千五百七十四年 十二月下旬
信長と加賀一向宗との確執は、歴史を大幅に繰り上げる形で決着が着いた。言うまでもなく織田方の圧勝であり、北陸地方の勢力図が塗り替わることとなった。
このいくさに途中参戦した上杉謙信は軍神の名に恥じぬ活躍を見せ、瞬く間に本願寺勢を駆逐すると、能登国を支配下に置いた。
戦後処理に手を焼いていた柴田は、謙信に一歩遅れながらも加賀国を支配下に置く。これらを以て北陸征伐は為り、両者がそれぞれに支配力を強めていくことになる。
結果的に謙信の領土が拡大することになったが、信長はこれを問題視していなかった。それよりも東国から本願寺勢を放逐できたことを由とした。
「加賀一向宗征伐、まことに大儀であった」
信長は柴田をはじめ、加賀一向宗征伐に参戦した武将たちへ感状と褒美を下賜した。
唐物の茶器こそ与えられなかったが、柴田は茶会を主催することを許され、大いに面目を保つことが出来た。
逆に本願寺は存亡の危機に立たされていた。加賀一向宗を失ったことで、長い年月をかけて東国に築いてきた橋頭保が崩壊したのだ。
本願寺が呼びかけた織田包囲網に大穴が開き、反織田を掲げた同盟は、この時点を以て瓦解した。残った反織田勢力が個別に抗うことは可能だが、組織的な抵抗とはならず、勢いに乗っている織田相手では成果を望めなかった。
現時点では織田と和睦を結んでいる本願寺だが、その旗色は芳しくない。隆盛を誇る織田家の経済力に圧され、本願寺の経済活動は縮小の一途をたどっていた。
朝廷への影響力についても、近衛前久が関白就任して以降は顧みられることが無かった。
今もなお本願寺に与している者たちは、主流派になれず排斥された烏合の衆に過ぎない。
ことがここに至っては、本願寺に残された選択肢は少ない。
信長が唱える方針と相容れない以上、本願寺は持てる全てを投じて信長に抗うか、主義主張を曲げてでも生き延びる道を模索すべく降伏するしかない。
「ふぃー、これで一通り済んだかな?」
静子は首と肩を回しつつ、事務仕事で凝った体をほぐす。織田家は加賀平定に沸いているが、静子は後方支援こそしたものの直接参戦していないため何処か他人事であった。
その為、信長からの感状が贈られることもないが、そのことに不満を覚える訳もなく、束の間の平穏を満喫しながら溜まった仕事を片付けていた。
定型的な事務作業は彩達に任せることが出来るようになってきたため、静子がすべきことは専ら判断と意思決定が必要な事に限られる。
その最たるものが文への返信であった。
現代ならばメールどころかメッセンジャーアプリからの一言で済んでしまうような用件にも、形式を重んじた文をしたため、莫大な費用を掛けて運送する必要がある。
静子の地位向上に伴い、付き合いや挨拶の重要性が増し、年の暮れともなればお歳暮の準備に追われることとなる。
付き合いの範囲が狭いうちは、直接静子が出向き挨拶も出来たのだが、今となっては望むべくもない。
名代を立て、不義理を詫びる文とともにお歳暮を届けるよう手配する。
名代と言っても相手の家格に応じた人選が求められるため、スケジュール調整に難航し、今しがた作業から解放されたという経緯があった。
「年末年始の準備も始めなきゃね」
細々とした仕事に忙殺される日々を過ごしている静子に、信長からの呼び出しが届いた。年明け以降の安土移転に関することかなと思いつつ、静子は信長のいる岐阜へと向かった。
「養子縁組……ですか? 何とも急なお話ですね。それで、どちらと縁組なされるのでしょうか?」
密談用の茶室ではなく、人払いこそされているものの、城内の謁見の間にて会談をしていた。
信長が突然切り出した養子縁組の話題を聞いて、静子は信長の子をどこかの家へ後継ぎとして養子に出すのだと考えた。
珍しく察しの悪い静子の様子に、信長は微妙な表情を浮かべながらため息を零した。
「わしの子をお前に養子として出す、そう言っておるのだ」
「はあ、それはそれは……えっ!?」
