千五百七十四年 九月上旬
加賀一向宗への対応が動き出し、いくさの気配が強まっているが、肝心の信長は変わらず内政に注力していた。
勿論、まったく無関心でなどいるはずもなく、目立たないよう着々と布石を打っていた。
時を同じくして静子は、秀吉領である長浜方面の開発に一区切りをつけ、予てより要請のあった大津方面の開発へと着手していた。
ここで静子が手掛けているのは、田上山の開発。
鉱物資源の採掘と、それに伴う道路整備が主な事業となる。田上山は滋賀県でも南西部に位置する大津の更に南側に位置する山々の総称だ。
これらの山々は花崗岩を主体としており、ほぼ全域に亘って花崗岩鉱物が産出した。
代表的なものとして、建材として重宝される御影石や、現代では宝石やパワーストーンなどと言われる水晶や黄玉石が得られる。
現代では装飾品や宝石として価値がある水晶や黄玉石だが、当時はどちらも鉄より硬いため加工ができず、長年無価値な存在として放置され続けてきた。
比較的大きく成長しやすい水晶などは、時にご神体として祀られることもあったが、小ぶりな黄玉石は明治期に外国人宝石商がその価値を見出すまで、路傍の石と変わらぬ扱いを受けていた。
無価値と断ぜられた黄玉石だが、静子からしてみれば宝の山だった。水晶は鉄よりも硬く、黄玉石に至っては、水晶よりも更に硬い。
衝撃に対する特異な割れ方を示す『劈開性』を持っているため、取り扱いは難しいが、硬いというだけでも価値があった。
粒径の小さい物であっても研磨剤として利用できるため、静子は現地民を雇って大々的に収集させていた。
特に雨が降った翌日が好機であり、その日は危険手当として二割増しの日銭を払ってまで動員していた。
そうしてまで人を集める理由は、黄玉石の比重にあった。黄玉石の比重は大きく、少々の雨では流されない。雨で表土が流され、比重の大きい黄玉石が露出するのを期待しての事だった。
しかし、表土が流されるということは、地面が泥濘化するということである。田上山は急勾配の斜面が多く、足元が悪い中では移動するだけでも危険が伴う。
危険で汚く、きつい仕事。所謂3K労働であるため、やりたがる人間は少ない。それゆえに危険手当を上乗せし、待遇を篤くして人員を確保していた。
余談だが黄玉石には二種類があり、屈折率が高く、長時間光に晒しても退色しないものを『OHタイプ』、それ以外を『Fタイプ』と呼ぶ。
日本で産出するものは基本的に『Fタイプ』であり、殆どが無色透明の原石だ。
現代では、これらに加熱や放射線を照射することで人工的に色を付けたものが流通していることも多い。
無色透明のトパーズと、水晶とを目視だけで見分けるのは困難だが、特性を踏まえれば簡単に判別出来る。
水晶と擦り合わせて、水晶に傷がつけばトパーズであり、付かなければ水晶だ。
鉱石の採掘と並行して、静子は田上山で横行していた乱伐を禁じた。檜材の一大産地として名を馳せていた田上山は、当時から事あるごとに乱伐されていた。
史実では乱伐の結果、はげ山となり、流出した表土が河川へと流入し、洪水の原因となった経緯がある。
これを未然に防止するため、めったに振るわれない静子の強権で以て、一帯の材木を輪番制で供給する計画性林業へと変更した。
これは実際に石見銀山などでも採用されたシステムであり、銀山周辺を三十二か所に区画整理し、順番に伐採を行うというものだ。
伐採を行った区画は、次回の伐採に備えて植林を行い、長期的に材木を供給し続けるという形態をとる。
以前にも触れたが、大津方面の河川に土砂が流入し、流量が制限されてしまえば琵琶湖が氾濫し、近江一帯が洪水に見舞われる。
