千五百七十四年 七月中旬
静子が柴田達から相談を受けて、既に一週間が経過していた。しかし、軍議が再開されたという話は聞こえてこない。それでも静子は、便りが無いのは良い便りとばかりに楽観視していた。
静子にとってはいくさの支度よりも、カカオ豆の仕上がりの方が重大事であった。期待通りに発酵が進んでいれば、そろそろ次の工程である乾燥作業に入らねばならない。
発酵具合を評価するため、静子は実際にカカオ豆を割って確認するカットテストを実施した。検査項目は2つ。色合いと、香りを確認し、発酵具合を評価する。
発酵前のカカオ豆であれば、断面はポリフェノールの一種であるアントシアニンによる紫色を呈している。この紫色は発酵が進むほどに発酵熱で重合反応を起こし、褐色を呈するようになる。
色味に次いで、香りについても確認してみる。チョコレートとは程遠い、どこか味噌を思わせるようなねっとりとしていながら、それでいて甘いような香りがする。
順当に発酵が進んでいれば、もっと酸味のある香りがするのだが、そこは環境の違いと諦めて乾燥工程へと移ることにした。
カカオ豆は重量のうち、三分の一程を水分が占める。この水分量を8〜6%程度まで減らす作業を乾燥工程と呼ぶ。
原産地で実施される乾燥作業は、露地などに1メートルほどの高さに木枠を組んだ上に『すのこ』を敷き、その上にカカオ豆を並べ、天日乾燥を行う。
この乾燥作業中にもじわじわと発酵が進むため、現地の土壌菌や乾燥方法によってカカオ豆の味わいが左右されることになる。
現代では、この乾燥作業を経て最終品質チェックが実施され、合格したカカオ豆のみが麻袋(標準60キロ)に詰め込まれ、世界各地へと輸出される。
「良い感じに乾燥しているね」
日本は温暖湿潤気候であり、長引いた梅雨の影響もあり露地での天日干しが難しい。そこで静子は、当初ビニールハウス内で天日干しを行おうと考えた。
しかし、ビニールハウス内は温泉の廃湯が通されており、非常に湿度が高い環境となっている。明らかに乾燥工程に不適切な環境であったため、新たに廃材や端材を流用した小型のビニールハウス(透明ファクチス製)を作り上げた。
今後の栽培拡張に伴って、いずれは大型の乾燥施設が必要となるが、当面はこの施設で運用をすることになる。乾燥を主目的としているため、通気性を重要視した設計をされており、木材が多用されていた。
高価な透明ファクチスを使用する部分が天井部分のみとなるため、印象としてはビニールハウスというより天窓付きの納屋に近い。
専用の設備を用意したこともあり、雨天があったにもかかわらず、カカオ豆は良く乾燥していた。しかし、ここまでやっても「チョコレートの材料が出来た」だけであり、チョコレートに仕上げるには更なる作業が待っていた。
「次はカカオ豆を、カカオマスにまで加工しないとね」
乾燥を終えたカカオ豆は当然硬い外皮に包まれており、カカオマスに加工するにはこれを取り除いて中身を取り出す必要がある。
その為、まずカカオ豆を軽く焙煎し、外皮にヒビを入れる。次いで水車動力の粉砕機に掛け、カカオ豆を荒く粉砕する。
粉砕出来たカカオ豆を、唐箕(籾選別用の水車動力を用いた大型のもの)と篩を用いて外皮を取り除く。残った胚乳部分をカカオニブと呼ぶ。
このニブには脂質であるカカオバターが重量比にして5割以上も含まれている。このニブを細かく磨り潰し、ペースト状にすることを磨砕と呼ぶ。
こちらも水車動力に繋がれた、技術街の職人謹製の磨砕機によってニブは細片へと粉砕される。細かく磨砕されるにつれ、含有されるカカオバターが遊離し、摩擦熱で溶けることによってペースト状へと変わるのだ。
磨砕機の最終工程であるローラー部分から、複数のローラー間を通過してペースト状となったカカオマスが搬出される。このカカオマスはローラーに貼り付いているため、鉄製の刃がこれをこそげ落とす事によって取り出された。
