千五百七十七年 七月下旬
時はやや遡り、石山本願寺陥落の一報が早馬によって京に齎された頃。
公家の頂点でもある五摂家が一つ、二条家当主の昭実は寝所に設えられた御帳の中でまんじりとも出来ない夜を送っていた。
この頃になると近衛家が積極的に広めている木綿布団が裕福な公家の間で浸透しつつあったのだが、昭実は頑なにこれを拒んでいる。
現在の貨幣価値に換算すると敷布団と掛け布団の一組で国産の高級乗用車一台分程度の値段となり、上級貴族たる公卿であろうと財力とコネの両方を兼ね備えない限り手が出ない代物だ。
勿論五摂家の一角を担う二条家のそれも当主ともなれば入手できるのだが、織田家に対する今以上の傾倒を疎ましく感じている昭実にとっては堕落の象徴にさえ思えたのだ。
それゆえに昔ながらの八重畳の上に横臥し、着物を上に掛けて目を瞑っているのだが一向に睡魔は訪れない。
その原因は本願寺陥落の詳報にあった。官軍の本願寺布陣から僅か二日で陥落し、よりにもよって反乱の首謀者たる教如を生け捕りにされてしまっていた。
一連の騒動を画策するにあたり、京に於いて暗部を司る者達を通して教如に対する援助や指示を出していたため、それらを逆に辿られれば己の関与が発覚しかねない。
そして昭実は織田家の急所たる静子の暗殺を企ててしまっていた。敵に対する信長の苛烈さは京に於いても有名であり、それが自分の間近にまで迫っているかと思えば夜も眠れないでいたのだ。
連日の不眠による寝不足は目の下に濃いクマとなって現れている。疲労が色濃く残る顔色は死人のようであり、脂汗に塗れた髪が額に張り付いている様子はとても貴人とは思えない有様だった。
彼は確実に追い詰められていた。第一報が齎されて以降、彼の身の回りでおかしな事が相次いで起こるようになり、ついには暗部を担っている者達との連絡さえつかなくなってしまう。
昭実は生まれついての圧倒的強者であり、他者から恨まれはすれど表立って敵意を向けられたことすらなかったのだ。それがいつ自分の身に危険が降りかかるとも判らない恐怖に晒され続ける重圧はいかばかりであろうか。
「女の分際で政に口を出す身の程知らずを排そうとしただけでは無いか! それの何が悪いと言うのだ!!」
ガリガリと頭髪ごと頭皮を掻きむしると、指の間には脂に濡れた頭髪の束がごっそりと絡みついていた。おびただしい量の抜け毛を見た昭実は「ひいっ!」と短く悲鳴を上げる。
指の間に絡みつくそれを忌まわしい物であるかのように振り払い、少しでも己から遠ざけようと足で蹴って部屋の隅へと追いやった。
その時初めて彼は己が置かれた状況の不自然さに気が付く。大声を出した上に相応の物音も立てているというのに、誰も様子を確認しに来ない。
それどころか音の発生源たる自分が沈黙した途端、耳鳴りが聞こえるほどの静寂が辺りを支配していた。まさに虫の音さえ絶え、張り詰めた空気が重く圧し掛かる。
「誰か! 誰かある!」
昭実は声の限り呼びかけるが、人気の絶えた屋敷内に残響がいんいんと響くのみで、応えが返ることはない。
居ても立っても居られなくなった昭実が着物を纏っていると、場違いな匂いがふんと鼻をついた。それは何処か香ばしく、そして山火事を思わせる煤けたものだった。
昭実が静寂に耐え切れず叫びそうになった瞬間、彼の御帳の中に赤黒い重量のあるものが飛び込んできた。
それは八重畳の段差で止まるとゴロンと転がり、昭実に自分の正体を無言のまま告げた。対する昭実は極限の恐怖から叫ぶどころか、息を吐きだすことすらままならず喉を鳴らす。
赤黒い物体に見えたもの、それは四肢を切断され胴体と頭のみになった人体であった。赤黒く見えたのは骨が見える程に胴体の肉が削られており、また切削面が高熱で炙られていたためだ。
