千五百七十八年 九月下旬
静子の言葉を耳にした謙信は、一瞬目を見開いて驚くが直ぐに破顔した。
「ここに至っても変わらぬか」
謙信は自分にだけ聞こえる程度の声量で呟く。静子を知って以来、謙信はずっと彼女を注視してきた。
それは彼女が戦国時代に於いて異質な存在だということもあったのだが、その性質が一貫して与える者であったからだ。
人類の歩んできた歴史のほぼ全てに於いて人々は常に飢えていた。飽食の時代と呼ばれる現代先進国が少し異常なだけで、相変わらず多くの人類は飢えている。
乱世と呼ばれる戦国時代についても同様であり、強きものが弱きものから奪うのが常である中、静子は奪うのではなく増やすことに尽力した。
それが尾張の繁栄を支える基礎を作り、弱兵と呼ばれた尾張兵をして精強な軍へと導いたのだと謙信は考える。
兵たちにとって静子さえ健在であれば、たとえいくさで己が命を落とそうとも彼女が家族たちを飢えさせないでくれるという信頼が強さの源泉となっていた。
(静子殿亡きあとが問題となるだろうが……そのことを彼女が知らぬはずもないか。何かしら手だてがあるのだろう)
欠点と言えば静子という個人に尾張の繁栄が依存しすぎている点だろう。ゆえに静子亡き後、尾張が引き続き繁栄を享受し続けられるかは、後継者にかかっている。
良くも悪くもトップが変われば全てが変わる中央集権型組織の問題点が気になった謙信だが、少なくとも技術や知識の継承については積極的に取り組んでいるし、後継者育成についても自分よりは遥かに上出来だと認めざるを得ない。
「承知した。ならばその夢、微力ながらお力添えさせて頂きたい」
謙信は静子に協力することを決意した。それは自身が戦国の世に覇を唱えるのではなく、彼女が語った「我らの子孫が食うに困らない世」を実現するパートナーとなることを意味する。
謙信自身は静子の語った夢が現実のものとなるのであれば、自分が天下人にならずとも良いと腹の底から思えたからだ。
「某も協力させて頂きましょう」
謙信が発現したことを受け、家康も方針を決めたのか、同様に静子へ首を垂れる。ことがここに至っては伊達家に否やがあるはずもなく、皆が賛同することとなった。
これにて東国は織田家を筆頭として、徳川家、上杉家、伊達家の四家によって合同統治することが決定した。形式上は信長が頂点ではあるのだが、実務は信長より委任された静子が執り行う。
「ありがとうございます。正式な文書は後日改めて交わすとして、早速で申し訳ありませんが農業士をこちらから派遣いたします。彼らに可能な限り便宜を図って頂けるようお願いいたします」
農業士とは静子の農業技術を継承し、一定以上の経験を積んだ技術者を指す。彼らの仕事は大きく三つ、一つは他者に対する農業指導、一つは土壌や水源などの環境調査、一つは現地の農業史を取り纏めて報告するであった。
勿論、これらを全て一人がこなすわけではなく、複数の農業士をチームとして取り組む。彼らの出自は様々であり、百姓出身であったり、武家の末子であったりと様々なのだが共通しているのは静子の学校で共に学んだということだ。
尾張に於いては静子の学校を卒業した際に学位が授与され、その学位によって身分が保証されるのだが対外的には何の意味もないため、農業士になると同時に士分に叙されることとなる。
これはあくまでも対外的なものであり、実際に武家を興すという訳ではないので継承出来ない一代限りのものとなっていた。
「その農業士とは何をされるのでしょう?」
「農業に関する専門家と思って頂ければ結構です。主な業務は現地の環境調査、そして農業指導及びその結果を記録することとなります。彼らの調査報告を元に、現地でどの様な作物を栽培するのが良いかや、どのような技術を導入することが効果的かを判断しますので、重要な役目を担っております」
「承知した」
「環境調査とやらは何故必要なのでしょうか?」
「尾張で出来たことが他所でも同様に出来るわけでは無いからです。一例として尾張と越後では気候も異なり、水の温度も異なります。米を育てるにあたって冷たい水が天敵だというのは皆様も経験則としてご存じかと思います」
