千五百七十八年 十月中旬
結論から言えば会席は大成功の裡に幕を閉じた。華美ではなく、かといって貧相とも言えないギリギリの装飾に謙信は勿論、家康もお気に召した様子だ。
後でこっそりと耳打ちされたが、家康も華美な料理は好みではなかったようだ。謙信は刺身と酒の組み合わせが甚く気に入ったようで、どうすれば越後でも生魚を食べることが出来るのかと確認された程であった。
それなりの成果を出して気を良くした静子だったが、次に迎えるのは御馬揃えだと気を引き締めた。ところがこちらは開催前からケチがつくことになる。
一部の公家達が十月に開催されることに対して文句をつけ始めたのだ。
やれ占いで良くない結果が出た、神無月(十月)は神仏が不在であるから相応しくない等、開催を遅らせたい理由をこじつけてきた。
今までは裏でこそこそと暗躍していたようだが、効果が無いとみて正面から文句をつける方針を取ったようだ。
信長であれば文句など相手にしないと静子は考えたのだが、意外にも信長は公家達に対して開催の良き日を訊ねるという譲歩を見せた。
最初こそ驚いた静子だったが、実に楽し気な笑みを浮かべている信長を見て彼の策略に気が付いた。
「次に何か不満が出れば、その責任を彼らに被せる気なんだ……」
文句を言い出した連中にとって都合の良い日に開催を告知し、更に遅らせるように言ってくるならば日時を指定した者に責任を被せるつもりだろう。
こうなるとケチをつけていた者たちが、予定日通りに開催できるよう尽力しなくてはならない。
一見相手に譲歩したように見せて、その実己の望むところを通す手腕は流石信長だと感心する。自分ならば彼らの意見を一顧だにせず、むしろ付け入る隙を与えた可能性すらあった。
御馬揃えの開催予定日が再び未定になったが、開催されることは変わらないため準備を怠らないようにしていた静子の許に嬉しい知らせが届いた。
遠地に赴いていた才蔵と足満両名の帰還であった。
才蔵は北条征伐に参陣していたのだが、足満が何をしていたかと言うと佐渡島にて金山開発に従事していた。
何故彼が佐渡島で金山開発をしていたかには理由があり、静子が足満と食事をしていた折りに金山の話題が出た。
そこで静子は金の延べ棒がどんなものか実際に見てみたいと言ったのが切っ掛けだった。普通ならば他愛無い憧れだと流してしまうのだが、そこは足満の真骨頂。
静子が求めるのならば他人の命は勿論、自分の命を削ってでも願いを叶えんと動き出す。
ある程度の手勢を率いて佐渡島に渡ると、織田家から派遣されている代官を説得し、即座に相川金銀山の採掘総責任者に就任する。
通常ならば鉱脈を捜して試掘を繰り返すのだが、足満は事前に静子より詳細な地図を入手しており、幾つか目星をつけていた場所を試掘するだけで鉱脈発見に至った。
兵器開発もしつつ、金銀山での採掘を監督するという多忙ぶりだったが、佐渡島と本土間で電信の目途がついたあたりから仕事が捗り始めた。
従来の採掘作業は全て手掘りにて行われていたのだが、足満は効率優先でダイナマイトを投入して火薬採掘を実施。
実用化されたばかりの車輪の付いた機関車のような形をした可搬式蒸気機関を佐渡島に持ち込んだ。蒸気機関を動力とした揚水機やベルトコンベヤ、換気用送風機などの機器を次々と導入し、かつての数十倍にも及ぶ効率を叩きだす。
勿論失敗が無かったわけではなく、実用化直後の蒸気機関は爆発事故を起こし死人までも出した。ベルトコンベヤを実現するにあたり、必要に駆られて合成皮革も開発した。編み物や織物の上に樹脂を厚く塗ったり、張り合わせたりして一枚の革状にして利用する。
こちらも急造であるため、強度が足りずに何度もベルトが断裂する事故が起きた。幸いにして揚水機は原油採取の為に改良が繰り返されており、大きな問題を起こさなかったが、送風機は作業員の指を切断する事故を起こした。
子供が扇風機を前にすれば当然ながら触ってみたくなるのは自明であり、見たことも無い大きな機械を前にしたうっかり者が手を突っ込んだ挙句に指を飛ばすことになる。
数々の苦難が訪れるがそれでも諦めることなく採掘を続け、大量のズリと呼ばれる無価値の岩石の中から金鉱石を選鉱し、鉛中毒被害が出るのを承知で『灰吹き法』や『焼金』といった技術を伝授して金の純度を高めた。
「これが佐渡金山の金と銀なんだ。流石に十キロのは重いね」
足満が直接佐渡金山から持ち帰ったのは、白っぽい母岩の中に僅かに金色の鉱物が見える自然金の鉱石と、その鉱石から作られた金とおまけで銀のインゴットであった。
