんが言うには鉄より硬い鋼をより硬くしなやかにするために必須の物質なんだって」
「なるほど、より硬い鋼か。確かに小田原攻めでも大砲が強度不足で割れたからな、強い鋼は重要だろう」
信忠はそう呟くと沈思黙考しているのか、目を瞑って考え込んでいる様子だ。
実は他にもクロムを含んだ鉱石であるクロム鉄鉱と灰クロム柘榴石が見つかっているとの報告も上がっていた。
材料工学や地質学に関してはまるで知識を持たない静子からすれば、何が重要なのかサッパリ判らなかったのだが足満によるとクロムがあればステンレスも作れるそうだ。
非常に錆びにくいことで有名なステンレスの利便性は静子でも理解できたため、期待に胸を膨らませずにはいられない。
一気に詰め込んでも理解できないだろうと足満が説明を省いているのだが、ニッケルとクロムから合金を作れば電熱線で有名なニクロム合金となり、これを高炉に組み込むことが出来れば扱える金属の幅が増える。
他にもアルミを調達することが出来ればカンタル合金と呼ばれる高温に耐える発熱体を作ることも可能となる。これでコイルを作成し、電気炉を作ることが出来たなら他国とは隔絶した技術的優位性を持つこととなるだろう。
「おっと、考えこんでしまったな。それで九鬼の連中には何をやらせているんだ?」
九鬼水軍は織田軍に於いて海軍の主力を担っているのだが、これとは別にもう一つの大きな役割があった。
それは外洋航行に向けた補給拠点となる島の探索である。
幾ら静子らが齎した技術によって造船技術や食料保存技術が向上しようとも、現代のように無補給で数か月以上もの航海を続けることは容易ではない。
それ故に、必ず中継地点となる補給基地が必要となるのだ。
幸いにして静子が信長に献上した世界地図があるため、彼女は信長と綿密な打ち合わせをしながら補給基地となる島の候補を絞っていった。
そしてその補給基地となる第一弾が青ヶ島であった。本土から離れること三百五十キロメートル以上という場所に存在する孤島であり、鎌倉時代に成立した『保元物語』に海難事故の記述が存在する。
翻って戦国時代の青ヶ島は、恐らく無人島と思われることから沿岸部に簡易的な港と、物資集積拠点を構築することを目指した。
当然のことながら計画が順調に運ぶはずもなく、一回目の遠征は僅か五日で旗艦のエンジントラブルによって帰投することとなる。
これを元に問題点を洗い出して計画を修正し、改めて船団を組みなおして行った二回目の遠征は予定日を超えても帰還しなかったため捜索隊を派遣し、航路の途上にある御蔵島で立往生していた艦隊を救助して帰還する結果となった。
それ以降も幾度となくトラブルに見舞われ、何度も計画の修正を余儀なくされた。
大きな成果を上げられないまま、無為に資源を浪費するとして周囲から陰口を叩かれながらも挑戦を止めなかった。
数々の失敗を乗り越えた先にこそ栄光が待っていると静子も頑として計画中止に首を振らない。
それでも航海の度に航海日誌から海図を更新し続け、ようやく青ヶ島への往復航路を確立するに至るという経緯があった。
信忠の言から察するに、彼は計画の概要を既に掴んでいることが窺える。とは言え外洋遠征の目的地や展望については大っぴらに語って良いものでもない。
しかし、下手に隠し立てして彼の好奇心を刺激しては『藪をつついて蛇を出す』事になりかねないと判断した静子は、ある程度情報を開示することにした。
「どうせ君のことだから黙っていたら勝手に調べるだろうし、必要な情報だけ教えるね」
「おいおい、人聞きの悪い事を言うなよ。俺を一体なんだと思っているんだ」
「好奇心からすすんで危険に身を晒す猫かな?」
痛い処を突かれたのか、信忠は露骨に静子から目を逸らした。彼の態度に思わず苦笑するも、好奇心旺盛なのは信長の血なのだろうと諦めることにする。
「しかし、貴様のことだから人知れず成功を納めていると思っていたぞ」
「人をなんだと思っているのよ。幾ら技術があっても、経験が無ければ外洋航行なんて無理だよ。航海期間が伸びる程に不測の事態が発生しやすくなるからね」
「地道な努力の積み重ねってやつか。あ、父上の後で良いから俺も外国(日本以外の国のこと)へ行ってみたい」
「……上様の許可が下りたらね」
信長の後継者を不安定な航海に帯同するのはリスクが高すぎる。
静子は信長から許可が得られない限り、信忠を船に乗せるつもりはない。
海が荒れれば沈没することもあるし、そうでなくとも遭難する可能性が高い航海に後継者を連れて行くなど論外だ。
(船が沈没したり、遭難したりした際のサバイバル訓練も必要かな?)