ひとたび洪水が発生すれば、井戸水などが汚染されたり、蚊などが大量発生したりと負の連鎖が始まる。為政者としては決して見過ごすことはできない問題であった。
「近江の治水には注意を払わないと、広大な範囲に被害が及ぶからね。まあ、羽柴様の領分だから、私があまり口を挟むのも憚られるし、それとなく情報を流してもらって、あとはお任せしよう。それより写真の開発を進めないと!」
写真とは言っても、現代人が思い描くようなロールフィルムを使用したものではない。
ガラス板に乳剤(感光材料が含まれるゼラチン)を塗布した『ガラス乾板式フィルム』を用いる方式である。
当然のように白黒写真であり、カラー写真など望むべくもない。
銀塩写真の感光原理や、現像に至る理論などの理解をすっ飛ばし、そういうものだとして無理やり研究開発を推進しているからか、実用化に難航している。
歴史的経緯を考えれば、隔絶した技術レベルであるため、わずか数年で実用化しようなどというのは虫の良い話であった。
そうまでして静子が写真に拘る理由とは、偏に「情報の保全に適している」からであった。写真は現実をありのままに切り取り保存することができる。
文化財の保護者に任じられた静子は、当時の様々な文化を可能な限り後世に伝えようと考えた。
文字や図式という記号に落とし込まれた文書は、写本をすれば複製できるが、絵画や立体、建築や庭園などは残しようがない。
しかし、写真であれば現物そのものは無理でも、その時その場所に存在した一瞬をありのままに保存できる。
その時代の人々の暮らしぶりなどといった形のないものすら、風景として切り取ることができるのだ。
とはいえ写真の原理は徹頭徹尾、化学反応の上に成り立っている。持ち運びが可能で、長期間の保存に耐える写真の開発には、まだまだ研究期間が必要だった。
「花火はまあ……命知らずで腕の立つ職人がいるから、思いのほか研究が進んでいるけれども」
現代人にとって夏の風物詩となっている花火だが。その正体は火薬と金属粉末を利用した炎色反応が齎す、刹那の芸術である。
いつ頃日本に花火が定着したかは定かではないが、戦国時代には伝来していたであろう記録が見受けられる。
当時に伝来していた花火は、打ち上げ式花火ではなく、固定式の筒から色のついた火花が飛び散るものだ。
一方、静子が語っている花火とは打ち上げ花火である。当初は銃弾の開発に際して、火薬や弾頭の研究の折に、弾頭を銅で覆う方式を提案した際の余談であった。
炎色反応の原理を開陳し、実際に細く引き伸ばした銅線を炉へ差し入れ、青緑色の炎が上がるのを職人たちに見せ、これを利用した花火というものが存在すると漏らしてしまった。
多くの職人は感心しただけだったが、砲弾開発の中心的な職人が興味を示した。静子ではなく、足満主導で行われていた大砲の開発に応用できるとして、研究を願い出た。
当初は火薬が軍需品であり、貴重である上に、扱いが難しいことから静子は難色を示していた。
しかし、それほど火薬を使用しない線香花火の存在を思い出し、それを最初の研究課題とすることを条件に許可を出した。
鉄粉を膠で練って、薄く棒に火薬と共に塗り付けるだけの線香花火だが、粉末の大きさや、塗り付ける量など工夫すべき点は数多く存在した。
「まさか、打ち上げ花火にまで漕ぎ着けるとは……」
線香花火を皮切りに、手持ち花火を開発し、次に火薬の燃焼を推力とするネズミ花火が生まれ、コマ花火などを経て、遂には星と呼ばれる火薬の塊を打ち出すという、大砲に通じる原始的な打ち上げ花火にまで達した。
とはいえ、戦国時代のこと、彩色光剤として利用できるのは銅や錫、鉛に燐などであり、色彩は青色寄りとなる。
