千五百七十五年 四月下旬
騒動の原因は伊勢の情勢にあった。北伊勢は神戸具盛の養子、信孝が治めている。一方南伊勢を治めるのは伊勢国司、北畠具房の養子となった信雄であった。
当初伊勢一帯の開発が持ち上がった際、北伊勢を治める信孝のみが参画の意を示した。計画は順調に進められ、美濃・尾張・北伊勢を繋ぐ経済圏を開発することで話は纏まりつつあった。
そこへ唐突に信雄が待ったを掛けた。今更になって難癖を付ける信雄の態度に、信孝は激怒した。しかし信雄は涼しい顔で、この開発は伊勢全土に影響を及ぼすため、自分を外されては困ると言ってのけた。
元より互いにそれぞれの事を良く思っておらず、更に領地の国境が接していることもあり、何かと利害関係で揉めることが多く、二人の仲が険悪だというのは周知の事実だ。
開発立ち上げ段階の各所に対する調整や、開発地域一帯の調査費用などの一切を負担せず、事業が動き始める頃になってタダ乗りさせろとは虫の良過ぎる話であり、信孝が憤慨するのも無理からぬことであった。
信孝と信雄は真正面から対立し、瞬く間に互いの配下をも巻き込んだ大喧嘩へと発展した。開発事業の総まとめ役である信忠が、二人を諫めようと手を尽くしたが、二人ともが互いに相手を計画から排除しない限り、一切の譲歩をしないと頑迷に言い張った。
ほとほと困り果てた信忠は、安土へ移った信長に仲裁を願い出た。信長としては信忠の器量を見極めたいという思惑もあったが、黒鍬衆をはじめとする多くの人・物・金が動員されており、それらを無為に遊ばせることはできなかった。
最終的に信長は信孝、信雄両名に対して朱印状を発し、信雄に対しては「己の不明で出遅れておきながら、濡れ手で粟を掴もうとするなど言語道断。先人が払った対価に見合うだけの出資をして、はじめて同じ土俵に立てると心得よ」と諫め、信孝に対しては「同舟相救うとの言葉があるように、日頃反目し合っていても、同じ目的を得れば協力できるもの。見事成果を出して己の器量を示してみせよ」と説いた。
流石の二人も信長からの仲裁を無視することなど出来ようはずもなく、即座に矛を収めたものの、万事解決とはいかなかった。
「結果的に北伊勢は立地を考慮して人員を送り、南伊勢は先行投資分も含めて余分にお金を出すということで落ち着いたけど、信孝と信雄の仲が悪いって言うのは本当だったんだね」
今回の件でも露呈したように、信雄は道理を弁えぬ『うつけもの』と評される一方、信孝は堅実に実績を積み上げ、徐々にではあるが頭角を現しつつあった。
しかし、悲しいかな戦国の世の序列に於いては、常に信雄の後塵を拝していた。目に見える形で己が実力を示してもなお、評価されないことに信孝は不満を抱いていた。
信孝の評価が不当に低い訳ではなく、事あるごとに信雄と対立し、面倒ごとを起こすため功績が相殺されているという事実に、彼は気付けていなかった。
今回の開発に際しても率先して名乗り出たのは、信雄を出し抜かんとした意図が多分に含まれている。
「北伊勢を繁栄させ、南伊勢との差を明らかにし、今度こそ序列を塗り替えようと企んだのかな?」
兄弟が起こす骨肉の争いを調停するため骨を折った静子は、その実りの少なさに大きなため息をつかざるを得なかった。
尾張全域に配布する尾張米の苗が青々と色付く三月。黄色く焼けて枯れることもなく、区画ごとに生育状況を揃えられた苗たちが並んでいる。
信長の命により尾張全域へと栽培規模が拡大されたため、扱う苗の数が従来とは桁違いとなっていた。搬送や作付けの日取りを考慮して、少しずつ生育状況をずらして育てられた苗が用意され、それぞれの田植え時期になると順次出荷されていく。
かつて静子が村長に就任した最初の村に端を発した人力田植え機も、多くの人々が利用することでより洗練されたものへと進化していた。
初期型の物と比較して大型化し、牛に牽かせることを前提とした6条植えの畜力田植え機と、逆に小型軽量化を推し進め、シンプルで壊れにくい従来通りの2条植え人力田植え機の2系統へと分かれていた。
