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戦国小町苦労譚  作者: 夾竹桃
天正二年 東国征伐

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147/246

千五百七十五年 九月中旬

高天神城を挟んで織田・徳川連合軍と武田・北条連合軍が睨み合う中、一夜が明けた。

東の空がようやく白み始めた薄明の中、僧形の人物が単騎で武田の本陣へと訪れていた。


「どうあっても軍を退いては頂けませぬか?」


「よもや其方(そなた)が軍使になっていようとは思わなんだぞ、武藤……いや、いまは真田か。帰って主に伝えよ、東国に織田と武田は並び立たぬ。今こそ雌雄を決する時よ!」


軍使として武田本陣へと通されたのは、勝頼が語ったように真田昌幸その人であった。元は武田家に仕える身であり、勝頼本人は元より多くの人物に知見を持つ人物だ。

しかし、武田家から見れば主家を裏切って織田へ寝返った裏切者であり、こうして本陣へと辿り着く前に討ち取られる可能性すらあった。

そんな危険を冒してまで昌幸が伝えたかったのは、織田・徳川連合軍よりの降伏勧告であり、撤退するのであれば追撃をしないという徳川家康からの書状すら携えていた。


「この昌幸、無念でなりませぬ。かつての御恩に報いる最期の御奉公と思い軍使に名乗りを上げましたが、ご翻意には至りませぬか……」


「くどい! 其方の覚悟はしかと受け取った。それでも曲げぬ! 曲げる訳にはゆかぬのだ」


かつての主従による停戦交渉は物別れに終わった。昌幸が立ち込める朝靄(あさもや)の中、敵陣へと戻っていくのを見送り、日輪が天に姿を現したころ、両軍は揃って動き始めた。

双方の陣で盛大に陣太鼓が打ち鳴らされ、織田・徳川連合軍に先駆けて武田・北条軍が進軍を開始した。一方の織田・徳川連合軍は密集陣形を形成するが、一向に動こうとしなかった。