あくまでも他人事と聞き流していた静子は、信長から当事者だと告げられ素っ頓狂な声を上げる。慌てて居住まいを正すと、猛烈な速度で思考を巡らせ始めた。
信長が重大事を突然告げるのはいつものことだが、今回のことは内々で済ませられるような事ではない。
「貴様自身を何処の馬の骨とも知れぬ輩に娶らせる訳にはいかぬ。さりとて領主の後継ぎが不在では、民も不安を覚えるであろうし、何よりも良からぬことを企む輩が現れかねん」
「……まあ、確かにそうですね」
静子の感覚ではそろそろ結婚を意識する年頃だが、平均寿命の短い戦国時代では既に年増に分類される。
この時代、有力者の子女ならば早ければ十歳未満から、遅くとも十代後半ともなれば配偶者を得ている。
二十歳を過ぎても未婚のままというのは、仏門に帰依して出家したのでもなければあり得ないことであった。
未だ内示の段階とは言え、ゆくゆくは尾張を担う領主に後継ぎがいないとなれば、お家騒動の火種となりかねない。
「それに貴様に釣り合う男がおらぬ。今や貴様は五摂家筆頭である近衛家の姫。そして織田家に於いても並ぶもののない出世頭よ、貴様が男ではないためサルめが一番の出世頭ということになっておるがな。貴様の立ち位置は配下の将では留まらぬ。国の礎となり、不可欠の存在となってしもうた。生半可な者では、貴様の負う重責を分かつことすら出来ぬ」
「それで上様のお子を養子にと、そういうお話でしょうか?」
「そうだ。しかし、世継ぎが出来たとなれば家中の者も、貴様を見る目が変わってこよう」
信長の言葉に静子が首肯する。静子は女であり、いつになっても世継ぎをつくらないため、出世争いの障害と見做されてこなかった。
しかし、ここに来て主家たる信長の子を後継ぎとして得たとなれば、周囲の認識は変わってくる。
待っていれば潰えてくれる一代限りの立役者から、世襲によって織田家の重臣の地位を占有し得る障害へと。
「それゆえ、貴様に預ける子は『訳あり』じゃ……」
静子の後継ぎが『訳あり』でさえあれば、静子の存命中は無理でも、静子さえいなくなればどうとでも潰せる。周囲にそう思わせてバランスを取る必要があった。
「補佐として可成を付ける。奴ならば不足はなかろう」
「不足どころか、大人物すぎるのですが……宜しいのですか? その……」
「功臣を閑職へ追いやっているように見えるか? わしはそもそも風評を気にせぬし、可成についても心配いらぬ。この話を持ち掛けたら、奴は『功遂げ、身退くは、天の道なり(功を遂げたら後進に道を譲るのが正しい生き方である)』と老子の言葉を用いて言い放ちおったわ。老いた身でなお、後進の育成に関われるのなら、これに勝ることはないとな」
「ご本人たちが納得済みならば構いません。それで、『訳あり』とは?」
信長に子の事を訊ねると、珍しく眉根を寄せて難しい表情を浮かべる。心中で様々な葛藤が渦巻いているのか、らしくもなく言葉を濁した。
「……双子だ」
それでもようよう吐き出した言葉で、静子はおおよその事情を察した。
出産自体が難事の戦国時代に於いて、一回の妊娠で授かる赤子は一人というのが常識であった。
それゆえ、双子や三つ子は異常な事態であり、往々にして母子ともに死に至るため忌み嫌われた。
地域によっては、犬や猫のように一度に沢山の子を為す『畜生腹』と蔑まれ、無事に生まれたとしても赤子を『処分』することは珍しくなかった。
しかし、荒事が生業の武家に於いて、信長の血を引く直系は重要であり、後継者争の種とならない万が一の備えとして今日まで生き永らえさせられていたのだろう。
「事情は理解しました」
信長が静子に双子を託す理由。それは信長自身、頑なに言葉に出そうとしないが、織田家に置き留める限り不遇な立場で飼い殺しとなる我が子への愛情だと察した。
かつて静子は、鶴姫懐妊の際に当時の出産に関する常識を完膚なきまでに破壊した。
妊娠のメカニズムは言うに及ばず、子を為し易い日の法則についても公開し、織田家内の秘中として扱われている。
織田家家中の後継ぎに悩む家へは、静子に学んだ濃姫付きの侍女が派遣され、それによって子を授かったという話は有名になっている。