しかし、火といえば赤いものという固定観念のある人々にとって、この花火は画期的であった。
「段々と使用する火薬量が増えたから、爆発事故なんかもあったけど、遂に夜空に線を描くところまで来たんだよね。そういえば上様が、夏祭りに帝のご臨席を賜るとか言っていたけど……花火を見せるんだろうなあ」
「静子様」
帝を担ぎ出す以上、些細な失敗すら許されない。入念に事前準備をし、万が一にも延焼などが起こらないよう、徹底して火除地を確保する必要がある。
色々と悩ましいことが増えるなと、静子はげんなりと項垂れていた。そこへ室外から静子を呼ぶ声が届く。
「静子様、加賀一向宗の件についてご報告します。度重なる挑発により緊張感が高まり、いよいよ末端を抑えきれなくなっているようです」
「……ご苦労様。引き続き監視をお願いします」
「はっ」
声の主は真田家が管理する間者であった。間者らしい要点のみを簡潔にまとめた定期報告を受け、静子が労うと、声の主は音もなく立ち去った。
加賀一向宗に対しては柴田勝家を総大将とした軍勢が、越後へと送る職人の護衛と称して向かっていた。その道中で、あれやこれやと手を講じては、一向宗への挑発を繰り返していた。
無論、一向宗の総本山たる本願寺側も、この露骨な挑発が企図するところを正確に理解していた。それゆえ加賀一向宗に対して、挑発に応じることを禁ずる通達を出していた。
しかし、本願寺の対応をあざ笑うかのように、織田軍は更なる挑発を繰り返した。
ゆく先々で「本願寺は我が身可愛さに、加賀一向宗を見捨てた」などと触れて回り、沈黙を保つ加賀一向宗を「強いものには噛みつけぬ臆病者の集まり」と吹聴した。
織田家と本願寺は和睦を結んだが、それはか細い糸で結ばれた仮初の平和にすぎない。蟻の一穴からでも容易に崩壊し、再び敵対関係へと戻る、危ういものであった。
そんな相手の領内で、事実とは言え悪評を流すというのは、人伝でしか情報が広がらない戦国時代に於いては、非常に有効な一手となった。
それがどんな集団であれ、武力を売り物にしている以上、舐められて黙っていては面子が保てない。
少なからず名を馳せて、自尊心が肥大したところにこの扱いとなれば、末端が暴走するのも時間の問題であった。
「相手が戦端を開いたという事実さえあれば、あとはどうとでも言い分が立つ。万が一、本願寺が加賀一向宗を切り捨てようとも、その責を本願寺に求めることは可能だしね」
狙い通り加賀一向宗が織田家に噛み付き、本願寺が同調して和睦を破棄すれば、信長はむしろ喜ぶだろうことは容易に想像できた。
(我慢比べも、そろそろ終わりかな)
静子はほっと息を吐いた。石山本願寺が再びいくさを始める、決戦の時は着々と近づいていた。
本願寺では、信長が岐阜に留まり続けているため油断が生まれていた。
配下の将兵は加賀一向宗に向けて挑発を繰り返しているが、信長自身はその動きを疎ましく思っているようにすら見えた。
日和見を決め込む首脳陣に於いて、下間頼廉のみが危機感を抱いていた。彼は地道な調査の結果、静子の動向はおろか、信長の行動傾向をも分析していた。
今までの傾向から見ると、信長が静観を決め込むときは、得てして雌伏しつつ力を蓄えていることが多い。
今回の和睦から続く一連の平和も、次なるいくさに向けて、軍備を整えているに過ぎないと推察できた。
元より本願寺側とて、宿敵信長相手に恒久的な和平が成るなどとは思っていない。いずれ雌雄を決するときが来ると理解し、来るいくさに備える必要があると考えていた。
しかし、休戦中も継続して軍備を増強し続けている信長に対して、本願寺側は「今しばらくは、いくさを起こさない」と判断して、時間を浪費してしまっていた。