両軍の距離が狭まるにつれ緊張が高まり、両軍がお互いの陣容を視認出来るまで近づいたその時、雷鳴の如き轟音と共に高天神城が火を噴いた。

凄まじい炸裂音と共に武田・北条連合軍の後方に布陣していた北条軍へと焼けつく死の(つぶて)が降り注いだ。

北条軍上空で炸裂したそれは、鉄の颶風(ぐふう)と化して地上の兵士を打ち据えた。

徳川軍に織田軍が合流したことで、武田・北条連合軍は長射程の新型銃を警戒しつつ進軍していた。

しかし、かつての合戦で得られた新型銃の射程を鼻で笑うような距離であるにも関わらず攻撃を受けた。

更にただの一度の攻撃であるにも関わらず、数十人が、下手をすると百人に届こうかと言う兵士が死傷するという悪夢の光景が繰り広げられ、将兵ともども恐慌へと陥った。


「敵陣上空にて炸裂を確認。狙点修正の要あり、距離計測を求む」


「方角修正東に三度、距離修正手前二百メートル」


敵陣で大混乱が発生しているころ、高天神城の三の丸では夜を徹して補強が加えられ、拡張がなされた、かつての物見櫓に静子軍の技術者たちが集まっていた。

櫓の中央には小型の大砲のような物が二門据えられ、車輪止めで固定されていた。何よりも特徴的なのは、櫓の左右から突き出た金属製の部品。

陽光を反射し、不気味に輝く異形の物体。誤解を恐れずに形容するなら、櫓から水平に突き出したカニの目玉のように見えた。


「足満おじさんの秘密兵器、『カニ眼鏡』こと測距儀(そくきょぎ)(視差を利用した三角測量をする機械)は問題なく運用出来てるみたいだね」


「そちらは問題ありませんが、迫撃砲(はくげきほう)に問題が発生しております。こちらへ運ぶ前の試射と、先ほどの第一射で開閉機構に歪みが出ております」


「うーん、実戦投入はやっぱりまだ早いよね。足満おじさんがどうしてもって言うから持ってきたけど、耐久性に難ありだね」


静子は櫓から離れた地上の陣にて、技術者の助手から報告を受けていた。程なく警告の鐘が打ち鳴らされ、暫く間を置いた後、再び轟音が鳴り響いた。

すかさず物見櫓に赤色の手旗が掲げられる。これは命中の印であり、報告をしていた助手は一礼して静子の前を去り、伝声管にとりついた。

伝声管の蓋を開き、耳を当てて櫓上部から伝えられる内容を手元でまとめ、再び静子の許へと走って報告に戻ってくる。


「距離、方角共に良好。砲が壊れるまで効力射を続けるとのことです」


「了解しました。砲身や開閉機構に致命的な損傷が出たら、砲撃は中止してね。足満おじさんが万が一にって持たせてくれた、この砲弾は使わないで済みそうだね」


そういって静子は足元に置かれた木箱に鎮座する一発のどんぐり型砲弾へ目線を落とす。無垢材の木箱にオガクズが満たされ、その中にごろりと横たわる無機質な砲弾。

木箱には朱色で『危険』と大書され、一種異様な雰囲気を放っていた。自身が静子に従軍出来ないため、敗走しそうになったらとにかく風上に逃げて敵陣に撃てと渡された砲弾であった。

足満曰く、一発で戦況をひっくり返せる起死回生の秘密兵器とのことだが、静子は嫌な予感がしたため封印しようと考えていた。


先ほどから一定間隔で鳴り響いていた砲声が唐突に止まった。暫く待っても再開される様子がなく、状況を確認していた助手が再び報告に戻ってきた。


「迫撃砲二門とも閉鎖機構が破損しました。補修して無理をするなら、もうしばらく砲撃は続けられるとのことですが、敵陣が崩壊したため中止したとのことです」


「判りました。では、砲撃終了とします。必要な計測を終えたら、撤収準備に掛かって下さい」


静子の指示を受けた助手が伝声管に走り、再び周辺が慌ただしくなり始めた。ここからでは見ることが叶わないが、遠く離れた戦場を思い、静子は空を見上げた。

東国の覇を争った一戦は、開戦から僅か一刻(2時間)ほどで終わりを告げた。太陽が中天に懸かる頃には、既に勝敗が決しており、敗走する武田・北条軍へ織田・徳川連合軍は追撃を放たなかった。それほどまでに一方的かつ、圧倒的な勝利であった。


「勝頼はボロボロだな。おそらく捲土重来(けんどちょうらい)を期しての行軍だったんだろうが、手痛いしっぺ返しを貰った形になったな」


勝頼は、どのようにしてか北条の協力を取り付けたことで欲が出てしまったのだろう。狙った場所も、軍の陣容も問題なかった。ただ一点、時期が悪かった。

相手が徳川軍だけであったなら、勢いのまま押し切って幾らか領土を切り取れたかも知れない。通常であれば、援軍要請を送ったとして、これほどまでに早く援軍が駆けつけることはあり得ない。

更に引き際を見誤った。予想よりも早く援軍が駆けつけ、少なくない被害を受けて睨み合いとなり、不確定要素の塊とも言える静子軍の旗印を目にした時点で退くべきだったのだ。