区画整理の都合で傾斜地や棚田、変形した田などでは専ら人力田植え機が用いられ、規格化された大きさの大型圃場では畜力田植え機が活躍している。
6条植えの畜力田植え機は言うに及ばず、人力田植え機ですら慣れた人間が用いれば、1ヘクタールの土地に対する植え付けを一日でこなせる。
これは旧来の完全手作業と比較して、実に7倍近い効率を叩きだし、畜力のものに至っては10倍を超える。これらの農機具は織田家と契約を結び、適切に運用するならば無料で利用することが出来た。
無論無制限という訳にはいかず、村の作付け規模に依って貸し出される数の上限が決まっている。しかし、必要数を借り受けて、適切な人数が一斉に植え付けを行えば、一週間程度で全ての土地に植え付け出来るよう配慮されていた。
尾張と他国を比較した際に、人口当たりの作付面積が数倍という規模になっているにも関わらず、農作業が破綻しない絡繰りがここにあった。
「流石に尾張全域へ行き渡らせるとなると、規模が桁違いになるねえ」
田植え機に合わせて規格化された苗箱が整然と並び、貸し出される農機具がずらりと並んでいる様を見て静子が独り言ちた。
当初よりいつかは尾張全域への拡大を視野に入れて計画されていただけに、貸し出される農機具類の数は余裕を以て準備されている。
作付け規模の拡大自体は、今回で二度目の試みとなるため、初回時のような混乱は回避できると見込んでいる。運用する上で発生する大部分の不都合は前回で対応できているため、今回の作業に不安は少なかった。
尾張米の作付けについては、尾張のみに制限されるものの、尾張方式の農法については、いずれ尾張全土から中部地方全域へ、更には近江や越前なども含めた織田家の支配地全土へと順次展開が予定されている。
言うなれば全国展開の試金石となる試みだけに、織田家家中の有力者たちが注視しており、失敗の許されない計画でもあった。
「大きな問題点は前回で洗い出せたし、不測の事態が発生しても前回を経験している優秀なスタッフがいるから安心だけど、それでも油断は禁物だね」
そう口に出して呟き、覚悟を決めた静子だが、結果的に静子の心配は杞憂となった。運搬途中の事故で一部の苗が廃棄処分となったものの、予備の苗で賄える分量であったため大過なく植え付けを終えることができた。
四月下旬、順調だった作付けと対照的に、またしても伊勢開発で問題が発生した。
信長の調停を以て、ようやく動き始めた美濃・尾張・伊勢包括経済圏構想だが、計画始動に際する会合の場に信雄の姿はなかった。
関係者全員のスケジュールを調整した上で日程が組まれ、必ず本人が出席することを念押しした上での会合であったにも関わらず、信雄は名代を立てて欠席していた。
名代によって届けられた文には、領地で問題が発生し、領主である信雄でなければ対処できないゆえ、やむを得ず欠席したいと綴られていたが、それを額面通り受け取るものはいなかった。
特に信孝は憤懣やるかたない様子を隠そうともせず、他の参加者も似たような思いを抱えていた。
(自分から一枚噛ませろと言い出したのに、こうも無責任な態度だと流石に器量を疑われるよねえ)
信忠と共に尾張代表として参加している静子は、信孝が漏らす信雄への愚痴を聞き流しながら、信雄の真意について考えてみた。
まず信雄の人物評として、伝え聞こえてくる限りでは、良い噂は殆どない。日頃は政務を配下に丸投げし、一切関わろうとしないのだが、時折思い出したかのように口を挟み、現場を混乱させていた。
先代である北畠具教が存命中は人目を気にしていたが、具教をはじめとした北畠一門を処刑して以降、信雄の放埓さは留まるところを知らなかった。
具教の処刑に関しても、武田信玄の西上作戦が失敗した折、信雄が具教や主だった北畠一族が信玄と密約を交わしていたと決めつけ、周囲の反対を押し切って関係者の悉くを処刑した。