無残極まる胴体の有様とは対照的に、舌を噛まぬよう厚手の布を口いっぱいに詰め込まれた頭部はほぼ原形をとどめており、自分と暗部とを繋ぐ連絡役のものだと理解できてしまった。
苦悶の表情を浮かべる陰惨な躯を投げ込んだ張本人が、闇の中から燭台の明かりが照らす御帳の中に踏み入ってくる。
薄明りの中爛々と光る眼と、蒸気を噴き上げる口が造り上げる憤怒の相。昭実は一目見るなり、地獄の鬼が現れたのだと悟った。
その鬼は振りまく凄まじい怒気とは裏腹に、足音一つ立てることなく昭実のうずくまる八重畳を踏みしめ、傲然と彼を見下ろしながら告げた。
「お前が二条家当主、昭実か?」
昭実は炎で炙られているかのような熱に慄きながらも、本能的に返事をしないと殺されると感じ取り、壊れた玩具のように頭を何度も縦に振る。
鬼の眼光に射竦められ、極限の恐怖から音を立てて失禁し、ついで脱糞をしたというのに昭実には羞恥を感じる余裕すらなかった。
先ほどまでとは別の異臭が立ち込める中、鬼は醜悪なものを見たかのようにその面貌を顰める。鬼から放たれる侮蔑と嫌悪を受けて昭実は羞恥から涙を流した。
「これからわしが告げることは全て決定事項だ。お前が拒むことは赦さぬ! 否と言うのであれば、それがお前の未来の姿となる」
鬼は地の底から響いてくるかのような声で決然と言い放った。鬼の言葉を受けて連絡役の男を見やると、体中の肉という肉を繰り返し何度も何度も時間を掛けて薄く削ぎ落されたのだという事が理解できた。
昭実は知らぬことながら、これは中国及び朝鮮半島で古くから行われていた凌遅刑という処刑の一つであり、刑罰の中で最も重い刑を課された者に与えられる究極の拷問の形でもあった。
それは受刑者を磔にするなどして拘束し、赤熱するまで焼いた刃物を用いて受刑者の肉体を生きたまま少しずつ削ぎ落していくという凄惨極まりない手法を取る。
通常であれば刃で肉を削ろうものなら出血多量で程なく死に至るのだが、熱された刃は削り落とす過程で傷口が焼き縮められるため出血を抑えられることにより、少しでも受刑者を長く苦しめることを主眼に置いた残酷な処刑である。
長ければ数日から数十日かけて刑を課すこともあるというが、今回は首謀者を突き止めるために短時間で刑死させられていたのだが、それが本人に取って救いとなったかは定かでない。
「お前はこれより縄を打たれ、罪人として京中に晒された後に壱岐へと流される。今後どのような恩赦が有ろうとも、お前がその恩恵に与ることは決してない。この日ノ本に於いてお前が生を紡げる場所は、そこのみと心得よ。如何様な理由があろうとも、そこを出ればお前もこやつと同じく殺してくれと懇願するほどの責め苦をお前は勿論、お前の妻及び子々孫々に至るまで与えてやろう!」
鬼の口から告げられた言葉を昭実はゆっくりと咀嚼する。まずは己の命が取られないという事に安堵し、次いで壱岐という離島で一生を過ごす羽目になることに絶望した。
それもその過酷な沙汰が己だけに飽き足らず、自身の一族郎党にまで及ぶとあって昭実は渋面を作る。それを見咎めた鬼が言葉を重ねた。
「不服がありそうな顔をしておるな? お前の犯した罪はお前ひとりの薄汚い命では到底贖い切れぬと知れ! 本願寺に天より火が降り注いだことは聞き及んでおろう? お前は決して触れてはならぬ禁忌を犯したのだ。お前には安楽な死など許されぬ、この世で苦汁を啜り辛酸を舐め続けることのみがお前に許される全てとなろう」
鬼より最後通牒となる断罪を告げられ昭実は目の前が真っ暗になる感覚に襲われた。この鬼は言外に自分が生きて苦しまなければ、自分の身内を手に掛けると脅しているのだ。
昭実は木の根を食み、石に齧りつくことになろうとも最果ての地、壱岐にて苦難に満ちた生を送らねばならないと悟った。そこまで理解が及ぶと肚も座り、腐っても二条家当主としての意地を見せるべく鬼の名を問うた。
