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戦国小町苦労譚  作者: 夾竹桃
元亀三年 決戦、三方ヶ原の戦い
103/246

千五百七十二年 十一月下旬

十月三日、織田家に激震が走った。

武田が動いた。信玄率いる2万2000の軍勢が、本拠地である甲府から出陣したとの報が届いたのだ。

信玄が出陣するより前に、山県昌景と秋山虎繁が各々(おのおの)5000の兵を率いて進軍している事から、武田が持てる力を総動員していくさに臨んでいることが判る。

その陣容からも明らかなように狙いは徳川だけではない。その背後にある織田家を見据えているのだと誰もが理解した。


信長は岐阜を離れ、近江にある横山城にて対浅井・朝倉の状況を確認している折に、武田の報告を受けた。


「馬の数、小荷駄の規模からして冬越しの大遠征にございます。兵の数からも徳川との小競り合いではなく、武田家の有する戦力を総動員しておりまする!」


武田家の全戦力。その言葉に諸将たちの表情が引き締まる。そして彼らが抱いていた疑念は確信へと変わった。

浅井・朝倉がずっと城に籠もっている理由を、将軍義昭が織田家との関わりを絶った理由を、これまで沈黙を保ってきた本願寺の活動が活発になった理由を。その答えが武田家の大遠征だ。