現代の機械であれば、一度の作業で充分な粒子径になるまで磨砕されるのだが、戦国時代の原始的な機械にそこまでの精度を求めるのは酷である。
よって取り出されたペースト状のカカオマスを再び磨砕機に掛け、繰り返し処理することで精度を補てんする。
こうして滑らかなペースト状となったカカオマスは、砂糖と無糖練乳(全粉乳が理想的だが、製造難度が高いため諦めた)と混合され、長時間かけて混ぜ合わされることとなる。
カカオマスの本質は油脂成分にあり、液糖や通常の牛乳とは容易に混ざらないため、水分を極力取り除いた状態で混ぜ合わせる。それでもペースト状の物体に粉末等を溶け込ませるのは時間が掛かり、しかも大きな抵抗が掛かるため強い力が必要となった。
そのため、ここで使用する混合機の動力は畜力となる。棒に繋がれ、混合機の周囲をぐるぐると回る牛の姿は、家内制手工業を彷彿とさせた。
そして出来上がった物はチョコレート生地と呼ばれ、チョコレートをチョコレートたらしめる特色のある工程へと進む。
1879年にスイスのロドルフ・リンツによって生み出され、今日に至るまで100年以上もの間、チョコレート製造の心臓部と呼ばれるのがコンチング工程である。
コンチングとは、簡単に表現するなら『練る』作業となる。磨砕されたチョコレートドゥを、コンチェと呼ばれる機械で、延々と練り続ける。
長時間休まずに一定の速度で練り続けるため、再び水車が動力となり、コンチェを動かし続ける。このコンチングを行うことで、ドゥから油分が滲みだし、徐々に軟化を始める。
原初のコンチェでは72時間掛かったとも言われる程の長時間を掛けて練り続けることで、水分や不快臭の元となる成分が蒸散し、取り除かれて特有のアロマが立ってくる。
更に練り続けることで水分と油分が混ざり合う『乳化』が進行し、トロリとしたチョコレート特有の舌触りが生み出される。
この工程を終えた後、更にテンパリングと呼ばれる温度調整を行い、カカオバターの結晶構造を揃えることにより、艶やかで冷えると硬くしまったチョコレートとなる。
現代人であれば当たり前に口にするチョコレート菓子だが、その裏には実に手間暇の掛かった製造工程が存在している。
静子は完成形を知っているため、迷いなく製造を進められるが、製法が編み出されるまでには非常に長い歴史があった。
16世紀にヨーロッパへと伝来したカカオは、19世紀にチョコレートの四大革命と呼ばれる技術革新が現れるまで、チョコレートとは飲み物を指す言葉だった。
ただし、当時のチョコレートは現代のココアなどとは違い、苦味が強く、異常に油っぽいものだった。そのため、当時は嗜好品というよりも薬として扱われ、お世辞にも美味い飲み物ではなった。
その後、長い間薬であり続けたチョコレートだが、19世紀に入ると様々な技術革新が起きた。その先駆けとも呼べる発明は、オランダの食品メーカー『バンホーテン』で産声を上げた。
バンホーテンの創業者であるカスパルス・ファン・ハウテンは、1828年にカカオ豆に50%以上も含まれているカカオバターを油圧式圧搾機に掛けることにより、半分程度まで減らす方法を編み出した。
更に乾燥させたカカオマスを砕いて粉末状とすることで、お湯に溶けやすいココアパウダーとして流通させた。
続く二代目のクーンラート・ヨハネス・ファン・ハウテンが、カカオ豆をアルカリ液で処理する手法『ダッチ・プロセス』を開発する。これにより発酵過程で生産された酸を中和し、水溶性を高めた『ココア』が誕生する。
この技術革新を皮切りに1847年にお湯に溶かさず直接食べられる固形チョコレートを生み出し、1875年に株式会社ネスレの創業者アンリ・ネスレが、よりまろやかなミルクチョコレートを開発した。
四大革命の最後は、1879年にロドルフ・リンツが偶然の産物(諸説あり)により、口の中でとろける柔らかいチョコレート(後にリンツ・チョコレートと呼ばれるブランドとなる)を作る上で重要なコンチングの製法を発見した。
