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戦国小町苦労譚  作者: 夾竹桃
天正二年 東国征伐
145/246

千五百七十五年 九月中旬

慌ただしくも静子の挨拶回りが一段落し、尾張の情勢が落ち着いた頃合いを見計らって、信長がついに行動を開始した。

名目として朝廷より戦乱の鎮圧を命じられたという体裁をとっているが、実際は毛利の播磨侵攻を阻止するのが目的であった。

そのため信長は、大阪に佐久間、丹波方面に光秀、播磨方面へは秀吉と、それぞれが率いる方面軍を差し向けた。

朝廷より綸旨(りんじ)が届けられたのを以て行軍を開始したが、即時に進軍できたことから事前に周到な準備を整えていたのは明白であり、毛利側の対応が遅れる要因となった。


安芸(あき)の動乱については機先を制することができたし、四国の動きは封じられている。うん、これなら案外早く決着がつくかも。それで、東国の動向はどんな感じですか?」


「はっ。北条が武田と手を組むべく動いております。上杉家内の北条派も呼応するように勢いづき、着実に手勢を増やしている状況です。東国征伐に際しては、そちらにも注意を払う必要があるかと」


静子は情報収集にあたっていた真田昌幸から報告を受けていた。彼には東国征伐の秘された別の目的、すなわち信忠に敗北を学ばせるという旨を伝えてある。

これは集めた情報を取捨選択する際に、何を目標に据えるかで情報の重要度が変化するため、本来の目的を隠していては本来必要だった情報を取りこぼす可能性があり、それを防ぐためであった。

裏事情を聞かされた昌幸は、最初こそ動揺したものの、何も問い返すことなく呑み込むと、撤退を主眼に据えた報告を上げてくるようになった。


「上杉殿が睨みを利かせているのに、目立つ動きをしているってことは蜂起の準備が整っているのかな? 上様なら、それを承知の上で上杉殿を出陣させ、反乱を促すかもしれないけど……」


「その可能性は大きいでしょう。話を東国征伐に戻しますが、奇妙様が主導されている武田家と領民に対する『離間工作』が想定以上の成果を上げております。武田家領土から農地を放棄して逃亡する民が後を絶たず、この悪循環を断ち切るだけの力が今の武田家にはありません。武田家は正に風前の灯火(ともしび)といった有様です」


「うーん、下手をするとこちらが手を下すまでもなく、相手が自壊しかねないってのが問題か」


この東国征伐は、信忠に信長の庇護がある間に敗北を学ばせる機会であるとともに、有事の際に本性を現す『獅子身中の虫』を炙り出すことも目的としており、なんとしても効果的(・・・)に負ける必要があった。


武田家の情勢として、信玄の『西上作戦』によって元より少ない食料の備蓄を吐き出してしまい、領民たちは爪に火を灯す思いで、辛うじて食いつないでいた。

そうした背景があるにもかかわらず、勝頼は武田家内の掌握を優先し、軍備に資金を費やしたため、飢えた領民が結束して大規模な一揆へと発展するところすら出る始末であった。


「それ以外にも不安要素があるんだよね……」


「と、おっしゃいますと?」


「奇妙様を鍛え過ぎたというか、作戦立案の段階で上杉家中の不穏分子の動向や、武田と北条に加えて上杉家の反乱分子に包囲された場合をも想定して準備している節があるんです」


