千五百七十五年 二月下旬
天正二年は、信長が岐阜城で新年を祝う最後の年となる。信長の安土移転計画は既に周知されており、安土城落成までの仮御殿も完成し、移転に向けた細々とした準備も滞りなく進んでいた。
何かと慌ただしい年末年始を皆が安らかに過ごせるようにと、安土への移転予定日は新年十五日頃となっていた。信長が去った後の岐阜城へは、後継者である信忠が入り、岐阜を治めることとなる。
「元日だけはゆっくりできるね」
例年元日には静子の配下も殆どが実家へと帰省する。残留する者は帰る家がないか、もしくは帰るつもりがないかのどちらかとなる。静子はここが家であり、彩は帰る家を持たない。去年までは二人きりの正月であったが、今年は四六と器が加わり、少し賑やかな雰囲気となっていた。
家人たちについても最低限の人数を残し、他は実家へと帰らせた。常時はともかく、正月の間ぐらいはゆっくり休んでほしいという、静子からの心づくしであった。
屋敷の規模に対して住人が少ないため、物音すら聞こえない中、静子は傍らに寝転がっているヴィットマン達を撫でていた。
ヴィットマンファミリーの中でも父母に当たるヴィットマンとバルティは、近頃横になっていることが多い。それもそのはず、今やヴィットマンファミリー全体が老境に達している。
ヴィットマンとバルティに関しては出生日が判らないため、年齢は推測するしかないのだが、人間で言えば八十歳以上に相当するだろうとみつおが言っていた。
ウルフドッグという種を残したためか、飼育下に置いたことで本能が薄まったのか、ヴィットマンファミリーには純血の後継者が絶えてしまった。
ここにいるファミリーが全てであり、彼らが生を終えた時、彼らの一族は潰えることになる。
「お前も、もうお爺ちゃんなんだよね。ずっと一緒に居られると思っていたけど、生物としての寿命だけはどうしようもないんだね……。その時の準備はしているけど……まだ使わせてほしくないな」
人間に限らず、老いたものと残されるものの生活は切ない。生命力が生み出す荒々しさは鳴りを潜め、ただ穏やかにひっそりと最期に向かって着実に歩んでいく。
静子の後を追いかけることをやめ、それでも静子の居場所を守って待っていてくれるヴィットマンの老いに向き合うのはつらい。しかし、いつか確実に訪れるその時を、何の準備もしないまま迎えるのではなく、最期まで安らかに過ごせるよう腐心するのが静子なりの筋の通し方であった。
ヴィットマンに続いて、カイザーやケーニッヒなど順に頭を撫でていく。流石にカイザー達、第二世代の寿命には幾分猶予があるが、それでもアーデルハイトやルッツの顔つきから精悍さが失われ、優し気な風貌になってきている。
「飼い主の宿命か……。頭では解っていたつもりだったけど、想像以上にツライね」
中学時代の友人が、生まれた時から一緒に育ってきた愛犬との別れを語っていたのを思い出す。傍にいるのが当たり前の、自分の半身とも呼べる家族が去っていく。
その時は、友人の苦悩と悲哀を理解したような気になっていたが、やはりどこか他人事だったのだろう。これほどまでに身につまされるものだとは思わなかった。
「私は、お前たちの主人として相応しい人物になれたかな?」
声に出して訊ねてみるが、当然応えは返らない。これが感傷に過ぎない事は判っているが、そう問わずにはいられなかった。
そんな静子の心情を察したのか、バルティが静子の手を舐める。彼女の体温と親愛の情が伝わってくるようだった。
「そっか……ありがとうね」
彼女は何も言わないが、ただあるがままの静子を群れのリーダーとして認めてくれているのが判った。静子は薄く笑みを浮かべると、バルティの首に手を回して抱き着いた。
普段は過剰な接触を嫌うバルティだが、この時ばかりはされるがままに体を預けてくれていた。
正月二日目以降は例年通り、慌ただしく過ぎていった。特に岐阜城では信長の転出に伴い、信長・信忠双方に挨拶出来る絶好の機会とばかりに、例年以上の長蛇の列が形成された。
挨拶に応じる信長たちが忙しいのは勿論だが、裏方を務める近侍達はまさに席をあたためる暇もない程に忙殺されていた。
「皆様がご多忙だと思い、挨拶を控えておりましたのに、ご本人が乗り込んでくるのは如何なものかと……」