静子の農業技術は万能ではない。その土地に合わせて適宜調整をしなければ害をもたらすことすらあるのだ。農業は食料に直結するため、その失敗は即座に命にかかわるため慎重を期する必要があった。
「どれだけ人の技術が進歩しようとも、農業というのは自然との闘いなのです」
会談の結果、徳川領には二百人、上杉領にはのべ三千人規模の人員が派遣されることが決定した。上杉領への派遣人数が多い理由は、冬になると積雪で道が閉ざされやすいためである。
流石に一度に三千人もの人員を送り込むことは無く、人員は都度入れ替わりながら、のべ人数として三千人を見込んでいるということだ。
対して徳川領は隣国であり、状況を見て追加人員を送りやすいことから、こちらものべ人数で二百人と見積っている。気候に関しても尾張と大差ないことが既に判っており、上杉領に対して重点を置くこととなった。
当初は伊達家に対しても派遣する予定だったのだが、当面はいくさを集結させることが優先であり、奥州平定後に改めて論じるということで話が纏まった。
「さて、腹の探り合いをする政はここまでと致しましょう。お集まりの皆様にささやかながら宴席を設けさせて頂きました。本日は旬の食材をふんだんに使用したお料理を用意しておりますので、どうぞ尾張の味覚をご堪能下さい」
細かいところは後回しにし、大筋だけを決めていたというのに時刻は既に午後二時を過ぎようとしていた。戦国時代に於いて二時頃とは食事時である。
静子が食事を取ろうと口にするのは当然のことであった。
しかし、自分たちの行く末を左右するほどに重大な会談を飯如きで中断するというのは気が引けた。
「多くはございませんが、上物の清酒もご用意してございます」
噂に高い尾張の清酒が出るとなれば話は別だ。現代に於いても酒を飲んだ後に仕事をしようとする者は稀だろう。戦国時代ともなれば酒は浴びるように飲むことが多く、宴会などが催されれば前後不覚になる者が続出する。
つまり酒が出るということは、今日はこれ以上議論することは無いと宣言したに等しい。彼らは仕方ないという風を装っているが、期待を隠し切れずにいる。
そして浮かれているのは彼らだけでは無かった。静子の家臣達も同様に、酒宴への期待に胸を膨らませている。禁酒が厳命されている静子以外は、もう今日の仕事は終わったと考えているのだろう。
その様子を苦笑しつつ見守っていた静子だが、ふと自身に向けられた視線に気が付いた。視線の主を追ってみると、相手は謙信その人であった。彼はお預けを食らった犬のような、どこか情けない表情を浮かべて静子を見つめていた。
はて、何が彼をそんな切ない気分にさせているのだろうかと考えたところ、直ぐに理由に思い当たる。
(そういえば、上杉様も禁酒されたんだよね)
かつて謙信は度重なる深酒により、体がボロボロの状態になっていた。このままでは史実通りに早死にすると考えた静子は、謙信にみつおとの酒勝負を持ち掛け、禁酒する旨の確約をもぎ取っていた。
それから年単位に亘る治療を続け、近頃はようやく健常者と言っても差し支えない程度まで回復してきている。今後は前のような深酒をしないのであれば、多少お酒を嗜む程度は問題ないと言えるだろう。
しかしアルコール依存症とは根深いもので、安易に飲酒を許せば元に戻ってしまうのではないかと危惧した静子は、謙信が禁酒生活を続けているのを止めなかった。
(流石に今回の宴席でまで禁酒を強いるのは可哀想だよね)
謙信の体調を定期的に確認している医者からも、多少の飲酒ならば問題ないとの報告を受けている。ならば今日くらいは謙信に飲酒を許可しても良いだろうと判断した。
「上杉様を筆頭に、越後の皆様は酒豪が多いと聞き及んでおります。本日のお酒がお気に召すと良いのですが」
面と向かって謙信に飲酒を許可しますと言えば、彼の面子が潰れると思った静子は婉曲な表現と目配せを以て謙信に許可を伝えた。謙信も静子の言わんとすることを理解したのか、小さく右拳を握りしめている。