勘の良い者は、一度は綻びた織田包囲網が再び閉じられようとしていると理解した。獲物を追い込み、とどめを刺すのは武田がしてくれる。

織田包囲網に参戦する面々は獲物が逃げられぬようにして待てば良い。彼らが活動を活発にするには十分な理由だった。

信長だけは泰然としているが、猛将と名高い柴田ですら極度の緊張からか冷や汗を流していた。


「お、恐れながら申し上げます。この事実を以て武田と織田との友好関係は破綻し申した。至急徳川に後詰めを送る必要があるかと存じます」


「後詰めは送らぬ」


光秀が現状で取り得る常識的な対策を具申するが、信長は即断で却下した。その言を受けて諸将たちにも動揺が走る。


「しかし徳川が破れれば次は我ら織田家。そうなれば我らに勝ち目はございませぬ。この状況下で出せる兵は限られましょう。しかし徳川だけでは敗北するのは必定」


「騒ぐな。誰も見捨てるとは言っておらぬ」


信長の言葉に諸将たちは更に狼狽(うろた)える。しかし信長はそれ以上何も語らなかった。


武田軍が甲府から出陣したという報告は、尾張にいる静子の許にも届いていた。


「あ、そうなんだ」


しかし報告を受けた彩の慌てぶりとは対照的に、静子はいつもと変わらぬ態度だった。その不動の佇まいを見て、静子と将棋を指していた慶次の方が驚いていた。


「そうなんだ、ではありません! 武田ですよ!!」


「どうどう、落ち着いて。慌てたところで状況は変わらないよ。あ、足満おじさんにここに来るように伝えて。ついでに蔵から例のものを持ってきて欲しいって言ってくれる?」


「え、あ、はい」


「この一局が終わったら、慶次さんはいつもの面々を呼んできて。まぁ足満おじさんが着かないと、詳しい話は出来ないけどね」


「お、おう」


静子の揺るがぬ様に彩は幾分冷静さを取り戻した。返事をするとすぐに各所へ指示を出すためにその場を辞した。慌ただしい足音に苦笑しながら、静子は自分の手番を指す。


「慌てて転ばないと良いんだけどね」


「俺には静っちの落ち着きが理解できん。武田と聞いて眉一つ動かさなかった奴は、静っちぐらいなものだ」


「さっきも言ったけど、慌てて状況が変わるなら、いくらでも慌ててみせるよ。でも現実は変わらない。なら慌てるだけ損じゃない? っと頂き!」


「あっ」


慶次も内心では動揺していたためか、普段はしない見落としにより大駒である飛車をあっさりと取られてしまった。

自分の角と交換に静子の飛車を取り静子の行動力を奪う方針だったため、戦況は劣勢どころか壊滅状態に追い込まれてしまった。


「……駄目だ、今の状況じゃまともに出来ない。降参だ」


「動揺すれば隙が出来ちゃうね。さて、慶次さん。いつもの面子に連絡お願い」


将棋の駒を片手で弄びながら、静子は慶次に連絡係を依頼する。慶次はやれやれと頭をかきながら部屋を後にした。

誰もいなくなった部屋で静子は確信する。もう分水嶺は越えた、活路は武田を破った先にしかない。


「ふふっ、別に不安がない……訳じゃないけどね」


人間の感情は体臭にも現れる。静子の不安を嗅ぎつけたヴィットマンたちがすり寄ってくる。

静子は大丈夫だと言わんばかりに撫でるが、ヴィットマンたちはそのまま静子のそばを離れようとはしなかった。

暫くして最初に足満が到着し、続いて慶次が他の面子を伴って戻ってきた。面子はいつもと同じく武将である慶次、長可、才蔵、高虎、足満。静子本軍の隊を率いる玄朗、仁助、四吉だ。

静子本軍には他にも隊長格の人間はいるのだが、静子が最初に話を打ち明けるのはこの八人と決めているため、最初の軍議となるとこの面子で固定されていた。


「さて、既に聞き及んでいると思うけど、武田軍が甲府より出陣しました」


打ち合わせ用の部屋に移動して開口一番、静子は全員に向かって武田信玄の西上作戦(せいじょうさくせん)が開始された事を告げた。

武田軍の出陣に驚く者、逆に闘志を燃やす者、普段と変わらない者、反応は様々だった。だが足満以外、ある共通の疑問を抱いていた。


「殿、武田の出陣はわかり申した。それと我らが集められた事に、何の関係がございましょう?」


武田の出陣はなるほど織田家存亡の危機だ。しかし信長から指令が無い状態で軍議を開く理由が判らない。それが全員の共通した疑問だった。


「あー……もう言っちゃっても良いかな? ほぼ確定なのだけど、徳川の後詰めに行くのは私たちだからね」


「はいぃっ!?」


「おっと、落ち着いて。詳しい話は今からするよ」


慌てふためく面々を宥めながら、静子は彩に人払いをするように指示する。彩の動きに合わせてヴィットマンたちも静子の意を酌んで所定の範囲を監視するべく走り出した。

暫くすると屋敷から人の気配が消えた。機密の漏れる恐れがなくなった段階で、静子は一度深呼吸をすると懐から地図を出して広げた。


「大ざっぱな浜松城周辺の地図だよ。武田は持てる戦力を総動員している。どう考えても徳川との小競り合いではないね」


「おおよその兵数は?」


山県(やまがた) 三郎兵衛尉(さぶろうひょうえのじょう)は兵5000を率いて信濃から三河へ。秋山(あきやま) 伯耆守(ほうきのかみ)は兵5000を率いて東美濃へ。武田本軍は兵2万2000を率いて甲府から出陣し、三河に向けて進軍している。秋山は東美濃の押さえ役と考えれば、兵数は2万7000ね」


「およそ3万ですか。それだけの兵を相手に我らだけでは……」


玄朗の表情が絶望に曇る。彼が消沈するのも無理はない。

静子軍の全軍を動員しても1万程度、徳川の陣容は不明だが国力から見て同じく総動員で1万だとすると、両軍を合わせて2万近くにはなる。

数の段階で負けている上に、相手は倍する兵をして互角と言わしめる精強無比なる武田軍だ。勝ち目がないどころの話ではない。


「数の不利はどうやっても覆せないね。だから武器の質で数を補う」


言い終えると同時に静子は足満に持ってきて貰った新型火縄銃をテーブルの上に置いた。

全員の視線がそれに注がれるが、一見した限りでは見慣れない部品がいくつか付いた火縄銃にしか見えない。


「おいおい、火縄銃だけではどうにもならんぞ。それともなんだ、これは凄い性能を秘めているのか?」


長可が火縄銃を指さしながら静子に疑問を投げる。他の面子も言葉にこそしないが、長可と同じ考えであった。


「見た目は奇妙な火縄銃にしか見えないからね。火縄を使わなくなったから火縄銃じゃないよ。取りあえず名称は後で付けるとして、新式銃と呼ぶことにするね。ともかく武田戦の不利を覆す装備の一つ目だよ」