これら四大発明が誕生するとスイスにリンツ社、ネスレ社、イギリスにキャドバリー社、アメリカにハーシー社などのチョコレート企業が誕生し、工場による大量生産によって、それまで高級品であったチョコレートが、一般大衆の手にも届く物となり、普及していくことになる。
余談だが、人類にとっては美味なる甘味でしかないチョコレートだが、犬や猫にとっては有害な物質となる。チョコレートには、テオブロミンと呼ばれるキサンチン誘導体が存在する。
これはカフェインなどの仲間であり、人間にとっては余程大量に摂取しない限り害とならない。しかし、犬や猫などはテオブロミンの代謝速度が遅く、過度の興奮状態や脱水症状を引き起こし、最悪の場合は死に至る。
「コンチングには丸一日以上かかるから、さっさと始めよう」
各種原料を投入し、水車動力を伝えられたコンチェが稼働を始めた。後は定期的に様子を見守りながら、練り上がるのを待つのみだ。
こうして若干の余裕を得た静子だが、そこへまたしても横やりが入った。
「……はあ、頭が痛い」
伝令が持ち帰った手紙を読んで、静子は思わず嘆息した。文の内容は加賀一向宗討伐の件であり、極力関わらないようにしていたのだが、悪い方へと転んだようだった。
柴田は関係者を集めて軍議を開くのではなく、静子の案を決定事項として文とし、各武将へと通達した。現場で直接話を聞いていた柴田達ですらすぐさま理解できなかった内容だけに、箇条書きの文章を渡されただけの武将たちは困惑した。
生憎と柴田自身が送った文は添えられておらず、どのような内容が書かれていたのかは知り得ないが、静子のところへ問い合わせがくる以上、致命的に説明が足りていない気がした。
柴田の文には静子発案とあったそうであり、手紙を通しての迂遠なやり取りではなく、集まって軍議を開き、その場に静子も参加して欲しいと記されていた。
(確かに柴田様は主人の思惑如何に依らず、命じられたことを愚直にこなす御仁だから仕方ないけど……他の人達は、その結論になるに至った経緯とかも当然知りたいよね……)
軍議で静子に期待される役目は、草案の内容を全員に判り易く伝え、具体的な案へと落とし込む軍師だ。
文を出したのが柴田でなく、光秀や秀吉であったなら、両名とも策謀を巡らせる智将タイプであるため、入念な根回しをした上で軍議を開いたのであろう。
対する柴田は「かかれ柴田に退き佐久間」と謳われたように、先鋒を任されることの多い猪突猛進タイプの猛将だ。一度命が下されれば迷いなく従うのが当然と考えたのだろう。
しかし、碌に説明もされぬままいくさ場に立てる豪胆な者は多くない。当然そのような命には従えぬと突っぱねる事となり、柴田としては身を惜しむ臆病者と激昂することになる。
こうした双方のすれ違いが、悪循環を生み、両者の溝が決定的なものとなる前に静子に白羽の矢が立った。
「この話、匙加減を間違えると加賀一向宗征伐どころじゃなくなるね」
加賀一向宗征伐の総大将は柴田なのである。総大将の命に従わぬ集団など、もはや軍と呼ぶに値しない。仮にも加賀一向宗は何十年にも亘って加賀を統治し続けている。
軍としての統率を欠いた状態で相手出来るような敵ではあり得ない。何よりも加賀一向宗は、長島一向宗よりも狂信的だと言う情報が静子には齎されていた。
宗教的な熱狂というのは弾圧される程に燃え上がる。その信仰心を武器として集団に纏め上げ、制御している指揮中枢が存在するという事だ。
「日程的に見て、根回しは無理そうだし……ある程度アドリブで乗り切る必要があるかな。取りあえず判断材料が無いと話にならないから、派閥や勢力間の情報を把握しよう」
そう呟いた静子は、蕭と彩に命令を出した。
6月下旬となり、ようやく軍議が催された。一向に進捗を見せない家臣達の様子に、信長が苛立っているという噂が、まことしやかに囁かれるようになっていた。