「三つの勢力に包囲されてしまえば、撤退することすらままならないと思いますが」


「形勢が不利だと判断したら、武田領の村々に食糧や物資、金品をばら撒きながら撤退するって言う指示書が用意されていまして」


「……なるほど、中々に効果的な策ですな」


北条や上杉家の反乱分子にとって、武田領の窮状など把握しようがないこと。織田軍が残していった物資があれば、当然の権利としてそれらを回収するだろう。

しかし、飢餓状態に陥っている領民にとって、一旦手に入れた明日を生き伸びる希望そのものとなった物資を奪おうものなら、死に物狂いの抵抗が待っている。

当然現場は混乱に陥り、追撃を放つどころではなくなるだろうし、北条や上杉家としては同盟者の領民を害したとして追及されることになる。

一石二鳥以上を狙い得る、なかなかにいやらしい策だと言えよう。


「まったく誰に影響されたのやら、用意周到かつ(したた)かな戦い方だよ」


そう言いながら静子は苦笑するが、昌幸には似たような戦い方をする人物に心当たりがあった。

そして、本人が気づいていない以上、それを口にしないだけの分別をも持ち合わせていた。


「流石は上様の後継者というべきですな」


味方が優秀で困ることがあるとは思いもしない静子であった。信忠は岐阜に居を移して以来、生来の才能を開花させ、僅かな期間で美濃及び尾張を掌握し、長足の成長を見せていた。

自身の身辺こそ子飼いの者で固めてはいるものの、それ以外については各派閥からバランスよく人材を取り込み、周囲の意見を良く聞きつつも流されることのない舵取りを行っている。


「流石に三正面作戦となれば撤退に否やはないだろうけど、もっと早い段階で撤退を指示したとして、配下が従ってくれるかが問題かな」


「恐らくは負けた振りをしながら誘い込まれるでしょうから、勝利に勢いづいた連中が命令を無視するやもしれません」


「まあ、その時は見捨てるしかないね。総大将に従わない者に未来はないから」


「左様ですな」


信忠自身は先見の明を持っているが、彼には未だ背中を任せ得る配下が育っていない。

それ故にいざ窮地に陥った際、信忠の指示に命を懸けてくれる武将がどれほどいるかを静子は危惧していた。

史実で起こった『金ヶ崎の退()き口』のように、従わない配下を捨てて自分だけでも撤退する可能性もあるが、今の信忠がどういった行動に出るかが、彼の成長故に読みにくくなってしまっていた。


「まあ、どういう腹積もりであったとしても彼には撤退して貰う。そして我らが殿(しんがり)を務める。これだけは変わらない。その為にも、少しでも多くの情報を仕入れないとね」


「承知いたしました」


どう転んだところで、静子がやることは変わらない。そうであれば、取り得る選択肢を多くするため、出来る限りの保険を掛けることにした。







五月は戦乱の気配が漂う中、慌ただしく過ぎ去ったが、梅雨入りと時を同じくして急に暇を持て余すようになった。

中部地方全域で例年よりも降水量が多かったのだが、各地に築かれた溜め池を活用し、計画的な水量調整を実施したため、悩みの種であった河川の氾濫等が発生することは無かった。

七月は何事もなく過ぎ去り、八月に入ると京では信長肝煎りの花火大会の噂でもちきりになっていた。

事前に広く周知され、帝のご臨席を賜ることも相俟って、信長の権威を天下に示す空前絶後の大イベントとなる。

信長は織田に与する者は勿論、明確に敵対姿勢を示す本願寺や毛利家、雑賀衆にさえ、この一大事業に招いて見せた。

貴重な火薬を花火と言う形で大量に消費してもなお、織田家に僅かばかりの痛痒すらないということを示威することが目的ではあるが、お前たちでは敵にもならぬというメッセージも込められていた。