通常は使いやすくするため1キログラムのインゴットを鋳造するのだが、足満は静子の驚く顔がみたくて特別に十キロのインゴットを作らせた。
金の比重は19.32(水の比重は1.0)もあり、同じ体積の水と比較すると19倍もの重さがあることになる。この為、金のインゴットは見た目以上に重く、荷物を持たされた小姓たちは苦労していた。
特別製の十キロインゴットは1本限りだったが、百グラム、五百グラム、千グラムと金銀三種類ずつを何本か用意したため、それらを収めた木箱は小姓数人掛かりで運ぶ必要があったほどだ。
黄金の輝きは多くの人を魅了するのだが、不思議と静子は綺麗だなと思う程度で金の装飾品を身に着けようとは思わない。予想よりも静子の反応が鈍いことに足満は少し渋い顔になっていた。
そのため早々に興味を失った足満は、小姓たちに木箱を預けると風呂へ向かってしまい、残された静子はそれぞれのインゴットを目録に記し、念のため厳重な封を施してから片付けるよう小姓に命じた。
「良い湯であった」
久しぶりに温泉を堪能した足満が、静子の私室を訪れる。当初は荷物だけを先行して輸送し、足満本人は信長への報告を済ませた後に尾張へと戻る手はずであった。
しかし、真っ先に静子の驚く顔がみたいと考えた足満は、大荷物を抱えたままで安土へ報告に赴き、様々な無茶を通したツケとして詳細な報告を対面にてすることになる。
信長としては足満が去った後も継続して同様の採掘が出来るかが気がかりであったのだが、足満は必要なことは全て引き継いだの一言のみを残して早々に尾張へと向かってしまったのだ。
「本当にお疲れ様でした。金の延べ棒を見てみたいなんて軽はずみに口にしたことを後悔しないでもないけれど、夢を叶えてくれてありがとう」
静子がそう言って微笑んでくれるだけで、足満は今までの苦労が報われた気がする。
「ああ、中々に骨が折れた」
入浴によって血行が良くなった己の肩を手で解しながら、足満は朗らかな笑みを浮かべた。その表情を見た静子付きの小姓が驚愕の表情を浮かべる。
静子邸に配されて年季の浅いその小姓は、咄嗟に「自分は置物」と心の中で繰り返し唱えて表情を引き締めた。
その様子に気付いた静子は何か驚くことがあったのだろうかと首を傾げたが、彼女からすれば別段変わったことなど無いため直ぐに興味をなくした。
「あれ以外にも静子に土産があるぞ」
そう言って足満は静子に小さな布包みを渡した。受け取った静子は何だろうと、中身を検める。
手触りの良い布袋から出てきたのは、艶やかなあめ色をした簪であった。
「玳瑁細工の簪なんて珍しいね」
足満からの土産は鼈甲で作られたかんざしだ。
「隣国からの舶来品よ。商人の話では稀代の名人が作った逸品で、本国でも僅かに出回るのみの代物らしい」
タイマイと呼ばれるウミガメの甲羅と爪、腹甲を使用して製作された各種装飾品を玳瑁細工と言う。現代では鼈甲と言われるが、実は鼈とはスッポンのことを指す。
何故、タイマイではなくスッポンの言葉が当てられているかというと、江戸時代に奢侈禁止令が発布され素材の玳瑁が禁制品に指定された。
それでもタイマイ細工を欲したとある藩主が、この細工はすっぽんの甲羅で作られた細工だと言い逃れしたのが由来だとする説がある。
鼈甲の歴史は古く、加工技術は六世紀末ごろに中国で誕生した。日本でも飛鳥時代には伝来しており、玳瑁如意や螺鈿紫檀五弦琵琶、玳瑁螺鈿八角箱などが正倉院に収められている。
十七世紀になると長崎に中国やオランダからの貿易船から鼈甲の材料と加工技術が長崎に伝わり、国内でも生産が開始された。
長崎から大坂、大坂から東京に伝わるとそれぞれの場所で盛んに製作され、それぞれの地名を取って長崎鼈甲、なにわ鼈甲、江戸鼈甲と呼ばれている。
「綺麗だね、ありがとう」
鼈甲の簪を見ながら静子は足満に礼を伝える。鼈甲は繊維に方向があるため滑りにくい。また人の体温によって着け心地が変化するため、その人に合わせて馴染むように変化していく特性がある。この特性こそが珍重される理由の一つであろう。
だがタイマイはインド洋や大西洋などの海洋に生息し、日本周辺の海域にはいない。それ故、日本では輸入に頼る他ない貴重品であった。
「静子の喜ぶ顔が何よりの報酬だ」
「では報告を聞きましょう。気になったら都度質問するけど良い?」
「それで構わない。ではまずわしが佐渡島に向かったところから話そう」
それから静子に聞かせるべきではない内容を除いて、足満は静子に佐渡島で起きた事を報告した。
足満に同行して佐渡島に渡っていた部下たちは、静子邸に着いて以降の足満の変化に驚いていた。
(あの柔和な笑みを浮かべる人は誰なんだ?)
