千五百六十五年 三月中旬
歴史上の人物に出逢えたら、一体どれほど嬉しいだろうか。
でもそんな夢は実現不可能だと分からないほど子供でもなかった。
ただ「もしも」と思うことがないとは言い切れなかった。
そんな時はノートに色々と書き綴って満足していた。
世間から見れば、妄想ノートという部類に入るらしい。
だけど今日からそのノートは不要だ。
だって――――――。
「貴様、一体何者だ」
タイムスリップしちゃったから。
(ど、どどどどどどどどどどどどういうことぉーーーーーーーーーーー!)
パニック中の少女は目の前の人物と今の自分の境遇を再度考える。
(えーと、確かお爺ちゃんの家で農作業を手伝った後、幾つかの収穫物と種を貰って……そしてお祖母ちゃんの煮付を持って帰ろうとしたらお姉ちゃんから電話があって……)
今までの行動を思い返すが、タイムスリップした理由など見つかるはずもなかった。
そもそもタイムスリップ自体、どうして起きてるのかすら分からなかった。
(ミリタリー物買わされて、重かったから近道の獣道を通って家の裏に出ると思ったら……)
少女は左を見る。続いて右を見る。どちらを向いても鬱蒼とした森林しか目に入らなかった。
しかも生えている木々は、家の近くでは決して見られない種類のものばかりだった。
「娘よ。わしは気が短いほうでな」
再びパニックになりかけたが、頭上から聞こえた声で我に返る。
おそるおそる声の方を向くと、そこには青筋を立てた三十歳ぐらいの男性が馬上から声をかけてきていた。
「もう一度聞こう。貴様、名を何という?」
刀の柄に手をかけた状態で声をかける人物を少女は知っている。
決して会う事は叶わないはずの、その人物の名前は。
「織田上総介三郎平朝臣信長……?」
その時、ブチリと何かが切れる音がした。
瞬間的に危険を感じた少女は、全神経を集中させて真横に飛んだ。
「貴様……その生命いらぬと見た!」
斬撃を放った男性は額に青筋を浮かべながら告げる。
殺る気十分、次は確実に殺るという事がはっきり伺える殺気を纏っていた。
(ひえぇぇぇぇーーーー!! そういえば戦国時代は諱を言っちゃいけないんだったー!)
戦国時代、大名クラスの人間の名前は現代日本人から見れば複雑怪奇だ。
例えば時代によって変わるが、織田信長の正式名称は織田上総介三郎平朝臣信長だ。
織田が苗字とも家名とも言われ、その人の所属する家族の名前だ。
上総介が仮名と言われ、職業のようなものだがかなり自称が多かった。
三郎は輩行名と言われ、親が子を呼ぶ時などに用いる、現代の「名」に近い意味合いを持っている。
平が 氏と言われ、自分の一族のルーツを示すものだが、箔付けの為に勝手に名乗る事が多かった。
朝臣が姓と呼ばれ、朝廷との関係を現していた。
そして最後に信長が実名である。
そして実名はまたの名を諱と呼ぶ。これは「呼ぶことを忌み嫌う名」という意味だ。
何故そう呼ばれるかというと、戦国時代は実名というものがその人の人格を表す名という意味があった。
だからそれを敬う気持ちから、実名を呼ばぬことが礼儀とされた。
逆に言うなら少女のようにどう見ても目下のものに、実名を呼ばれる事は大変許しがたい行為である。
つまり無礼打ちされても文句が言えないのだ。
「す、すすすすすすみませーーーーーん! 上総介様! どうか! どうかお許し下さいーーーー!!!」
ではどうやって他人を呼ぶかというと、男子の場合は「役職名」などの通称に敬称をつけて呼ぶ事が正しい呼び方になる。
よくドラマや漫画、アニメ等で秀吉が「信長様!」と呼ぶ描写があるが、実際言ったら冗談抜きにその場で無礼打ちされるのが現実である。
何しろ諱が用いられる場面は、信長よりかなり目上の人間が信長を呼ぶ時ぐらいしかないのだから。
もしくは朝廷の公文書などに載るぐらいだ。もっとも、その場合は朝廷との関係を含む「平朝臣信長」と言う名前で記載される。
「……本来なら叩き斬るところだが、貴様の奇天烈な格好に興味がある。三度目はない、貴様の名は何という」
額に青筋を浮かべた信長は、イライラしながらも刀を鞘に収める。
次こそ選択肢を間違えればバッドエンドコース、つまりその場で斬られる事を理解した少女は、唇を震えさせながらもこう言った。
「静子……綾小路 静子でございます」
平伏、と言うより土下座状態で静子は自分の名前を名乗る。
信長はそんな静子をジロジロと見ながら考える。
(奇天烈な格好じゃ。この様な格好は見たことがない……となれば南蛮か)
敵か味方か、どちらかは分からないが間者とすれば随分と間抜けだと信長は思った。
さっきから怯えているし、動きものろく簡単に始末出来そうだった。
(……南蛮の人間は高い技術を持っている。それを使えれば良いが……)
「静子とやら……貴様、生国はどこじゃ」
「は? 生国? あ、生まれた所ですか。え、えーっと……東京都ですが」
「とうきょうと?」
聞いたことのない名前と格好、そして所持している物から信長は静子は南蛮人なのだと考えた。
ならば殺すより、静子の持つ技術を使って富国を目指す方が良いと思った。
「奇天烈な名じゃ。まぁよい、用は済んだ。行ってよいぞ」
「……え?」
しかし静子が自分に素直に服従すると思えなかった信長は一計を案じる。
一人ぼっちだという点から、静子はどこかに所属している人間ではない。
間抜けっぷりから間者は無理だろう。