「武器性能だけでなんとかなるものなのか?」


「問題ないよ。いくさにも法則性があるんだよ。細かい理論は省くけど、武器性能に兵数の二乗を掛けた値を戦闘能力として用いるんだ。その計算に当てはめると、数の優位を覆すには武器性能で大きく上回るしかない。勝蔵君の疑問ももっともだけど、百聞は一見に如かずだよ。その性能を目にしたら疑問なんて吹っ飛ぶよ」


静子の言ういくさの法則とは、ランチェスターの第二法則を指している。

現代ではビジネス戦略などに用いられることで人口に膾炙(かいしゃ)するが、元はと言えば戦闘の数理モデルである。

とはいえランチェスターの第二法則を持ち出すには、機関銃のような一人で複数の人間を攻撃できる兵器が前提として必要となる。

ゆえに新式銃であっても単発式であり、武田軍とのいくさでランチェスターの第二法則を当てはめるには些か心許ない。

つまり皆の不安を取り除くためのハッタリである。


「まあ論より証拠。今から足満おじさんが性能を見せてくれるよ。それじゃあお願いね」


「分かった。みな、ついてこい」


テーブルに置かれた新式銃を手に取ると、足満は全員に声を掛けて立ち上がった。残された面々は互いの顔を見合った後、静子に視線を向ける。

皆の視線を受けた静子は水筒の水を口に含んで嚥下すると、笑顔で手を振った。

口でどれほど言葉を重ねようとも、自分の目で見たという事実の方が説得力に勝る。静子に促されそれぞれに足満の後を追った。


「さて、みんなどんな顔をして帰ってくるかなぁ」


そんな事を呟いて一息ついていると、乾いた銃声が高く響いた。皆は呆気に取られているか、それとも驚喜しているか、どちらだろうと静子は考える。

それぞれの性格から反応を想像して静子は一人ほくそ笑む。


「武田戦が終われば、オペレーションズ・リサーチを導入できるかなあ?」


遠い目をしながら静子は呟く。オペレーションズ・リサーチ——略してORと呼ばれるもの——とは、諸問題を科学的、つまり『筋のとおった方法』を用いて解決するための『問題解決学』と言える。