彼らの知る足満は冷酷非情であり、歯向かう者や敵対する者には一切の容赦を示さない鬼かと見紛う人物であった。
激怒している姿こそ見たことがないものの、機嫌を損ねれば底冷えするような声音に変わるから恐ろしい。
「決して理不尽なことを言わないし、無意味に殴られることもないから羨ましい」とは足満に仕えたことの無い者の戯言だというのが部下たちの共通認識だ。
「ともかく尾張にいる間は、ご機嫌を気にしないで済みそうだ」
「足満様以外ならば取り入る機会だろうが、足満様は逆にご機嫌を損ねそうだ……」
「うむ、足満様は尾張三位様が殊の外大事なご様子。我らのことなど路傍の石だろう、足満様の頭には我らの事など残っておるまい」
「しかし、折角尾張に着いたのだ。我らとて息抜きをしても罰は当たるまい」
「一応申請してみよう。無理ならば諦めよう」
誰が足満に許可を求めに行くかでひと悶着ありながら、彼らは足満に尾張の視察許可を願い出た。案の定、足満は彼らの提案に乗り気ではなかった。
それと言うのも足満に許可を願い出た者たちが、安土で信長に報告した際に信長の命で強引に付けられた者たちだったからだ。
信長の推薦であることから素性の怪しい人物はおらず、まかり間違っても静子に害をなす人物はいないと思うのだが、彼らが問題を起こした際に問答無用で処分出来ないことに躊躇を覚えた。
「わしは織田の殿様からお前たちを尾張に連れて行けと言われただけだ。それ以外のことは与り知らぬ」
尾張に連れてくるまでの命令は果たした以上、それ以降のことには関与するつもりが無かった。
「ゆえに自由に振る舞うと良い。ただし、問題を起こせば命は無いものと心得よ」
足満から消極的な許可が下りたことに彼らは胸を撫でおろす。ただし少しでも問題を起こせば、脅しではなく本当に命を以て償わされると覚悟した。
それらのことから全員で相談し、酒は極力控えて礼儀正しく振る舞うことを誓いあうと尾張の街へと繰り出して行った。
それから数日が経った頃、才蔵が尾張へと帰還した。彼の場合は将兵を率いての帰還であるため、帰還後も軍の編成を解散する等色々と後片付けに奔走する必要があった。
結局才蔵が静子と対面できたのは、彼が尾張に帰還してから一週間後となった。
「北条征伐でのご活躍、お見事でした」
「身に余るお言葉、勿体のうございまする」
静子の言葉に才蔵は深々と頭を下げた。才蔵は北条征伐に参陣こそしたが、小田原攻めには参戦してない。しかし、そのことで彼を侮る者は一人もいないだろう。
小田原攻めには参加していなくとも、彼は孤軍で里見氏と佐竹氏を相手に互角以上の戦いを繰り広げたのだから。
此度の東国征伐に於いては利害が一致するため北条氏と里見氏は手を結んだが、里見氏は東国の雄たる北条を相手に互角の戦いをしてきた古豪であった。
佐竹氏についても東国に於いては珍しい火縄銃部隊を組織するなどの卓見を持ち、鬼真壁こと真壁氏幹が仕えることでも有名だ。
その二者を相手に戦い、最後には勝利を得た才蔵を侮るなど己の不明を証明するに他ならない。
「遅ればせながら東国管領ご就任めでとうございます」
「ありがとうございます。東国については今後、徳川家や上杉家、伊達家協力の下、合同統治していくことになりました。いくさが終わったばかりですが、これからも忙しくなると思います。今はゆっくりと体を休めて下さい」
「お気遣い感謝いたします。休息を終えた後は静子様に仇なす者を、この才蔵が一人残らず叩き伏せてみせましょうぞ」
「ふふっ、頼りにしていますね」
東国に於けるいくさは禁じられた。しかし、禁令が出されただけでいくさが完全に無くなるわけではない。条件が揃えば反乱を起こさんと企む者もいるだろう。