数々の因習を過去のものとしてきた静子が、双子を見事育て上げれば、双子に対する周囲の目も変わるのではないかと、信長が期待するのも無理はない。
「仔細については可成から聞け」
それだけ告げると、信長は謁見の間を後にした。残された静子は、蘭丸に案内されるまま可成が控える一室へと向かう。
「事情については上様から話があったかと思う。改めて紹介しよう、男が四六、女が器と申す」
可成は静子に養子となる双子を紹介すると、彼自身の口から詳細な事情を説明し始めた。
その際に二人の名前について語られることになったのだが、男の方は朝方の四時から六時の間に生まれたため四六と名付けられ、女の方は取り上げられた直後に男児が産湯に浸かる間、隣の桶に入れられたことから器と名付けたそうだ。
何とも場当たり的なネーミングだと呆れるが、信長の子供は往々にしてそのような名前が付けられている。
「生みの親じゃないけれど、今日から貴方達の母親になります。よろしくね」
静子の言葉を受けて、双子は揃って礼儀正しく頭を下げた。二人の歳は数えで十四、満年齢だと十三歳である。しかし、静子の目には年齢よりも随分と小さく見えた。
因みに彼らを産んだ母は、産後の肥立ちが悪く、治療の甲斐なく亡くなっている。
戦国時代のならいでは、双子は縁起が悪いとされ、片方のみを養子に出すか、双方を始末するかが常識だ。
しかし、今回は信長自身の強い意向により、特例的に二人ともを静子の養子とすることとなった。
『縁起の良し悪しなど静子には関係ない。母を亡くした上に腫物扱いされ、子らは必要以上に苦を受けた。他ならぬ静子が構わぬと言うのに、そのような理由で引き離すのか?』
双子は縁起が悪く、功臣である静子には相応しくないと信長に進言する者もいたが、彼は意外に人情じみた言葉で退けた。
これを目にした家臣達は、遂に静子も不興を買ったのかと判断するものもいれば、今まで以上に重用される兆しだと見るものもいた。
そう言った憶測を抜きにしても、唯一つ確実なこととして、二人に流れる信長という覇王の血が、静子に託されることとなる。
「それで、私は具体的に何をすれば宜しいでしょう?」
「上様は『静子の好きなようにさせよ』と仰せです。ゆえに、静子殿はご自身が思われる母として振る舞われよ。武家のならいに疎いことは存じておりますゆえ、足りぬところはわしが補いましょうぞ。老いた身には子守に徹するのが相応でしょうな、はっはっは」
「いえ、森様を子守扱いなど……とてもとても……」
自身を老人と称する可成だが、彼を前にして『老いた』などという言葉を吐けるのは、信長をおいて他には居ない。
何しろ現役の慶次でさえ『昔も恐ろしかったが、今の方がより恐ろしい』と言い、才蔵は『抜き身の刀のようだった武威は鳴りを潜めたが、剃刀のような鋭利さを感じる』と言う。息子の長可に至っては『届いたと思った背が、再び遠ざかった』と称した。
三者三様の評価だが、共通しているのは『可成は、今の方が恐ろしい』であった。
「母として、ですか」
静子は可成の言葉を反芻しながら双子へと目をやった。身なりは整えられているものの、如何にも付け焼刃であり、普段から粗略に扱われていることが窺えた。
信長が放任主義なのを良い事に、縁起も悪く、ほぼ間違いなく世継ぎとならない双子に対して、乳母が杜撰な対応をしていたのであろう。そう考えると、今まで世話を担当していた乳母の姿が見えず、可成だけを伴っていることにも納得がいった。
「それで、二人の乳母はどうなりましたか?」
静子が訊ねると、可成は二人に聞こえないように静子に身を寄せて耳打ちした。
「乳母は、双子にしてきたことを己の身で味わっておる」
そう言って差し出された文には、乳母に下された処置が記されていた。双子に付いていた乳母は、今で言うネグレクト(育児放棄)をしていた。
二人に対して極めて威圧的に振る舞い、外部に対する最低限の体裁を整える以外は一切の世話を拒否した。話しかけられても応えることは無く、手を焼かせれば暴力で応じた。