これは第二次世界大戦前にアメリカがドイツ、日本に対して効果的に勝利を得るために研究した際に生み出された学問だ。

ランチェスターの法則やゲーム理論を組み合わせ、効率的に勝利を得る方法を模索した。

近年では誰もが日常的に用いる『シミュレーション』もORが意識的に取り上げた方法論と言える。


ORは軍事に端を発するものの、それだけにとどまる学問ではなく、様々な分野に応用が可能である。

何故ならORを用いて問題解決した歴史そのものが財産となるからだ。

様々な分野の問題を分析し、意思決定に繋げる手法、いわゆる『うまいやり方』の蓄積。それがORの定石となるのだ。

現代でも世界中のOR研究者たちが、日々新しい問題を掘り起こし、それに対する問題解決の手法を研究して発表している『OR学会』すら存在している。

この『分析と意思決定』に対する効果的なアプローチが出来るというのが、極めて広い応用力を持つと言われる所以(ゆえん)である。


「今すぐとは行かなくても、いずれ標準的な考えにしたいなぁ。いろんな分野が刺激受けるし、蓄積していくだけで財産になるしね」


普及させたい狙いは色々あるが、一番はOR手法が広まることによる各種産業業界への刺激だ。

織田家が発展させた産業は異色であり、外部から刺激を受けることが極めて少ない。

内部だけで固まっていては問題が発生しても、それはそういうものだという固定観念に捕らわれ、やがて行き詰まり動脈硬化のようにいずれ破裂する。

それらを打開するためにもORを導入し、積極的に問題解決に取り組んで欲しいという想いがあった。


どういう風に普及させようかを考えていると、慌ただしい足音が複数近づいてくるのが判った。

慌てて帰ってきたのかな、と思った瞬間、入り口の襖があらぬ方向に飛んでいった。


「静子ぉ! あれは何だ!!」


予想通り真っ先に飛び込んできたのは長可だった。その後ろに慶次、才蔵と他の面々も続く。

放物線を描いて舞った襖は、反対側の襖に突き刺さり無残な状態を晒していた。

これは一式買い直さないといけないなと思いつつ、静子は水筒の水を呷って冷水を浴びせかける一言を放った。


「とりあえず全員の給料から襖の修理代を引くね」


「え!? あ、あれは襖が勝手に飛んでいっただけでだな」


「冗談よ。みんな疑問はあるだろうけど、大人しく座りなさい」


開け放しになった入り口を一瞥しつつ、全員が所定の位置に座る。彩に頼んで予備の襖を立て掛け、急場をしのいだところで足満も戻ってきた。

彼が座ったのを確認してから、静子は話を再開した。


「まぁ見ての通りだよ。細かい事は説明しなくても、私が色々と準備していた事は分かったよね」


「ま、まぁな。あんなもの、どうやって作ったかさっぱり分からんが、静子が何かしら準備していた事だけは分かった」


「それだけで良いよ。私はあくまで状況を用意しただけ。最後につかみ取るのは君たちのやる気次第だよ」


みなまで言わなくても全員が理解していた。対外的には後詰めだが、静子は別の事を考えている。


「遠征に於いて負けなしの武田軍。その最初にして最後の黒星を、私たちが付ける。どう? 誰もがなし得なかった大金星よ。圧倒的不利を覆しての勝利、これこそ後詰めの真骨頂じゃないかしら」


織田を討ち取らんと全軍を総動員し遠征している武田軍を、逆に織田軍——正確には織田・徳川連合軍——が討ち取る。

兵数も練度も圧倒的に劣っている状況で、この作戦が成功すれば織田家の名は天下に鳴り響く。


「勝蔵君、そろそろ自分の力を試したいでしょう。だから貴方には、山県三郎兵衛尉を討ち取って貰う」


「山県……かッ!」


武田軍の先駆け武将で、武田軍最強の赤備えを率いる山県昌景に、静子は長可をぶつける気でいた。


「怖い?」


「当たり前だ! だが、それ以上に山県の首を討ち取る気力がわいてくる!」


長可の軍は若衆が多く経験が少ない。だが、若者が多いために恐れ知らずの者が多く、赤備えに対する恐怖が薄い。つまり赤備えを見ても、勢いを保ったまま戦える。


「才蔵さんは馬場を討ち取って欲しい。現状考えて、馬場にもっとも対抗出来るのは、才蔵さんの軍だと思う。慶次さん、与吉君、足満さんは突撃の合図だけするけど、それ以降は各自の判断で自由に動いて頂戴」


「しかし、それでは静子様の周りが……」


才蔵の言いたいことを静子は理解した。理解した上で彼女は首を横に振った。


「今回は全員が命をかけるのよ。私だけ安全な場所にいても士気が下がるだけ。最初に指示を出したら総指揮官は不要。まして相手は武田、私が先陣に立たなければ、誰もついてこないよ。大将が先陣に立つ事で、兵は奮い立ち勝利を信じることができるのだから」