「聞こえなかったか。さっさと失せろと言っているのだ。わしもそろそろ城に戻る故な」
「え、えーっと……あ、あの!」
一人なら誰かの庇護がなければ、戦乱の世は生きていけない。
幸い自分の事を知っている様子、不安な状態なら保護を求めてくるだろうと信長は考えた。
「と、唐突で申し訳ないのですが! 私も連れて行って頂けないでしょうか!?」
「断る」
「ガーン!」
「わしが貴様のような得体の知れない輩を招いて何の得があると言うのじゃ」
「え! えーっと、えーっと……」
静子はオロオロとしながらメリットを考える。
信長はそんな静子を見て唇を釣り上げて笑みを浮かべた。
(この娘から南蛮の技術を手に入れる。それにより世界に立ち向かえる国を造る)
「あ! そ、そそそそうです。私、農業を学んでいましたので……それでお役に立てますよ!」
「……ほぅ、農作物か」
(悪くない。わしは食うものに興味はないが、食料自給率を上げる事は富国に繋がる。それに百姓一揆なども防げるかもしれん)
戦国時代、一揆の問題は尽きない悩みの種と言えた。
百姓一揆など起こされては、生産性が格段に落ちてしまう。
それは年貢を納める量が減るという事を意味していた。
「良かろう。貴様の能力わしの為に役立てよ。貴様がわしから離れる時は死ぬ時、それを忘れるな」
「は、はい!」
それは「裏切ったら殺す。何かミスしても殺す」という意味も含んでいるのだが、静子は当面の事だけで頭いっぱいなのか、その事に気付いていなかった。
(今日は良い日じゃ。南蛮の技術が手に入るのだからな。さて、どうやってサルや可成を説得するかのう)
持っていた鞄を背負いつつ、静子は信長に付いて行く。当然ながら徒歩で。
馬に乗せてくれるはずもなく、重いかばんを背負って歩くことになった。
(お姉ちゃんの本……捨てたいけど、もし帰った時になかったら殺される……)
暴君である姉がわざわざ電話をしてきてまで頼んだ代物。名前は『古代から現代までの兵器一覧』という本だ。
ミリタリーマニアの姉らしい一品で後二つほど買わされたが、そちらも鞄の中に入っている。
(……お爺ちゃんから貰った数種類の種。それらを使って信長をアッと言わせないと……)
歴史通りなら信長は気が短い。ちょっとでもミスをするとそのまま真っ二つにされる。
しかし反面、戦国時代の武将の中では異端と言っても良い程の革新的な考えの持ち主だった。
珍しいものや未知のものなどを敬遠するどころか、興味を持って観察するぐらい好奇心旺盛だ。
(確か薩摩芋は江戸時代に鹿児島を経由して広まったもの……だとすると薩摩芋は「未知の味」になる)
鞄を背負い直すと、静子は今現在手持ちの武器が何かを整理する。
(お爺ちゃんから貰ったかぼちゃの種、スイートコーンの種、トマトの種、小松菜の種、辛玉ねぎの種、サトウキビの定植苗。それから収穫で貰った薩摩芋が三つ、コンビニで買ったチロルチョコ数個と果物系のドロップ飴……よし!)
イケる、と静子は思った。
薩摩芋は水に浸して苗が出てきたら植えればいいし、火山灰の土壌でも育つほど強い生命力を持つ。
寒さには弱いが、信長がいるとなれば美濃国、もしくは尾張国のどちらかだ。
(尾張国は東海道にある愛知県西部。気候は十分だしかぼちゃやトマト、小松菜は手入れが少なくて栄養価が高いし収穫量も多い。唯一スイートコーンだけ水が必要だけど、それは何とかなるかな。それになんといってもサトウキビ。この時代、日本は砂糖を滅茶苦茶輸入してたから、砂糖が手に入るってのは大きな強みだよね)
トマトやスイートコーンの色鮮やかさ、薩摩芋やかぼちゃの収穫量、そしてサトウキビ。
どちらも信長にとっては「未知の物」に当たる。そもそも西洋(南蛮)すら未知のものである。
(伝来した物と違って、こっちは二一世紀の科学技術などで品種改良がなされた野菜。また、農業技術もこの時代にとってはオーバースペックな知識になる)
静子の持つ知識は、信長がいる時代にとっては未知の科学技術に当たる。
当然、信長はそれを目当てに自分をこき使うだろう、と静子は思っていた。
しかし一つだけ問題があった。
(この時代って女が出しゃばる事自体良しとされない時代なんだよ……ねぇ)
戦国時代は女が何か口出しするのすら忌み嫌われていた時代だ。
平たく言えば女に人権などない。
政略結婚が当たり前、自由恋愛の末に結婚など夢のまた夢という世界だ。
(生き残る為には信長に気に入られないと駄目。でも余りにも実績を上げすぎて、他の配下の人たちから睨まれても駄目。む、難しい〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!)
信長に「手放すには惜しい」と思わせる必要がある。
だが余りにも気に入られてしまうと今度は配下の人たちから不興を買う。
絶妙なバランスを要求される。
(お姉ちゃん曰く『兵士を脅かす恐ろしい敵は二つ。一つは病気、一つは空腹だ』らしいから、食料事情を改善できれば……)
兵士たちを使って直接功績を立てるのではなく、あくまで兵士たちの強さを底上げすれば不興は買わないかもしれない。
端的に言うと『いなくてもいいが、いると兵士たちが強化される』と思わせるしかない。
(帰る方法なんてわからないし、とにかく生き抜くしかない!)
オロオロしていても仕方がない、と思った静子はグッと拳を握り締めながら思った。
この戦国の世を生き延びて、絶対に現代へ帰るんだと。