「我が名は足満、近衛静子の守護者にして彼女に仇為す者に断罪の刃を振り下ろす者なり! 我が名を後悔と共に終生忘れぬようその身に刻み付けよ! わしは常にお前を見ておるぞ!」
それだけを告げると、鬼はその身を翻し闇の中へと消えていった。昭実にとっては悪夢としか思えぬ時間だったが、それらが夢で無かった証拠は確かに残されていた。
それは既に人の形をなしていない死体であり、大小便に塗れた己の体から立ち上る悪臭だ。昭実は己の行く末に思いを馳せ、頭を抱えてうずくまった。いつしかそこからは啜り泣く音のみが漏れ始めるのだった。
二条邸を後にした足満に対し、姿を見せない何者かの声が掛けられる。
「そろそろ眠らせた者も意識を取り戻しましょう、昭実には見張りを付けておりますが攫わずとも良いのですか?」
「あれだけ脅して因果を含ませたのだ、よもや悪足掻きなどすまい。本音を言えば悪足掻きしてくれれば、いっそこの手で断罪してやれるとすら思っておるのだがな」
「静子様に牙を向けた者がいかなる末路を辿るのか、その身を以て他の不心得者に示し続けて貰わねばなりませんな。しかし一連の騒動に関する首謀者への仕置きについて、静子様にお伝えしなくとも宜しいのですか?」
「鳶加藤(足満配下の忍)、そのことは静子に一切知らせることを許さぬ。己が命を狙われたと言うことは真田より伝えられよう、静子が自分の失敗に気付き反省を促す糧となりさえすれば良い。これはわしの我儘だが、静子には人が持つどうしようもない醜い部分を見せたくないのだ。知らぬという事は幸せよ。人の持つ業は触れるだけでも心の中に澱として溜まり続け、いつしかその心を蝕んでしまう。血で血を洗う修羅の道を征くのは、わし一人で充分だ」
足満の言葉を受けると、鳶加藤は一言了承を返し気配を消した。足満もまた一つ増えた因業を背負い、闇の中へと消えていった。
尾張では遅めの梅雨入りを迎え、そこから一か月ほど平穏な時間が流れていた。現代であっても雨が多くなると人々の活動が下火になるが、その傾向は戦国時代にあっても変わらない。
大量の人・物・金が動員されるいくさに於いても梅雨時ともなれば思うように動けず、その活動を大きく制限されてしまう。
織田領内の主要街道であれば舗装が施されているため、道がぬかるんでしまうような事はない。しかし、少しでも街道から外れてしまえば自然の道理に従うこととなり、人の足跡や轍の跡が長く残ってしまう。
つまりは人員や物資の移動を極力敵に知られたくない軍事行動なども鈍くなるのが自明であり、一部の例外を除いて暗黙の停戦状態が続いていた。
「梅雨だからと油断してはなりません。他者が休んでいる時こそが、決定的な差をつける好機となります」
「はい、母上」
四六は静子から、人の上に立つものとしての心構えについて指導を受けていた。如何に静子の息子とは言え、親の威光だけで人が付いてくることは無い。
先達から要諦を学び、時には現場に立って一兵卒として実地経験を積むことさえある。現場の事を全く知らない上層部など害悪でしかなく、また現場と同じ視点だけで大局を見失う為政者も無能の誹りを免れない。
とは言え人の能力には限界があり、為政者が末端までを完全に把握することなど不可能であり、中間管理者層を構築して中央集権型の体制を敷くのが合理的だ。
その際に必要となるのが、自分の目となり手足となってくれる中間管理者を見抜く目なのだが、四六はこの能力が他者と比べて著しく劣っていた。
彼の特殊な生い立ちからすれば無理からぬことなのだろうが、敵対者はそのようなことを斟酌してはくれないため、早急に補う必要があった。