与えられる食事も最低限であり、比較的豊かな尾張にあって二人の発育状況が思わしくないのは、そこに原因があるのではと思われた。
幾ら忌み子とは言え、乳母如きが信長の子をぞんざいに扱って良いわけがない。乳母の行状が発覚した際に、信長が物理的に首を飛ばそうとしたところへ、可成が待ったをかけた。
「子らに与えた苦痛を思えば、楽に死なせるなどの慈悲は無用。二人にしたことを、同じ年月だけその身に刻んでやることこそが罰になりましょう」
可成の進言を受け、信長が下した判決は『十四年の幽閉』であった。二人の乳母は、誰にも顧みられることのない地下へ追いやられ、恒常的に暴力を振るわれる生活を余儀なくされた。
刑罰は始まったばかりだが、既に乳母の目からは光が消えつつあると文は結ばれていた。
「取りあえず、お風呂にしましょう!」
凄惨かつ苛烈な処置に戦慄し、眩暈のする頭を振りながら、気分を一新するべく静子は入浴を提案した。
双子を連れて邸宅へ戻ると、静子は風呂の用意を命じた。併せて二人の衣装を見繕うよう、蕭に依頼すると、静子自身が器を伴って風呂場へと直行した。
「はい、少し沁みるから目を閉じてねー」
器の頭を洗ってやりつつ、静子は注意を促す。異性である四六の入浴については、同じ年ごろの小姓たちに任せてある。
十三歳ともなればとうに思春期を迎えており、女である自分に体を洗われることを嫌がるだろうと思ったからだ。
一緒に入浴して判ったのだが、器は静子の指示に盲目的に従った。一言も声を発さず、ただ只管に身を任せる。
遠慮しているのかとも考えたが、どんな指示にも躊躇なく従うところから、そのような様子ではないと知れた。
体を綺麗に洗い上げる頃には、多少打ち解けてくれるかなという淡い期待を抱いていたが、見事に打ち砕かれることになった。
「ふぃー。お風呂は良いね。一日の疲れが流れていくようだよ」
先に器を湯船に浸からせると、静子も体を洗ってから湯に入る。
本来であれば静子には山積する程の仕事があるのだが、子供を託すのと同時に信長が、静子への挨拶など儀礼的なもの一切を引き受けてくれたため、彼女の負担は一気に軽くなった。
降って湧いたような休暇に戸惑う静子だが、信長は最初からこの時期を狙っていた。
何しろ冬場は農閑期であり、外交を制限してしまえば静子自身が手掛けなければならない仕事はない。
子育てに専念せよという大義名分の下に、ワーカホリックな静子へ強制的に休暇を取らせる一石二鳥の策であった。
(現場から手を引く代わりに、研究開発費を倍にして下さいって言ったら通ったし……そんなに働き詰めって印象はないんだけどなあ)
今までから働き過ぎだと言われていたが、一向に改善の兆しが見えない静子に業を煮やした信長の措置だが、静子自身には働き過ぎだという自覚はなかった。
確かに毎日何かしらやることに追われていたが、それでも静子基準では適度に休みを取っているし、睡眠も充分に取っていた。
しかし、夜を徹して仕事するなどという概念の無い時代から見ると、静子は明らかにオーバーワークであり、見ている方が危機感を覚えるほどであったのだ。
手に掬った湯に顔を映してあれこれと考えていると、器がじっと自分を見つめていることに気付いた。百面相でもしていたかなと思い、静子は照れ笑いを浮かべながら口にする。
「お風呂から出たら、ご飯にしよう」
入浴に際して裸を見て気付いたのだが、器の栄養状態は思わしくない。痩せているとは思っていたが、まさかあばら骨が浮き上がって見えるほどだとは思わなかった。
しかし、二次性徴が始まる今の時期ならばまだ間に合うのだ。一刻も早く、必要な栄養を取らせねばならない。
「さて上がろうか」
静子が声を掛けると、器は無言で頷くと立ち上がった。用意されていた新しい服に着替えさせ、部屋へと戻ると既に食事の支度は整っていた。
先に戻っていたのか、身綺麗になった四六が可成の隣の席へ着いている。
「それじゃ、食事を頂きましょう」