「何を申す。安土へ移らば、こうして気軽に訪ねることも叶わなくなる。名残を惜しんでも罰は当たるまい」
岐阜城の喧噪を裏方から聞いていた静子は、落ち着いた頃に挨拶に伺うと文を送り、邸宅で控えていた。静子が向かえば、静子目当ての混雑が加わり、さしもの近侍衆たちも来客を捌ききれなくなる。
他の者ならばいざ知らず、充分に信長の覚えが目出度い静子は、我先に挨拶に赴く必要性が薄い。それでなくとも大変な思いをしている裏方に対して、火に油を注ぐような真似をしたくなかった。
そうして岐阜城が落ち着くのを待っていたところへ、夜が更けてからとは言え、信長本人が静子邸へと押しかけてきた。
「不用意に岐阜城を空けられては、上様の裁可を待つ裏方が困るのでは?」
「当分は挨拶尽くしで、決裁なぞ必要ない。それよりも早う『けえき』とやらを出さぬか」
思わずため息が漏れるが、既に来てしまっている以上は仕方ないと割り切り、静子はケーキ作りを再開する。
現代の品質には遠く及ばないとは言え、チョコレートが出来たのだ。幸いにも新鮮な鶏卵は売るほどあるため、卵とチョコレートだけで作れるガトーショコラを作ろうと考えていた。
静子邸のいつもの面々に対して、チョコレートケーキを作ると宣言したのを聞きつけたようなタイミングで信長が登場し、現在に至っている。
とはいえ、ケーキ作りは時間が掛かるため、信長に待って貰う間に摘まめるものも出そうと、手軽に作れるパンケーキを先んじて提供していた。
静子がチョコレートを湯煎で溶かしている間、長可が極寒の氷室でメレンゲを立てている。冷蔵庫などという便利なものはないため、歯の根が合わないような環境で卵白を混ぜ続ける必要があった。
「静子の処は、退屈とは無縁よのう」
厨に立つ静子の後姿を眺めつつ、濃姫が呟いた。追加人員は信長だけだったのだが、パンケーキの焼ける匂いに釣られてか、濃姫や市、茶々に初も現れて居座った。
流石に乳飲み子である江に与えるわけにもいかず、乳母と江のみが別室で待機することとなった。
取り急ぎ貴人分のパンケーキが焼きあがると、それぞれの膳へと載せられ運ばれていく。焼きたてのパンケーキが立てる食欲を誘う香りに、胃袋が音を立てて軽い抗議をするが無視して、粗熱をとったチョコレートに卵黄を混ぜて練っていく。
「し、し、静子! こ、ここ、これ! 出来たぞ」
そこへ折よく長可が現れ、辛うじてメレンゲと呼べそうな物体を持ってきた。礼を言いながら受け取り、長可の状態を窺えば、冷え切ったのであろう唇は紫色になっており、歯の根が合わず上手くしゃべれなくなっている。
「良くここまで仕上げてくれたね、ありがとう勝蔵君。お風呂の用意がしてあるから、行っておいで」
精糖技術も甘く、ハンドミキサーなどという気の利いた物がない状態で、キメの細かいメレンゲを作るのは至難の業だ。加熱しながら作るスイスメレンゲを利用するという選択肢もあったのだが、ふんわりとしたケーキにするためどうしてもフレンチメレンゲが欲しかった。
体を抱きかかえるようにして風呂場へ向かう長可を見送り、静子は一応ツノが立っている状態のメレンゲを数回に分けてチョコレート生地に混ぜ入れる。
メレンゲを潰さないようにサックリと混ぜ合わせると、事前に用意しておいた金型に菜種油を薄く塗ったところへ、チョコレート生地を流しいれてトントンと叩いて空気を抜いた。
「静子はこれから『けえき』を焼くようじゃ、わしらはこれを食べて待つとしよう」
信長は湯気を立てるパンケーキにたっぷりと蜂蜜をかけ、箸で器用に二つ折りに畳んで口へと運び、大きくかじり取った。
『じゅわり』と染み渡る蜂蜜と、それらをどっしり受け止めるケーキ生地の香ばしくも甘やかな味わいに、思わず頬が緩んだ。
「うまい!」
ガラス製品の副産物である重曹がたっぷりと入れられたパンケーキは、現代のそれと比べても遜色のない出来栄えであり、信長だけでなく濃姫たちも目を見開いて味わっていた。
早くも一枚を平らげた信長は、新たな一枚に別皿に盛られたクリームと柿のジャムを塗って頬張っている。甘党なのは相変わらずだなと、静子はどこか微笑まし気に眺めつつ、余熱してあった石窯へとケーキの金型を投入した。
「甘いものと一緒に飲むと、この渋い紅茶とやらも格別よの。僅かに酸味を感じるのが、かえって好ましい」