「人は往々にして理解できないものを恐れ排除しようとします。つまり金や権力に執着を抱く者は、他人も当然そうであると考えており、それに靡かない者を嫌います」
「無欲であることが逆に警戒心を生むということですか?」
「何事に於いても『判り易い』という事は重要なのです。利害という判り易い関係性で結ばれる商取引などが最たるもので、相手の欲するところを満たし、代わりに己に対する便宜を図って貰おうとする互恵関係があります。要するに無欲であるという事は、その人が欲するところが見えないため、働きかけることが難しくなってしまうのです。人は恩を受ければ、その相手に報いてやりたいと思う『返報性の原理』が働きます」
「なるほど、敢えて己の望むところを相手に知らせることで関係を結びやすくなるのですね!」
「そうです。金品を受け取ることに限らず、何かを為そうとすれば相応の投資が必要になるのです。民から見れば賄賂を受けない潔癖な君主が望ましく見えるのでしょうが、力を持つ者に便宜を図ることを嫌う余りに独力で少しずつ領内の普請をする君主がいるとします。対照的に有力な商人や豪農などに便宜を図る代わりに出資や人手を募り、領内の公共事業を次々に推し進める君主は悪ですか?」
「悪では無いと思います……難しい」
「様々な視点から物事を見る癖をつけなさい。人の上に立つ者には清濁併せ呑む度量が求められます。人は綺麗ごとだけでは生きていけないのです」
「分かりました、努力します」
幼くして虐げられた経験を持ち、静子によって救い出された経緯から力あるものの横暴を嫌う傾向のある四六は、己が力を持った際の扱い方を学んでいく。
勿論、四六に教えを授ける相手は静子だけではない。兄貴分である慶次や長可、果てには人質であった景勝からも多くを学んでいた。
「どうした、もうへばったか?」
その言葉と同時に四六は慶次に転がされた。彼は慶次に角力の稽古をつけて貰っているのだが、そこには文字通り大人と子供の力量差が存在した。
なにせ稽古場には四六が付けた足跡ばかりが目立ち、慶次は最初の立ち位置から殆ど動いてすら居ないのだ。幾度も転がされた四六は全身が土まみれだが、慶次は四六がぶつかった箇所のみが汚れているに過ぎない。
「まだまだ!」
「よし! 今のは良い感じだ、もっと腰を落として頭からぶつかれ」
「うわっ!」
予想外に良い当たりを受けたのか、慶次は四六を褒めつつも下手を脇の下から上へと掬い上げるようにして四六を転ばせる。全体重を乗せてぶつかった四六は、衝撃を受け流しつつ投げに派生する慶次の掬い投げに対処できなかった。
勢い余ってゴロゴロと地面を転がり、突っ張り稽古用の鉄砲柱にしたたかにぶつかって悶絶する。周囲の皆はかつての自分の姿を四六に重ね、苦笑しながらも彼を助け起こす。
「よし、一息いれな。他人の角力を見るのも勉強の一つだ」
「は、はい」
長可に助け起こされた四六は、完全に息が上がってしまっている事を自覚して頷いた。稽古場の壁にもたれかかり腰を下ろすと、持参していた水筒から水を飲む。
すぐ近くから慶次と長可ががっぷり四つに組み合う際の、鍛え上げられた肉体同士がぶつかり合う激しい音が響く。
前傾体勢となって脚を踏ん張り、長可のぶちかましに耐える慶次と、その慶次すら後ずらせる長可の姿を見て己が如何に手加減されていたかを悟る。しかし、その程度では四六が腐ることは無い。
(皆、幼少より戦うために厳しい鍛錬を積まれた人だ。ただ生きるために日々を送った自分とは差があって当然、非才な身としては努力を重ねるしかない)
「手加減されて不満かい?」
自分と慶次たちとの間に横たわる果てしない差にため息をついたところで、景勝が四六に話しかけてきた。四六は目礼した後に首を振りつつ景勝の問いに答える。
「ここ最近になって角力を始めた私が、長く鍛錬を積んでこられた慶次殿と肩を並べようなどと不遜なことは思いませぬ。童扱いも当然でしょう」