あからさまな挑発ではあったが、この招待に真っ先に飛びついたのは雑賀衆であった。

経済的に困窮していたこともあり、徹底抗戦派すら確執を一旦棚上げにして、商材片手に京を目指して動き始めた。


彼らの困窮には、信長が四国に作らせた港の存在が大きく関与している。

喫水が浅く外洋に出られない和船にとって、九州方面との交易を考えた場合、土佐に出現した巨大な港湾都市の存在は魅力的だった。

充実した港湾設備とは裏腹に、安価な港湾利用料や尾張から引き抜かれた熟練の荷役夫達の仕事ぶりは、荷主たちを大いに満足させた。

決して少なくない金を村上水軍に支払って瀬戸内海を航行するよりも、遠回りになる土佐経由の航路を選ぶほどに。


「利益よりも盤石な拠点を構築することを優先せよ」


港湾都市から日々齎される莫大な利益は、信長の一声により港湾都市へと再投資されることに決まった。

本来であれば港湾都市整備の為に持ち出した資金を少しでも回収したいところだが、敢えて先送りにさせた。

一見すると無謀にも見える資金繰りだが、日ノ本どころか海外からの外洋船をも取り込み、その収益は着実に増え続けていた。


「派手に宣伝したからか、全国津々浦々から商人が集まってきているね」


多くの人が集まれば商機が生まれる。商機があればどこからでも集まってくるのが商人である。そして商人たちは遠地の得難い情報をも持ち寄ってくる。

静子は昌幸配下の間者たちに様々な商品を提供し、地方の商人たちから情報を集めるよう命じていた。

とは言え、外部の商人たちの信用を得るには、彼らの懐に飛び込まねばならず、間者たちが商人たちと飲み歩く光景が京の町のあちらこちらで見られるようになった。

お役目ついでの役得ではあるが、必要な情報を収集している限りは、多少羽目を外していても口煩く言うつもりはなかった。


「それにしても蒸すね。風が()いでいるのもあるけど、人々の熱気が物凄いからかな?」


「京の夏は、こんなものだ」


足満の苦笑交じりの言葉に、静子は項垂れた。手にした扇子を動かしても、香木の芳香と共にねっとりと纏わりつくような生ぬるい風が届く始末。

本来静子が滞在しているはずの京屋敷には、あれこれと暑さ対策が取られていた。しかし、現在彼女の京屋敷は信長と前久に占拠されてしまっていた。

雲上人二人の相手だけでも苦労を強いているのに、更に静子まで滞在しては家人に気の休まる暇がないだろうと考え、静子は最低限の供だけを連れて旅籠(はたご)に身を寄せていた。


「まあ、御前花火大会が終わるまでは、この暑さに耐えるしかないよね。写真技術の実用化に目処が立ったから、早く尾張に戻りたいのが本音だけど」


「ガラス乾板の品質が安定してきたからな。湿板に比べて応答性が高いから、実地試験で問題が無ければ本格的に運用できるだろう。文化の保護は言うに及ばず、天文学や地理学、医学に軍事にと、その用途は無限大だ」


今まで性能が安定しなかったガラス乾板だったが、ガラス板に塗布する写真乳剤(感光材料)の原料を見直すことで、実用に耐えうる性能を保ちつつも生産性をも向上させることが出来た。

とは言え硝酸銀などの必須薬品は依然として高価であり、デジタルカメラのような使い方は望むべくもないが、一枚の写真で大人数人が一月ほども食いつなげる金が消えるというような状況は脱することが出来た。

材料に関しては技術が確立されれば、工業的な生産とともに更なる低コスト化が望める。

乾板自体は保管に多少気を使う必要があるが、密閉した箱に入れておきさえすれば、好きな時に写真が撮れる段階まで漕ぎつけることが出来た。


「実用試験の結果次第だけど、東国征伐にも使えるね。重量がある上に、割れ物だから量はもっていけないけど……オガクズにでも入れて運ぶかな?」


「甲斐は尾張ほどに街道整備がされておらぬ。行軍中は道なき道を進むこともあろう、緩衝材を入れたとしても注意して運搬せねばなるまい」


「輜重隊に専用の荷車を牽かせるかなあ。それにしても暑い……はやく御前花火大会になって欲しいよ」


茹るような蒸し暑さに、静子は思わず愚痴を零した。

静子が不慣れな京の暑さに辟易すること数日、ようやく帝や主だった公家達と信長の日程調整が済み、御前花火大会が開催される運びとなった。

打ち上げ場所は現代では望むべくもない鴨川河川敷であり、鴨川の両岸には見物客が大挙して押し寄せて見守る中、花火職人たちが声を張り上げた。


「遂にこの日を迎えることが出来た。天子様のご臨席を賜る前代未聞の催しだ。火薬の事故で命を落とした奴らのためにも、俺たちは何が何でも成功させにゃならん! 京の連中の度肝を抜いてやるぞ! 気合入れろ!!」