その処刑についても強引なやり口を取っており、隠居状態だった具教の屋敷を襲撃し、一切の反論や抗弁を許さずその場で斬り殺してしまっていた。
死人に口なしとは良く言ったもので、激しく抵抗されたためやむを得ず切り伏せたとの信雄の言を信じる者はいなかった。
この一連の粛清が信雄の独断に拠るものか、信長の指示かは不明だが、これ以降北畠一門は急速に力を失い、今では完全に信雄の言いなりとなっていた。
信雄の無法を諫めようにも、信長の後継者たる信忠に次ぐ序列に位置する信雄に逆らえる者はおらず、北畠は名だけを残して完全に乗っ取られてしまっていた。
「聞いておられますかな、静子殿!」
「え? あ、はい、聞いております」
突然、信孝から話を振られた静子は生返事をするのがやっとだった。明らかに聞いていないのだが、信孝は気にする様子もなく、信雄に対する愚痴が再開された。
「奴には南伊勢の国主、北畠家の家督を継いだという自覚がない。大方、先日の件と志摩国の件の双方で不貞腐れておるのだろう」
志摩国は九鬼嘉隆が1569年に信長より拝領した国であり、古くから内陸部へ海産物を供給する要地であった。
伊勢湾という漁業を営む上で絶好の立地を持つ志摩国は、より一層の漁業拡大を目論む静子としては見逃せない。
そこで静子は信長を介して嘉隆へ水産資源の共同開発を打診した。嘉隆としても領地の産業振興は望むところであったため、二つ返事で了承し、即座に静子子飼いの水産関係者が派遣された。
こうして尾張で事業立ち上げという苦難を乗り越えた辣腕家が腕を振るい、志摩国は一躍養殖業の一大拠点となった。
嘉隆は水産業で潤った財源を元に、将来的には尾張から訪れる海路を通じての伊勢神宮参拝客を見込み、南伊勢までの街道整備を計画している。港町の宿泊施設等は言うに及ばず、街道沿いの旅籠等にも十分商売として成り立つ需要が見込める。
しかし、インフラ整備は巨大事業であるため、さすがにそう易々とは乗り出せず、未だに計画止まりとなっていた。
信孝の言う志摩国の件とは、この一大利権に対して自分が食い込めなかったことを指している。尾張と志摩を直接海路で結ぶため、途中に位置する南伊勢には一切旨味がないのだ。
これだけでも許しがたいというのに、街道整備の不首尾に対する責任を問われ、皇室の氏神である天照坐皇大御神を祀る伊勢神宮の庇護者の地位を返上させられたことでの逆恨みも加わっている。
元々は南伊勢の庇護下に収まっていた伊勢神宮だが、一向に進まない街道整備や、庇護者としての義務を充分に果たさないにも関わらず、十全に税を課せられるだけに飽き足らず、何かにつけて賦税を申し付けられることに反発した。
信長としても身内の落ち度である上に、朝廷と縁の深い伊勢神宮を敵に回す訳にもいかず、財力及び政治的手腕に優れる志摩国の庇護下へと組み替えたのだ。
領地が減る信雄には志摩国英虞郡の一部を伊勢国度会郡に編入させることで釣り合いを取ったのだが、信雄はそれを恨みに思っていた。
以上のことから志摩国と国境を接する南伊勢の国主である信雄としては、恨みの募る隣国だけが潤っているという状況は面白くない。
しかし、難癖をつけようにも信長が仲介した案件だけに、流石の信雄とて強くは言えない。我慢を強いられることの少なかった信雄としては、己の威光が通用しない信忠や静子、自分よりも低い序列にも関わらず従わない信孝と顔を合わせたくないのだろう。
(嫌いな相手とでも手を組める程度の腹芸ができないと、この先辛いんじゃないかな)
機を逃さず時流に乗った志摩国が栄える一方で、南伊勢は衰退の一途を辿っている。信雄からすれば志摩国の繁栄は喉から手が出るほど欲してやまないものだった。
静子は伊勢湾という外洋を見据えた海上拠点での研究や開発が見込め、信長としては献上される海産物や乾物を朝廷へと納めることで政治基盤を強化できる。残る嘉隆としては外資が入るものの、少ない負担で産業開発が進むという互恵関係が出来上がっていた。