「静子様……はっ! 某は命をかけて馬場を討ち取ります!」


「よろしくね。そして玄朗じいちゃん、信頼出来る者たちを集めて頂戴」


「はっ! 集めて如何いたしましょう?」


玄朗の質問に静子は足満が使った新式銃を手に取ると、それを玄朗に差し出す。


「今回の武田戦、勢いを変えるのは鉄砲衆になる。玄朗じいちゃんの役目は鉄砲衆を率いる事。仁助さんと四吉さんも同じだけど、馬を操りながら銃を使うから毛色は少し違うかな」


「は? え、はぁ!?」


三人揃って素っ頓狂な声を上げる。鉄砲を操る集団といえば雑賀(さいか)衆や根来(ねごろ)衆の様に、それだけで傭兵集団として成り立つほどの武装集団になる。

それを率いるとなれば、大きな出世と言える。それも静子軍の中だけではない。外部にも一定の名を示す事が出来るのだ。


「私が与えるのは機会だけ。名を上げるか、それとも笑いものになるか、それは貴方たち次第」


「う……」


「私は貴方たちを信じている。この銃を扱う先駆けとなる事を。歴史に名を遺す人物たりえることを」


うまい、と慶次は思った。玄朗たちは来歴が波瀾万丈ゆえ、静子の期待に応えたい気持ちが他より強い。だからこそ、静子軍の中で順調に出世していた。

今までは静子軍の中での評価に留まり、他の織田軍では所詮は雑兵という扱いであった。名のある親から立場を継いだ連中と、全くの無名では扱いに差があるのは仕方ない。

しかし今回のいくさで鉄砲衆の存在感を示せば、その名声は万民が知るところとなる。

戦果如何によっては味方がその名を聞いて安堵し、敵はその名を耳にして震え上がる存在にさえなれる。

今まで不遇の扱いに甘んじていた彼らからすれば、静子の信頼に応えないという選択肢は存在しない。


「それほどまでわしの事を……わかり申した、殿。わしは殿の信に応えましょう!」


「わ、我らもです。殿、我ら一同奮闘を以てお応え致す!」


三人は感極まり、静子に向かって深々と平伏する。少し大げさ過ぎる気はしたが、無名どころかマイナスからスタートして、ここまでやってきた彼らだ。

今回は一世一代の大勝負。かつてない武功を上げるチャンスであり、これを逃せば最早望みはない。それほどの大一番だと三人は理解した。


「人を集め終えたら足満おじさんから新式銃の扱いを教わってね」


「はっ!」


「他にも疑問があったら言ってね。可能な限り答えるよ」


全員を見回しながら問いかけるが、誰も疑問を口にしなかった。

全員の目には闘志が宿り、己の役目を把握している者特有の覇気が漲っていた。十分な手応えを感じた静子は小さく頷いた。


「よし、みなの気合いは十分だね。では今日はこれで解散、各自訓練と休息を十分取りつつ、その時が来るのを待っていてね」


「おうよ!」


静子の締めの言葉に、全員気迫のこもった声で応えた。







会議が終わると同時、長可はいの一番に部屋を出て行った。続いて玄朗、仁助、四吉と続く。

だが慶次だけは席を立たず、座ったまま静子を見ていた。何か話す事があるのか、と感じた静子は、様子を伺っていた足満に席を外すようお願いした。

少し思案したが静かに席を立ち、すれ違いざまに慶次と何か話してから足満は部屋を後にする。残ったのは静子と慶次だけだが、慶次はすぐに口を開こうとはしなかった。


「随分前から気になっていたけど、静っちは何故玄朗爺を高く評価しているんだ?」


色々と片付けをしていると、ふいに慶次が口を開いた。手を止めて慶次と向き直ると、静子は小さく笑みを浮かべる。


「主人に諌言できる者、戦場で一番槍を突く者より大事なり」


「……」


静子の言葉は徳川家康の名言『主人の悪事を見て諫言をする家老は、戦場にて一番鎗を突たるよりも、はるかに増したる心緒こころねなるべし』がベースとなっている。