静子と可成で双子を挟むような、いつもにはない席次に着かせると、静子は食事の開始を告げた。
双子を養子として預かってから一週間が経過していた。はじめは目を合わせてくれなかった器も、今では静子と目が合うようになっていた。
「しかし……何故だ? 何故、会話がない……」
双子が静子邸での暮らしに慣れるのと反比例するように、静子は落ち込んでいた。その理由は、二人が静子に対して口を利かないことにあった。
何かにつけて、あれやこれやと話しかけはするのだが、二人は頷くか沈黙をするかのどちらかであり、否定の意思すら示してくれない。
家人達の話では、何人かとは会話していると聞き、喋れない訳ではないだけに理由が判らなかった。
「嫌われたのかなあ? そうだよね、いきなり母親ですって言われても困るよね……」
静子は腕組みをしながら、現状を改善する方法を模索する。幸いにも二人は意思疎通を拒絶している訳ではなく、こちらの問いかけに対しては反応してくれる。
ただ、自発的に話そうとはしない。それも静子に対してのみというのが不可解であった。
「うーん。あ! ひょっとして上様が付けた名前が不満なんじゃないかな? 流石にあのセンスはないよね。元服も近いし、何かこう特別な名前を考えよう。これなら二人の希望も聞けるし、会話の糸口が掴める……かも」
この時代、大人の仲間入りである元服を機に、幼名を脱して新たな名を名乗る。
出口の見えない迷路にはまり込んだ静子は、二人の沈黙を信長のネーミングに対する不満だと断じて、妙な方向へと迷走を始めていた。
迷走しているとは言え、明確な指針を得た静子の足取りは軽かった。いつになく軽快な調子で廊下を進み、曲がり角の手前で足を止めた。
「お前さん、未だに静っちと口を利かないんだってな。何か不満でもあるのか?」
慶次と誰かが話しており、自分の名前が聞こえたため、静子は思わず足を止めた。
盗み聞きは良くないと思いつつも、慶次の相手が恐らく四六であろうと察し、静子は壁に貼り付くようにして耳をそばだてた。
「……何を話したら良いのか判らない」
「それだけじゃあないだろ? 何を問われても絶対に否とは言わないそうじゃないか。何をそんなに怖がっている?」
「あの方に……静子様にだけは嫌われとうない。ただでさえ忌まれ疎まれた双子を押し付けられたのだ、これ以上のご迷惑はかけられぬ……」
二人のやり取りをはらはらしながら見守っていると、一瞬慶次と目が合った。
慌てて静子は頭を引っ込めたが、良く考えれば気配に敏感な慶次が自分に気付いていないはずがないと開き直り、再び壁に貼り付いて角の先を窺った。
果たして慶次の話し相手は四六であった。慶次は四六とともに濡れ縁に座っており、酒瓶片手に庭を眺めていた。
大柄な慶次と並ぶと不安になるほど小柄な四六の目線は、庭ではないどこか遠くを見ているようであった。
「はっはっは。それは大きく出たな! 静っちに嫌われるのは中々骨だぞ? 常識破りの静っちが、双子だと言うだけで嫌うはずがない。そもそも、本気で嫌なら織田の殿様にそう言っているさ、静っちならそれが許されるからな」
「それは……」
「ここで七日を過ごしてお前さんはどう思った? 静っちが一度でもお前さんたちを嫌うような素振りをみせたかい? 世の常識を鼻で笑う、この屋敷での生活は驚いたろう? それを生み出したとびっきりの変人が、あの静っちだ。双子だから縁起が悪い? それじゃあ、そこで暢気に寝っ転がっている奴らも縁起が悪いのかい?」
そう言って慶次は、火を付けていない煙管で庭先を指した。そこにはヴィットマンが横になっており、その隣に番いであるバルティが寄り添っていた。
何か用かとばかりに首を向けてきたが、慶次が手をひらひらと振ると、興味を無くして再び丸くなった。
「あれな、静っちが最も信頼する家臣。畜生腹を嫌うなら、そもそも獣何かを身近に置く訳がない。あんな大きな獣を屋敷に置く変人を、他にみたことがあるか?」
失礼な! と珍しく静子は憤慨していた。静子自身は意識していないが、彼女がしでかしてきた常識破りを挙げれば、両手両足の指を以てしてもまるで足りない。