船が沈んだり、遭難してしまったりした際にもサバイバルキットと知識及び技術があれば、生存できる可能性を高めることが出来る。
問題があるとすれば、そのような知識を静子が持ち合わせていないことだろう。
「何だつまらんな。南蛮人の住まう土地を一目見たかったのだが」
「そんなお気楽な航海じゃないんだけどね」
「無論知ってはいるが、日ノ本の外にある世界を見てみたいではないか!」
「まずは上様の天下統一が先だね」
「それはその通りなのだが…… おっと、そろそろ刻限のようだ。迎えがきてしまった。じゃあな静子」
信忠が不意に静子から視線を外すと、連枝衆の部隊から信忠を迎えに来た近侍の姿があった。
若干慌てた様子で静子に別れを告げると、信忠は彼女の返事を待たずに立ち去る。
思わず呆気に取られていた静子だが、状況を確認すると四番部隊が既に出発を始めており、五番部隊となる信忠がゆっくりしている時間ではない。
それぞれの部隊規模が大きいため、六番部隊である静子の出番はまだもう暫く掛かりそうだが、そろそろ準備を始めるよう静子は家臣に命じた。
「さて我々も――」
「おや、こんな所にいたのですね」
静子が部隊の隊列へ戻ろうとした瞬間、狙いすましたかのように義父である前久が声をかけてきた。
今日は千客万来だなと思いつつも静子は前久に向き直る。彼は多くの公家を伴っており、それを見た静子は疑問を抱く。
前久が自分を訪ねる際に、ぞろぞろと取り巻きを連れて現れたことなど一度としてなかった。
そもそも関白たる前久が望めば、取り巻きの同道を許さないことなど造作もない。
それにも拘わらず今日に限って取り巻きを引き連れているのは、何らかの思惑があるのだろうと察する。
しかし、相手は魑魅魍魎の渦巻く朝廷を動かす人物、静子程度ではとうてい前久の真意は窺えなかった。
「ははは。少し肩に力が入っているようだ、そう身構えずとも宜しい」
それだけ言うと前久は静子に近づいて、彼女の髪に一本の簪を挿した。
それは艶めく黒檀の芯材に、桃色をした瑪瑙で桃の花があしらわれており、そこからぶら下がる形で近衛家の家紋である近衛牡丹の精緻な羅漢彫りが揺れている。
恐らくは羅漢彫りの素材が白檀なのだろう、少し甘さを感じさせる華やかかつ、どこかお線香を思わせるような上品で高貴な香りが漂った。
「これだけの大仕事を見事成し遂げた娘に対する親心だよ」
静子の肩を軽く叩きながら前久が告げる。静子からは見えないが、少し離れた場所で控えている才蔵が眉根を寄せて前久を眺めていた。
才蔵の視線を気にすることなく前久は、ひらひらと彼に向けて手を振ってみせる。
「は、はい。ありがとうございます」
「そう畏まらずとも良い。本来なら一緒に茶でも一服したいのだが、私もそろそろ準備をせねばならないようだ」
前久の言葉を耳にして静子は思わず周囲を見回した。すると彼女の視界に静子に声を掛けて良いものかどうか迷っている小姓の姿が映る。
そろそろ静子に準備を促さなければならないが、前久との会話に割って入れるはずもなくやきもきしている様子だった。
「その様ですね。またお時間のある折に、ゆっくりとご一緒いたしましょう」
「そうしましょう。何やら我が娘は多くの仕事を抱えているようですし」
前久はやたらと『自分の娘』という点を強調して話していたのだが、その意図を静子は理解できなかった。
かねてからワーカホリックなことに苦言を呈されていたため、やんわりと注意をされていると考え、そこまで思い至らないのだろう。
「……少し減らすよう努力いたします」
下手に言質を取られては敵わないと思った静子は、早々と会話を打ち切って一礼をするとその場を去る。
前久は彼女の後姿を穏やかな笑みを浮かべて見送りながら、誰にともなく呟いた。
「さてさて、我が娘のもう一人の保護者はどうでるか……」
そこにいたのは静子に対し情愛を示す父親ではなく、朝廷という生き馬の目を抜く伏魔殿の主たる関白の姿があった。
一方、急いで自分の部隊へと戻った静子は、先ほど前久から貰った簪を確認しようと手鏡を取ろうとしていた。
自分の荷物が入った行李に向かおうとした静子の視線の先に、本来ここにはいない筈の人物を見つける。
悪戯が成功したような笑みを浮かべる信長を見て、静子は慌てて馬から下りた。
静子の行動によって信長の存在に気付いた周囲も、彼女に倣って馬から下りて控えようとする。
「そのままで構わぬ」
信長はそんな彼らの様子を声だけで制すると、前久と同じく静子の髪に一本の簪を挿した。
信長が挿した簪は、前久のそれとは対照的にいぶし銀の一本簪に、一点大きく透明なガラス玉があしらわれており、その内部に織田家の家紋である織田木瓜紋が浮き上がって見える見事なものであった。
自分の視界からは見えない位置に挿されている静子は、前久と信長の行動に困惑する。
(二人とも簪をくださったけれど、流行っているのかな?)
「褒美を取らす」
静子の困惑に答えることなく、信長は豪快に笑いながらその場を立ち去る。
後に残されたのは二人の目的が判らず戸惑う静子と、家紋が施された簪から何となく二人の思惑を察した静子の配下たちであった。