軍議の会場としては、静子の運営する学校の講堂となった。大人数が一堂に会するだけの広さがあり、周囲に隠れる場所など無いため、兵を伏せたり、武器を隠したりと言った良からぬことなど考えようもない。
会場の警備には静子の子飼い部隊が立ち、入念な下調べをした上で人払いが為されていた。会場には柴田や、光秀、秀吉と言った主だった武将は既に到着しており、他の武将たちも続々と集まって来ていた。
しかし、柴田の文が齎した不信感は如何ともしがたいのか、皆がそれぞれに不満を隠そうともせず、始まる前からギスギスとした空気が漂っていた。
「……以上が私の案になります」
総大将である柴田の面子もあるため、静子は黒板を引っ張り出し、絵や図を描きながら文の内容を補足する形で自分の案を説明した。
苦労の甲斐あってか、武将たちの反応は上々であり、柴田の指示が荒唐無稽なものではないと納得できたという表情を浮かべている。
しかし、ここまでの説明はスタートラインに過ぎない。加賀一向宗をいくさ場に立たせるまでの武功を問わず、その後の成果に応じて武功を決めるという大筋は伝わった。
では、具体的に誰がどの役割を担い、どの位置に布陣するのかという具体策へと軍議が進んでいく。こうなると静子の出番はなく、皆の案が出揃うまで聞き役に徹することにした。
全員が結論の出ない軍議に疲労を覚えた頃、光秀が周囲を見渡しながら告げた。
「ふむ……このままでは堂々巡りですな。誰もが少しでも自分にとって有利な立ち位置を求めるため、話が一向に纏まりませぬ」
軍議が紛糾し、誰しもが苛立ちを覚える中、光秀が誰もが判り切っていることを態々口に出し、空気の悪さを決定づけた。
静子は光秀の間の悪さ、融通の利かなさにため息を吐くと、頃合いとみて手を挙げて、声を張った。
「発言の許可を」
「どうぞ」
皆が光秀の放言に気色ばむ中、柴田が即座に許可を出した。
「明智様がご指摘されたように、このままでは徒に時を費やすのみ。ここは一つ、絶対に外せない布陣から確定していっては如何でしょう? この軍議に臨むにあたって、皆様方の状況を調べております。元より完全なる平等な配置など不可能なのですから、大きな部分を固めてから詳細を詰めれば宜しいかと」
「参考までに絶対に外せない布陣とやらを伺ってもよろしいか?」
竹中半兵衛が静子に詳細を尋ねる。静子が半兵衛の主人たる秀吉を見ると、彼は静子に向けて無言で頷いた。その仕草から、秀吉の窮状を軍議の場で公表しても構わないと受け取った。
「では……羽柴様には軍備の提供を担って頂きます。新領地の近江は未だ収穫が安定せず、今浜への投資で軍資金や軍需物資の備蓄が心もとないと聞き及んでおります。資金や物資は我が軍が提供し、それを各所へと届ける兵站の一翼を担う人員を出して頂きたく思います」
「そのお申し出はありがたい。恥ずかしながら、今浜は戦災復興の最中。治安維持のためにも兵は必要であり、国許を留守にする訳にも参りません。お借りした資金や物資は、税収が落ち着き次第、徐々にお返しいたします」
秀吉と目配せを交わしあった半兵衛が応えた。少なくない借金を背負うことになるが、無い袖は振れない。秀吉としても自分から言い出せなかった弱みを明らかにし、借金をしてでも金も兵も出したとして、一応面目が立つ。
及第点を貰えたことに、静子はホッと胸を撫で下ろした。
「では、次に明智様についてですが、明智様には加賀一向宗が越前へと逃げ込まぬよう抑えとなって頂きます。その際に、我が軍の鉄砲衆を300と、十分な弾薬を提供致します。更に山狩りに長けた兵と軍用犬などを予備兵として、5000お貸しいたしましょう」
光秀には加賀一向宗が越前へと落ちのびないよう、国境を固める役を担ってもらう。中心的な人物が一人でも生き延びれば、再興される可能性があるため、他者より兵を動員し易い光秀が適任と言えた。