「(そんなにお酒が飲みたかったのかな?)会場は大広間となりますので、家人に案内させましょう。少々お待ち下さい」
一般の家屋に比べれば大きいとはいえ、所詮は静子邸も私邸の域を出ない。大人数が一度に移動するようには出来ておらず、案内の者をつけて少しずつ大広間へと移動して貰った。
案内する順番や、席順について少しは揉めるかと懸念していたのだが、誰もそんなことを気にしている様子がない。予想よりもスムーズに物事が進んでいることに静子は思わぬ落とし穴があるのではないかと不安を抱く。
とは言え、現状で何も問題が起こっていない以上は気にしすぎるのも野暮だろうと思い直し、何かあった際に即座に動けるよう配下に告げると自身も宴会場へと赴いた。
今回の宴席は戦国時代の常識とは異なる様式を採用しており、静子自身はこの方式が受け入れられるかどうかの方が政よりも悩ましかった。
(毎回思うんだけれど、宴会の料理って多すぎるよね。それでも食べきらないと庖丁人の不手際とされるからね……)
戦国時代の宴会で供される食事の量は、女性である静子にとっては厳しいものがある。今回は自身が催す側であるため問題ないが、招かれた場合に於いて静子が料理を残せば、その責は饗応役(接待する人)や料理人となるのだ。
たかだか料理を食べきれなかった程度で下の者が処罰されるなど無体な話だと思うが、それが常識となっていたのが戦後時代である。
流石に自分の都合で下の者たちが処罰されたのでは目覚めが悪いため、静子は新しい宴席の形を提起しようと考えた。
だが尾張だけで通用する形式では意味がない。そこで今回、東国を差配する者が一堂に会する機会に披露しようと思いついたのだ。
今回の宴会様式を国許に戻った彼らが広めてくれることを期待して、静子は此度の宴会が成功することを祈らずにはいられなかった。
(三河武士は過飾を嫌う。越後武士については詳しく判らないけれど、景勝君たちの様子から見て質実剛健なタイプだと思う。ゆえに史実で明智光秀が家康や穴山梅雪をもてなした献立は使えない)
室町時代以降、宴席の料理は一度に全て並べられるため、膳にも華やかさを演出する手法が凝らされた。
料理を盛る皿の下にある台、即ち膳自体を金や銀で塗り、絵を施した『をけ金』、料理に刺す串を金で塗る『亀足金』、料理の下に金箔が施された和紙を敷く『甲立』、造花を料理に添える『唐花』などがあった。
史実に於いて安土城で家康を光秀が接待した際、各地から集めた山海の珍味で料理を作らせるだけでなく、このような華やかな演出までをも駆使していたのだ。それを朝食や昼食に於いても行っていたというのだから、当時の光秀がどれほど気を配っていたかが判るだろう。
(少しでも豪華なもてなしをしたいという気持ちは判るけれど、如何せん演出優先で味を疎かにしている気がするよね)
全てがそうという訳ではないのだが、たまに華やかな演出だけに力を注ぎ、料理の味はさっぱりという宴席に当たったことがある。
普通の皿に美味しい料理が載っていれば、それだけで満足という静子からすれば味が悪いのは論外であった。
不満を表に出してしまえば相手方の料理人たちにも影響が出るからとおくびにも出さないが、料理は舌で楽しめてこそだと思う。
(上様から許可は得ているけれど、私の考えはどうしても貧乏くさいって言われるのよね)
静子は事前に宴席について信長に相談をしていた。実際に宴席で供する方式で幾つか料理を出してみたものの、信長の感性からすれば「どうにも貧相だ」というのが評価であった。
余りにも有難いお言葉に、決して料理人には伝えないでおこうと静子は心に決めた。
色々と考えていた静子だが、小姓の案内に従って上座に座った。謙信や家康も既に座っているので、静子が挨拶をすれば宴会が始まるという状態だ。
静子は目だけを動かして会場の様子を見渡す。眉根を寄せて難しい表情をしている者が幾人か見受けられた。安土や京で接待を受けたことのある者たちだと静子は予想する。
ゆえに今回の宴席も余り気乗りがしないのだろう。
更に目線を動かしていくと家康の家臣である忠勝と目が合った。その瞬間、彼は誰が見ても判るほどに上機嫌となる。隣に座っている半蔵がため息と共にわき腹をつつくと、状況を理解した忠勝が表情を引き締める。