ティーカップに入った紅茶を揺らしながら市が呟いた。華奢な取っ手のついたティーカップに尻込みしていた市だが、今では優雅に使いこなしている。
「あっまーい」
「あまいー」
茶々と初は声に出しながら、瞬く間にパンケーキを平らげた。メインのチョコレートケーキに対する前座であり、大人と違って量を食べられない彼女たちのパンケーキは小さい。
早々に食べ終えてしまい、大人たちのパンケーキを物欲しそうに眺めるものの、より美味なるチョコレートケーキの登場をおとなしく待っていた。
客間の様子を窺いながら石窯の様子を見ていた静子は、取り出したチョコレートケーキに竹串を突き刺し、生焼けの生地がついてこないのを確認して微笑んだ。
チョコレートの品質の問題か、メレンゲが十分でなかったのか判らないが、やや見てくれが悪いものの本邦初のチョコレートケーキが無事に焼きあがった。
静子は金型から取り出したケーキに包丁を入れ、1ホールを八等分に切り分けた。客間に居座る貴人は5人、大役を務めた静子と長可が受け取るのは当然として、最後の一切れの行方が波乱を生みそうであった。
「……なんとも濃厚で、香り高い味わいよ」
「南蛮の言葉でガトーショコラ(フランス語でチョコレートケーキの意味)と申します」
本邦初ということで、真っ先に口をつけた信長は絶句し、しばらく間をおいて何とか感想を搾りだした。チョコレートの持つ蠱惑的な香りと、豊富な油分と糖分がもたらすパンチ力が信長を打ち据えたのだ。
信長と静子のやり取りをよそに、濃姫たちもケーキに手を付けて、その味わいに舌鼓を打っていた。茶々と初にはチョコレートの苦みが強かったのか、パンケーキ用のクリームを塗って頬張っている。
「静子や、これはもっと作れぬのか?」
材料自体は存在するが、メレンゲを作る作業が過酷であり、そう易々とは作れないと説明すると、全員の目がケーキ皿に残された最後の一切れに釘付けとなった。
静子は自ら火の粉を被りに行く愚を避け、さっさと退散したが、幸運をつかみ損ねた誰かの手によって、再び長可が氷室へ送り込まれることになったのは言うまでもない。
多忙を極める信長がわざわざ出向いたのだ、ケーキだけで満足するはずもなく、ワインやビールのほか、それに合うツマミ類までもを土産と称して持ち去っていった。
岐阜と尾張の距離だからこそ、気軽に赴くことも叶うが、安土へと移れば食は言うに及ばず、様々な生活様式に制限を受けることになる。
冷蔵や輸送技術が低いため、天下人であろうともこればかりは何ともしようのない宿命であった。
(安土城下でもケーキを作れるようにしろとか言いかねないな……)
安土に移れば信長の奔放さも鳴りを潜めるかと考えたが、何故か信長が変わらず無茶ぶりをする未来が想像できてしまい、静子は考えることをやめた。
嵐のような訪問をしのぎ切った静子であったが、天は彼女に休息を与えなかった。
「……ようやく、か」
届けられた文を読んでいた静子は、万感の思いを込めて呟いた。文には天下五剣の最後の一振り、数珠丸入手の報が記されていた。
童子切安綱、鬼丸國綱、三日月宗近、大典太光世の四振りは比較的早期に静子の許へと集まっていた。
しかし、最後の一振りである数珠丸恒次の入手は困難を極めた。何しろ数珠丸は日蓮上人の遺品であり、他の遺品と一緒に長らく身延山久遠寺に退蔵されていた。
静子が地道に積み上げた文芸保護の実績が評価され、朝廷からの働きかけもあって、この度ようやく数珠丸恒次のみが世に出されることとなった。
ここに至るまで長く険しい交渉が行われていたであろうことは想像に難くない。万難を排して結果をもぎ取った朝廷の担当者と、最終的に折れてくれた久遠寺の僧侶に静子は感謝した。
「しかし、勝蔵君が大典太光世を要らないと言うとは……慶次さんや才蔵さんも受け取ろうとしないし」
天下五剣を揃えたものの、死蔵させたのでは意味がない。資料を残した上で、現物を配下の将へと下賜しようとしたのだが、誰も受け取ろうとしなかった。
配下の将に対する対外的な褒美として、慶次と才蔵には既に天下五剣を下賜しているのだが、皆の前で下賜されたという事実だけが重要であり、慶次も才蔵も刀本体は静子邸の蔵に保管したままとなっていた。