「「「応!!」」」


頭領の発破に応えて職人が気炎を吐いた。低い位置にある川底から両岸を見上げると、黒山の人だかりが迫ってくるようだが、職人たちに気後れする素振りは無かった。

警備の関係もあって、職人たちから見える位置に帝が居られる訳ではないが、河原の喧噪から離れた閑静な屋敷で、帝や前久を含む近衛派の公家達、官位を持つ信長の関係者らが空を見上げていた。

屋敷一帯は人払いが為され、更に周囲を取り囲むように信長の兵が警備を行っていた。鼠一匹すら漏らさぬ厳重な警備だが、ネコならば他ならぬ帝の膝の上で丸くなっていた。


「御前に供する料理を任されるのは大変な栄誉だが……生きた心地がせんな」


帝や公家達をはじめ、信長の関係者など貴賓に食事を供する料理人として、五郎が抜擢されてしまった。

彼は京で料理の修行を積み、縁あって尾張へと流れ、信長や濃姫の料理人を務めてきた人物だ。

伝統のみを重んじるのではなく、真に美味なるものを求める姿勢を信長が保証し、帝がそれを認めたがために実現した人事であった。

五郎には昇殿を許される従五位下が授けられ、大役を見事果たした暁には大膳職(だいぜんしき)(天皇以外の臣下に対して饗膳を供する役所)の官職を与えられる。


「愚痴っていても仕方あるまい。なに、失敗したら腹を切るまでのこと」


五郎の補佐には四郎がついていた。出自の怪しい四郎が(くりや)に立てているのも、信長が身元を保証したためである。

それゆえ、彼らの失敗は信長の失態に繋がるという責任重大な場面でもあった。

因みに四郎は、五郎と意気投合して以来、度々彼の料理を手伝うようになり、料理の温度を見抜く天性の才能を持っていることが判明し、今では五郎の補佐を務めるほどになっていた。


「まだ作っていない献立が山ほどあるんだ、そう易々とは死ねん!」


「それはこちらも同じこと」


「さて、今日の料理は全く同じ献立を、塩加減のみ変えて二種類用意する。普段体を動かさない公家様方は薄味で、上様を筆頭に武家衆には濃いめの味付けで提供する」


「それで厨を二つ借り切っているのか。下拵(したごしら)えは家人に任せられるが、味を決める段になれば五郎が腕を振るう他あるまい」


「調理の順序を調整しているから、順に回っていくだけで料理は出来上がる。問題は何回も味見をすれば、舌がぼやけることだ。四郎の見極めを当てにしてるからな、相棒!」


「責任重大だな。ことここに至っては腹を括るしかあるまい」


帝と言う貴人の頂点に位置する方へ料理を提供するに当たって、信長は権力に物を言わせて山海の珍味を集めさせた。

派手好きの信長らしく、その器にまで一級の品を揃える徹底ぶりだ。

生半可な料理では器に負けてしまうため、料理長たる五郎は片時たりとも気の休まる暇がなかった。

戦場のような有様となった厨を駆けまわり、何とか全ての膳が運び出された頃には、二人とも地面に座り込んでしまっていた。


「さあ、やれることは全部やった。後は審判を待つのみだが、失敗したときは連座になっちまう、済まないな四郎」


「気にするな。何故かはわからぬが、貴様とは長年連れ添った莫逆の友とでも評するような気安さを感じる。その友の為に命を張るのもまた一興よ」


五郎の謝罪を四郎は軽く流す。貴族達には素材の味を活かした繊細な味付けを行い、武人たちにはパンチの利いた強い味付けを施した。

どうしても塩加減の利かない料理については、片栗粉でとろみをつけることで味を長く残す手法を用いて解決している。


(賽は投げられちまった……後は野となれ山となれ、だ)