信長、静子、嘉隆の三者による互恵関係が崩れない限り、信雄が権益に食い込める余地はなかった。
(信孝も私を嫌っているだろうけれど、それを呑み込んででも信雄より優位に立ちたいという向上心がある。あるいは私を利用して、信雄を蹴落とす腹積もりかな? まあ、計画が順調に進むなら、個人の思惑には関与しないけど)
「……もう良かろう。この場に居らぬ者を罵ったところで益はない。さて、面識のある者もおろうが、改めて各自を紹介——」
信孝の愚痴が一段落したのを見計らい、信忠が倦厭(うんざりする様)さを隠そうともせず、会合の開始を告げた。信孝はそれを耳にして、自分の為すべきことを思い出したのか居住まいを正し、信孝の当て擦りにひたすら耐え続けていた信雄の名代は、ようやく人心地がついたといった様子であった。
「北畠三介(三介は信雄の通称。北畠家の家督を継いだため、北畠三介具豊を名乗っていた)の不在は残念だが、事業のあらましを改めて説明しよう。既に知っている者もおろうが、美濃・尾張・伊勢の三ヵ国を跨ぐ経済圏を構築する。この際だからはっきりと言うが、この度の計画は伊勢への経済支援という側面が強い」
建前を省いた信忠の言葉に反論できる者はいなかった。伊勢の南北を統合したとしても、その経済規模は尾張と比して微々たるものとなる。
元より陸の孤島といった立地の悪さもさることながら、早期に手を付けるべきであった街道整備を怠ったことが響いていた。
雑賀衆を切り崩す際に、尾張からも梃入れをして優先的に整備した街道もあるが、現状では不十分と言わざるを得ない。
ゆえに巨大な美濃と尾張の経済圏に取り込み、特に尾張で顕著な余剰資金を伊勢開発につぎ込むことにした。資金投入の決定には静子の意向が大きく関与している。
既に織田家の支配地域は経済資源の一極集中をする時期を過ぎており、より大きな経済圏を構築できねば、資本主義の構造的欠陥により先細りとなってしまうためであった。
「……否定は出来ぬ。尾張は既に東国一の大国となっている。全国から人、物、金が集まり、また各地へと散っていく。この状況下に於いて、我ら伊勢は尾張に寄り掛かるお荷物と言われても仕方ない」
「冷静に現状を受け入れられるなら上等よ。さて、伊勢と尾張とを陸路で結ぶにあたり、木曽三川が難題となって立ち塞がる。開発に先駆けて、まずは治水工事を完遂せねばならない」
「承知している。立地的に近い我ら北伊勢が人員を提供し、南伊勢は資金を負担する。相違ないな?」
「は、はい。そのように伺っております」
南伊勢代表の名代を鋭く睨みながら信孝が念を押した。蛇に睨まれたカエルの如く、名代は身を竦ませながら返答する。
(この名代の人も災難だよね。この様子だと次回には別の人が来ることになりそうだ)
議事の進行を信忠に任せ、自分は聞き役に徹している静子は、信雄の名代の様子を窺いながら考える。恐らくは信雄から、南伊勢にとって有利な条件を勝ち取って来いと命じられているのだろう。
明らかに腰の引けた姿勢を見る限り、居並ぶ国主に対して不利益を呑ませる交渉など出来ようはずがない。しかし、そのままおめおめと帰国すれば、信雄の怒りを買って更迭されるのは目に見えている。
「ふーむ……静子。其方から何か言う事はあるか?」
議論が停滞したところで、信忠が静子の意見を求めた。思案しつつも、話の流れを掴んではいた静子は、即座に応えて見せた。
「そうですね、他所にはない、伊勢だけの特色。これを打ち出せないのなら、一時の隆盛は得られても、継続的な繁栄は望めないでしょう」
「と申されると?」
静子の発言を受けて、信孝がやや前のめりに続きを促す。
「はい。尾張ならば『尾張様式』と呼ばれるようになった文物や、尾張でのみ生産される特産品があります。美濃には尾張と京をはじめとした他国とを結ぶ中継地としての役割があり、物流を支える産業が育っています。翻って見た時に、伊勢には他国に無い特色はあるでしょうか?」