「武田勝頼、武将としては優秀だけど、国人としては未熟だね。時代の変化に対応できなかった」


軍神とも呼ばれた上杉謙信をして警戒させるほどのいくさ上手として勝頼は名を馳せていた。しかし、静子軍の登場によっていくさの在り様が変わり始めた。

(さき)の三方ヶ原の戦いで明らかになったように、既に個人の武勇がものを言う個の戦闘ではなくなりつつあった。

自軍の銃よりも射程に優れた武器を持ち出された時点で、時代の変革を感じ取れないようでは同じ土俵の上にすら立てない。


「三国志に登場する呂布のようなタイプだったのかな、勝頼って。いくさでは鬼神の如き強さを誇っても、為政者としては二流に留まる」


容赦なく静子に酷評される勝頼だが、やむを得ない理由もまた存在していた。

勝頼は武田家当主となるべく育てられた訳ではなく、たまたまお鉢が回ってきただけの中継ぎ当主と考えられていた。

それ故に周囲は勝頼に期待せず、次の当主が決まるまでの腰掛けとして、ただそこに座っていることだけを求められた。

当然ながら勝頼としては面白いはずがなく、しかしながら勝頼がどれだけ努力しようとも、武田家家中の誰からも認められることはなかった。

そうして主従関係が捻じれた結果、判り易いいくさでの勝利という成果に飛びついたのかも知れないと静子は考えた。


「前のいくさの結果を含めて、この先を見据えた意見が欲しい。このまま東国征伐に赴いたとして、上手な敗北は可能かな?」


「十中八九無理でしょう。自軍は戦意も高揚し、勢いにも乗っております。こういう場合の趨勢は二つ、大勝か大敗ですな」


戦後処理の始まった高天神城に滞在している静子は、昌幸を秘密裏に呼び出すと、開口一番に秘された目標達成の是非を問うた。

ある程度予想していたとはいえ、昌幸から色よい返事は得られなかった。静子はがっくりと肩を落とすと、重いため息を吐く。


「奇妙様に目に見えるような隙がございません。行軍開始から今までの指揮だけを見ても、二十そこらの若者に出来る芸当ではありませぬ。本来ならば喜ぶべきことなのでしょうが、此度に関しては悩ましいですな」


「上様の命が果たせない……か。戦況的にも負けて許される状況ってのは得難いから、今を逃すと良くないよね」


「事がここに至っては運を天に任せるより他ございません。奇妙様の命令に従わず、独断専行をする馬鹿が続出するようなことがあれば、敗北もしましょうが……」


「……運任せ、か」


最早通常の方策では目的達成の目はなくなった。それでも敗北させようとすれば、自軍に対して破壊工作を仕掛けるような真似をする必要があり、一歩間違えば静子であろうとも死罪を免れない。

そんな静子の苦悩を他所に、信忠と家康は軍を再編成し、武田領に向けて進軍する計画を練っている。勝頼自身は武田領へと逃げ戻り、再び防衛のための陣容を整えつつあるところを見るに、武将としての資質は非常に高い事が窺えた。しかし、既に死に体となった武田が防戦に回ったのではじり貧だ。


「甲斐までの道程があまりにも険しいから、写真撮影用の機材運搬も諦めたのに、この上に密命というか主目的を達成できる見込みが立たない……東国征伐は苦難続きだよ」


最早諦観の域に達しつつあった静子だが、ある時を境に状況が変化した。静子にとっては運が向いてきたのだが、織田・徳川連合軍にとっては不幸な出来事であった。


徳川領から武田・北条連合軍を追い返したことを契機に、軍議が催された。

議題は武田領へと攻め込むか、否かであった。通常ならば一定数が慎重論を唱えるのだが、前の一戦による損害がほとんどなかったことが災いし、強硬論一辺倒となってしまった。


「武田が敗走した今こそ攻め時! これを逃す手はありませぬ!」


「東国の雄と謳われた北条も尻尾を巻いて逃げおった。武田を潰した行きがけの駄賃で、北条をも平らげてくれる!」


武田・北条連合軍は弱い。そんな増長ともとれる感情に支配された武将たちは、一様に進軍を求めた。

最も強硬に主張しているのは信忠陣営であり、次点で徳川陣営。滝川軍はやや慎重な意見を出しつつも、進軍に反対とは言わなかった。

大戦果を挙げた静子軍だが、虎の子の秘密兵器が早々に破損してしまった事だけを報告し、後方支援に専念するとだけ告げて沈黙を守っていた。


(慢心し過ぎかな。勝ち戦は少しのミスで総崩れになり易いから、ちょっと怖いのよね)


勝頼は当主としての訴求力こそ損ねているものの、いざいくさ場に立てば一騎当千の武将として働くことができる。

北条軍は迫撃砲の集中砲火にさらされ、大きな損害を出して潰走したが、勝頼率いる武田軍は軍としての体裁を残して退却している。

相手に地の利がある武田領へと攻め込んだ挙句、反撃を受けて自軍が崩壊となっては目も当てられない。

信忠に敗北を経験させるという目的は達成できるかもしれないが、それでは何も学ぶことが出来ない。

信忠が勝算ありと踏んで仕掛け、それを相手が上回るか想定外の出来事により失敗し、己の至らなさを痛感しつつ負けなければならない。単に運が悪かったでは、負ける意味がない。


(さてどうするか……んー?)