「そう思えるだけでも大したものよ。普通は我が身との余りの差に絶望し、膝を折ってしまう者も多い。しかし、四六殿は差を知って尚、その差を埋めようとしておられる」
「勿体なきお言葉です」
自分の事を評価してくれていた景勝に、四六はどこか面映ゆくなる。
「ご謙遜召されるな、なかなか出来ぬことゆえ。それに私は人質の身、そのように畏まらずとも構いませぬぞ?」
「ご冗談を。私は母上の息子という事で一目置いて頂いている身。見事越後の龍より後継者の座を得られた貴方と、未だ何も為していない私では足元にも及びませぬ」
「ははは、私もつい今までは何も為していなかった故、そう真正面から褒めて頂いては立つ瀬がござらぬ。では私から一つ助言をさせて頂くならば、四六殿は己が分を弁えすぎておられるように見受けられる。他者と比べて卑屈になったり、道に迷ったりした折に一助となる心構えをお教えしましょう。それは己が生きる上で絶対に譲れない何かを持つことです」
「譲れないもの、ですか?」
四六の問い返しに、景勝はここではない何処かを眺めるようにして返す。
「私ならば越後がそれに当たる。私が生まれ、私を育んでくれた越後とそこで暮らす民たちすべてを守ることが私の本懐。それを犯す者は、たとえそれが大恩ある織田殿であったとしても変わりませぬ。恩知らずと罵られようと、決して勝てぬ戦いであろうとも譲れない。それを許すことは私にとって死よりも辛いことなのです」
「なるほど、私にとって譲れぬものとは……」
「四六殿にとってのそれが何なのか、それは時間を掛けて己に問うしかありませぬ」
「貴重なご助言を賜り感謝いたします。まだまだ若輩の身なれど、これからもご指導ご鞭撻をお願い申します」
どこか堅苦しい四六の言葉に、景勝は軽く肩を叩いて応えた。
七月も末となり八月が迫る頃、伊達家より織田家に対する臣従の証として人質が秘密裡に送り届けられた。その一報を受けた信長は、即座に東国征伐を担う諸将へ北条征伐に向かうよう命じる。
上杉謙信率いる越後軍の行軍を阻んでいた残雪も消え、織田家からの軍事及び経済支援が届くようになった。かねてより課題であった後継者争いも決着を見せ、後顧の憂いが断たれた状況となる。
信長が発した出陣の大号令を受け、信忠は即座に行動を開始した。余人の目には功を焦って先走ったようにも見えるだろうが、内情を知ればそれが誤りであることに気付くだろう。
かつての失敗に学び、信忠は常に備え続けていたのだ。いつ号令が発されようと、即座に出陣が出来る準備を整え、世の動向を把握するべく情報収集に勤しみ、また己に対する情報かく乱すら行っている。
「若様(信忠のこと)の初動はお見事。号令一下、一両日程度で出陣できたのは他にいない。まさに電撃戦を得意とする織田軍の面目躍如といったところかな?」
「そう暢気な事も言ってられないぞ! 九鬼水軍が擁する艦船の航行速度は秘中の秘であるはずが、どこかしらから漏れたって話だからな!」
のんびりと感想を述べている静子に対し、長可が焦った様子で口を挟んだ。長可の言葉通り、静子は信長から呼び出しを受けており、機密情報漏洩に関する事情聴取を受ける予定になっている。
とりわけ致命的なのは足並みを揃えた状態で尾張から、敵地こと里見家が支配する安房までおよそ二十日掛かるという具体的な数値が漏れていることだ。
如何に最新式の軍備を持っていようと、いつ何処を通るかが予測できるのであれば奇襲を掛けることも容易い。ゆえに安土にいる信長は、諸将にせっつかれる形で静子を呼び出すに至っていた。
「勝蔵君もまだまだ甘いね」
「あん?」
「自分の出陣直前になって私が安土へ呼び出されることを、若様が知らないと思う?」
