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戦国小町苦労譚  作者: 夾竹桃
天正元年 畿内の社会基盤整備
139/246

千五百七十四年 十二月上旬

信長の大和巡視は成功の裡に終わった。岐路の途上で京に立ち寄り、切り取った蘭奢待の一片を正親町(おおぎまち)天皇に献上し、岐阜へと帰国した。

信長と行動を共にしていた静子は、岐阜で信長と別れ、尾張の我が家へと帰り着いた。


「お疲れ」


邸宅へ戻ると、握り飯を片手に長可が出迎えた。加賀攻めが終わったとは聞いていないだけに、戻っているとは思っていなかった静子は驚いた。

理由を訊ねたところ、最早大勢は決してしまい、残党狩りや兵糧攻めに付き合う気もないため帰参したということらしかった。


「そういう事情なら仕方ないかな。兵を維持するだけでも金は減り続けるからねえ」


「軍の規模も縮小傾向でな、読みが外れたのか慶次も戻っているぞ。美濃までは一緒だったんだが、着いたとたんにどこかへ消えた」


「あー、何となく分かる」


目的を定めていないときの慶次は、風の向くまま気の向くままに行動するため、周囲の人間が彼の行動を予測するなど不可能だ。

不思議と危急の際に遅参しないため、糸の切れた凧のようなものと見逃されていた。


「まあ、試飲会にまでは戻るだろう」


「試飲会?」


耳慣れない言葉に静子は首を傾げる。失言に気付いた長可が慌てて踵を返すが、駆け出す前に静子にがしりと襟首を掴まれた。


「問われて逃げるってことは、後ろ暗いことがあるんだよね?」


「い、いやあ……ははっ」


明らかに目は泳ぎ、言葉も滑っているが(かたく)なに口を割ろうとはしない。ならばと思い、同じく静子を出迎えにきた才蔵と足満へ目線を投げる。

露骨に目を逸らされた。これは男どもが結託して悪だくみをしていると察した静子は、ため息と共に掴んでいた手を放す。


「話したくないなら仕方ない。蔵の鍵を鋳溶かして、蔵の入り口も封印しよう」


「「「ま、待った!!」」」


静子の本気を感じ取り、三人が血相を変えて静子を制止する。試飲会というからには何か新しいお酒を飲む催しなのだろうが、ここまでして隠したがることが腑に落ちなかった。


「で、なんで秘密なの?」


「……その、だな。静子が栽培していたホップがあっただろう?」


三人は目配せをしあっていたが、やがて観念したのか足満が代表して話し始めた。


「ん? ああ、そう言えばあったね」


静子自身は酒を飲まないが、大麦の有効な使い道としてビール製造を視野に入れ、早い段階から南蛮経由でホップを輸入して栽培していた。

もともと寒冷な気候を好むホップの栽培は難航していたが、今年になってようやく加工可能な品質のものが収穫できたため、繁殖用の株とは別に分けた未授精の雌株のみを収穫した。

成熟したホップの雌株は『毬花(まりはな)』と呼ばれる松ぼっくりに似た花のようなものをつける(厳密には花ではない)。

静子の持ち込んだ知識では、未授精の毬花のみを使用するとあったため、雄株の栽培は限定的となっていた。

この毬花はビールの原料の一つであり、苦みや香りを演出し、雑菌の繁殖を抑えて保存性を高める効果も見込める。


「そう言えば原料用に粉砕加工だけして、保管したままだったね」


収穫した毬花は低温下に晒しながら送風して乾燥させ、その後粉砕したものを圧縮してペレットに加工する。こうすることで保存性が上がり、数年の時を越えることが可能となる。