その様子を見ていた康政が小さく笑った。
(あの三人は本当に仲が良いね)
昔から変わらない三人の様子に緊張がほぐれた静子は、他の面子にも視線を向けた。越後の面々が座る席には景勝たち人質組も加わっていた。これは景勝が謙信の後継者として確定しているための措置である。
そして伊達家の席には名代として藤次郎を筆頭に数名が座している。
これから東国を動かしていく面子を見て、改めて責任重大だと思いなおす静子だった。しかし、これから食事をするにあたって仕事を引きずるのは良くないと考えた静子は、一つ咳ばらいをすると軽く手を叩いて配膳係たちに合図した。
静子からの合図を受けた配膳係たちは、宴席に着いた各自の前へ膳を置く。
「これは……?」
「う、うむ」
膳が置かれるたびにあちらこちらから困惑の声が上がった。表情にこそ出さないものの、謙信も家康でさえも疑問を持っていることが窺える。
静子は自分の前に置かれた膳に視線を落とすと、膳の上には梅酒の入った小さな尾張切子のグラスと本日の献立が置かれていた。
「此度の宴席は少し趣向を変えております。皆さま色々と思うところがおありでしょうが、どうか私の我儘にお付き合いいただけないでしょうか?」
静子が採用した方式は会席のコース料理であった。現代でも宴会などで採用されるコース形式であり、本膳料理から派生して簡略化されたものだと言う。
本膳料理ほど堅苦しい決まりがなく、時代や季節に合わせた嗜好などが凝らされる。
似た言葉として『懐石』があるが、こちらは茶会で供される料理となる。二つの違いは『懐石』が茶を飲む前の軽食であり、空腹を一時的に満たすものに対し、会席は酒をたしなむ為に料理の品数や種類が豊富である。また飯物と汁物が提供されるタイミングが異なり、懐石は最初、会席は最後に供されるという差があった。
余談だが懐石は元々『会席』と呼ばれていたのだが、江戸時代に入り会席ではなく『懐石』という漢字が当てられるようになった。
そして元々は懐石だけで料理の意味が含まれており、懐石料理とすると重言になるのだが、会席料理の影響からか現代では懐石料理と呼ぶのが一般的となっている。
また現代では一般的な食事としても供されているため食事処では懐石料理、茶席に於いては『茶懐石』と呼び分けて区別している。
「これは私個人の意見ですが、本膳料理はその……私にとっては量が多すぎるのです」
恥ずかしそうに告げる静子だが、内心では同意する者も若干名いた。本膳料理は本膳(一膳)、二膳、三膳が供されるのを基本とし、丁重にもてなす場合には与膳、五膳、御菓子と続く。
そして各膳には料理が四から七ほどが載せられているため、最低でも十種類、多い場合は三十種類もの料理を食べる必要があった。静子の場合は、信長から禁酒令が出されているので問題ないが、他の者にはこれに加えて酒までもが供される。
「しかし、腹が満ちたからと言って料理を残せば饗応役や庖丁人に顔向けできませぬ。そこで此度、新しい形式の宴席を催させて頂こうと思います」
本膳料理は食べきれないというのが、偽らざる静子の本音だ。
しかし、大量の食事が供される理由も判っていた。現代は飽食の時代と言われているが、それまで腹一杯食べるということは貴重であったのだ。
静子も満足な食事を得られない状況を経験したからこそ、宴会に於いて腹一杯食べられるというのが重要だと理解できる。
今の静子のように量を減らしたいと思う方が稀であり、食べられなくなったのなら世代交代の時期が来たということだとされていた。
事情はわかれども毎回胃の限界に挑戦するのは勘弁願いたい。そこで量を調整しやすく、本膳料理より堅苦しくない会席に目を付けた。
「誤解のないよう申し上げますが、私は本膳料理を否定するつもりはございません。本膳料理にはそれならではの良さがございます。此度の宴席は私の我儘であることを繰り返し述べさせていただきます」