一応所有権が移っているためか、時折本人達が手入れをしているようだが、帰省の折にも持ち帰る様子すらない。そして今回の長可に至っては、そもそも下賜するというポーズすら不要だと言い切った。
よって三日月宗近のみ、普段から足満が所有しているのだが、他の四振り及び大包平という名刀を、刀を振るうことのない静子が所蔵することになってしまった。
足満自身は静子が望めば、三日月宗近を譲る気でいたのだが、静子としても実用品を死蔵させるのは忸怩たる思いがあるため、引き続き足満に管理してもらうこととした。
「まあ、良いか。歴史的資料の散逸が防げただけでも良しとしよう。それよりも、領地からの陳情が……」
「しずこぉ!」
陳情書を確認しようと、静子が文机に手を伸ばした瞬間、部屋を隔てる襖が乱暴に開かれた。このような狼藉をするものは、屋敷の中でも数人しかおらず、自ずと犯人は知れた。
「しごとをしてはならぬのじゃ。おじうえがそうおっしゃっていた!」
得意満面といった様子で胸を張るのは茶々であった。仕事人間の静子に対して外交を取り上げた程度で休むようなら苦労はない。そう考えた信長が、静子のお目付け役として茶々を抜擢した。
敬愛する伯父の信長から大役を仰せつかったことと、茶々自身が静子に構って貰えることを楽しんでいることが災いし、静子が仕事をしようとすると、どこからともなく茶々が現れるのだった。
子供であるため集中力が長続きしないという欠点はあるものの、天性の勘の良さを発揮してタイミング良く邪魔をしに現れる茶々に、さすがの静子も手を焼いていた。
「これは仕事じゃないよ。お手紙を読んでいるだけ」
「ならぬ! そのかおはうそをついているかおじゃ」
思わず目が泳いでしまう静子を見とがめた茶々は、静子の言葉を嘘だと断じた。
「それはさておき、茶々様。今の時間は座学のはずでは?」
義務教育の有用性を身をもって示した静子だけに、静子邸に滞在する一定年齢の人間は漏れなく教育が施される。本来ならば同年代の子供らと机を並べて勉学に励んでいるはずの時間であり、茶々がここにいることはサボタージュを意味する。
「べんきょうよりもおやくめがだいじ!」
静子の指摘に茶々は目を逸らして嘯いた。目を見て話さないのは疚しいところがある証拠、二人セットの初がいないことも考慮すると、一人だけ逃げ出してきたのだと推測できた。
「茶々様、このような場所におられたのですね」
感情の起伏が感じられない冷ややかな声とともに、突然伸びてきた手が茶々の襟首を掴んだ。
「うわっ! はいごからとはひきょうだぞ!」
「何を申されようが勉強を受けていただきます」
「はーなーせー!」
見事な手腕で茶々を拘束した彩は、茶々の抵抗を無視して彼女を引きずって去っていった。茶々の声は徐々に遠ざかっていき、廊下の角を曲がった辺りでぷっつりと聞こえなくなった。
「……陳情書、読もうかな」
一連の事件をなかったことにした静子は、文机に置かれた書類箱に手を伸ばし、一番上に置かれた陳情書を取り上げた。
一月下旬となり、信長は安土の仮御殿へと本拠を移した。空いた岐阜城へは信忠が入城し、信長の安土移転を知った人々は、遂に本願寺との決着を付けるつもりだなどと噂をしていた。
本願寺にとって、所詮は噂よと捨て置けるような状況では無かった。本願寺に残された戦力は紀伊門徒衆だけであり、他には西国に毛利などの協力者を残すのみとなる。
東国に根を張った門徒衆は、今となっては見る影もなく、到底戦力として期待できるものでは無かった。甲斐の武田や、東国の雄である北条に助けを求めようにも、間を遮る形で静子を擁する信忠が居座っている。
東国からの支援という片腕をもがれた形で、信長と対峙しなければならないという事実が、本願寺首脳部の頭を悩ませていた。
「我らは滅びの瀬戸際に立っております」
本願寺で開催された対信長の軍議の場に於いて、頼廉は現状をこう評した。弱気な姿勢だと皆は口々に非難したが、頼廉に一睨みされると口を閉ざした。