「はい。ここでは今までの常識が何一つ通用しませぬ」
「そうだろう、その非常識さは不快か? 最初は戸惑うかもしれないが、今じゃ他所の方が過ごしにくい。それにな、お前さんは少し子供らしくない。子供でいる事を許されなかったのかもしれないが、ここじゃ子供でいていいんだ。子供なんだからもっと大人を頼れ、それが子供の特権だ」
「そうですね。あの方は、今までの大人とは違います。それだけにあの方を失望させたくないのです」
「静っちはお前さんたちの母になろうとしている。俺の態度にも文句を言わない静っちだ、お前さん達が他人行儀な事の方に気を揉んでいるだろうよ。急ぐ必要はないが、少しは信用してみちゃどうかね?」
「……」
「ま、急には態度を変えられないだろう。まずは挨拶ぐらいから始めてみちゃどうかね? さて、俺はそろそろ失礼するよ」
言うだけ言うと、慶次は独り席を立ち、静子の隠れる逆側へと立ち去って行った。残された四六は、慶次が去った後も濡れ縁に座り、何かを考え込んでいるようだった。
慶次が去ったのと時を同じくして、静子もその場を離れていた。自室に戻った静子は二人の会話を思い返す。ふと、昔の彩を思い出した。
彩も年齢に見合わない、大人びた子供だった。それは己の立場が不安定であり、いつ切り捨てられるか判らない状況にいたからだ。それゆえ、急いで大人になる必要があった。
四六もまた、大人にならねばならない理由があったのだろう。彼は幼年期を捨て、大人にならざるを得なかった。
「……子供でいられない子供か……」
十三年。自分が過ごした子供時代を思い返し、彼らが見てきたであろう世界はどのようなものであったのか。それを想うと静子は胸が苦しくなった。
「静子様。こちらの書類に裁可をお願いします」
どれぐらい考え込んでいたのか、彩の声が耳に届いたことで静子はようやく外へと意識を向けた。
「あ、ごめんね。考え事をしていたよ。書類ね、ありがとう」
「お役目ですから。お気になさらないで下さい」
恐らく部屋の入り口で何度も声を掛けてくれたのであろう。それでも反応が無かったから、室内に踏み込んで声を掛けたはず。明らかに余計なひと手間増やしたというのに、彩の態度はいつもと変わらなかった。
それが何とも心地好く、静子は思わず破顔した。
「ありがとうね。次からは気を付けるよ」
「……いえ。差し出がましいとは思いますが、少しお節介を焼かせて頂きます。静子様、今の貴女は子供に見返りを求めておられます」
「え?」
彩の発言に静子は面食らった。余りにも予想外過ぎて、彩が何を言わんとしているのかまるで理解できなかった。
目を白黒させていると、彩は小さくため息をついて、言葉を続ける。
「思い出して下さい。私と二人きりで暮らしていた時のことを。家人も居らず、このようなお屋敷でもなく、隙間風の吹き込む安普請でしたが、貴女はいつも笑っておいででした」
続いた彩の言葉を受けて、静子はようやく理解に至った。彩もまた大人びた子供だった。そんな彼女に対して、自分はどのように振る舞っていただろうか。
答えは自ずと出た。身分や出自など気にせず、彩の態度がどうであれ、自分は彩を可愛い妹分として扱い、毎日自分の思い付きで振り回していた。
「喧しいことを申しました。お叱りは如何様にでもお受けいたします。しかし、まずは静子様が笑顔でなければ……表裏のない静子様の笑顔に救われたものは多くおります。自分に自信がない者は、他人が自分をどう思うかが不安なのです。貴女の笑顔には、それを払う力が御座います」
彩は頭を地に着けながら、言葉をつづけた。主人の不興を覚悟の諫言だ。そして内容は正鵠を射ていた。静子は無自覚のうちに、自分の行動に対して見返りを期待していた。
それを気づかされた静子は、思わず頬を掻いた。
「そうだね。私はいつの間にか、子供が私に心を開いてくれるの期待していた。私もまだまだだなあ……私はまず二人が家族になることを歓迎していると示さなければならなかったんだね。うん、ありがとう彩ちゃん」