静子は敢えて言及しなかったが、伊勢一帯では志摩国のみが他国と比して抜きんでた特色を具えている。一生に一度は訪れてみたいと言われる伊勢神宮を擁し、豊かな海洋資源を育むだけでなく、海運の要ともなる伊勢湾を押さえている。
然るに、南北の伊勢国にはこれといった特色がない。強いて言うならば、志摩国への通過点でしかない。当初予定されていた街道整備さえ進んでいれば、近畿地方と東海地方を結ぶ交通の要衝となれたはずであった。
実際に史実でも江戸時代に東海道から分岐した伊勢街道が整備され、南周りの陸路を支える中継地として栄えることになる。
そして初手で躓いた信雄、信孝兄弟が治める伊勢には、大規模なインフラ整備をする余力すらなかった。
「人を集めるには『目玉』が必要です。少々遠回りになろうが、伊勢に立ち寄ろうと思えるだけの何かが無ければ、いずれ美濃にその地位を奪われるでしょう」
「ぐぬ……そうは申されるが、そんなものが有れば我らとて手を拱いてはいない」
静子の語る内容に一理あると認めつつも、即座に特産品となり得る有望な存在など思い当たらず、意図せず反発してしまう。
「無いのなら作れば良いのです。街道を整備することで少なくとも十年の猶予は得られましょう。その時間を使って、特産品を生み出せば良いのです。幸い南に位置する伊勢には日当たりの良い斜面が多い、ならば他国の特産品と被らない橘か柑子を育てるのは如何でしょう?」
橘や柑子とは日本に古くから自生している柑橘類である。橘の存在は日本書紀や古事記にも登場し、不老不死の霊薬である『非時香果』が橘であるとされる。
『常世の国』より持ち帰り、生命の枯れ果てる冬にも青々と葉を茂らせる永遠の生命を思わせる果実。現在ではヤマトタチバナの名で知られる品種がそれだ。
静子は可能ならば温州みかんを栽培したいと考えていたが、現時点で温州みかんが存在しているか判らない上に、種なしの品種であるため縁起が悪いと敬遠されかねない。
ならば縁起を逆手にとって、不老不死の霊薬とも謳われた橘ならば、伊勢を代表する産業となるのではないかと考えたのだ。
「ふむ……貴重な意見を頂戴し、忝い。静子殿の案は、持ち帰り家臣と相談させて頂きたい」
無ければ作れば良いと言ってのける静子に驚愕した信孝は、静子の語る案に可能性を見た。しかし、ことは一国の命運を左右することだけに、即座に決断することはできなかった。
最初から大筋の決まっている会合だけに、伊勢が取り組むべき方針さえ決まれば、その後はすんなりと話が纏まった。信孝は伊勢の特産品をどうするかという点について、持ち帰りの宿題が発生したが、他の面々は粛々と作業を進めるだけだ。
ただ一人信雄の名代だけが悲壮な表情を浮かべていた。南伊勢に有利な条件どころか、金子が用意できない場合は、尾張と美濃から借り入れてでも用立てよと主君に伝えねばならない。
主君の勘気を被るのは確実であり、下手をすれば詰め腹を切らされかねない。暗澹たる心持ちを隠そうともしない名代を、さも愉快げに見つめる信孝の様子を静子は微妙な気持ちで見つめていた。
「事業が軌道に乗ったら、誰かに任せよう……」
信雄はともかく、まだ見どころがあると思えた信孝ですら、共同事業主となる信雄の失脚を望んでいる。この様子では、度々問題が発生するであろうことは目に見えていた。
兄弟喧嘩の度に仲裁を求められるのも馬鹿らしいと考えた静子は、早々に事業計画の要諦を纏めると、専任の担当者を選出するよう彩に伝え、自分は自室へと引っ込んでしまった。
「あー、やる気が削がれる」
床の間に大の字に寝転がり、全身を伸ばしながら愚痴を零す。仕事は明日にしようと声に出して決意し、静子は本格的に休息の姿勢となった。
暫く無言でヴィットマンたちの隣に寝転んでいると、なにやら大勢の人間が騒いでいるような喧噪が静子の耳にも届いてきた。
危険を告げるような性質のものではなく、どちらかと言えば祭りの雰囲気に近いと思った静子は、声の出所を探るべく立ち上がった。