その際に必要なのは言葉ではない。彼らに遵法精神を思い出させる圧倒的な武力が求められる。
尾張に居れば静子が安全だと皆が口を揃えるのは、そもそも静子を守るために都市計画が策定されており、外敵及び内患に対しても常に目を光らせる仕組みが持たれているからだ。
これを拡大して東国に静子が移住しても安全を確保出来る体制を整えなければならないため、家臣たちは苦労することになるだろう。
「そう言えば、才蔵さんは真壁殿をお連れになったとか?」
「はっ! 奴とは再戦を誓った仲でありまして、奴の負った怪我の治療をするためにも尾張の医療を受けさせようと招きました。奴の行動には某が全責任を負いますゆえ、どうか滞在のご許可を頂きたく存じます」
「なるほど、そういった事情でしたか。殿方の友情に口を挟むような野暮は言いません。再戦が叶う日が来るよう、関係各所に遣いを出しましょう」
「過分なご配慮ありがたく承ります」
才蔵は真壁を己に伍するライバルと認めたのだと静子は理解した。報告によれば腰部に重傷を負っており、一人で歩くにも難儀するとある。
戦国時代の常識から逸脱した医療レベルを誇る尾張に於いても、レントゲンや全身麻酔は手配できないため腰部の骨折を外科手術で治療することは不可能だ。
精々が妙な形で組織が癒着するのを防ぎ、自然治癒に任せることしか手の施しようが無い。
それでも神仏の助力を請う加持祈祷よりは現実的な効果が望める分、尾張に連れてきたのは正解と言えるだろう。
そして才蔵は真壁が万全な状態で改めて挑み、煩わしい背景の無い純粋な勝負を経て雌雄を決したいと考えていた。
「『勝敗は兵家の常』と言いますし、勝ち負けに拘らず、悔いのない再戦が叶うことを祈っています」
負けるよりは勝つ方が良いのだが、勝負というのは時の運が絡むもの。それよりも才蔵が後悔しないことが大事だと静子は考えた。
「はっ、承知しました」
静子の心遣いを察した才蔵は、これまで以上に深々と頭を下げるのであった。
滞在の許可が出たということは、真壁を己の私邸に招いても良いという意味である。才蔵はすぐさま尾張の旅籠に宿泊している真壁の許へ遣いを出し、彼を自分が普段利用していない私邸へと呼び寄せた。
「喜べ真壁! 我が主よりお主の滞在許可が出た。ここ尾張は他所と随分勝手が違うゆえ、当面は混乱するだろうがじきに慣れる」
「某はここに来るまでも驚き続きで、すっかり開いた口が塞がらぬようになってしもうたわ」
才蔵の言葉に氏幹は切なげなため息を吐いた。自分の脚で満足に歩けない彼にとって、ここまでの旅程は驚きの連続であった。
彼の知るどんな船舶よりも巨大な軍船に乗せられ尾張へと向かい、恐ろしく巨大な港へと入港して荷下ろしが始まる。
怪我人だからと優先的に下船できた氏幹は、巨人の腕と見紛うような奇妙なからくり仕掛け以て、船から荷下ろしが行われる一部始終を呆然と眺めていた。
自分が乗ってきた船舶も実に奇妙なものだった。自分たちが知る安宅船よりも巨大だと言うのに、風が凪いだ海の上をするすると滑るように進むのだ。
勿論、風が出てくれば帆布を広げて風を受けて推進力としているようだが、それ以外の時はどうして進んでいるのか皆目見当が付かなかった。
港に着いて以降も、実に民が活気に溢れているのが見て取れる。これほど国力に差があるとは思っておらず、自分たちが敗北した理由を遅ればせながら理解した。
「そうか、ならばまずは温泉に浸かりながら一杯やらぬか? 尾張の酒は実に旨いぞ! それに合う旨い肴と熱い風呂、これがあれば怪我などすぐに治ろうというものよ」