人気(ひとけ)の絶えた厨の地面に背中合わせに座り込み、いつしか二人は睡魔に身を任せていた。


彼ら渾身の料理が、京の貴人たちに予想以上の好評を以て受け入れられ、二人揃って腰を抜かす事になるのは、御前花火大会が終わってしまってからの事となる。







御前花火大会は、ひゅるひゅるという笛にも似た音の後、夜空に小さな花弁が開いたのを皮切りに始まった。

電気式の連続着火装置などあるはずもないため、それなりの間隔をおいて夜空に描き出される光の華。

腹の底に響くような砲声と、遥か上空で炸裂する破裂音。そして夜空をキャンバスに流れる、人工の流れ星。

川のせせらぎと、草場で生を謳歌する虫の声。漂う硝煙の匂いと、星が落ちてくるような燃焼音。

誰もが体験したことのない興奮に身を委ねていた。

導火線の長さを調整し、同心円状に打ち上げ筒を配置することで実現した、打ち上げ花火十六連発は、京の人々の記憶に強く焼き付いたであろう。

河原から離れてはいるものの、夜空に広がる夢のような光景と、贅を尽くした料理を味わい、帝は勿論、公家達も夢見心地を味わっていた。

こうして御前花火大会は大成功のうちに幕を閉じた。京の人々は花火に熱狂し、御前花火大会を開いた信長を称える声はいつまでも消えなかった。


この結果を知った信長は一人ほくそ笑んでいた。

皆が血眼になっていくさの為に集めている火薬を、遊興の為に盛大に消費して見せることで、文化人には信長という人物が猪武者でない事を示した。

その一方で、信長に敵対している武将たちは肝を冷やしていた。

地上から天高く打ち上げられ、大輪の花を咲かせた花火だが、あれが夜空ではなく、自分達の居城で炸裂したらどうなるだろう?

遊興のためだけにあれだけ費やせたのだ、どれほどの量を撃ち込まれるのか想像することすら出来ない。

弓矢と槍でいくさをする時代ではないのだと、否が応にも納得させられてしまった。


「此の度の花火大会、誠に大儀であった。其方(そなた)に京での花火大会を催す勅許を与えよう」


信長は帝より御嘉賞(ごかしょう)(よくやったというお褒めの言葉)と共に、独占的に花火大会を開催出来る権利を賜り、以降夏の風物詩として花火大会を開催することになる。

目下のところ反信長の急先鋒である本願寺は、花火の砲火に度肝を抜かれたものの、一回の花火大会で使用された火薬の量を知らされ「これで当分信長がいくさをすることはないだろう」と安堵していた。