指摘されて長可は思い返す。兵站の中枢であり、得難い参謀でもある静子が自軍から引き剥がされるのだ、それを信忠が把握していないはずがない。
それにも拘わらず信忠は信長に対して抗議するでもなく、静子を引き留めることもせずにさっさと九鬼水軍と合流すべく軍港へと向かっている。
それなりに付き合いが長く、信忠の性格も理解している長可は、彼が楽観的に軍を進めているとは思わない。喫緊の敗北を受けて、彼はいかなる敵であろうと侮ることが無くなっていた。
「あっ!」
ここに至って長可は漠然と抱いていた違和感を自覚した。今回の機密漏洩事件に関しては信忠にしても静子にしても、彼ららしくない点が目立つ。
身内とも言える親しい間柄だからこそ気付ける違和感ゆえ、部外者では到底気付き得ないことだろう。つまり余りにも敵にとって都合が良すぎたのだ。
「良いことを教えてあげる。人ってのは自分が苦労して得た情報を、本物だと思い込むんだよ」
「って、お前まさかっ!」
「はてさて? 上様を待たせるとお叱りを受けちゃうからね、急ごうか」
思わず何かを口にしかけた長可を目で制して静子は馬の速度を上げた。何処に他人の耳目があるとも知れない場所で口にすべきことではないと理解した長可は、釈然としないながらも静子の後を追う。
安土に着いてからの静子の行動も妙な点が目立った。早々に安土入りしていながら、信長に対して先触れを出したのが夕刻寸前という有様だ。
何事も早め早めに行動する彼女を知る者からすれば、明らかに信長との面会に対して気後れしているように見えた。
(好事魔多しってね。物事が思い通りに進んでいる時こそ気を付けないとね)
この静子の行動に対して、諸将の反応は大きく二つに割れた。一つは信長や堀のように静子が画策していることを承知の上で、敢えて乗っている人間。他方は静子が初の大失態を犯したとほくそ笑む者達だ。居並ぶ諸将を盗み見ていた長可は、静子の手のひらで転がされているとも知らず得意満面になっている哀れな連中の滑稽さに必死で耐えていた。
「よくぞ参った」
声を必死で噛み殺しているのは信長との謁見中であるためだ。いくら傍若無人を絵に描いたような長可であっても、信長を前にして爆笑しては顰蹙を免れない。いずれ訪れる種明かしの時を信じて彼は耐えた。
「まずはご連絡が遅れましたことをお詫び申し上げます。突然のお呼び出しに、支度が間に合いませんでした」
「構わぬ。それで、此度は何を企んだ?」
「今回に関しては私ではありません。全て若様の手による策でございます」
「そうであろうな、貴様の策にしては粗が目立つ。貴様の失態という餌無しでは成らぬであろう」
信長と静子の会話を受けて、諸将の間に動揺が走った。今回静子が安土城まで呼び出された理由は、情報漏洩に関する責任を問われ叱責されるためだと信じ切っていたからだ。
それが蓋を開けてみれば、双方納得ずくの茶番であったというのだ。驚くなという方が無理であろう。
「いつも人を動かしていた貴様が、動かされる立場になった気分はどうだ?」
「存外悪くありません。『男子三日会わざれば刮目してみよ』とはこのことですね」
「それは愚息にこそ伝えてやれ」
「まだまだ伸びしろを残されている若様をここで手放しに褒めるわけにはいきません。私の教えを請うておられた若様が、私の助けなしに歩みだされたのです。師としてこれほど嬉しいことはありません」
それは嘘偽りのない静子の気持であった。幼いころより様々なことを教え聞かせていた信忠が、いつしか静子の手助けを借りずに独り立ちしてゆく。
一抹の寂しさはあるものの、それよりも彼の成長が誇らしかった。それ故に味方をも欺く策に乗り、今ごろ東国へと向かっている信忠を見送ったのだ。
「これでまた若様は成長されました。もう私が手を引く必要も無いのでしょう」