熟練の鉄砲衆300を以て街道を固めれば、少々の軍勢では到底突破できない防備を築くことが出来る。道なき道を進もうにも、軍用犬を連れた兵士が巡回する山を抜けることは難しい。
「静子殿のご配慮、痛み入る」
静子の追加派兵によって、光秀は遊撃軍を組織でき、加賀一向宗攻めへと回す兵力を増やすことが出来る。この二人の布陣が決まれば、後は自動的に振り分けが始まる。
総大将は柴田であるため、柴田派の武将たちが纏まり、次いで明智派の武将たちが越前付近を担当することになる。羽柴派の武将たちが少々割を食った形となるが、代わりに損耗が低く抑えられるため表立って不満を述べる者はいなかった。
静子の発言を以て、再び活気づき始めた軍議は、静子が身を切ったことで『三方一両損』として辛うじて収まった。
一度致命的な不和を招けば、如何な織田軍とて内部崩壊は免れ得ない。静子は一時的な損をしてでも、織田軍全体としての得を取った。
一時は崩壊の危機も危ぶまれた軍議は、滞りなく終わりを迎え、柴田が締めの言葉を告げる。
「では各々方、決して準備を怠るなかれ」
この言葉をもって軍議は解散した。
この話は、数日の時を置いて信長の耳へも届く。信長は報告を聞き終えると、上機嫌でそれぞれの行く末を見守ることとした。
一方、静子はというと胃の痛くなるような軍議を終えたため、肩の力を抜いていた。軍議の前から準備を進めていたため、それぞれの武将への支援については、既に静子の手を離れていた。
再び自由な時間を捻出出来た静子は、中断していたチョコレート作りを再開した。コンチングが終わり、冷やし固められたチョコレートを取り出すと、最後の工程であるテンパリングに取り掛かった。
テンパリングとは温度調整であり、まず湯煎を用いてチョコレートを50度近くまで熱して溶かす。液状化したチョコレートを湯煎から出し、氷水などを利用して28度前後まで冷やす。
その後、再び湯煎に掛けてチョコレートを温め、30〜32度ほどの温度を維持する。このテンパリングの温度は、チョコレートメーカーや、チョコレートの種類によって変化する。
静子の場合は不純物が多い事を想定し、余裕を持った温度設定をしている。
こうして艶やかな状態へと仕上がったチョコレートを、事前に用意しておいた型に流し込んで冷やせば完成となる。理想を言うなら、エージングと呼ばれる定温倉庫での熟成期間が必要だが、高望みと諦めていた。
チョコレートに仕上げてしまえば賞味期限が三か月ほどに限られてしまう。このため、今回使用しない分については、コンチング前のカカオマスの状態で保存することにした。
冷やし固めたカカオマスの状態ならば、温度にさえ気を付ければ一年間は保存が可能となる。
「凄く手間が掛かったけど、ようやく完成だ! んー……流石に現代の市販品よりも数段劣るよね。まあ、粉が吹かなかっただけ上等かな」
冷えて固まったチョコレートを型から剥がし、皿の上に並べる。剥離が上手くいかなかったもの、ヒビなどが入った物を取り除き、見目の良い物を選別して信長へ献上する分とした。
静子は、剥離に失敗して割れたチョコレートの欠片を口に入れ、ゆっくりと味わった。
「記憶にあるチョコレートはもっと滑らかに溶けたけど、舌の上でざらつく上に喉に絡むなあ……」
静子は不満げにぼやいているが、ご相伴に与った男衆は驚いていた。
「なんと! 口に入れた時は、かき餅のように固いのに、口の中で干し柿のように蕩けた!」
「わっはっは、なんだこりゃ? 苦いのか甘いのか良くわからん。だが、この味は酒に合いそうだ」
献上品の準備をしている間に、チョコレートの失敗作は慶次たちの腹へと収まった。未知の食感と、引き締まる苦さと、後を引く甘さに魅了され、あっという間にチョコレートは消えてしまった。
「君たち、食べるのは良いけどね。もうちょっと味わってほしいかな? それを作るのに凄く苦労したんだからね?」