「いえ、差し出口を申しました。お褒め頂くような事ではありません」
「お堅いなあ。そんな彩ちゃんには、罰として私にぎゅっとされるのだ!」
さあ、おいでとばかりに両手を広げる静子に対して、半眼となる彩。多分に呆れを含んだ目線に静子は怯みそうになるが、意を決すると言い放った。
「これは命令です」
「そんなくだらない事を命令しないで下さい」
「いい事、彩ちゃん。権力というのはね、こういう時に使うものなのだよ!」
良い笑顔で言い切った静子を見て、彩は思わず苦笑した。両手を広げたまま待ち続ける静子を見て、駄目な姉を見つめる妹の気持ちが判る気がした。
ここは自分が折れるべきだと判断した彩は、ため息をつくとおずおずと静子の胸に飛び込んだ。
「ふふ。いつも最後は先に折れてくれるよね」
「静子様が頑固だからです……」
二人が抱き合っていた時間は僅かであった。少しの間を置いて、彩は静子の抱擁からするりと抜け出した。忍者みたいだなと思った静子だが、それを口にする愚は犯さなかった。
「よし! 元気を貰ったよ。さて、私は四六か器を探してくるよ。それで、今みたいに二人をぎゅっとしてくるね」
「何事もほどほどが肝要ですよ?」
「はっはっは。大は小を兼ねるって言うから、大丈夫だよ彩ちゃん」
からからと笑いながら静子は部屋を出て行った。一人残された彩は苦笑しつつ、自分も部屋を出ようとして気が付いた。
「静子様、書類をお忘れですよ……まったく……」
彩はしょうがないなと言うように頭を振ると、懐から紙を取り出すと、決裁の期限を書き添えて静子の文机の目に付く場所へと置いて去っていった。
考えを改めた静子は、ある意味では開き直っていた。どこか自分は大人だからと恰好を付けていたところがあった。
それらの建前を捨て去り、自分の感情をストレートに二人に伝えるよう接した。
相手の顔色を窺うような真似をせず積極的に関わり、露骨とも思えるような感情の伝え方を選んだ。
戦国時代ではあり得ないハグをしてみたり、三人で川の字になって寝たりと、静子が楽しいと思えることを手当たり次第試した。
他人から愛情を示されることに慣れていない四六や器は戸惑ったが、同様に愛情を伝えられ貪欲に受け止めるヴィットマン達を見て、少しずつ心を開くようになっていた。
尤も猫科の動物たちは、過剰に構おうとする静子を嫌って避け、彼女をしょんぼりさせていたのだが。
「私は、家族というものが良く判らなくなりました」
「はっはっは。だから言ったろう? 静っちに常識は通用しないってな。だが、悪い気分ではないだろう?」
愚痴の形を取りながらも、どこか嬉しそうに話す四六を見ながら、慶次が笑って返す。
「笑い事ではございません。器の手前、あの獣たちのように振る舞う訳にはいかないのです」
「別に構わんだろう? 静っちも本性を見せているんだ、お前さんも本音でぶつかってやれば良い」
「そんなものですか……」
慶次の言葉に四六はため息を吐いた。親族は勿論、乳母にすら疎まれた自分達が、ここに来てからは寂しいと思う暇すらない。
しかし、静子はただ甘いだけではなかった。悪い事をすればきっちりと叱り、何が悪かったかをしっかり言い聞かせる。
こちらが黙っていても一方的に話し続け、畑仕事に学校にと思いつくまま連れまわす。
「だが、不思議と不快には感じないだろう?」
今まさに自分が思っていたことをズバリ言い当てられ、思わず四六は慶次を見つめ返した。
「そうですね。近頃は器も笑うようになりました。良いことなのでしょうが、私はどうにも慣れません」
同性という事もあってか、器はこの頃静子に懐くようになっていた。三人で寝る時も、偶に一緒の布団で眠ることがあると、四六は器から聞いていた。
敵意や嫌悪感を向けられるより、家族として遇され、愛情をもって接して貰えるのは良いことだろうと四六は思っていた。
思ってはいるのだが、同じ時に生を受け、同じ境遇を耐え抜いた同志であり、己よりも弱き器を守るためにと身に着けた、大人の殻はなかなか思うようにならなかった。