主人の立場が高くなればなるほど、力が強ければ強いほど、本人や周囲は力を過信しやすくなる。その状態では主人の悪事や間違いを指摘し、諫めることは難しい。

また主人の側も恥をかかされたと言う思いが先に立ち、どれほど正しい意見でも諫言を疎ましく思うようになる。


「自分で言うのもアレだけど、自分の立場が上がれば上がるほど、間違いを指摘してくれる人は減るよね。そして諫める人が居なければ私の言うことを聞きさえすれば間違いない、なんて意識が蔓延する。そういうのを防ぐためにも、玄朗じいちゃんは貴重な人よ。重用しない方がどうかしている」


「なるほどね。そういった理由があったのか」


「確かに玄朗じいちゃんの武功は微妙よ。今回鉄砲衆の頭領に抜擢したことには少なくない反発があるでしょうね。でもね、武田戦が終われば鉄砲衆の存在は有力者の目に留まるようになる。そうなった時に強い者に(へつら)うことしかできない人では困るの。たとえ上の者に対してでも間違いがあれば指摘できる人じゃないと駄目なんだ」


「己の身を顧みず、使う側の是非を判断できるからか」


「そういうこと。もちろん私だって全ての意見を聞き入れる訳じゃないよ? でもね、諫言されるって事は、少なからず問題意識を持たれているって事だよ。だから足を止めて一歩下がって、自分自身を見つめ直すの。そうすれば大失敗する前に方向修正できるじゃない?」


静子の言葉に慶次は笑みを深めた。誰でも(かまびす)しい口を叩く輩は煩わしいものだ。

自分に同調し、耳あたりの良い言葉を並べる連中を重んじるようになり、やがて諫言は耳に届かなくなる。


(なるほどね。道理で玄朗爺が一番評価されている訳だ。他の者は己が立身出世のため、思うところがあっても口にしない。だが玄朗爺は保身よりも静っちを優先して諫言する。その違いを静っちは理解している訳か)


単に玄朗の境遇を知っての同情かと思っていたが、そうではなかった事に慶次は安堵した。

静子は非情になり切れない甘い面があるので、それが悪しき結果を生まないかと常々思っていたのだ。

今回玄朗の大抜擢は過去の献身に対する温情かと考えていたが、内心を聞いてそうではない事を理解できた。

少し安心したが、今後そうならないと断言は出来ないので、これからも静子の行動は常に見ておこうと彼は考えた。


「やれやれ、単に甘いだけかと思っていたけど、案外考えていたんだな」


「なんで私って、何も考えていないと思われるのだろうか」


「仕方ないさ。静っちの行動は、結果が見えて初めて分かる事が多いからな。よく知らないと勢いだけで動いているように見えるのさ」


「えぇ〜、割とわかりやすく動いていると思うのだけどね」


慶次の言葉に静子は不満を零す。しかし静子基準の視点から見て判り易いであり、俯瞰した視点を持てない普通の人間からすれば判りにくいことこの上ない。


「それは静っちだけだろう。さて、疑問も解消したし、街で遊んでくるかね」


好きな時に好きな事をする。武田とのいくさを控えて周りが必死に訓練していようとも、遊びたいと思ったから遊ぶ。それが前田慶次という存在だ。


「遅くなると夕餉に間に合わないよ」


「それは大変だ。ま、遊びすぎない程度に遊んでくるよ」


慶次は静子に手をひらひらとふりながら部屋を後にする。苦笑した静子だが、慶次につられて手を振って彼を送り出す。

慶次の足音が聞こえなくなると、部屋に残ったのは静子だけとなった。

片付けを終えてから静子も部屋を出ると、その足で自室に向かう。部屋に戻ると予め内容をしたためておいた文を信長宛てに送るよう手配する。


(賽は投げられた、か)