既に結論が決まっている会議ほど無駄な時間はない。そう思いながら窓から空を見上げていた静子は、ふと違和感を覚えた。

秋の日中だけあって天高く晴れ渡っているが、遠くの空は鉛色に曇って見える。


(雲が速く流れている!?)


雲の移動速度は平均して時速五十キロほどだが、季節によっては倍ほどにも達することがある。典型的な秋の空模様に於いて、雲が速く流れる要素は一つ。即ち、低気圧の接近だ。


(これは数日中にも雨が降るね。雨具の用意をしておこう)


晴れ間が続いた後の低気圧到来は、高確率で雨天となることを意味している。

正確に天気を予測するためにも、詳細な観測データが欲しいと静子は考えるが、存在しないデータについては地道に記録を取り続ける以外なかった。

現代であれば気象衛星という神の視点からの情報を得て、リアルタイムで気候変動を察知することができるが、ようやく機械化の端緒に辿り着いたばかりの戦国時代に求めるのは酷というものだ。

ゆえに考えるのを諦め、対策として雨具の準備だけを指示すると結論づけた。


(何もなければいいなあ)


強硬派の意見で塗りつぶされつつある軍議を横目に、静子は天候が大きく崩れない事を祈っていた。

それから一刻ほどして、無駄に時間を取った軍議は結論を出した。

容易に徳川領へ攻め込もうなどと思わせないためにも、武田領へと進軍し、ある程度の戦果を挙げる。

全軍で進軍したところで、道が悪く一度に進軍出来る兵数が限られるため、追撃部隊は信忠軍と家康軍のみと決まった。

滝川軍はこのまま高天神城に滞在し、万が一に備えることとなる。静子軍は本陣を高天神城に据え、家康と信忠が追撃し易いよう後方支援部隊を出すこととなった。


(何もかも投げ出して、ただ従軍するだけなら、これほど気楽なこともないんだけどねえ)


信忠軍の編成を聞かされた静子はそう嘆息していた。まさに増上慢と言える陣容だった。

今まで碌に戦功を立てた事のない者ばかりを寄せ集めたかのような、あまりにもあまりな自軍に目の前が暗くなる。

恐らく信忠本人の意向よりも、周囲の意向が強く反映されているのだろうと静子は推測する。

長可が武田四天王の一角を討ち取り武名を得たように、かつてほどの勢いがないとは言え武田を相手に勝ちいくさである。

信忠や家康の家臣が武田を破った者という名声を欲しがっても不思議はない。

そして信忠や家康には、逸る彼らを諫めるに足るだけの論拠が無かった。

結果として逸る飼い犬の首縄を主君が握り、彼らのいくさのお膳立てを整え、また万が一の時に備えるという貧乏くじを滝川と静子が引いた。


「はあ……どうしよう?」


今から先の事を考えた静子は、無意識の内に胃の辺りへ手をやっていた。







「武田、北条恐るるに足らず! 奴らに目にもの見せてやろうぞ、真に東国の覇者足りえるのは誰かと言うものをな!」


高天神城で補給を済ませ、軍を再編成した信忠と家康は勝頼を追い、武田領を目指して出陣していった。

諏訪の要衝である高遠城を落とすことが目的とされ、高遠城を押さえれば武田にとって喉元に刃を突き付けられたに等しい状況となる。

高遠城を甲斐攻略の橋頭保(きょうとうほ)とできれば、東国征伐は一気に現実味を帯びることになる。

流石に戦国時代を生きる武将だけあって、どれほど増長しようとも、現状の軍勢で武田本国へ攻め込もうとするほどの愚か者はいなかった。


信忠と家康とが出陣した後、静子は主だった家臣を集めて軍議を開いていた。


「さて、奇妙様と徳川様が出陣されたけど……真田さんは引き続き情報収集をお願いします。特に奇妙様の本陣の動きに注視してください」


「心得ました。しかし、奇妙様ならば、大きく動く前にはこちらへも連絡があるのでは?」


「通常ならそうでしょう。ただ、欲に目が眩んだ人たちは、自分の手柄に介入されることを嫌って報告を曲げたり、隠蔽したりする可能性があると考えます。勝ちいくさの軍は勢いがありますが、反面統制を失い易い。ひとたび不測の事態に陥れば、瓦解するまでそれほど時間を要さないでしょう」