「そうか。ならば手隙となった貴様に一つ頼みごとをするとしよう。なに、わしにまで黙っていた対価としては安かろう?」
にやにやと実に愉快げな笑みを浮かべながら信長は対価を口にする。面白がっているのは明白だが、対価という名目を周囲に印象付けているのは手が込んでいる。
「伊達家より預かった人質について、貴様が面倒を引き受けよ」
こうして伊達家からの人質を、織田領内に於いて最も安全な尾張に最強の護衛付きで送り届ける信長の策は成った。
戦国の世に於ける人質とは、相手に対して敵対しないことを約束する保証であった。しかし人質は単なる証書代わりの存在では無い。我が方に対する悪印象を抱かれぬよう厚遇し、有能であれば将来の側近候補として英才教育さえ施すのだ。
その最たる人物が真田昌幸であり、武田信玄が己の持つ様々な知識を惜しげもなく叩き込んだからこそ、今日の彼がある。
戦国三英傑に数えられる徳川家康も、少年時代を今川家で過ごし厚遇されていた。今川家当主である義元は家康に軍事訓練を積ませ、また元服の折には烏帽子親(実質的な後見人)を務め、今川家の重臣に育て上げようとしていた。
このように人質と言うと籠の鳥であるかのような印象を持つが、国許が寄親を裏切らない限り、己の才覚一つで身を立てることが出来る可能性を持っていた。
そして人質の扱いについて、静子は景勝という出色の実績を打ち立てた。彼以外にも長可や才蔵など数多くの人材を育成し、また学校運営を始めたことにより教育者としても評価されつつあった。
希望者には身分を問わず、積極的に教育の門戸を開くことで尾張の生産性の高さは他の追随を許さない。
そういった実利的な面とは別に、主君より人質を預けられるというのは信頼の証でもあり、名誉とされる。余りにも静子ばかりが重用されれば、如何に彼女が実績を持っていようとも面白く無いのが人の常。
故に信長は人質を託す際に、名誉では無く軽い罰としての形式をとる形で釣り合いを取ったのだ。それに信長は伊達藤次郎(後の政宗)を一目見るなり思う。
やや奇矯な言動が目立つものの、利発さについては目を見張るものがある少年を静子に預ければ面白いことになりそうだと。
(上様が含みを持たせている時って、碌なことがないんだよね)
信長が何かを企んでいるのは察していたが、哀しいかな臣下たる静子に拒否するという選択肢は無い。そんな信長の思惑とは別に、将来の伊達政宗を見てみたいという下心も多分にあった。
「ところで若様の策って何だったんだ? 上様との話じゃ、北条がまんまと掴まされた情報は偽物なんだよな?」
静子が伊達藤次郎とその家臣たちの扱いについて思いを巡らせていると、長可が横から質問を投げかけてきた。長可にとって藤次郎はさほど興味を惹かれる存在ではなく、信忠が信長すら欺いた策というのが気になった。
静子の口ぶりから判断するに、彼女は知っていて信忠の策に乗っかっている節があり、全容とはゆかないまでも大枠は把握しているのではと判断した。
「そうね、尾張から北条の本拠地である相模国まで船で二十日ほど掛かるって言う話自体は本当なの」
「それじゃあ若様は補給のために港へ立ち寄るたび、奇襲される恐れがあるってのか? 敵の軍を小出しにして各個撃破を目論むにしても、流石に下策だろう?」
静子が推し進めた技術革新のお陰で、九鬼水軍は比類なき戦力を誇ってはいるものの、決して無敵の存在ではない。当然矢を射かけられれば船は炎上するし、人に当たれば死傷もする。
戦時中に熟練の船員など調達できるはずもなく。可能であるならば余計な戦闘を避け、本土決戦に臨むというのが望ましい。
「若様はここに罠を仕込んだの。二十日程って言うのは、限界まで積み荷を載せた商船を伴っていた際の日数よ」