西上作戦が実施された以上、もはや静子に立ち止まる事は許されない。最後まで行き着くしか道はない。

武田が滅ぶか、それとも静子軍が全滅するか、訪れる未来は二つの内どちらかだ。無論、むざむざと負けてやるつもりは毛頭ない。武田が出陣した以上、打って出る覚悟だ。


(考えても仕方ない事だけど、これから色々な人に嘘をつかなきゃいけない。それを考えるとちょっと憂鬱だね)


策を成功させるには、時として味方すら(あざむ)く必要がある。

得てして欺く相手の立場が高ければ高いほど、得られる効果も比例して高くなる。しかし、嘘が下手な自分に他人を欺くことができるのか、静子の苦難は続く。

表情に出ていないか、話の辻褄が合っているか、意識して人を騙すことの少ない静子には敷居が高い難題だった。


「……ま、なんとかなるか」


考えても無駄と結論づけた静子は、考える事を放棄した。







破竹の勢いで武田軍は侵攻していた。三日に一つの城を落とし、家康の居城を目指して猛進している。

武田本軍とは別に、山県が三河からも侵攻しているため三河の軍を動かす事が出来ず、家康は遠江の兵力8000しか使えない状況だった。

手を(こまね)いている間にも味方の国人が武田側へと寝返ることを恐れた家康は、十月十四日に出陣し三箇野川や一言坂で武田軍と戦うも、兵力劣るため順当に敗退する。


しかし忠勝など忠臣の活躍もあり、主だった武将はいくさ場から脱出し浜松城へ撤退出来た。

このときの忠勝の活躍ぶりに信玄や武田家家臣たちは感嘆し、本多忠勝は徳川に過ぎたる者と言われたと伝えられている。

その後も武田軍の勢いは止まらず、十一月に入っても戦況は依然として好転しなかった。


「打つ手はないのか」


家康は絶望的な言葉を吐く。その問いに答えられる者は誰一人としていなかった。一言坂の一戦で彼我の戦力差を否応なく理解させられた。

今の徳川に、武田と戦って勝てる見込みなどありはしなかった。


「織田に後詰めを要請する他ありませぬ」


「無理だ。織田も四方を敵に囲まれている。我らに兵を送る余力はない」


家臣の一人が織田へ後詰めを要請する案を出す。しかし、浅井に朝倉、本願寺と織田包囲網に関わる者たちから執拗な攻勢を受けている信長に、家康へ兵を送る余力はない。

それを知っているからこそ、織田への後詰めを要請する案は現実不可能と考えていた。


「殿、このままでは徳川は終わり申す。もはや武田に(くだ)るより他ないかと」


「その話も今さら無理だ。武田は三河と遠江を蹂躙するまで手を緩めぬ」


降伏の案も出たが、今更降伏を受け入れられはしないと彼らは考えていた。

仮に降伏が叶っても、土地を奪われた挙句に織田への尖兵として使い潰されるのは目に見えている。行くも地獄戻るも地獄とはまさにこのことだ。


「殿、一つ気にかかる点がございます」


重苦しい空気の中、半蔵が家康に進言する。とにかく空気を変えたかった家康は、半蔵の発言を許可する。


「本多殿がご執心の静子殿が、全軍を尾張に配置したまま動いておりませぬ」


「だ、だだだだだ誰がご執心ととと!」


目に見えて動揺する忠勝だが半蔵は取り合わない。ある意味では滑稽な光景に、家臣たちは思わず笑みを浮かべる。重苦しい空気が少しだけ軽くなったと家康は思った。


「それは奇妙な話だな。今、織田殿に兵を遊ばせている余裕はない。しかるに、その状況でも軍が動かないという事は、何かを狙っているのか……?」


「岩村城への兵ではないでしょうか?」


東美濃で権威を振るった岩村城の城主遠山景任が、五月に病で亡くなった。信長はこの機会を逃さず、東美濃へ家臣を派遣して岩村城を占領する。

景任の妻であり信長の叔母であるおつやの方は、信長の五男で後の織田勝長を養嗣子とした。