「その……やはり時を置くと風味が落ちるだろう? それが惜しくて、つい全部使ってしまった……」


そう言えば足満は収穫さればかりの毬花を二つに割り、中心付近にあるレモン色の『ルプリン粒』を取り出し、その鮮烈で華やかな香りに陶然としていた。

長らく飲んでいないビールの香りを思い出し、その頃から計画を立てていたのかもしれない。


「……良くわかりました」


三人が焦っている理由、それは酒税にあった。織田領内に於いて、酒類は仕込んだ段階の量に応じて課税され、現物もしくは金銭で税を納めねばならない。


ただし課税は商用醸造に限られ、研究開発や自家消費する分については慣例的に見逃されていた。

今回のケースに当てはめれば、自家消費と強弁できなくもないが、流石に無理があると静子は判断した。

恐らく最初はいつもの4人だけが飲む分を仕込む予定が、徐々に参加者が増えるにつれ規模が大きくなってしまったのだろう。

彼らが静子に黙っていたのも、流石にこの量は拙いのではないかと言う意識があったのではないだろうか。

ともあれ静子としては酒造の元締めでもあり、信長へ納める酒税の取りまとめも任されている。


「ちなみに仕込んだビールはどうする気だったのかな?」


表面上はにこやかなまま、奇妙な迫力を背負って静子が訊ねる。思っていたよりも大事(おおごと)だと察した足満は、才蔵の横腹を突いて目配せを交わす。


「(何やら(まず)いことになったようだ、素直に謝ろう)」


「(承知)」


「(す、すまん。俺が口を滑らしたばかりに……)」


「(むしろ怪我の功名だな。ここは下手に隠し立てせず、打ち明けるしかあるまい)我らが飲む分だけを仕込んで、全て飲んでしまうつもりであった……」


静子は頭痛を(こら)えるかのように、眉間を指で揉み解すと、やれやれとばかりに声をかけた。


「織田領内では、お酒を仕込むのには届け出が必要で、仕込んだ量に応じて納税の義務が課せられるのよ。個人が消費する程度の量ならお目こぼしもあるけど、皆が飲む量だと商売規模でしょう? 為政者が守らない法なんて、誰も守らなくなってしまうから、今後は必ず相談してね? いい?」


我ながら説教臭いなと思いつつも、噛んで含めるように言い聞かせる。恐らく静子の手を煩わせまいと内緒で作っていたであろう足満が、悄然(しょうぜん)項垂(うなだ)れる。

思い返してみると、かつて足満が現代の静子宅に居候していたころ、彼は良く静子の父と枝豆をつまみにビールで晩酌をしていた。


「(仮住まいだったとは言え、郷愁を感じるくらいには思ってくれていたのかな?)それで、試飲会に参加するのは誰?」


「は、はっ……我ら三人の他に、慶次殿とみつお殿、五郎殿――」


「判りました。予想以上に大規模な催しみたいだね。となるとお目こぼしで済ませる量じゃないだろうし、酒税は皆のお給金から引いておきます」


軽く眩暈(めまい)がし始めた静子は、才蔵の言葉を遮った。


「(色んな人の手を借りるうちに、規模が拡大していったんだろうね。私直属の武将が無許可で仕込むなんて、誰も思わないだろうし……)許すのは今回だけだからね? 次にやったら皆とは言え処罰しない訳にはいかないんだから、私にそんな事をさせないでね?」


「静子、本当に済まない……」


足満を筆頭に、他二名も充分に反省しているようなので、静子はこれ以上の叱責は必要ないと判断した。それよりも不始末の対処に動いた方が建設的だ。


「じゃ、この話は終わりね」


静子が軽く息を吐いて、各種手続きに向かおうとすると、狙いすましたかのようなタイミングで(しょう)が現れた。


「こちらに居られましたか、静子様。濃姫様がお越しになりました。静子様との面会をご所望です」


「判りました。流石にこの恰好ではお会いできないから、湯浴みをしてから向かいます。その間の歓待はお願いね、あと酒税の申告漏れを見つけたから、彩ちゃんに伝えて貰えるかな?」