(皆を阿蒙(進歩のない者を指す言葉)と笑うことはできぬ。少なからぬ富が本願寺にも流入しているのだ、当分いくさはあるまいと思うのも無理はない)
信長は敵対勢力だからと言って、本願寺を意図的に排除するような経済政策を採っていない。信長が定めた商取引に関する約束事を守るのであれば、その門戸は万人に開かれている。
いくさには物資の大量消費と、人口調整という側面があるため、いくさが終結した後は得てして経済が活発になる。
所謂戦争特需に沸いた市場は、流通経路上に位置するだけでも多くの富を齎してくれる。
この好景気は、織田包囲網を維持するために、多くの富を放出した本願寺の懐を潤した。建前として、次なるいくさに向けての蓄財と称しているが、少しでも現状を維持したいと願うのが人情というものだ。
しかし、頼廉が危惧するように休戦期間が長引くのは危険であった。
今や『尾張様式』と呼ばれる程になった、尾張でしか生産できない物を次々と発信する信長と、流通の余禄に与っているに過ぎない本願寺とでは、文字通り収益の桁が違う。
更に信長は、得られた利益を再投資し、経済を活発化させることで、より効率的に富を生み出す好循環を作り出していた。
こうなれば、時間が経つほどに織田家と本願寺との差は開いていってしまう。
(取れる道は二つ。和睦を今すぐ破棄して織田領へ攻め込む、もしくは……いや、どちらも現実的ではない)
現時点で和睦を破棄して、織田家を攻めるに足る大義名分がない。本願寺だけならば信仰心を煽ることで士気を維持できるが、本願寺に呼応する各勢力はそうはいかない。
万民に対して信長討つべしという大義を示さねば、同盟国とて兵を出しにくい。一方、信長としては時間が経つほどに優位になるため、機が熟すのを待つだけで良い。
「織田がこうまで盤石なのは……やはり静子に依るところが大きいのか」
頼廉は、静子こそが織田家隆盛の原動力と考え、執拗に静子の情報を探し求めた。しかし、情報を集めれば集める程に、静子の狙いが見えなくなっていった。
静子の事業は余りにも多岐に亘り過ぎていた。複雑に絡み合った多角経営であるため、一つ二つの産業を潰したところでどうにもならない。
更にそれぞれの分野で、静子が興した事業を引き継ぐ人材が育ってしまっていた。織田家の屋台骨を傾かせるには、織田領の大半を焦土と化すような戦果が必要だ。
頼廉は神話に出てくる『八岐大蛇』を相手にしているような絶望感を覚えていた。
「加賀もいつまで保つものか……」
執拗に続く加賀一向宗への挑発は、末端の僧兵たちの激発を招いていた。
本願寺としても一度は信長に抗議をしたが、「人の口に戸は立てられぬもの。武力行使をしているのならいざ知らず、末端の兵に至るまで、悉く口を噤ませろと申されるのか?」との返答があった。
信長は暗に「末端の兵の発言にまで文句を言うなら、こちらも同様の対処を求めるぞ」と言っているのだ。
信長を仏敵と見做す信者は多く、彼らは信長を悪鬼羅刹の如く罵るのが常であった。
こうして本願寺は自縄自縛で動けなくなり、頼廉は臍を噛む思いで信者たちの忍耐を願う他なかった。
(信長を田舎の土豪と侮ってはならぬ。奴は己の面子に拘泥しない。利があると踏めば、宿敵である本願寺とすら和睦して見せる度量がある)
そして頼廉の思考は最初に立ち返る。このまま手を拱いておれば、敗北は必定。然るに、織田家の勢力を削ろうにも、少々のことでは痛手にすらならない。
熟慮の結果、頼廉は大きな博打を打つことにした。この博打は非常に危険であり、策が成らねば自身の破滅にも繋がる。しかし、最早己の身を惜しめる時期は過ぎていた。