「皆も良く考えて頂きたい。我らは今まで全国に散らばった門徒衆に決起を促し、多くの兵力を動員出来た。しかし、織田の手によって各地の門徒衆は鎮圧され、今や本願寺門徒を名乗ることが憚られる状態となった。一大拠点であった長島も加賀をも奪われ、地を追われた門徒衆が難民となって押し寄せ、今日の我らの窮状を作り出している。一方の織田は、それらの生産基盤を併呑して勢いをました。さりとて紀伊門徒衆だけでは織田を挫くことなど敵わぬ上、多くの難民を抱える我らは、座していても死を待つのみというのが現状」
「しかし、飢えた信徒を見捨てる訳には……」
「我々に残された選択肢は二つ。一つは全てを投げ打ち、織田を討つ徹底抗戦。もう一つは敗北を受け入れ、帝を介して調停を申し入れる。組織としての本願寺は潰えるが、宗教としては存続できよう、我らは解散させられ、石山本願寺の明け渡しを迫られ——」
「ならぬ!」
頼廉が石山本願寺の明け渡しに言及した瞬間、とある人物がそれを遮って怒声を上げた。
声の主の名は教如。本願寺法主である顕如の長男にして、織田との徹底抗戦を唱える急先鋒であった。彼と彼を支持する一派は、強硬に徹底抗戦を主張していた。
これが後に、本願寺を東西に割る悲劇を生むことになる。
「一向宗の一向とは一意専心。行く道を曲げて、何が一向衆か! 進まば極楽往生、退けば無限地獄に落ちようぞ。我らに降伏という選択肢はない!」
いつものように軍議が消極的になろうとしたところへ、教如が発破を掛けた。織田との一時和睦にすら難色を示す彼らは、実質的な敗北を受け入れる調停案など呑めるはずがなかった。
しかし、現状を正しく認識している者にとっては、彼らの主張は誇大妄想の域にしか見えなかった。
「では、お尋ねします。如何にして織田を打倒するのですか?」
「我らが信心を捨てぬ限り、御仏は必ずや本願へと導いて下さる! 心折れぬ限り、我らに負けはない!」
「……それで往生出来たとしても、現世に残るのは屍の山でしょう。我らが門徒を失う度に、我らの力は弱まります。我らが弱れば織田だけでなく、他の寺社どもまでが敵に回りましょうぞ」
頼廉の指摘に教如は言葉を無くした。本願寺の敵は織田だけに限らない。今まで本願寺が虐げてきた寺社勢力が、反逆の機会を虎視眈々と狙っていた。
本願寺が勢力を失えば、寺社勢力は織田に迎合し、一向宗を徹底的に潰さんと敵対する可能性すらあった。
それ故に頼廉は、窮地にある今こそ慎重を期するべきだと主張していた。ここからは一歩間違うだけで、今までの協力者までが我が身可愛さから、織田へと寝返ることになる。
「しかし、本願寺を失っては、教義に殉じた者への面目が立たぬ」
尚も食い下がる教如だが、頼廉は既にいくさの落としどころを考えていたため、彼の耳には届かなかった。
「現状で決断できぬというのであれば、私が一つ判断材料を増やしましょう」
「一体何を?」
「私自らがとある人物と会い、我らの行く末を占う情報を持ち帰りましょう。それを以て、尚も徹底抗戦するか、名を捨ててでも実を取り、生き延びる道を模索するかをご判断願いたい」
「とある人物とは?」
教如が息を飲んで訊ねると、頼廉は一拍おいて答えを口にした。
「織田が懐刀と恃む者。織田殿の最大の理解者にして、武田敗北の立役者。五摂家筆頭近衛家が娘、静子です」
「なっ!」
静まり返った軍議の場が俄かに喧噪に沸いた。静子と言えば織田家の重臣であり、本願寺が呼びかけた織田包囲網の要たる武田軍を壊滅させた怨敵であった。
今も尚、本願寺を経済的に追い詰めつつある首魁。信長と表裏を成す、織田家の顔となる人物であった。その静子と直接会うと、頼廉は宣言したのだ。
これには、いつも冷静な顕如も驚愕し、頼廉の目をじっと見つめる。
「無論、面会が叶うとは限りませぬ。よしんば面会が叶ったとて、その前後で敵の罠に掛かり命を落とすやもしれませぬ。しかし、それを以て織田の悪行とし、本願寺の大義を喧伝出来ましょう」
「織田は配下が勝手にやったことと、言い逃れをするやもしれぬぞ」
「それは出来ませぬ。静子は織田家に深く根を張った大樹。それを我が身可愛さに切り倒せば、織田の屋台骨が揺らぎます。本願寺の重臣である私が命を懸けるだけで、他ならぬ織田が万難を排して私を守らねばならず、会談を終えるまで織田は動きを止めざるを得なくなる。会談が成って情報を得られれば、今後の判断材料が増える。どちらに転んだとて、我らに損はありません」
「むぅ……」