「承知致しました。では、失礼致します」


蕭はさっと一礼すると、来た時と同様に慌ただしく立ち去った。いつも妙にタイミング良く現れるなと思いつつ、静子は風呂場へ向かう。

湯浴みをはじめとした身支度を整えているうちに、随分と濃姫を待たせてしまっていることに気付き、慌てて応接間へと移動した。


「大変長らくお待たせしました」


「気を遣わずとも良い。先触れも告げず訪ねたのじゃ、待つのは当然」


「そう仰って頂けると助かります」


静子の立場が上昇するに従い、公の場もしくは近い場所では儀礼的なやり取りを求められるようになった。気心の知れた濃姫相手であっても同様で、家人を排した私的な空間で会話をする流れとなっていた。


「ふぅ、なんとも堅苦しいことよ」


静子の私室へと案内された途端、濃姫はいつもの砕けた態度に戻った。露骨なまでの切り替えに思わず苦笑する静子だが、それだけ心を開いてくれていると思えば悪い気はしなかった。


「お互いに立場を得ましたから、それに見合った振る舞いを求められるのは仕方ないでしょう。濃姫様は天下人の正室なのですから」


「判っておるからこそ、気に()わずとも公の場ではそれらしく振舞っておろう? そも、天下人の妻などと持ち上げられたところで、妾自身に何の権力があるわけでもなし。情で動く女が(まつりごと)に関わったところで、ろくな結果にならんのは歴史が証明しておる」


「あの、私も一応為政者なんですけど」


「静子は未通女(おぼこ)じゃろ? 女には入らぬ」


「私のことはさておき、本音は?」


「政は男の仕事。そっと男の背を押してやり、疲れた男を癒してやるのが()い女というものよ」


「ですよね」


濃姫の性格は、天下人の正室という権威を笠に着るよりも、自分の器量だけで勝手気ままに人生を謳歌する。

とは言え、立場上政治に無関係では居られない。色々な制約を課せられながらも、その中で最大限の楽しみを見出す濃姫の姿に、天下人の妻の気苦労が窺えた。


スパーン!!


「静子はおらぬか? あ、義姉上! 先にお越しでしたか、遅くなって申し訳ありませぬ」


軽快な音と共に豪快に襖を開け放ったのはお市であった。後ろに茶々と初、乳母に抱かれた江が続く。

織田家の女は先触れを寄越さない習慣でもあるのかと疑いたくなるが、そう言えば信長も突然来訪するため、織田家の血なのだと納得した。


「ほほほっ、妾が先を急いだまで。気にせずとも良い」


「家主の私は気になるのですが……処でどういったご用でしょうか?」


近頃は、濃姫や市などの奥方衆は殆ど姿を見せなかった。濃姫一人だけなら気紛れで済むが、二人が同時となれば何か裏があると静子が警戒するのも無理はない。


「そう構えるでない。なに、難しい話ではない。妾とお市達一同は、暫くの間尾張に逗留することになったのじゃ」


「はあ、そうですか……え!? それは一体なぜ?」


来年早々にも信長は本拠を安土へと移す。既に仮御殿は完成しているが、年賀の行事があるため岐阜に留まっており、正月が過ぎれば安土へと移住することが決まっている。

この時期になって濃姫や市が尾張に留まる理由が、静子には理解できなかった。


「安土というより近江一円は、未だ落ち着いておらぬ。そんな状況で殿の急所になり得る妾たちが、無防備に姿を晒しておれば、よからぬ(はかりごと)を巡らす輩が現れるやも知れぬ。それでなくとも人の出入りが増え、どうしても警備が薄くなり、間者の入り込む余地も増えよう。そこで妾達の尾張逗留となったのじゃ、殿が落ち着かれるまで暫しの間世話になるぞ」


「なるほど、事情は理解しました。それほどの重大事なのに、事前に当事者である私に話が来ないのが腑に落ちませんが……」


「それならば、妾のところで握りつぶした」


「ああ……そういう事ですか」


静子に報せが来なかったのは、濃姫の仕業であった。稚気(ちき)から来る悪戯(いたずら)か、はたまた深謀遠慮(しんぼうえんりょ)によるものだったのかは知り様がないが、貴人を受け入れるには準備があるため、せめて一言欲しかった静子だった。