静子の方へ首を向けるヴィットマンの頭を撫でて、静子は独りで部屋を出ると、声のする方へと歩いていった。
「……なるほど」
音の発生源に近づくにつれ、おおよその事情を察した静子だが、辿り着いた先は静子邸の一角にある武道場であった。
静子邸の武道場には娯楽でもある相撲を取り易いよう、立派な土俵が設えられていた。土俵だけでなく、周りを取り囲む観客席も設けられ、本格的な造りをしている。
「おー、やってるね」
武道場の土俵へ近づくと、男衆たちが大歓声を上げながら相撲が行われていた。個人戦なのか、団体戦なのかは判らないが、負けた方が土俵を下り、勝った方が残っているところを見るに勝ち抜き戦であるのは確かなようだった。
「頑張れよー! って静子様!?」
大声を張り上げて声援を送っていた一人が、すぐ傍まで近づいていた静子に気付き、素っ頓狂な声を上げた。それを切っ掛けにあれほど騒いでいた観客が静まり、人波が割れてぽっかりと空白地帯が出来上がる。
「ごめんね、お邪魔だったかな? ちょっと通るよ」
周囲の視線が自分に集中していることに、若干気まずさを覚えつつも、観客席の最前列へと歩を進める。
「おや静っち、騒がしかったかい?」
土俵際まで辿り着くと、先ほどまで相撲を取っていたのか、半裸姿に土汚れを纏った慶次が居た。
他にも長可や才蔵、高虎もおり、こちら側に織田家の関係者が揃っているようだ。反対側を見やると上杉景勝や直江兼続など越後人たちが陣取っていた。
「いや、楽しそうな声が聞こえてきたからね。少し気になって覗いてみたんだ」
「はっはっは。見ての通り、織田対上杉の団体戦だ。勿論、勝っても負けても恨みっこなしの勝負だがな」
「うん。事情は分かったよ、お互い怪我のないようにね」
静子が静観の構えを見せると、再び取り組みが始められた。織田勢と上杉勢の交流戦だというのは判ったが、それにしても少し気になることがあった。
「随分と盛り上がっているね。連勝記録を更新している人でもいるの?」
静子が違和感を覚えたのは、観客たちの熱狂ぶりと、選手たちの入れ込み具合だった。織田勢と上杉勢に分かれて相撲を取るのは、今回が初めてという訳ではなく、以前から度々催されている。
静子の知る限りでは、今回ほどの盛り上がりを見せたことはなく、その一点が気掛かりであった。
「今回は負けた方が、勝者側の飯代を持つことになっているからな。ささやかだが賭けの要素があれば、皆の盛り上がりも変わってくるってもんだ」
静子の疑問に長可が答えた。選手同士は言うに及ばず、観客たちも互いの選手の勝敗に飯代を賭けて盛り上がっていたのだ。
納得のいった静子は、問題なしと判断した。胴元が握っての賭博になっているわけでもなし、目くじらを立てるほどでもないと考えた静子は告げる。
「その程度なら問題なし。互いに矜持を懸けて存分に戦いなさい」
「さっすが静っち! 話が分かるぜ」
「しかし、勝者への褒美が飯代だけってのも味気ないよね。盛り上がっているところに水を差しちゃったお詫びに、私からささやかな賞品を提供しようと思うんだけど、どうかな?」
珍しく茶目っ気のある表情をしている静子の言葉に、一瞬の空隙の後、歓声が爆発した。
「私が提供する賞品はこれ。一部の人は、この札の付いた鍵が何処の鍵か判るでしょう?」
もう一度最初から団体戦をやり直そうとしていることに静子は満足げに頷いて、懐から賞品となる鍵を取り出した。何処にでもある南京錠の鍵に見えるが、下げられた札には『酒』の一文字が刻まれていた。
静子の取り出した鍵は、静子が管理する酒蔵の一つの鍵であった。静子自身が酒を禁じられているため、保管されている酒の大半は手つかずのまま眠っている。
中には帝へ献上するために仕込まれた酒や、信長や前久などの一部の人間しか口に出来ない特級酒もあると、まことしやかに噂されていた。
「実は柴田様への陣中見舞いにと用意した酒が余っていてね、酒の処分にこまっていたんだ。勝者には勝利の美酒が似合うでしょう?」