そう言うが早いか、才蔵は氏幹に肩を貸しながら静子邸の湯殿へと向かい、酒と肴の用意を頼む。互いに全裸になると湯船に浸かり、体に染み渡る熱に思わずため息が出た。
風呂でお酒を飲むとアルコールが速く回るため、供されるお酒は徳利一本のみと肴は野菜の漬物だけだ。
熱い湯に浸かりながら冷たい清酒が喉を通る感覚に、氏幹は得も言われぬ恍惚感を覚える。何を語るでもなく二人は盃を酌み交わし、存分に温まると湯から上がった。
浴衣に着替えた二人は才蔵馴染みの飲み屋へと繰り出し、座敷の一席に落ち着くと才蔵が不敵な笑みを浮かべる。
「ここから先は底なし沼よ。一度味わえば後戻りは出来ぬ……それでもやるか?」
尾張の生活にハマってしまえば他所の生活が不毛なものとなるということを遠回しに才蔵が警告した。それを氏幹は笑って返す。
「既に人生が変わる程の経験をしておるわ! 毒を食らわば皿までよ、何処までもついてゆこうぞ!」
「その意気や由! ならば今宵は存分に呑んで食らおうぞ!」
互いに盃を高く掲げると、二人は同時に盃を呷って飲みほした。風呂場で味わった冷酒と異なり、同じく冷たいのだがカッと喉を焼くほどに酒精が強い。
それでいながら喉を通る際に鼻を抜ける香りは果実のように甘やかで馥郁としていた。香りに遅れて旨みが舌に広がり、氏幹は思わず盃を凝視する。
今までに味わったことのない酒に驚いたが決して嫌いではない。時間を置くほどに後を引く旨さに、氏幹は手酌で二杯目を注いだ。
「慌てずとも酒は逃げぬ。それよりもこれを食え、肴と共に味わう酒はまた一興なのだ」
「う、うむ……」
才蔵に勧められるがままに氏幹は肴を口にする。今宵の肴は秋鮭と椎茸の山椒味噌焼きだった。椎茸は尾張の特産品であり、ここ以外では到底口に出来ない高級品だ。
塩気の強い秋鮭とこれでもかと旨みを含んだ椎茸が口の中で弾け、それを強い酒で流し込むと一息ついた。
「旨い!」
まさにそれ以外表現のしようが無かった。暫く二人は会話をするでもなく、互いに酒を酌み交わす。二人とも会話がない事に苦痛を感じなかった。むしろこの時間を心地よいとさえ感じている。
「わしは今まで武勇に優れておれば、いくさにも勝てると思い込んでおったが間違いだと悟った。国を、そこに暮らす民たちを富ませることこそが大事なのだな」
暫く沈黙を保っていた氏幹が唐突に口を開いた。程よく酔いが回った彼は、自分たちが敗北した理由を痛感していた。
「そこに気付けるとは流石は真壁、これは再戦が楽しみというものだ」
「おう! わしも怪我をしているのが口惜しい」
「焦らずとも尾張で湯治を続ければ、それほど時を置かずに良くなろう」
「わしは家督を息子に譲った際に、このまま足が萎えてしまうのだと覚悟した。しかし、貴様に尾張での治療を打診され、それに応じて良かったと心底思っておるよ」
「訓練の場に於いてすら、わしの槍を折った者はおらぬ。それを成した貴様が朽ちるのが惜しかったまでよ。あくまでもわしの都合ゆえ、かしこまらずとも良いわ!」
才蔵のぶっきらぼうな言葉に氏幹はただ黙って笑みを返す。二人は盃を軽くぶつけると中身を一気に飲み干した。
「貴様は細かいことに気をやらず、早く怪我を治せ」
「貴様につけられた傷なのだがな。まあ良い、再戦まで貴様をこき使ってやろう」
「安心しろ、小間使いは用意してやる」
互いに軽口を叩きながら彼らは酒と肴を腹の中におさめていく。程よく酔いが回って腹も満たされた頃、互いに疲労からか眠気を覚えて店を後にした。
酒気を帯びて熱くなった体に、夜の冷気が心地よい。秋の夜風を堪能しながらそぞろ歩く氏幹は、才蔵が最初に警告した底なし沼という尾張様式に、肩どころか頭まで浸りきっていることに気付いていなかった。