「妾達の他にも親族共が尾張に滞在するが、静子の処へ身を寄せるのは妾と市の家族だけじゃ。供も最低限にしておるので、そう手間は取らせぬ」


「承知しました。親族の身を案じて避難を勧めるなんて、上様は身内思いでいらっしゃいますね」


戯言(ざれごと)を。足手まといになるからに過ぎぬ。近江は、十全に目が行き届く岐阜や尾張とは違う。これからはあからさまに敵対する輩ではなく、好意的に接して取り入ろうとする輩も出てくる。そのような情勢では、役に立たぬ味方ほど始末に負えぬものはない」


「いかにして敵方に無能を押し付けるかは、古来政治で用いられた手法ですね。それを思えば戦えない味方は邪魔になると、上様がお考えになるのも無理はないかもしれません」


自分で自分の身を守ることすら出来ないものは、急所となるだけでなく味方を疲弊させ、ひいては敵に利することとなる。無能な味方を内に抱えれば、敵は座しているだけで有利を得られるのだ。

信長は故事に(なら)って、味方から無能を排除し、有能であれば敵であろうとも取り込む戦略を取っている。


「そういうことじゃ。妾たちは殿の足枷(あしかせ)になってはならぬ。せめて邪魔にならぬよう、身を隠すのが内助の功よ」


濃姫は一切の不満を窺わせずに言い切った。信長から邪魔者扱いされているというのに、気にする素振りもない。


「それで、本当のところは?」


付き合いの浅いものならば、濃姫の懐の深さに感銘を受けもするだろう。しかし、濃姫がそんな殊勝な性格をしていないことを良く知る静子は、半眼になりながら探りを入れた。


「殿公認の骨休めよ、これを楽しまずして何とする!」


静子の想像通り、濃姫は信長の態度など気にしていなかった。むしろこれ幸いと、大手を振って遊ぶ口実にするつもりですらいた。市がその通りと言わんばかりに頷いているところを見ると、既に計画は練られているのだろう。


「ほっほっほ。殿の態度に一喜一憂するほど初心(うぶ)ではないぞ? それに、今の殿は()を滅して(こう)に徹さねばならぬ時、身内をまとめ殿を支えるのが妻の務めじゃ」


「……お強いですね。私には到底務まりそうにありません」


「腐っても(まむし)の娘、(ぬる)い世界に生きてはおらぬ。さて、退屈な話はしまいじゃ。部屋の用意を頼めるか?」


「心得ております。蕭に準備をさせますので、こちらで暫しお待ちください」


静子はそう言うと蕭を呼び、濃姫達の居室を整えるよう命じた。







濃姫たちが静子邸に身を落ち着けて暫く経ち、男衆が待ちに待った試飲会が催された。

発起人は虎太郎。(そそのか)したのは慶次、賛同者が才蔵、長可、足満、高虎、みつお、五郎、四郎、弥一であった。


「ふっふっふ、昨年のワインは失敗だったが、エビヅルとやらで仕込んだ今年は一味違う! しかし、白ワインとは恐ろしく手間暇の掛かる製法だが、ブドウ次第でこうも化けるとは……」


虎太郎が用意したワインは二種類。日本の固有種であるエビヅルというブドウを用いて仕込んだ赤ワインと、甲州ブドウから作った白ワインである。

当初虎太郎は、用意されていた甲州ブドウを用いて赤ワインを仕込もうとした。しかし、西洋の品種に比べて糖度が低いからか、加糖してもなおアルコール度が低くとどまり、腐敗してしまった。