ゴクリと誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。静子は貴賓用の桟敷席に鍵を置くと、両手を叩いて全員の視線を集めた。
「織田対上杉の団体戦、勝ち星の多かった方にこの鍵を託しましょう。無論、中のものをどうしようが自由です!」
「「「うおおおおおおおおおお!!」」」
鬨の声かと思う程の大音声が相撲場を揺るがした。誰もが羨む秘蔵の酒を味わえる機会とあっては、盛り上がらない呑兵衛などいはしない。
「越後の人達は酒蔵の中を想像できないでしょうから、まず双方の代表者を選出して下さい。実際に蔵の中身をお見せします」
話し合いの末に、尾張からは慶次と長可が、越後からは景勝と兼続が選ばれた。静子は四人を伴って酒蔵まで赴き、鍵を開けると閉ざされた扉を開け放った。
「おいおい、こいつは尾張大吟醸だぜ。しかも二年前って言やあ、大当たりって言われた奴じゃねぇか!」
「こっちにも凄いのがあるぞ! 帝に献上される御用酒と一緒に仕込まれた樽だ! 選に漏れたとは言え、天下一品のお墨付きだぜ!」
慶次と長可が目を輝かせて、酒樽に貼られた表書きを確認していく。一方、彼らが何を驚いているのか判らないのが、景勝と兼続の越後組。
ただ、酒飲み仲間である慶次が目を輝かせる程度には、良い酒が並んでいるのだという事は理解出来、否が応にも期待が募る。
「まあ、お酒は飲んでみないと判らないよね。そこに試飲用の盃があるから、少し味見してご覧?」
静子は樽酒の一つを倒して『ダボ』と呼ばれる木製の栓を抜き、『呑み口』を差し込ませた。再び酒樽を立ててから、『呑み口』の栓を抜く。
試飲用の盃と言って持ち出されたのは、朱塗りの大盃であった。その大盃になみなみと注がれた酒を持って、四人が先に蔵を出て、静子が再び鍵を閉めた。
武道場の土俵際へ戻ると、皆が地面に座り込んで休憩しているところだった。静子達が戻ってきたことに気付くと、腰を下ろしていたものも立ち上がって集まってくる。
「勝利の美酒の中から一つを選んで持ってきたよ。回し飲みになっちゃうけど、参加者は並んで味見してみてね」
大盃を持っていた慶次が、まずは越後側が飲むべきだと、景勝に手渡した。
かなりの重量がある大盃を受け取った景勝は、酒杯から立ち上る芳醇な香りに陶然とする。
皆が息を飲んで見守る中、大盃に口を付けて酒を口中に流しいれた。
「おお、これは……」
口に含んで転がし、舌の上で味わい、最後に喉の奥へと嚥下する。何を言うでもなく、まずため息が漏れた。
たった一口、されど一口。彼が味わった酒は、ただの一口で彼を魅了した。どのように仕込めばそうなるのか判らないが、澄み渡っているというのに何処か濁り酒のようなトロリとした口当たりをしていた。
甘く柔らかい口当たりながら、喉を焼くような酒精の強さが体に染み渡る。喉を通った際に香る花の様な芳香は、彼の眉間の皺を和らげた。
彼の反応から、その酒がどれほどの味だったのかと喉を鳴らす。越後人たちの反応に気を良くした静子は、順繰りに大盃が回されていく様を眺めながら、再び桟敷席に酒蔵の鍵を置いた。
「さて、勝利の美酒はお気に召したかな? 賞品はこれと同等の酒が、ここに居る全員が浴びるほど呑んでも余るほどあるよ。さあ、我こそはと思う者は名乗りを上げよ!」
静子の発破に参加者が詰め掛け、団体戦の組み合わせ表はかつてない規模となっていた。
「それじゃ、双方とも怪我だけはしないように、張り切って戦いなさい」
静子はそれだけを言うと、土俵の傍を後にした。武道場から外に出た直後、背後から大歓声が聞こえた。
早速取り組みが始まったようだ。若干上杉勢に遠慮が見られたため、少し煽って見せたのだが、予想以上の効果だったなと今更ながら思う。
「まあ、気を付けていても怪我人は出るだろうね。先に医者の手配をしておこうか」
静子が様子を窺いに来た時以上の賑わいを見せる武道場に背を向け、静子は彩の居る母屋へと足を向けた。