「ん? 現地で物資を調達しやすくなるし、商船としても船団に護衛されれば道行は安全だ。今回も商船を随伴するんじゃないのか?」
「そこが我ら兵站軍の存在意義だよ。既に各地の港付近には物資を集積した基地があり、継続して補給の最前線を押し上げていく手筈なの。つまりは純粋な軍船のみで行軍が可能であり、補給の回数も最小限で済むから無理をすれば三日。遅くとも五日あれば北条にとっての水軍の要である里見領を急襲できるのよ」
「なんだそりゃ! 早馬を仕立てても間に合わないんじゃ、手の打ちようがねえじゃねえか。だから後の祭りってことか」
ことがここに至っては間者が真実を知ったとしても伝える手段が無い。長可が口にしたように、早馬を乗り潰して夜通し駆けたところで軍船の速度には及ばない。
「まあ、仮に今回の情報が相手に伝わっていても、いなくても然程困ることはないでしょうね」
「……強襲上陸作戦か」
少し考えてから長可は呟いた。強襲上陸作戦とは揚陸艦と護衛艦からなる船団によって実施される上陸作戦だ。
揚陸艦は装甲板と前進後退が可能なスクリューを備えた艦艇であり、大規模な港湾施設が無くとも直接海岸に乗り上げて兵員や軍備を上陸させることが出来る。
つまり敵は港だけを守っていれば良いという状況から、広大な海岸線全てを警戒する必要に迫られ、必然的に一か所当たりに配置できる兵力が激減してしまうことになる。
「予想だけれど、若様はまず旗艦をはじめとする船団を里見の目前に見せつけると思う。そして敵の意識がそちらに集中している間に、別の海岸から上陸した軍と挟み撃ちにするだろうね」
「主力の船団を放置すれば港湾が落とされ、逆に船団に対処しようと兵力を集中させれば各所から上陸した軍が陸地を荒らしまわる、か。実に静子が好みそうな厭らしい手だな。実行に移された時点でどうしようもない処が実に似ている」
「効果的な作戦と言って欲しいね」
「そうとも言うな」
長可との軽口を応酬しながら、二人は人質である伊達藤次郎の待つ安土の別邸へと向かった。
とは言え、預かり場所は尾張であり、ここ安土は仮宿に過ぎない。人質として静子に対する顔見せさえ終えれば、比較的自由に過ごす事が出来る。
「さてさて伊達家の奇才、藤次郎君はどんな子かな?」
「ん、奇才なんて噂をどこで仕入れたんだ? だいたい人質に出されるのは大人しく我慢強い奴と相場が決まってるんだがな」
「甘いなあ。あの上様が笑顔で押し付けてきたんだから食わせ者だよ、絶対」
「……まあ、苦労するのは俺じゃないしな」
「あれ? なんだか屋敷の周りが騒がしくない? 何かあったのかな?」
「まさか人質が逃げた……にしては殺気だって無いな。どちらかというと困惑している感じか?」
「とりあえず聞いてみましょう?」
屋敷の表門付近に多くの人が集まっており、静子はその中であれこれと指示を出している人物に目を付ける。
伊達家の側近たちも静子たちの存在に気付いており、門衛の兵士が最敬礼をしたことから身分の高い人物であると理解した。
中心人物と目される青年は声を張って道を空けるように指示し、居住まいをただすと静子に深く首を垂れた。
「お初にお目にかかりまする。某は主君、伊達藤次郎が近習、片倉小十郎と申します」
「馬上より失礼仕ります。既にお聞き及びかと思いますが、私は皆様をお預かりすることになった近衛静子と申します。何やらお困りの御様子、如何されました?」
伊達家の家人たちと思われる周囲の人々の顔色がさっと一様に変わった。しかし、それを小十郎が手で制して口を開いた。
「申し訳ございません。伊達家の恥を晒すようで心苦しいのですが、我が主たる藤次郎様が辺りを散策すると言ったきり姿が見えぬのです」
苦虫を噛み潰したような表情の小十郎の言葉に、静子は内心頭を抱えたい気分になるのであった。