「承知しました」


「他の皆は補給部隊の支援をお願い。正直、今の武田に遊撃隊を作って補給部隊を叩く余裕はないと思うけど……こといくさに関して(・・・・・・・)天稟(てんぴん)を持つのが勝頼だからね」


勝頼は自領へと逃げ込んで以降、一切攻勢に打って出ていない。更に北条は余程損害が大きかったのか、武田領へは退却せず、そのまま自国へと退却していったとの報告を受けている。


「義理は果たしたってところかな、北条は。一応確認するけど、もし北条が退却したふりをしていて、こっそり戻ってきたらどうする?」


「勿論、ぶっ飛ばす」


長可が即答する。慶次や才蔵も同意見だったのか、口元に笑みを浮かべていた。


「結構。次に北条軍を見かけたら容赦なく叩いてね。本来なら上様にお伺いすべきなんだろうけど、噛みつかれて叩かない方が上様のご機嫌を損ねるだろうしね」


東国に進軍している彼らは知り得ないことだが、武田と北条が手を組んだと知った信長は激怒していた。

事前に北条の行動を予測していたとはいえ、武田と手を組めば織田を倒せるとまで侮られては、信長でなくとも怒り心頭になるのは避けられない。


「しかし、勝ちいくさは面白みがないな」


前線から遠く離れて退屈なのか、慶次が欠伸をかみ殺しながら呟いた。

才蔵が軽く脇腹を突いて反省を促すが、慶次が態度を変えることはなかった。


「一応敵地へ向かっているとは言え、前線は遥か遠くだし、この見晴らしが良い場所で敵襲なんてありえないしね。更に行軍速度の遅い補給部隊に足並みを揃えるから、慶次さんが退屈に思うのは仕方ないね。でも、こうも思えない? 楽な仕事を一日勤めあげれば、その日の終わりには旨い酒が飲めるって」