御前花火大会から数週間が経過し、秋が深まるとともに各地では、作物の収穫時期に入っていた。

領主自らが主導して農業改革に乗り出した事もあり、農業指導を受けた越前や近江では顕著に収穫量が増えていた。

特に戦災からの復興に力を入れている越前では、例年にない収穫量と激しい寒暖の差が生み出した予想以上の食味に沸いていた。

一方、尾張・美濃は安定して高収穫を叩きだしていた。余剰の米は市場へと流れ、それが他国へと転売されて流通する、はずだった。


「余剰米を高く買い取る。希望する者は名乗り出よ」


これに信忠が待ったを掛けた。

上記のような通達を各農村に出し、農民たちも海千山千の商人と交渉するよりはと、全量引き取ることを約束してくれた信忠の買い取りに応じた。

この結果、膨大な量の米が信忠の元へと集まる。

その量は近年噂されている東国征伐を視野に入れても多すぎる分量であり、彼の動向を監視している敵国の間者は、その真意を測りかねていた。


俄かにきな臭さが漂い出した折、『越後の龍』こと上杉謙信が五千の兵を率いて上洛を開始した。

名目としては能登国(のとのくに)を支配下に置いたことの報告及び、諸事情で以前の上洛以降途絶えていた帝への挨拶に赴くとされた。

謙信の行動自体には何ら不審なところはないのだが、今まで沈黙を続けていた謙信がこの時期に上洛をするとなり、周辺の諸陣営は心中穏やかではいられなかった。

そんな周囲の思惑を他所に、信長の手勢と合流し、謙信は無事上洛を果たした。宣言通りに帝へ挨拶と報告を済ませ、続いて交友のある近衛前久の屋敷を訪ねる。

その後、前久を伴って安土へと赴き、信長と会談を行った。


「……それで、何故最後にウチなの?」


静子は降って湧いた災難に、思わず愚痴を零した。謙信は前久を交え、信長と秘密の会談を行った後、信忠とも顔つなぎをするべく岐阜城へと向かった。

ここまでの流れは自然であり、疑問を差し挟む余地がない。しかし、岐阜城を訪れた後、信長までもが連れ立って静子邸へと押しかけてくる道理が理解できなかった。


「今ここが焼き討ちされれば、日ノ本の勢力図が一気に書き換わっちゃうんじゃないだろうか?」


「縁起でもない事を仰っていないで、上様と近衛様の御相手をお願い致します」


「うん、いつも急で申し訳ないけど、裏方の取り纏めをお願いね」


彩の変わらぬ冷静な突っ込みを受け、我に返った静子は、ため息を噛み殺して、自らの主人である信長へと挨拶の口上を口にする。


「上様におかれましては、ご機嫌麗しく……」


「堅苦しい挨拶は無用。心にもない世辞を申さずとも、貴様の顔に本音が書いておるわ。突然押しかけられて迷惑だとな」


「ご存知ならば、せめて先触れだけでも……」


そう静子が言い終える前に、信長の手刀が彼女の頭に炸裂した。衝撃を余すことなく伝えた時特有の鈍い音がし、静子は頭を抱えてその場にうずくまった。


「正直なのは美徳だが、時には建前も重要だ」


「痛い……しかし、本当に何の御用ですか? 今の時期に上様が安土を離れる程、急を要する案件は無かったと思うのですが」


現状、織田家を取り巻く戦況は織田家一強の状態で推移している。最も身近な脅威として挙げられる本願寺だが、既にその経済力も軍事力も織田家には到底及ばない。

そして毛利の抑えに西国へと配下を派遣し、東国の動向は信忠に任せている現状、両者の報告を受けねばならない信長が、拠点である安土を空けて良い理由は一つもない。

それすらを押して信長自身が足を運ぶとなると、想定外のことが起こったのではないかと静子が危惧していると、信長は目を細めて彼女を睨みつけた。


「昨年は初穂祭にかこつけて、大層美味い物を食っていたそうだな」


「……もしかして秋の味覚祭りの件でしょうか?」


静子の言う『秋の味覚祭り』とは、静子の領地では恒例となっている行事を指す。

毎年この時期になると大金を手にした静子が城下街を訪れ、あちらこちらで様々な食材を買い集め、新作料理を披露する一連のイベントだ。

作られた料理は各地の初穂祭でも振る舞われ、後日調理法も公開される。誰にも口止め等していないため、巡り巡って信長の耳に届いたとしても不思議ではなかった。


「わしが不自由を我慢している時に、貴様らだけで美味い物を独占するとは良い度胸だ。今一度貴様の主人が誰なのか、きっちりと教えてやる必要があると思わぬか?」


(安土に居を移して以来、生活に不満がたまっているのかな)


静子は留守を預かる(ほり)に確認をしようと心に決めると、静子自らが信長を座敷へと案内する。

他の面々についても、小姓を付ける算段をしていると、不意に誰かに肩を叩かれた。


「今日の料理は期待しておるぞ。その後、お前の養子()にも会ってみたい。段取りは任せる」


肩を叩いた相手は信忠であった。彼は自分の用件だけ告げると、屋敷の奥へと笑いながら去っていった。あっという間の出来事に、静子はろくな反応を返すことが出来なかった。


「そうか。上様が来るなら、彼が同行するのは当然だよね」


信長に信忠、前久に謙信と、いずれも歴史に名を残す豪華な顔ぶれであった。

(さき)の軽口ではないが、この場を襲撃することが出来るなら、一気に天下に王手を掛けることができる。

しかしながら、本能寺の変のように手勢が少数ならばともかく、ここは静子のお膝元である。

静子直轄の軍に加えて、信長や信忠の身辺を警護する精兵の他に、謙信が率いてきた越後軍までもが控えている。

そもそも静子が張り巡らせた警備網に掛からずここまで軍を進めることができ、更にこの布陣を突破できる勢力があるのなら、既に天下を獲っているであろうことは疑いようがない。


「あ、上杉殿には医師の診察を受けて貰って。結果次第では、少量の飲酒なら許可出来るかもだから」


「ははっ、畏まりました」


謙信は静子に禁酒を誓っているが、体調が許すのならば、少量の飲酒を許可しても良いと彼女は考えていた。


(折角の宴席で酒を飲めないのも味気ないしね。残るは徳川様だけだけど……この面子に驚かれないかな?)