腐ったワインを廃棄する現場に偶然立ち会ったみつおが、ワイン造りのヒントを与え、今年のワイン造りを無事に成功へと導いた。


「おっと、初披露のびいるも忘れて貰っちゃ困るぜ。足満のおっさんが珍しく熱心に取り組んだ逸品だ、原料も静っちが手塩にかけて育てた一級品、不味い訳がない!」


ビールの入った樽を叩きながら慶次が笑う。定番となった清酒の他、焼酎やラム酒といった蒸留酒なども並び、まさに品評会と言った雰囲気を醸し出し、参加者たちは否が応でも高揚する。

しかし足満に才蔵、長可の三人は沈痛な表情を浮かべていた。中でも長可は青ざめて見える程に顔色が悪く、一目で尋常な様子ではないと窺い知れた。


「どうした、揃いも揃って不景気な面しやがって? 厄介ごとは後回しだ、今日は酒を飲んで騒ごうや」


慶次が肩を叩きながら長可を励ますが、反応は芳しくなかった。いつもならば気分を入れ替えて一緒に騒ぐというのに、本気で具合が悪いのかと慶次が訝しむ。


「その……済まぬ。実は……」


長可が事情を話す前に、入り口の扉がバンと音を立てて開いた。念入りに根回しをした上で、蔵内でこっそり開催していただけに、事情を知る三人以外の全員の視線が入り口に集中した。


「やあ、こそこそとお集まりの皆さん、密造酒の製造は厳罰が課せられるって知っているかな?」


そこには穏やか笑みを浮かべつつも、凄みを利かせた静子が立っていた。内々で消費する分だけをこっそり仕込んだと思っている連中は、穏やかならざる事態に戦慄する。


「済まぬ、口が滑った……」


長可が絞り出すように言葉を発した。その一言で現状を察した男達は、自分達が置かれた状況に頭を抱えたくなった。


「上の者が法を(ないがし)ろにしちゃ、民たちに示しがつかないでしょう? ということで、このお酒については税を取り立てます」


「いやー、その、だな」


慶次がしどろもどろになりながらも言い訳を口にしようとするが、静子はそちらを一睨みするだけでそれを封殺した。


「言い訳無用! お咎めなしって訳にはいかないので、次回のお給金から酒税を差し引きます。その代わり正式に品評会にしてあげるから、こんな狭いところに籠ってないで広間に集まって!」


静子はそう言うと踵を返して戻っていく。男達も妙な雲行きになったと思いつつ、大人しく静子に続いて広間へと向かった。

広間へと到着すると、そこには既に宴席の準備が整えられており、長机のような座卓が並べられ、その上に湯気を立てる大皿の料理が所狭しと置かれていた。


「特例措置はこれっきりだからね。こんな詰まらないことで皆を処罰したくないんだから、次からはしっかり申告するように! はい、お説教は終わり。折角だから飲み比べをして、お料理との相性なんかも後で報告してくれると嬉しいな」


ダチョウ肉や烏骨鶏(うこっけい)、尾張コーチンの唐揚げ、鶏の南蛮漬け、魚貝類の煮付け、各種きのこの天ぷら、ボウルいっぱいの生野菜サラダ、香の物に、尾張米の白米がぎっしり詰まったお櫃が並ぶ。


「皆の報告をもとに、上様へ献上する献立を決めるから、心して味わうように。じゃ、後はよろしくね」


それだけ言うと、静子は襖を閉めて宴会場と化した広間から立ち去った。彼女の足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなったところで皆が盛大に息を吐きだす。


「結局のところ試飲会は続けても良いのか? 給金棒引きは痛いが、それ以上の料理が並んでいるようにも思える」


「何はともあれ、折角の料理が冷めちまう。野暮なことは言いっこなしだ、新しい酒と美味い飯、これを食わぬのは嘘だろう」


慶次が発破を掛けると、意気消沈していた面々も普段の調子を取り戻す。


「しかし、上様に献上する品定めとする以上、酔っぱらう訳にもいかぬ。それぞれをしっかりと吟味し、皆の意見がまとまってから無礼講とするのが筋ではないか?」


「そいつはどうかな? 何か試飲会を続ける言い訳がないと、俺たちも盛り上がり辛いと考えた静っちの配慮だと俺は思うがな。本気で品定めをするつもりなら、静っちはもっと入念に手順を踏ませるさ」