「悪い悪い。食べだしたら、止まらなくてな」
「まったく……上様の所へ献上に向かうから、出立の支度をしておいてね」
それだけ告げると、静子は隠し持っていた皿を抱えて邸宅へ入った。目当ての人物はすぐに見つかった。予想外の珍客をも連れていたのだが。
「静子様、上様の許へと向かわれたのではないのですか?」
彩が不思議そうに首を傾げる。珍客こと茶々と初が、襟首を掴まれて引きずられているところを見るに、またぞろ悪戯でもしでかして連行されているのだろうと当たりを付けた。
「うん。その前にちょっと用事があってね。彩ちゃん、口を開けて。拒否権はないよ。これは命令です」
「そのお手の物が関係しているのですね? 承知しました。命令とあれば否はありません」
茶々と初を廊下に転がしたまま、彩は大人しく静子の前まで進むと素直に口を開いた。所謂あーんという状況だが、意外に恥ずかしく思えて、静子は一つ咳払いをすると彩の口へとチョコレート片を投げ入れた。
最初は噛まずに舌で舐めて探っていた彩だが、すぐに目を見開いた。口の中でチョコレートが溶けだしたのだ。しっかりと形を保った固形物が、このように蕩けることを奇妙に思っているのだろう。
目を白黒させつつも、彼女がチョコレートを飲み込んだ音が聞こえた。
「……不思議な食べ物ですね。しっかりと固いのに、以前頂いた水飴のように蕩けてなくなりました」
「美味しいでしょ?」
「そうですね。不思議な香りと蕩ける甘さ、少し苦いですが気に入りました」
彩のお眼鏡にかなったのか、彼女はいつになく柔らかい笑みを浮かべていた。普段のポーカーフェイスが崩れるほどだから、作り甲斐もあるなと静子は満足げに頷いた。
「しずこー、わらわにもー、あー」
「あー」
だが茶々と初の声で我に返った彩は、いつものポーカーフェイスを貼り付けると、再び茶々と初を拘束した。
「まずはお叱りを受けてからです」
「一個ぐらい構わないよ。彩ちゃんのデレた顔も見られたしね」
そう言いながら、餌をねだる雛鳥のように口を開けて待つ、茶々と初にチョコレートを放り込んでやった。彼女たちは即座に噛んでしまったが、それでも口の中で蕩けるチョコレートに目を輝かせた。
「あまーい、おいしー、もういっこー」
「もういっこー」
「いけません。おやつは、お叱りを受けた後です」
彩に廊下を引きずられて滑りながら、二人はもう一個チョコレートが欲しいとねだる。彩はぴしゃりと叱りつけると、容赦なく二人を引っ張っていった。
何とか脱出しようと二人がもがくが、彩も慣れたもので、幼子の脱出は叶わなかった。
「残しておくから、ちゃんと謝ったら食べても良いよー」
「残らぬじゃろう。残りは妾が頂くゆえ」
静子が遠ざかる二人に声を掛けると、不意に後ろから声が掛かった。振り返ると同時に、手にしていた皿の重みが消失した。周囲を見やると、静子から皿を奪い、チョコレートを口へと運ぶ市がいた。
「久方ぶりじゃな、静子。変わりないかえ?」
「お市様、いつお越しに?」
「先ほど義姉上(濃姫)とともにな。義姉上は部屋で休まれておるゆえ、妾が静子を探しに参ったのじゃ」
先ごろから市は、出産のため暫く静子の病院へと入院していた。浅井三姉妹の末子、江である。無事に出産出来たとの報せは聞いていたが、難産だったためか回復のため暫く入院をするとのことだった。
退院したとの報はないのに、患者本人である市の登場に、静子は酷く驚かされた。
「お市様、もうお加減は宜しいのですか?」
流石の彩も、母である市の手前、茶々と初を引きずるわけにもいかず、二人を解放して頭を下げる。
「お陰様で、ようなった。先触れも無く訪ねたゆえ、堅苦しい挨拶はいらぬ。なんとも、不思議な味よのう」
「ははうえー、わらわにもー!」
「もー」
「ならぬ。その方らは、乳母に叱られて参れ」
「ぶー、ずるいー」