「ふむ……献立とやらを見る限り、この膳で全てという訳ではないようだ。今までにない新しい様式とやらも気にかかる。ましてやそれを最初に経験出来るというのは僥倖だろう」
それまで静子の言葉を聞いていた謙信が口を開いた。やや難しい表情を浮かべているものの、否定的な雰囲気は感じられない。
「そうですな。なに、問題があれば我々で指摘すれば良いのです。静子殿ならば次の宴席で、見事改善して下さるでしょう」
家康も謙信に同意する。ここでは若輩者となる藤次郎だが、彼は酒癖の悪さから禁酒を言い渡されており、彼の膳に供されたグラスには梅ジュースが入っている。
酒精の感じられない香りを嗅いでいる藤次郎に、不調法なのではと小十郎は気が気ではなかった。
「(そう言えば、政宗も新しい物好きで有名だよね)ありがとうございます。その時はご遠慮なくご指摘下さい」
「はっはっは。では、静子殿の言質も頂戴できたことゆえ、早速質問させていただきたい。こちらは匂いからして梅酒かと思いますが、酒はこれだけになるのでしょうか?」
最初の質問が酒についてなのが謙信らしいと思った静子だが、余計なことを考えて返答を送らせるわけにはいかないと頭の中を切り替える。
「こちらは食前酒となります。膳の上に本日提供される料理の一覧が献立として添えられております。酒については記載がなく、適宜供されます。私は上様からの禁酒令が解かれていないので、他の物を頂戴しますが、皆さまは遠慮なく召し上がって下さい」
静子が信長から禁酒令を言い渡されて以降、一度として解除されたことがない。どうしても酒を飲む必要がある場合には、厳格に量を規定されていた。
酒量を確認する目付け役を同席させる旨が厳命されていることから、信長がどれほど静子に飲酒をさせたくないかが窺えよう。
そこまでしてまで酒を飲ませたくないというのは何故なのかと疑問を抱いた静子は、慶次や長可などの共に起居する者に訊ねたことがあった。
彼らは信長より静子の酒癖について耳に胼胝ができるほど聞かされていたため、全員が口を揃えて酒を飲まないよう諭されたのだった。
そうまで言われた静子は、逆に自分が酔った際に何をしでかしているのか気になったのだが、誰に聞いても口を閉ざすことから聞いてはいけないのだと理解する。
自身に酒乱の気があるとは信じがたいが、知ってしまえば後悔しそうな気になったため、一生涯聞かないことにしようと心に決めた。
「ほほう! この和紙に書かれているのが献立ですか? なにやら良くは判りませぬが、それなりの品数が供されるようだ」
家康が膳に乗っている献立を手に取った。他の者も気になっていたようで、家康に続く。
献立には食前酒、前菜を出す先付、酒の肴を出す八寸、吸い物や煮物を出す椀物、湯引きや皮霜作りといった刺身を出す向付、焼魚などの焼物を出す鉢肴、揚げ物やおひたしを出す強肴、酢の物や和え物を出す止め肴、飯と汁、香の物を出す食事、最後に果物を出す水菓子だ。
先付と八寸はどちらも酒の肴を供するのでほぼ同じ意味だが、これは会席が酒を楽しむ宴会という事で静子が献立に追加した。具体的な違いは先付が温野菜、八寸が豆類で作られた酒の肴になる。季節によっては八寸を抜いて、先付で両方を供しても問題はない。
「色々とありますな。献立を読むと料理への期待が掻き立てられるし、酒も幾種類も用意頂いてる様子」
「何やら温かい酒があるようですぞ」
先んじて配膳係に酒の種類を確認した者が情報を流す。
「温かい酒というのは気になりますな」
「実は某、それほど酒が得意ではござらぬ。しかし、ここでしか飲めぬ酒とあらば、試してみとうござる」
「某は先に飯が頂きたい……」
献立を見ながら各自が思い思いのことを口にし始める。流石に騒がしくならないよう気を使っているようだが、漏れ聞こえる会話から概ね好意的に受け止められたと判った。
最初の掴みは良好だと感じた静子は、この調子で宴席を成功させようと決意した。
「気になったことは配膳係などにお聞き頂ければ幸いです。それでは堅苦しい挨拶も無粋でしょうし、宴会を始めましょう」
言いながら静子は梅ジュースの入ったグラスを手に取り、話し終えると同時にグラスを傾けた。