教如は頼廉が語る策を聞いて思わず唸った。頼廉が単独で直接敵陣へ乗り込み、そこで得た情報を以て再度方針を決める。そこまでして持ち帰った情報を軽々に扱うことなど出来ず、軍議は必ずや降伏へと流れるだろう。
頼廉は本願寺を捨て、武装勢力としての本願寺を解散してでも、宗教としての一向宗を残す腹積もりなのだ。そう教如は確信した。
(そうはさせん! 拠点としての本願寺を失えば、求心力を失って組織を保てなくなる)
「無論、こちらが会いたいと望んで、すぐに会える相手ではございませぬ。その手筈を整える間、静子に何を問い、何を告げるかを相談いたしましょう」
本心は最初から決めておる癖に、白々しい事をと教如は心の中で吐き捨てた。
二月に入り、織田家からの養子である四六や器を受け入れた静子の生活も落ち着きを見せる。外交を禁じられたとは言え、領主である以上は領地運営に関する仕事が発生し、静子でなければ判断できない事案も溜まってきた。
静子に休息を取らせるため、家臣達で極力作業を代行していたが、ついに静子が現場復帰せざるを得なくなった。
仕事を再開すれば、公の時間が多くなり、覿面に四六や器と接する時間が削られる。しかし、四六や器が何不自由なく暮らすためにも、仕事を疎かにするわけにはいかない。
仕事と家庭の板挟みとなり苦悩する父親の気分を味わいつつある静子であった。
「……よし、これで良いでしょう」
午前一杯を使って、溜まっていた決裁文書を片付け終えると、自室で簡単な昼餉を取った。流し込むようにして食べ終えると、服装を改めて応接間へと向かう。
「ただいま戻りましてございます」
「ご苦労様です。早速ですが報告をお願いします」
応接間では、長らく東国へ情報取集に向かっていた真田昌幸が待っていた。現在、静子配下の将たちは、才蔵を残して全て出払っている。
長可は信長の命を受け、近江一円の治安維持活動に駆り出され、慶次は手隙となっている静子の領内を一人で見回っていた。高虎は相変わらず安土城築城のため、黒鍬衆を率いて近江に留まり、足満は西国への諜報活動と上杉家に対する顔つなぎとして忙しく立ち回っていた。
驚くべきことに長可以外の全員が、静子が命じての行動ではなく、自発的に行動指針を定め、静子の許可を受けて動いていた。
それ故に、いくら静子の身辺を探ったところで、各地に散らばった将たちの思惑は掴めない。
「やはり尾張と美濃の影響範囲外の市場は、縮小傾向にありますか……」
「はい。三河は節約気味で済みますが、以東の市場は物流自体が減り、緊縮状態にあります」
静子は昌幸に東国に位置する各市場の調査を命じていた。その結果として、各国の市場規模が徐々に縮小していっていることが判明した。
これが意味するところは二つ。一つは長く続いたいくさによって、働き盛りの男手が失われ、物資の生産力及び購買能力自体が落ちたこと。
もう一つは、各国ともに経済状況が悪化し、市場へ回せる金が枯渇しつつあるということだ。これは戦時統制による緊縮財政をとりつつ、次なるいくさの準備をしているとも考えられるが、昌幸の調査によると軍需物資の流通自体が減っているため、本当に余裕がないのだということが窺えた。
市場から金が失われれば、商売は成立しなくなり、そもそも市が立たなくなる。市が立たないのであれば、利に敏い商人たちがわざわざ危険を冒してまで足を伸ばす筈がない。
沈みゆく船から鼠が逃げ出すように、先を争うように撤退し、以降は寄り付かなくなってしまっていた。
「真田殿には引き続き調査をお願いします。次はもう一歩踏み込んで、民草の生活がどのようになっているか調べて下さい」
「ははっ」
「それから任務にあたった間者には、十分な休息をとらせるようにしてください。疲労を残して判断力が落ち、ボロを出して足がついても困ります」
「はっ。仰せのままに」
報告を終え、次なる任務を受けた昌幸は応接間から退出する。そして入れ替わるかのように、足満が応接間へ姿を見せた。狙いすましたかのようなタイミングに静子は驚くが、そのまま応じることにした。
「まずはご苦労様でした。それで、何か手がかりは掴めましたか?」
「本願寺に動きがあった。顕如は未だ方針を決定してはおらぬが、下間頼廉を筆頭とする降伏派と、教如が主導する抗戦派が対立をしている。そして軍議の場で、頼廉が面白い話をしたそうだ」