「恐らく慶次の言う通りだろうな。しかし、静子の仏心に胡坐(あぐら)をかいてはいかん。わしらはそれぞれに不明を恥じ、明日からは心を入れ替えねばならぬ」


才蔵の言葉を慶次が否定し、足満が最後を締めくくった。


「足満のおっさんの言うとおりだな。密造酒作りは、流石にやり過ぎちまった」


頭を掻きながら慶次が珍しく反省を口にした。皆がそれぞれに反省し、場が静まったところでみつおが口を開いた。


「では、そろそろ始めましょう。せっかく静子さんが用意してくれた料理です。その心意気を無駄にしては、ますます以て申し訳が立ちません」


「おっさんにしては良いことを言うな! よし、辛気臭いのはしまいだ。性根を入れ替えるためにも、今宵は飲み明かすぞ!」


「おっさんではなくみつおです」


五郎がことさら明るく言い、彼に対して定番の突っ込みをみつおが入れる。いつも通りのやり取りに、自然と笑みが浮かぶ一同であった。


「わしのワインはちゃんと事前に申告し、きっちりと税を納めておるのだがな……」


「まあまあ、晴れて公になった試飲会ですし、しっかりお役目を果たしましょう」


一人だけ後ろ暗い処のない虎太郎が、立派な顎髭を弄びながら混ぜっ返し、弥一が宥めつつも開会を促す。


「それじゃあ、静っちの寛大な処置に感謝し、また充分に反省をした上で試飲会を始めるぜ!」


「おー!」


慶次の宣言に男たちは拳を突き上げた。







「(現代人としては)『とりあえずナマ』でしょう! 欲を言えばキンキンに冷やした奴が飲みたいですがね」


呟きながらみつおがビールをぐいっと呷る。現代日本に流通している殆どのビールは、ラガー系のピルスナースタイルで製造されている。

ピルスナースタイルの歴史は1842年にまで遡る。チェコのプルゼニュにあるピルゼン醸造所にドイツ人醸造家ヨーゼフ・グロルが招かれ、この時製造されたビールが有名な『ピルスナー・ウルケル(ウルケルは元祖や元という意味)』であり、その製造方法をピルスナースタイルと呼んだ。

今では日本だけでなく世界各国のビールメーカーが、ピルスナースタイルを採用してビールを製造している。


ビールは大別するとエールとラガーに二分され、発酵の過程で酵母が麦汁の上部に浮いてくる『上面発酵』で作られるものをエールと呼び、逆に下部へと沈んでいく『下面発酵』で作られるものをラガーと呼ぶ。

歴史としてはエールの方が古く、ラガーは中世期ごろに誕生し、19世紀ごろから主流となった。これはラガーの発酵温度によるところが大きい。

一般的に20から25度の常温下で発酵させるエールは雑菌が繁殖し易く、対するラガーは5から15度という低温で発酵させるため品質が安定する。

産業革命以降の大量生産の流れには、品質が安定するラガーの方が向いており、時代に押される形で主流へと躍り出ることになる。


余談だがラガーを主流へ押し上げる原動力となったのは、フランスの細菌学者ルイ・パスツールが1866年に低温殺菌法(パスチャライゼーションとも呼ぶ)という雑菌の繁殖を防ぐ方法を開発したことが大きい。