「(……致し方ない)誰か」
覚悟を決めると、頼廉は人を呼び、とある文を指定の場所まで届けるように命じた。
時は巡り八月となった。帝のご臨席を賜り催される予定であった花火大会だが、例年にない真夏日が続いているため九月に延期されることとなった。
盆地である京は、深刻な暑さに見舞われ、人々は涼を求めて日陰に逃げ込んでいた。気温もさることながら、湿度も高いため不快指数はうなぎのぼりであった。
五摂家が一翼、近衛家の猶子たる静子も、必要に駆られて京屋敷を与えられていた。
とは言え御所に出仕する必要のない静子邸は、主不在のまま夏仕様へと模様替えを行っていた。
戸板を取り外し、風通しの良い簾戸に交換したり、軒に簾を吊って日差しを遮ったりと工夫されている。
他にも風鈴を吊るしたり、籐で編んだ敷物である『籐あじろ』を敷いたりと随所に配慮が為されていた。
「今年の夏は暑くて敵わぬ……」
問題があるとすれば、本来の主人ではなく、避暑目当てで前久が入り浸っているという事だった。
家人に用意させた冷たい茶で、喉を潤しながら前久が漏らす。涼を求めるだけならば、邸内に池を持つ前久邸で事足りる。
態々遠出してまで静子邸に入り浸る理由は、京で唯一製氷機が設置されていることにあった。冷却材として硝安を使用しているため、軍需物資である硝酸を消費する。
流石の前久も製氷機だけは設置が許されず、こうして静子邸に通い詰めているのだった。
熱された体に、冷たい水分を取り込むのは好ましくない。急激に胃腸が冷やされれば、出血することもあると静子から釘を刺されていた。
それでもジメジメとした暑さに倦んでいた前久は、素知らぬ振りでコップを呷る。他人の目があれば、前久も自重したのだろうが、身内しかいないとあれば多少気が弛むのも仕方ない。
「製氷機は耐用試験も兼ねているから構わないけど、避暑地代わりにしないで欲しいな」
尾張に届けられた報告を受け、静子は何とも言えない微妙な気分になった。
報告書からは、貴人であり、静子の父でもある前久を粗略に扱うわけにもいかず、家人たちが苦労している様子が窺えた。
天候ばかりはどうしようもないため、暑さの盛りを過ぎるのを待って貰う他なかった。
「それはさておき、遂に暴発したね、加賀一向宗」
「長く続いた暑さも相俟って、忍耐の限界を超えたのでしょう」
静子は前久の報告書を脇に退けると、間者から最新の状況を聞いていた。
度重なる挑発に耐えかねた加賀一向宗の一団が、職人たちを護衛する織田家の手勢に襲い掛かった。襲撃に備えていた兵士たちは、これを返り討ちにすると同時に、一部をわざと逃がした。
逃げた一向宗を追いかけた織田軍は、彼らの逃げ込んだ寺『尾山御坊』を包囲し、一向宗の襲撃により死人が出たと騒ぎ立てた。
尾山御坊は寺とは言うものの、石垣を廻らした城に等しい要塞であった。籠城の構えを見せる一向宗に、総大将の柴田が最後通牒を突き付けた。
『卑劣にも非武装の職人に襲い掛かり、その命を奪ったとなれば容赦できぬ。襲撃に加わったもの並びに、これを指揮した僧侶の引き渡しを求める』
実際には職人たちに死傷者は出ていない。しかし、死人に口なしが乱世の習い。衆目の前で襲撃をし、更には敗走した一向宗には如何なる言い訳も許されなかった。
柴田を筆頭とする織田軍は、加賀一向宗の拠点であった鳥越城と、二曲城をも包囲し、相互の連携を出来なくしてしまった。
日を追うごとに厚くなる包囲と、補給を断たれ、情報すら入ってこない状況に恐慌を来たしたのか、尾山御坊の僧兵たちは信者を率いて打って出た。