「補給物資には酒もあるから、その役得は嬉しいね。向こうに着くまで酒が残ってりゃいいけどな」


「流石にそれは困るよ。まあ、冗談はこれぐらいにして、今回もしっかりお願いするね」


「静子様、こやつの事ですから敵に後れは取らぬでしょうが、危険が迫らぬ限り飲んだくれて終わる気が致します」


慶次の態度に思うところがあったのか、才蔵が話に入って苦言を呈した。


「慶次さんが敵襲の可能性がある処で、己を失うほどに酔うことはないですから。務めをしっかり果たした上で、少々羽目を外したところで目くじらを立てる気はありません」


予想以上に静子から高い評価を得ていると知り、むずがゆくなったのか慶次は顔を背けて煙草をくゆらせた。


「才蔵さんの言わんとすることも判ります。しかし、これは慶次さんを家臣とする時に交わした約束なんですよ」


「……ならば静子様には申しませぬ。しかし、そのお約束は静子様とこやつが交わしたこと。某が咎める分については構いませぬな?」


「それは構いません。不満を溜め続けても歪みが出ますから、直接口にする方が健全でしょう」


元より他人の理解を得ようとも思わぬ傾奇者。実直な才蔵が理解できることばかりではない。


「話が脱線しましたが、我々は後方支援に専念します。差し当たっては補給部隊の護衛です。襲撃者は山賊であれ敵軍であれ一切合切殲滅します。後は各自の判断に委ねます」


余計な話が増えないよう言葉に注意しつつ、静子は軍議を締め括った。







信忠と家康が武田領へと攻め入って既に五日が経過していた。

地元住民は一部を除いて武田家に、ひいては勝頼に非協力的であった。

対する信忠は開戦前に買い集め、静子軍の補給部隊に運ばせていた余剰食糧を自軍に協力した地元民へ、褒美として分け与えていた。

更に昌幸が信忠に進言し、この信忠の方針を武田領全土へと広めるよう動いていた。

武田領へ入って以来、何処の農村も困窮しており、事前に噂を聞いていればよりスムーズに話が進むと考えた信忠は、昌幸の献策を了承した。


ゆく先々で食料を配り歩いているため、信忠軍の進軍速度はそれほど速くない。

しかし、武田領へ入ったと言うのに、武田軍は抵抗らしい抵抗を示さず、信忠も家康も肩透かしを食った状態となっていた。

未だ姿を見せぬ敵と、各地で受ける歓迎に武田軍の崩壊を感じ取ったのか、信忠配下の若年層は一層増長し、手綱を握る信忠は統制を維持するのに苦心していた。


「さて……本格的に雨だね」


静子は雨が降り出した外を眺めて呟いていた。

雨が小降りである内に、信忠と家康の陣へ物資を届けた部隊が戻ってきており、再び補給物資の積み込みが始まっていた。

甲斐は尾張や美濃と比べて街道整備など無いに等しい。雨が本降りとなれば、路面は泥濘(でいねい)化し、物資の運搬どころか兵士の歩行すら難しくなる。

それを見越して次陣の出発は雨が止むまで見合わせるようにと、信忠から静子へと(ことづけ)が添えられていた。

高天神城に駐留する滝川軍と、高遠城を目指す信忠・家康軍との中ほどの位置に静子軍の中継基地が建設されていた。

物資集積所も兼ねるため、即席ではあるがプレハブ建築の応用で屋根のある小屋をいくつも擁する陣が構築されており、多少の雨風程度ではびくともしない造りになっていた。

静子の予想では今後雨脚が強くなると見込んでいたため、黒鍬部隊が総出で補強をして回っている。そんな中、静子は自分に割り当てられた建物内にて昌幸の報告を受けていた。


「奇妙様は高遠城の手前で陣を張られたのね」


「はい。しかし、この雨の中、平野部に陣を張るのは危険ではないかと思います」


本格的な嵐となる予感を得た家康は、進路上にあった落とした城に留まり、嵐をやり過ごそうと考えた。

一方信忠は、配下の意見もあって進軍を続け、高遠城を望む平野部に陣を張ることとなった。

大雨が予想されるなか、山裾の平野部に陣を構えるのは鉄砲水の危険まである。

しかし、一度雷雨の中、夜襲を成功させた信忠だ。今回も同じ手段を取るのではないかと静子は考えた。


「今更何を言っても間に合わないし、そもそも意見に耳を傾ける余裕があるかすら疑わしいね」


「某が先走ったばかりに……申し訳ござりませぬ」


「構いません。私もあそこまで戦功に逸っているとは思いませんでした」


昌幸は静子の判断を仰がず、信忠に協力者への褒美の話を流布する提案をしていた。

これ自体は静子も信忠も問題視しておらず、むしろ効果的な立案であったと褒めてすらいた。

しかし、功に逸る配下にとって余所者である昌幸の功が認められたという事が焦りを生んだ。

自分達が何の手柄も立てていないというのに、安全圏で後方支援だけをしている輩が主君のお褒めを(あずか)る。

この一事が、信忠の配下を駆り立て無理な進軍へと繋がってしまっていた。


「ともかく起きてしまった事はどうしようもない。これからどう対処するかに気持ちを切り替えましょう」


「ははっ」


「問題は天候がどう推移するかですね。風もどんどん強くなってきていますし、もしかして嵐になるかなとも考えています」


雨戸が動かないように目釘を打ち付けたと言うのに、吹き付ける風によってガタガタと音を立てている。

その様子を見て、静子はこれが単なる雨ではなく、季節外れの台風が到来したのではないかと考えていた。


(もし、これが台風だったとしたら……)


最悪のケースを想像した静子は、その考えを追い出すように頭をふった。







得てして悪い予感というものは的中するもので、静子の予想は正に正鵠を射ていた。

日没を迎えた頃に、若干雨脚は弱まったものの、代わりとばかりに風の勢いが増した。

風速を計測していないため、正確な値は判らないが体感的には昼間に数倍する風を感じていた。

それを裏付けするように、櫓が倒壊し、背の高い樹木が倒れたという報告が相次いだ。

静子は小屋に居ること自体が危険だと判断し、少し窮屈になるが全員を物資搬入用倉庫に退避するよう命じた。

この建物が一番頑丈な造りになっており、また補給物資の木箱が山積みになっているため、孤立したところで物資が不足することは無い。


「うう、さみぃ……これでは外に出られぬ」


「こんな時だからこそ、あったけぇ汁は身に染みる」


気温はそこまで下がっている訳ではないが、雨に濡れた体を激しい風に晒した結果、体温を急激に奪われた兵士たちは凍えており、兵士たちには火鉢を囲んで暖を取るよう命じていた。