ビール醸造の過程に、いち早く低温殺菌法を採用したドイツは、腐敗耐性を向上させ、高品質のビールとして名声を集めることとなる。

元々パスツールはビールのために低温殺菌法を発明した訳ではなく、フランスワインの地位向上を目指して研究を続けた末の成果であった。

自国であるフランスへの愛着が強く、ドイツが大嫌いだった彼の功績が、よりにもよってドイツビールの地位向上に寄与したというのはなかなかの皮肉と言えるだろう。

後にパスツールの低温殺菌法は牛乳にも応用される事となる。

なお、日本ではパスツールより300年以上前に日本酒の製造工程で『火入れ』という低温殺菌法が経験的に生み出されていた。


エールとラガーでは発酵方法だけに留まらず、飲む際の適温も異なる。

一般にエールは常温付近が適温とされる。これは常温の方がビールの持つ香りを堪能できるからと言われている。対するラガーは冷やして飲む方が適している。

これは冷やした方がラガーの持つキレや苦味、炭酸の爽快感をしっかりと味わうことが出来るためである。


日本で殊更キンキンに冷やしたラガーが好まれるのは、気候による影響が大きい。

日本は一年を通して湿度が高く、夏の暑い時期が長い。このため喉越しが爽やかで、清涼感のある冷えたラガーが好まれ、常温のエールは敬遠される傾向にある。

対してドイツを含むヨーロッパは、乾燥しており冷涼な期間が長く続く。このため体が冷えるラガーよりも、常温のエールが好まれる。


「くぅぅ!! 自分で造ったビールは苦労もあって、味わいも一入(ひとしお)ですね」


「妙に苦いし、口の中がピリピリする。何とも言えん味だな」


ビールの評価は真っ二つに割れた。ビールを飲みなれた足満やみつおは勢い良く酒杯を乾していたが、長可や高虎は微妙な表情を浮かべながらちびりちびり舐めるように飲んでいた。

初めての炭酸の刺激になじめず、少量ずつ飲んでいるため喉越しの良さが殺され、苦味が際立っているのだ。


「むむっ! この白ワインは、何とも穏やかで上品な味わいだ」


虎太郎の言葉に弥一も無言で頷き同意する。熟成期間が短いため、未だ荒さが残る仕上がりだが、昨年のカビに塗れたブドウ汁とは一線を画す出来栄えだ。


「みつお殿に伺った時は半信半疑であったが、まさかこれ程の味になるとは……」


「ははは、私はテレ……ゴホン。人伝で耳にした知識を披露したまでです。大したことはしていません」


咄嗟にテレビと言いかけたみつおは慌てて取り繕った。甲州ブドウが白ワインに適しているというのも、エビヅルで赤ワインを造るというアイディアも、テレビで放映された内容を覚えていたにすぎない。

白ワインの大雑把な製法と、甲州ブドウが材料に適していること。また生食では美味とは言えないエビヅルが、ワインにすると素晴らしい味わいを産むという情報だけを伝えた。

この戦国時代に於いて原材料である甲州ブドウやエビヅルを集められたのは、静子の、ひいては織田家の威光のお陰とも言える。


「謙遜も過ぎれば嫌味となろう。貴方の知識は大いに助けとなった、わしもご主人に対して面目が立つというものだ」


「そういうものですか。ならば私も、美味しいワインをありがとうございます」


虎太郎の謝意を受け入れると、今度はみつおも生産者に対する消費者としての感謝を述べた。一瞬、呆気にとられた虎太郎だが、すぐに破顔するとみつおに赤ワインも勧める。


「白ワインも良いが、こちらの赤も負けておらん。母国のワインにも引けを取らぬと自負しておる」


「まだ若いからか、酸味と苦味がキツイですが、山羊チーズと合わせると堪らないですね!」


「その真っ赤なわいんって奴は、そんなに美味いのかい? 俺も一丁飲んでみるか!」


「美味しいですよ」


二人のやり取りを眺めていた慶次がワインに興味を示した。すぐさま弥一が比較的飲み易い白ワインを注いで慶次に渡す。


「すまねえな……っくー。清酒ほどキツかないが、なかなかに強い酒だ。ブドウらしい酸味が面白い」


「仕込みたての若いワインですからね。何年も熟成を重ねるとカドが取れてまろやかになり、水分も飛んで違った味わいになりますよ」


「ほう! 少しずつ味が変わるのか、なかなか面白いな。次は赤わいんって奴を頼めるかい?」


「承知しました。どうぞ」


にこりと笑った弥一が、赤ワインを慶次に渡してやる。ワイングラスにでも注いで光に透かせばそうでもないのだが、まだまだ透明度の高いガラスは貴重であり、ワイングラスの値段も恐ろしく高い。