これを待ち構えていた柴田が返り討ちにし、更に先制攻撃を受けたとして、他の拠点へも圧力を掛ける。
捨て鉢になっていた一向宗と、入念に準備を整えていた柴田軍では勝負にならず、打って出た一向宗の殆どが命を落とした。
敗北必至の開戦に慌てふためいた石山本願寺は、加賀一向宗の尾山御坊退去と引き換えに、軍を退くよう申し入れた。しかし、信長はこれを拒絶する。
時を同じくして織田軍に呼応するように、越後の上杉謙信が加賀へ向けて進軍を開始した。
勿論、事前に申し合わせてあった軍事行動だが、信長は対外的に無関係を装い、国境へと兵を派遣すらした。
信長は上杉に対して、足満を使者として遣わし、その真意を問い合わせるよう命じた。加えて、長可を柴田の許へと送り出し、状況を確認して報告する役目を与えた。
「勝蔵君から見て、やり過ぎだと思ったら止めてこいって話らしいけど……明らかに人選ミスだよね。物足りないって言って、督戦する姿が見えるようだよ」
「督戦どころか、先陣を切って城攻めに参加する可能性すらある」
盃を片手に、慶次が笑いながら答えた。長可の鼻先に餌をぶら下げておきながら、参戦せずに情報を持ち帰れなど、無理難題だと彼は思っていた。
小競り合いでも始まれば、バルディッシュ片手に飛び込んでいく姿が、容易に想像できる。
「明智様が動いていない……となると、また陰口を叩かれそうだね」
「国境の抑えがお役目ゆえ、城攻めに加わられるとは思えませぬが……」
「いや、自領の越前を固めるだけなら余裕がある。多分だけれど、加賀一向宗の注意が柴田様へ向いている間に、遊撃部隊を背後へ回り込ませ、機を見て急襲するんじゃないかな?」
「なるほど……労せず戦果を攫いますか、確かに陰口の一つも叩かれましょう」
静子の言葉を受けて才蔵は得心がいった。光秀の役目は加賀一向宗の越前逃亡を許さぬこと。それさえ堅持していれば、余勢を駆って攻め込もうとも問題は無い。
しかし、矢面に立って注意を引き付け、囮にされた側は心中穏やかではいられない。
「ふーむ、加賀一向宗が攻めるとすると……やはり羽柴軍のところかな? 軍の再編が終わってないから、他と比べて明らかに圧力が弱いもんね」
成り上がり者である秀吉は、譜代の臣と比べると家臣団が弱い。常備軍など持ちようがなく、多くが半農半兵の足軽や雑兵で構成される。
武家の一門を纏める柴田軍と比べると、どうしても練度の面で見劣りしてしまう。反面、上昇志向が強く、泥臭いいくさでこそ真価を発揮するという強みがある。
また、近江の将兵を自軍に取り込んだことにより、指揮系統の再編が済んでおらず、軍としての纏まりに欠いているという弱点を抱えていた。
「如何に『人たらし』の羽柴様とて、近江の将兵を取り込むには時間が必要でしょう。今回は裏方に徹されるのではないでしょうか?」
「羽柴様はともかく、柴田様のところは戦意が高いだろうね。勝蔵君、ちゃんとお役目を果たしてくれると良いけど……武功云々よりも、暴れる場が欲しそうに見えたから……心配だな」
「前回の朝倉攻めでは、主力とすれ違って待ち惚け。それ以降は活躍の場が無いからな、活力の有り余っている勝蔵が張り切るのも無理はない」
そんな軽口を叩き合う三人だったが、静子の心配事が的中したことを、後に知ることになる。
暦は9月に入り、朝な夕なに肌寒さを感じるようになった。猛威を振るった暑さは鳴りを潜め、日中は涼しく過ごし易い日々が続いていた。
暑さを苦手として夏バテしていた動物たちも、活発に活動を始める季節。
しかし、同月に予定されていた花火大会は中止となった。主賓である帝の体調が思わしくなく、第一回大会にどうしても帝の臨席を賜りたかった信長が、中止を決断した。