「焦る必要はないさ。静っちは成果を求めていない。お前さんが本当に静っちを信用出来た時、素直になれれば良い」
「はい」
「まあ、静っちの後継ぎになるには、相応に厳しい修行も必要だがな。わっはっは」
「……無理でしょう。あの方は立志伝中の人物、それも歴史に名を残す傑物です。あれほどの高みには到底辿り着けませぬ」
「そりゃそうだ。出来て貰っちゃ困るし、お前さんが目指すのはそれじゃない。どう足掻いてもお前さんは静っちにはなれない。だから、お前さんはお前さんの思う立派な大人って奴を目指すのさ」
「それが静子様だから困っているのですが……。ありがとうございます、幾分か気が楽になりました」
四六は彼なりに静子について見聞きして回った。家人を始め、図書館の司書などにも聞いて回り、否応なく理解する。
静子が女の身でありながら、織田家の重鎮になり得た理由。そして僅か十年足らずで彼女が築き上げた巨大な財と権力、軍事力が結集するこの土地を。
「こんな所にいた」
暫くどちらも言葉を発すこと無く庭を眺めていた。すると、背後から先ほどまで話題に上っていた静子の声がする。
慶次は背後に倒れ込むようにして振り返り、四六は居住まいを正して静子へと向き直り、深々と頭を下げた。
「ああ、畏まらないで良いよ。ところで慶次さん、忘年会兼歓迎会の準備は進んでいる?」
「あ……」
問われて慶次は思い出す。恒例となった忘年会に、四六や器の歓迎会を兼ねて盛大にするから、参加者の意向を確認するよう依頼されていたことを忘れていた。
兼続に話をもっていったところまでは記憶にあったのだが、それ以降はすっかり忘れていた。思わず口ごもった慶次の様子を見て、静子はおおよその事情を察した。
「返事は明後日までにお願いね? 念のために言うけど、参加表明がない場合は不参加扱いになるよ。不参加でも罰則はないけど、ご飯は用意されないから、その場合は外食をして貰うことになるけど……」
「いや、参加する! 俺は勿論参加するが、与六(兼続)の返事を聞いていないので保留していた」
「与六君ならこの間、主人の長尾喜平次(上杉景勝)君と一緒に『参加する』って返事を貰っているよ」
「そ、そうだったか。いや、互いに連絡が行き違いになったようだ。返事が遅くなって済まない」
「それじゃあ、慶次さんも参加ね。あ、四六君は主賓だから強制参加だよ。それじゃあ、またね」
言いたい事を言い終えると、静子は慌ただしく去っていった。慶次は額に浮かんだ汗を拭いながら息を吐いた。
「危ない危ない、折角の忘年会に食いっぱぐれるところだった」
「忘年会とは何ですか?」
慶次の言葉に四六が首を傾げながら質問する。
「静っちが年の暮れに開く宴会だな。一年の働きを労い、新しく迎える年に向けて、飲んで食べて騒ぐ宴会だ」
「それは何とも、大掛かりな宴会ですね」
「だろう? しかも、静っちはこういう節目の行事ごとには力を入れる。年を追うごとに料理や酒の種類が増え、内容も豪華になっている。まあ、それに比例して参加人数も増加の一途を辿っているんだがな」
「そう言えば南蛮人も雇っておられましたね。あれには私も驚きました」
「はっはっは。目は青いし、大柄だからな。だが、話して見ると面白い爺さんだぞ。女子衆とは関わり合いがないので、人柄が判らんのだがな」
紅葉は専ら作物の研究や、成長記録を取るため圃場や畑に居ることが多く、慶次と関る機会が殆どない。紅葉自身も人見知りをする性格であるため、交友範囲が限られていた。
彼女の没交渉を補うように、虎太郎は社交的だった。主人である静子にこそ礼儀正しく振舞うが、慶次とは十年来の友人のように気軽に接してくる。
立場上は慶次の方が目上であるが、そのような立場を気にせず接してくる虎太郎を慶次は好ましく思っていた。
「機会があれば話してみると良い。忘年会にも出てくるしな。ここ以外では決して出来ぬ体験だ、若いうちは色々と経験を積むもんだぞ?」
困惑する四六に対し、慶次は軽口で応えた。