このため試飲会では所謂ぐい呑みでワインを飲んでいるため、光が遮られて血のように見える。血を穢れとして忌避する面々は赤ワインを敬遠していたが、慶次には関係なかった。


蟒蛇(うわばみ)のみつおがワインを飲んでいる隙に、わしがビールを頂こう」


みつおや慶次がワインに夢中になっている間、足満はビールを飲み続けていた。ビール瓶等ないため、樽から直接飲んでおり、何杯目なのかは誰にもわからない。

それほど深酒をしない足満のペースは、明らかに日本酒のそれよりも速い。


「足満さん、それ何杯目だ?」


「端から数えておらぬ。そんな事を気にしていては酒が不味くなるだろう」


「いや、飲み過ぎは良くないんじゃない?」


「この程度、飲んだうちにも入らぬ。それよりも貴様も飲まんか、折角のビールが(ぬる)くなる」


「ええ!? 普段と違って、凄い絡んでくるんだけど……」


「やかましい。わしの酒が飲めんのか?」


五郎の突っ込みに、足満は酔っ払いの定番台詞で返す。近くで聞いていた四郎は、触らぬ神に祟りなしとばかりにその場を後にした。


「この唐揚げってのは美味いな。こりゃ飯が進み過ぎる」


勝蔵(かつぞう)! この()いだけと思っていたレモンの汁を掛けると更に美味くなるぞ!」


「ちょっ! 俺はその汁、苦手なんだよ!! あーあ、全部に掛けやがった……」


四郎同様、足満の絡み酒を避けた才蔵や長可、高虎は唐揚げを次々と平らげていく。あっという間に彼らの前にあった大皿の料理は綺麗になくなった。

料理がなくなった後も彼らは酒を片手に談笑し、それはみつお以外が酔い潰れるまで続いた。


男達が大騒ぎしている一方、静子は何度目か判らない溜め息をついていた。


「――こうして鬼を退治した桃太郎は、おじいさんとおばあさんの許へ宝を持ち帰り、幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」


静子が茶々と初を先頭に、女性陣全員に上演しているのは、彼女謹製の紙芝居である。

庶民向けに娯楽の提供と基本的な教養の習得、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)のストーリーを選ぶことによる道徳心の向上を狙って試験的に作成したものだ。

鮮やかな彩色が施された紙芝居の1枚に茶々が目を付け、静子がそれを実演したところ、大人達も交じるほどの大好評を博し、延々上演を繰り返させられていた。


「私はそろそろ寝たいのですが……」


「ならぬ! まだ他にも話はあるのじゃろう?」


濃姫と市の勢いに押し切られ、結局静子は夜通し紙芝居を続ける羽目になった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 濃姫や静子の配下、信長配下が静子に甘えすぎでイラつく 少しも面白くないし笑えない 繰り返す「おっさんではなくみつおです」も寒い 物語自体は面白いです
[気になる点] この作品は、農業や一部の食品と酒に関してやたらと詳しく説明がされるが、印刷物や今回は紙芝居が追加か?については、サッパリ説明が足らないと思う。 ガリ版印にしろ、紙に蝋を塗るだけで完成…
2022/12/19 22:44 退会済み
管理
[気になる点] 作者の思想が乗るのは普通ですけど、同じ言葉が繰り返し出てくるとちょっと気持ち悪いですね。 主人公に現代人としての感覚はあまりないのかもしれませんが、読み手のこちらは現代人なので。
感想一覧
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