当初、『秋の味覚祭り』の来賓は家康のみの予定であった。奉行就任の挨拶に赴いた折に、味覚祭りの話になり、是非に参加したいという申し入れを受けたことから始まった。

それゆえ、静子の受け入れ態勢としては家康と彼の家臣のほか、静子と彼女の直臣程度を考えていた。そこに予定外の人物が四人も加わってしまったのが現状だ。

とは言え、謙信が催しを把握していた可能性は低い。信長と信忠は当然知っていたであろうし、前久は彼らの企みに面白がって乗っかっているのだろう。


「食材が足りるかな?」


金に飽かせて大量に買い込んだ筈だが、一気に増えた招待客に食材の手配が不安になった静子だった。







信長の到着からやや遅れて家康も静子邸へと到着した。

静子から予定外の来客を知らされ、少々面食らった様子だったが、そこは歴戦の古強者。即座に頭を切り替えると、他の招待客へと挨拶に出向いていった。


「なんだか凄い事になっているな」


小間使いどころか、小姓たちまでが慌ただしく駆け回る様子を眺めながら、慶次と長可は呆れ顔で見つめ合った。

気心の知れた仲間同士の無礼講の場から、一転して相応の礼儀作法を要求される宴席へと様変わりしていた。

いつもならば、調理場へ忍び込み、つまみを失敬しているのだが、流石に今回は気分が乗らない。


「せっかくのお祭りなのにな」


「そうだな。俺はじいさんの処にでも逃げこむとするか。堅苦しい宴席なんぞ真っ平ご免だ」


「適当な酒樽を拝借するか」


最初から上司臨席の堅苦しい宴席と知らされていれば我慢もしようが、直前で水を差されたとあっては興覚めだ。

ゆえに上司の接待は静子に任せ、自分達は自分達でひっそりと秋の恵みを堪能する算段を立て始めた。


「こんな所にいたのか」


どうにかしてつまみを調達しようと考えていると、背後から才蔵が声を掛けてきた。

(まず)い人物に見つかってしまったと、二人は目線で確認しあった。


「俺は不参加で」


「右に同じ」


「貴様ら……気持ちは分かるが静子様の体面もある、我慢しろ」


二人の態度に才蔵はため息を吐いた。


「無理無理。上辺だけ取り繕ってもボロが出るだけだ。無理を押して参加した上に、静っちの体面まで潰したとあっちゃ、流石の俺も申し訳が立たないってもんよ」


「はあ……全く。静子様のおっしゃった通りだな」


「ん? 静っちが何か言っていたのか」


「ああ、儀礼的な場になったから、貴様らは確実に逃亡するだろうから、逃がしてやれと仰ってな。せめて静子様のお心遣いだけでも伝えようと、声を掛けたまでだ」


「流石、静っち話が分かる。主の心遣いを有難く頂戴して、俺は不参加とさせて貰おう」


義理堅い慶次にしては、珍しく頑なな態度だなと思いつつも、才蔵は引き下がることにした。


「離れに酒と料理を運ばせる。同じように逃げ出したい奴と飲んで食え、との事だ」


「手回しの良いことだ」


「貴様らの流儀を尊重してくださる静子様に感謝しながら味わえよ。某は静子様お一人を、あの場に残すことなど出来ぬのでな」


軽く手を振りつつ才蔵はその場を後にする。損な性分だなと思いつつ、慶次は腰を上げる。軽く体を伸ばしながら、長可も後に続いた。


「さて、口煩い連中に見つかる前に、とっとと離れに逃げ込むか」


「そうだな」


二人とも頷くと人混みに紛れて姿を消した。


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