信長は口惜しそうであったが、花火職人たちは1年間の研鑽期間が生まれたことに喜んでいた。信長は催事の中止と、帝の回復を祈る文を認め、見舞い品と合わせて送っている。
「孔雀の飾り羽って、こんなに高く売れるんだね……」
繁殖期の雄孔雀を象徴する飾り羽(上尾筒)は、その美しさから珍重されていた。
この飾り羽は毎年生え変わり、繁殖期である初夏を過ぎると抜け始め、秋を迎えるころには全て抜け落ちる。
そしてまた晩秋頃から新しい羽根が生え始め、冬の盛りには生え揃うという。
最初は二組の番いで始まった、真孔雀の繁殖だったが、その後も継続して輸入をしたり、孵化に成功したりと数が増え、今では十五組の番いが生活している。
真孔雀の飾り羽は宝石に喩えられる程に美しく、インド孔雀のそれよりも価値が高いとされる。
その商品価値は日本国内よりも海外、特にヨーロッパ各国で高くなり、日本国内には殆ど流通しない。
抜け落ちた飾り羽は、一本一本丁寧に洗浄され、個別に梱包されて海を渡ることになる。
孔雀には遠く及ばないものの、ダチョウの羽根も有力な商品となった。主にヨーロッパの貴族社会に於いて、ダチョウの羽根は装飾品として愛されていた。
大航海時代後期の十七世紀にアフリカで入植者達による商業飼育が始まり、世界各地で飼育が始まる二十一世紀までの期間、ダチョウの羽根は金やダイヤモンドと並ぶアフリカの特産品であった。
永らく南アフリカの独占的畜産業として貿易を支えたダチョウの存在は、信長をして魅力的な産業だと言わしめた。
安定した需要が見込めるダチョウだけに、静子はその繁殖に注力した。
その巨体からは想像できない程に人懐こいダチョウは、環境の変化に強く、成長も早いため優秀な家禽となる。
ただし、繁殖期に入ると気性が荒くなるため、取扱いには注意が必要となる。
真孔雀と比べると飼育の容易なダチョウは、専用の牧場にて伸び伸びと育てられていた。個体数が一定値に達すると、古い世代から屠殺して加工される。
因みに海外へ輸出されるのはダチョウの羽根と皮だけであり、その肉には商品価値が認められていない。通常の方法で屠殺されたダチョウの肉は、非常に血なまぐさく、食用に適さない。
それというのも、ダチョウは時速80キロにも達する程の速力を支える強靭な心肺を持っており、屠殺という命の危機に直面すると、その優れた循環器が全力で全身に血液を送り出す。
その結果、全身の毛細血管が破裂し、筋肉の隅々にまで血液が潜り込み、犬も食わないと言われた肉となり果ててしまうのだ。しかし、現代ではダチョウ肉も立派な商品として流通している。
その絡繰りは屠殺方法にあった。屠殺するダチョウを一室に移動させ、高濃度の炭酸ガスで昏倒させる。失神した状態で屠殺することにより、食用に適した肉へと加工することが出来た。
定期的に手に入るとは言え、商業として流通させるだけの量は確保できない。このためダチョウ肉は、静子と彼女の関係者が消費するにとどまっていた。
現時点で尾張から南蛮へと運ばれる主要な輸出品は、絹や木綿などの繊維の他、陶磁器や真珠、真孔雀、ダチョウなどの羽根など宝飾品類、醤油や味噌などの保存食が好まれた。
また隣国である明へは漆器や扇などの加工品の他、椎茸やナマコにアワビ、牡蠣の干物と天草などの海藻類が多かった。次点として武具や衣類、生活用品などが取引されている。
これらの輸出品目には一つの共通点が存在する。いずれも静子が手掛けた産業による商品なのだ。
「結構な量を供給し続けているけど、意外に需要が減らないね」