濡れた衣服は着替えさせ、温かい味噌汁を配るよう手配していた。濡れたまま放置していれば、瞬く間に低体温症に陥り、一時間と経たずに意識を失うことになる。


「この暴風雨では、野外に陣を張った奇妙様の処は危ういやも知れぬ。暴風雨の勢いが弱まり次第、奇妙様と徳川様の陣を確認し、滝川様の待つ高天神城へ戻ることになると思う。多くの物資はここに放棄することになる上、足場も危うい中での困難な作業になると思うがよろしく頼む」


台風が猛威を振るう中、静子は後方支援部隊の隊長を集め、状況が落ち着いた後の活動方針を告げた。

比較的堅牢な建物に籠っている状況でこれだ、山裾のそれも野外に陣を張った信忠の処では相当な被害が出ていると予想された。

報告によれば徳川軍は城に入ったとあったので、ひとまず家康の心配はないだろう。問題は野外で孤立している信忠軍となる。

しかし、この暴風雨の中、夜間行軍で信忠の陣へ向かうなど自殺行為にほかならず、信忠を救うどころか(いたずら)に犠牲者を増やすことにしかならない。

静子に出来ることは、嵐が通り過ぎるまで只管耐え、嵐が過ぎた後、吹き戻しが来る前に救助へ向かえるよう準備を整えるだけだった。


台風は夜半過ぎまで猛威を振るい、朝日で東の空が白み始めるころに(なぎ)となった。


「酷い有様だ……」


櫓は一つ残らず倒壊し、風による飛来物が衝突したのか、いくつもの小屋が押しつぶされていた。

外壁として立てていた壁板も倒壊しており、外部から静子達が籠っていた倉庫が丸見えになっていた。

才蔵を伴って中継基地の被害状況を確認していた静子は、いくつかの部隊が姿を消していることに気付いた。

逃亡という言葉も一瞬頭を(よぎ)ったが、暴風雨の吹き荒れる中、安全な室内よりも屋外を選ぶ間抜けはいない。


「……妙に兵士が少ないけど、勝蔵君は何処かにお出かけかな?」


「は、はっ。そのようです!」


たまたま近くにいた長可軍の兵士に確認すると、露骨に目を泳がせながら言葉を返した。何かを知っているが、口止めをされていて報告も出来ないと察した静子は、質問を変えた。


「奇妙様の陣を確認しにいったのかな?」


「そ、そう——」


「というのは建前で、奇妙様の陣へ敵が仕掛ける前に先手を打つつもりなんだろうね、あの二人は」


長可と慶次の考えそうな事だと静子は思った。

新式銃を扱う兵士と火薬や弾薬類を持ち出しているところを見るに、接近戦を仕掛けるのではなく、遅滞防衛(足止めを主眼に置いた戦法)を仕掛けるつもりだと判断した。

本来なら主君の許可なく武器弾薬を持ち出した上に、独断専行で兵士を連れ出している。

処罰は確実なのだが、元々静子は二人の内どちらかを、信忠の陣防衛に回すつもりだったため、穏便に済ませることにした。


「やれやれ、確かに奇妙様の陣へ救援に向かうよう命じた・・・けれど、二人とも向かえって言ったつもりはないんだけどね」


「え? あ、そうなのですか?」


呆けた顔で兵士が問い返した。才蔵が軽く睨むと兵士は慌てて背筋を伸ばす。


「命令が行き違いになったのかな? この暴風雨で奇妙様の陣は壊滅的被害を受けているでしょう。ならば、その隙を狙って武田が兵を派遣する可能性は高い。何せ大将首が目の前にありますからね。ゆえに少しでも早く、奇妙様の陣へ向かうよう命じたのです」


尤も、二人は事後承諾で赦されると妙な信頼をした上でのことだろうと思うと、静子は微妙な気分になった。


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