皿に向かって手を伸ばす茶々と初だが、市は皿を高く掲げて防ぐ。意外にも躾に厳しい様子を微笑ましく思ったが、指摘して藪蛇になるのも詰まらないため、静子と彩は事態を静観することにした。
「処で、本日はどのようなご用で、こちらへお越しに?」
「なに、静子に用があったのじゃが、兄上の許へと向かうと聞いた。流石の妾も、兄上を差し置くわけにはいかぬ。静子の帰宅を待って、話すとしよう」
「(それは、我が家にお泊まり決定ですね)承知しました。では、戻り次第遣いを出しますので、それまでごゆるりとお寛ぎ下さい」
「うむ、頼んだぞ。ほれ、そのように膨れるでない。義姉上に届けたあと、そなたらにも分けるゆえ、先に用事を済ませて参れ」
静子の返答を受け、満足げに頷いた市は、ふくれっ面の茶々と初に言葉を投げかけ、静々と去っていった。たおやかな所作とは対照的に、嵐のような人だなと静子は思いつつ、信長の許へと向かうことにした。
岐阜城へと登城すると、静子は茶室へと案内された。信長は決定事項を周知するときは、広間で会談を持つが、茶室へと案内されるときは、内密の話となる。
静子としては茶室なんぞに近づきたくもないが、意外と案内される機会が多く、既に諦観の境地に達していた。
いつもの如く、腰に佩いた刀を預け、手足を濯ぎ、室内の信長へ声を掛け、応えを得てから躙り口より茶室へと入った。
刀を預ける行為は、茶室へと持ち込むには無粋という面もあるが、相手に命を預ける姿勢を示すためでもある。密室である茶室へと招かれることは信長からの信頼の証であり、武器を預けて無手で入るのはそれに応える儀式としての一面を持つ。
入室前に手足を濯ぐのも、衛生面もさることながら、手足に毒を塗っていないという証明になる。こうした手順を踏んで、ようやく茶室へと入室が適う。
「失礼します」
保温用の硝安を入れているため、意外に木箱が大きく、まずはチョコレートの納められた木箱が茶室へと入り、続いて静子が上がり込んだ。
無論、献上品であるチョコレートは毒見役が確認をしたものを持ち込んでいる。茶室に入ると先客がいた。本来ならば京に居るはずの光秀だった。
彼は静子に気付くと小さく会釈をし、静子も慌ててそれに倣う。
「静子は相変わらず、人を焦らせるのが上手い」
「すみません。急いで参りましたが、如何ともしがたく」
「構わぬ。戯れに言ったまでよ。キンカン、貴様も食うてみよ」
早速献上されたチョコレートに手を付けた信長が、木箱を光秀の方へと回した。懐紙を取り出して、恭しくチョコレートを摘み上げた光秀だが、艶やかに光る褐色の物体を前に硬直していた。
事前に知識を得ていなければ、到底食べ物とは思えないが、主人である信長が勧めた以上は、覚悟を決めて食べるより他なかった。
数瞬の間を置いて、光秀はチョコレートを口に入れた。最初こそ眉をひそめていた彼も、徐々に柔らかい表情を浮かべた。
「不思議な食感です。手に持てるのに、口の中に入れると、搗きたての餅のように蕩け、ずっと滑らかに溶けていきます」
信長が二つ目に手を伸ばし、次いで光秀もそれに倣う。二つ目以降に関しては二人とも躊躇なしで口へと放り込んでいた。暫く無言でチョコレートを味わっていたが、やがて満足したのかチョコレートの箱を脇へと押しやった。
茶室の温度で溶けても困るので、保冷剤(硝安)入りのファクチス袋を入れて、木箱に蓋をした。
「さて、未知なる菓子を堪能したところで、本題へ入ろう。貴様らも知っていようが、北条に怪しい動きがある。奇妙が東国征伐へ赴けば、必ずや相見えることになろう」
「和睦を見越した上で、一戦交えるつもりでしょうか?」
「キンカンの言うように、わしと刃を交え、東国に北条ありと示した上で、和睦する腹積もりだろう」
信長は兼ねてから北条の動きに注視していた。敵に回るにせよ、軍門に降るにせよ、どちらを選択されても即応できるよう、北条家に関する最新の情報を収集するよう指示していた。