消耗品とは異なり、宝飾品類は供給が安定すれば値下がりすると、静子は考えていた。しかし、予想に反して価格の変動が見られなかった。
その理由の一端に、流通を担う商船の高い損耗率があった。
この時代の海運事情では、日本を発って無事に西洋諸国まで辿り着ける商船は少なく、半数程度の船舶が沈没したり、難破の憂き目を見たりしていた。
海難事故が稀な時代の価値観ゆえの盲点であった。
「お、これは東山御物の報告書か。何々……順調に蒐集が進んでいると。まあ、細かいところは足満おじさんにお任せしよう」
東山御物とは室町幕府八代将軍の足利義政が蒐集した絵画や茶器、文具などの総称だ。その中には足利将軍家が代々蒐集した品が、相当数含まれている。
なお東山御物は明治以降に定着した呼称であり、それまでは東山殿御物や東山殿之御物などと呼ばれていた。
義政の祖父である三代目将軍足利義満や、父である義教など、歴代将軍や足利将軍家は唐物を尊ぶ指向が強く、貿易により多くの芸術品を蒐集していた。
しかし、応仁の乱を機に散逸したり、また幕府の財政難から売却されたりしてしまった。そのまま所有者不明、所在不明になったものも少なくない。
しかし静子が朝廷より芸術品の保護を任じられた事で状況は一変する。
能阿弥が残したとされる、東山御物について編纂された『御物御画目録』や、同様の資料『君台観左右帳記』などを頼りに、散逸した東山御物の所在を把握しようとした。
所在が確定した時点で、所有者に返還の要請が出される。何しろ足利将軍家の至宝に関する所有権は、現在織田家が引き継いでいる。
たとえ正式に下賜されたものであっても考慮されない。売却に応じるか、自ら進んで返還するか、然もなくば武力を以て奪われることとなる。
「静子様、上様がお見えになりました」
「わかりました」
報告書を読んでいると、小姓が信長の来訪を伝えてきた。信長が尾張にまできた理由を静子は察してため息を吐く。
「茶器だよね、絶対」
理由は単純で東山御物に含まれる茶器や、現代に於いて国宝や重要文化財に指定されている茶器が、静子の許に集まってきているからだ。
特に現代に於いて国宝指定された曜変天目茶碗の3椀全てが揃っていた。最高傑作と名高い『稲葉天目』の名で知られる茶碗を信長が見過ごすとは思えない。
これに信長が所有している第一の曜変天目茶碗が合わされば、日本に存在する全ての曜変天目茶碗が一堂に会することとなる。
「うーん、あんなに渋っておられたのに、どういう風の吹き回しかな?」
応接間へと向かいつつ、静子は独り言ちた。当初、静子は目録を作成するため、信長所有の曜変天目の貸出を願い出た。しかし、信長はこれを拒絶し、片時も手放さなかった。
『君台観左右帳記』の記述が正しいのか確認させて欲しいと、静子が出向くことを提案したが、それすらも却下された。
最終的に「他の曜変天目を蒐集出来たなら、考えても良い」となり、今に至っている。
「お待たせ致しました」
「堅苦しい挨拶は良い。今日、来た理由は分かっておるな?」
「勿論でございます」
信長の問いに返事をしつつ、静子は小姓へ合図した。厳重に梱包されているとは言え、一つで国が買えるとまで言わしめた茶器だけに、これを運ぶ小姓たちの足取りは重い。
無事に木箱を運び終えると、緩衝材に包まれた茶碗が見えるよう蓋を開ける。大任を果たした小姓たちは、一安心すると一礼して部屋を去った。
「存分にお確かめ下さい」
静子が手ずから曜変天目茶碗に掛けられた布を取り去ると、信長の目に鮮やかな色彩を誇る茶器が飛び込んでくる。
信長は薄く笑みを浮かべると、持参した木箱から自身の曜変天目を取り出した。
全ての曜変天目茶碗が一堂に会した、歴史的瞬間であった。