「面白い話とは?」
静子は首を傾げて足満に問い返す。足満は小さく笑みを浮かべて応えた。
「静子、お前と会見して今後の方針を決定するようだ」
「ふーん……え? はい!?」
静子は一瞬聞き流しそうなり、慌てて足満に近寄ると、声を落として耳打ちする。
「私は外交を禁じられているから、そもそも会う会わないの判断ができないよ。第一、政治から遠ざかっている私に会ってどうしようっていうの?」
「さてな。奴ならぬわしには判らぬが、奴には貴様と会うことによって得るものがあると踏んだのやもしれぬ。もしくは静子と会うということ自体が目的であるという見方もある」
「ああ! 私と会談をすること自体を政治的駆け引きに利用するつもりか、迷惑な話だなあ……」
足満の言葉を受け、しばし宙を睨んだまま考え込んでいた静子だが、相手の狙いを理解して嘆息した。相手の内情はわからずとも、相手の立場と目指すところが判れば、その思惑は自ずと透けて見える。
「つまり頼廉は、勝ち目のないいくさを継続するよりも、早期に降伏して生き残りを図っているんだね」
頼廉は己の胸の裡を読まれているなどとは夢にも思わないだろうが、静子を女だと侮ってはならない。
静子は現代に於いて歴女(歴史好きの女性)に分類される。『歴史は繰り返す』という言葉があるように、長期的視点で歴史を俯瞰すると度々似たような出来事が繰り返されているのが判る。
日本はおろか、世界の歴史についても体系化した知識として身に着けているのだ。類似の事例から相手の狙いを推測するなど容易いことであった。
静子の読みでは、頼廉の狙いは講和にある。彼は既に織田を敵対者とみておらず、本願寺内部の抗戦派を切り崩すことを主眼に置いているだろう。
ゆえに頼廉は静子との会談が成功しようがしまいが、講和への道筋をつけるべく行動すると思われる。教如をはじめとする抗戦派にとって不利な状況での講和は受け入れがたいが、頼廉はこれ以上状況が改善することはないと判断していた。
如何に織田家とて、本願寺程の巨大宗教組織を完全に根絶やしにする事など出来はしない。信心は個々人の内心の問題であるため、如何に信長とて踏み込むことの出来ない領分だ。
故に宗教組織との対立は長く続く、そしてそれ故に講和に条件を取り付けることも可能となる。本願寺側が信徒を纏めつつ、武装解除に至るのが最も穏便かつ、理想的な終戦方法となるからだ。
ここにこそ頼廉の活路が存在した。たとえ教如達抗戦派と対立し、宗派を二つに割って相争うことになったとしても、どちらか片方だけでも生き残る道を選ぶ。
それはかつての同胞から裏切り者と罵られ、仮に講和が出来たとしても誰からも褒められない修羅の道であった。頼廉はそれらを覚悟した上で、静子との会談に挑もうとしていた。
「私が頼廉に会わなければいくさが長引き、会えば政治の駆け引きに巻き込まれる。会談前に頼廉の身に何かあれば、我々が痛くもない腹を探られるため、内部抗争の凶刃から頼廉を守らなければならないか……」
全く以て嫌らしい策を講じてくれる。どう転んでも頼廉は自らの命以上に失うものはないが、賭けに勝てば相応以上の成果を引き出せてしまう。
「いくら私でも、流石に不愉快だね。本願寺に利用されるのも癪に障るし、ここは第三の選択肢を選ばせる必要があるね」
静子が笑いながら語ると、足満は任せろと言わんばかりに頷いた。
暦は二月に入った。信長が安土へと居を移して一月が経とうとしていたが、表面上は何事もなく過ぎていった。本願寺も頼廉の行動を見守るつもりなのか、朝廷経由で静子との会談の打診が届き、信長の判断を待つ状態となった。
信長自身は第三次織田包囲網が形成されないよう、方々の力関係を調整しながらお膝元である安土の整備に力を入れていた。
二月下旬になると、信長は朝廷より正三位の位と、右近衛大将の職を賜った。
信長は遠からず従二位に叙せられ、内大臣を兼務することになるだろうと朝廷内でまことしやかに噂されていた。
時を同じくして仁比売が従三位に叙せられ、静子も精勤が評価され従三位を賜ることになった。
仁比売には併せて権中納言に任ぜられたが、静子には官職が与えられなかった。
「朝廷が両天秤に掛けて、双方から利益を引き出そうとしているのかな?」