そして日々齎される情報から、北条家の主流派が織田家と交戦する方向でまとまりつつあることを知った。相手が最初から落としどころを考えているのなら、かつて静子に語った計画も生きてくる。
「武田家の武威を挫き、上杉家をも取り込んだ今。東国に対する仕込みは、ほぼ終わったと言える。しかし、北条家が明確に我らに敵対姿勢を示した場合、こちら側に利点が生まれる」
「北条家といくさをして負け、もしくは引き分けに持ち込み、織田家に対して敵対的な勢力を炙り出す、という事でしょうか?」
「その通り。武田が大敗を喫し、上杉が我らに降った今。北条は東国最後の大国。ゆえに奴らが期待を抱く状況を演じる必要がある」
語るまでもなく反織田連合が期待する結果とは、東国の雄たる北条が立ち、織田家に黒星を付ける事だ。
「静子、貴様は状況を作れ」
「はっ」
「キンカンはその後、身内に潜む裏切り者、謀反を企てる者、内通などの疑わしき行動をする者、全て調べ上げよ」
「ははっ」
「奴らは十分に窮しておる、餌を垂らせばダボハゼのように食いつく。その餌の先に釣り針があるなどとは、夢にも思っておらぬだろう。奴らが針に食らいついたが最後、一網打尽に仕留めるまでよ」
大局を見据え、大勝を得るために小負を受ける。口で言うのは容易いが、実行するのは至難となる。相手が勝ったと判断する程度には損害を受けねばならず、尚且つそれ以上の損害を押さえつつ撤退せねばならない。
これ程の難事を為すためには、時として信忠にすら秘密を持たねばならないだろう。信忠は静子を信頼しきっているため、ことが露見した後の事を想うと、今から憂鬱な気分になった。
「時に静子よ、朝廷からの芸事保護はどうなっておる」
「細川様など京の有力者の助力を得て、どこに何があるかを調査しております」
朝廷の役目について話を振られたので、静子は現状を報告した。芸事保護といっても、やる事は地味だ。まずどこに何がどの程度あるかのを把握する。それらを目録に纏め、その中から要不要を選り分ける。
最後に現物を確認し、文書の類であるならば現物、または写しを得る。絵画や骨董品の類であれば、可能ならば買い取り、無理ならば持ち主として目録に登録していた。
写真が実用化出来ていれば、絵画の類についても写しが取れるのだが、写真技術については未だに研究成果が出ていない。
「焦る必要はない。じっくり腰を据えて取り組むが良い」
「はっ!」
「うむ。では一旦下がれ。後程用がある故、別室で待て」
「承知しました。では、一度失礼します」
信長は一旦静子に退席するよう命じた。静子は茶室を後にすると、蘭丸に案内されて近くに建てられた四阿で寛ぐことにした。
最近では堀が付き添わず、蘭丸一人が案内を務めるのだが、彼は毎度百面相を見せてくれるため、眺めていて退屈はしなかった。
静子は四阿につくと、出された茶を飲みながら、持ち込んだ書物を読みふける。暫くしてから信長の呼び出しがあり、書物を懐に仕舞うと再び茶室へと向かった。
「近頃は、多くの仕事を配下に任せているようだな」
「はい、私が居なければ回らない仕事は少なくなりました」
かつて静子が始めた事業も、徐々に配下へと引き継がれ、それぞれの分野に専任の家臣が育ってきていた。入り江での養殖事業などは、完全に静子の手を離れており、今では報告書を眺めるだけになっていた。
これだけはと持ち続けていた南国の果実栽培についても、あと数年もすれば静子の手を離れていくだろう。
「それで良い。貴様は何でも一人で抱え込もうとし過ぎだ。人に任せられる事は任せ、貴様にしか出来ぬ事をせよ」
「はい」
「第一、貴様は己の事を疎かにしすぎるきらいがある。家臣や職人の休みに気を配っていながら、肝心の貴様は休もうとせんではないか! それは下の者も安穏と休んでおられぬ!」
「は、はあ……(何故、私は説教されているのだろうか?)」
突然の信長からの叱責に静子は困惑していた。静子の内心を顧みることなく、信長の説教は一刻ほども続いた。