静子は信長から送られてきた朱印状を眺めて呟いた。
未だ公の場に姿を見せない仁比売だが、信長の手により折に触れては帝との文のやり取りが続けられているとのことだった。
そろそろそのような人物はいないと露見するのではないかと、静子は危ぶんでいた。
(まあ露見しそうになったら病死したことにして、盛大に荼毘に付して誤魔化すんだろうな……)
元々病弱で、外にも出られぬ設定の仁比売である、急逝したとしても不思議に思われることは無い。
後見人である信長が葬儀を執り行えば、これに異を唱えられるものなどいはしない。
「さてさて、そろそろ領主のお仕事をしないとね。尾張だけじゃなく、奇妙様の美濃の面倒も見ないといけないから大変だ」
信長から美濃を引き継いだ信忠は、静子に美濃の仕置き(領主としての統治全般)を命じた。信忠の直臣達にとっても寝耳に水の出来事だったようであり、揃って信忠に命を覆すよう諫言した。
しかし、信忠は彼らの諫言を聞き入れず、彼らに向かって語ってみせた。
「何か勘違いをしているようだが、わしは静子に美濃の国主となれと命じた訳ではない。わしは今まで実務に携わってこなかったゆえ、美濃の事情に通じておらぬ。それでなくとも父上からの引継ぎで現場は混乱しておろう、ならばこそ従来のやり方を心得ているものに助力を請うのは当然のこと。皆の言い分も判るが、静子抜きで美濃や尾張を回すことなど夢物語に過ぎぬ。先達のやり方を間近で学べる機会をふいにしてまで、静子以上に自領を繁栄させ得る手立てがあるなら申して見よ」
あくまで静子は水先案内人であり、最終的な判断は全て信忠が行う。場合によっては外交の場にも同行させることもあり得るが、それはあくまでも信長や信忠の名代とすると言い切った。
主君にこうまで言われては、家臣としては従う他なかった。静子自身としても野心とは無縁の性格であり、勝手に動くつもりなどサラサラないのは言うまでもない。
「滞らせることが出来ない大事業は愛知用水と木曽三川の整備かな?」
愛知用水は知多半島全土を潤す上下水道用の用水だ。その用途は農業だけに限らず、工業や商業まで幅広く見積もられている。事業に着手して既に数年が経過したが、まだまだ見果てぬ夢と言った状態だった。
それでも天下人の行う一大公共事業であり、今後の莫大な利益が見込めるとあれば、資金力のある有力者は挙ってこの事業に投資した。
工事自体の基礎的な技術は実証されており、後は単純に労力を必要とするだけであるため、安定した利益が見込める事業となっていた。
問題となっているのは木曽三川の整備であった。木曽川と長良川、そして揖斐川の三川は下流部で複雑に絡み合っており、流量に対して川底が浅いため度々水害を起こしていた。
上流部や中流域に貯水池を設けようとも、抜本的な解決を図らない限り、水害の根絶は叶わない。
「まあ、流域全土が織田家の支配下に収まっているのは評価できるかな」
史実では治水技術の未熟さからくる工事自体の難易度に加え、各地域を治める領主の利害が対立し、水利を巡って争ったため治水対策は遅々として進まなかった。
しかし、今や美濃、尾張、伊勢と流域の大部分を占める三国の利害が一致しており、信長というカリスマの号令一下、皆が一丸となって治水対策に取り組んでいた。
美濃や尾張の利点としては、安定した事業用水が確保できること、洪水による被害を軽減できることが挙げられる。残す伊勢が受ける利益としては、商工業の中心地である尾張との陸路が開通することが大きかった。
この一点に於いてだけでも、北伊勢が木曽三川に対する治水工事を推進するには十分であった。現状では木曽三川の下流域を渡河するのは難しく、直線距離では尾張に近いというのにその恩恵に与れないでいた。
実際に信長も伊勢侵攻の際に、最短距離を取らずに一度美濃へ出て大回りして伊勢へ向かうルートを選択している。
海路を使えば尾張とも交易出来るとは言え、陸路が使えないようでは交通の要衝とはなり得ない。尾張に端を発した隆盛の波に取り残されないためには、是が非でも尾張から伊勢への大動脈を通す必要があった。
「皆が目的に向かって邁進しているって言うのに、兄弟喧嘩に巻き込まれて災難だったよ……」
静子は図らずとも信長の直系兄弟の確執に巻き込まれることとなった。