そして自身は当主の座を引き継ぎ、織田勝長の後見人となった。


しかし、武田の西上作戦が開始されると、おつやの方は武田軍の動きに呼応し、岩村城にいた信長の軍を追い払って武田へと寝返った。

この突然の裏切りに信長は激怒した。信長だけではなく、おつやの方の裏切りは東美濃にいる遠山諸氏たちも反発した。

同年十二月には上村合戦が行われたと言われているが、上村合戦は元亀元年と元亀三年の二説があり、いまだはっきりとしていない。


「身内の裏切りですから、徹底的にやるでしょう。東美濃の支配も確立出来ますから」


「確たる証拠はあるのか?」


「はい。静子軍はいくさの準備を進めていると報告が上がっています。兵の鍛錬も行っていますので、間違いはないかと思われます」


一見筋が通っている話だが、家康は安易に信じられなかった。半蔵の報告から静子軍は静子と信長が手塩にかけて育てた軍だ。

目の前に武田という脅威が迫っている中、身内の尻ぬぐいに静子軍を投入するとはとても考えられなかった。


「分かった。ともかく武田をなんとかする。まずはそれを考えよう」


だが言葉とは裏腹に、武田をどうにかする策は何も思いつかなかった。







十一月下旬ともなれば、織田家内には緊迫した雰囲気が蔓延していた。聞こえてくるのは武田軍の快進撃の報のみ、それ以外の明るい話題が皆無であったためだ。

このままでは武田という化け物に全てが飲み込まれる。気の早い人間は絶望にも似た思いを抱えていた。この頃になっても信長は明確に武田と戦う意思を見せなかった。

一見、信長の行動は弱腰に見える。だが相手が武田なら、たとえ信長でも慎重にならざるを得ないと、みな理解していた。


そんな中、静子は書類と格闘していた。次々に運び込まれる物資のチェックにてんてこ舞いだった。だがどれもが重要な物資ゆえ、一つでもおろそかに出来なかった。


(銃の部品がまだ足りない。このままの計算で行けば500ほど不足する)


悩んだ末に、静子はノルマを倍にして達成した者には普段より多くの報奨金を与えることにした。

一部の熟練工ならば期待に応えてくれるだろう、これでギリギリ部品が必要数に達する見込みだ。

小姓に金子が保管されている蔵の鍵と、増産の指示書を一緒に投げ渡すと静子は次の書類に取り掛かった。

甲冑の下に着こむ装備について生産自体は間に合っているものの、余裕が全くない状態だった。

悩みに悩んだ末に、やはり予備は必要だと判断して数週間の増産を指示した。こちらについてもノルマの倍を達成した者に多額の報奨金を約束する。


「ちょっとどころではないブラック労働になるけど、この数週間は我慢して貰う他ないね」


悪い噂ほど足が速い。武田が総力を挙げて徳川領を攻めている、その噂はあっという間に広まっていた。そして徳川の次は織田になると民が思うのは無理からぬことだった。

それゆえ武田との決戦が避けられないという事は、織田領内では公然の秘密だった。

今更隠し立てしても意味がないため、静子は逆にそれを利用して戦時動員に等しい無理を押し付けていた。

無理を強いているのは理解しているが、武田に蹂躙されれば死ぬより他はない。それこそ死ぬ気で働いて貰うしかなかった。


「あ゛〜、これで間に合うかも……向こうはもっと大変だけどね」


全ての書類を決裁し終えた静子は机に突っ伏した。兵士への訓練は森可成が担当しているため、あちらは別の意味で地獄を味わっていた。

普段厳しい訓練を課されている静子直轄の部隊ですら、可成の訓練は訓練ではなく殺しに掛かっている、とぼやくほどだった。

長可など普段ならば夜だけは元気だと言うのに、可成の訓練に参加してと言うもの夕餉前に戻って風呂と飯を済ませるとそのまま布団に倒れ込んでいた。


「玄朗じいちゃんは苦労してそうだなぁ」


玄朗は見込みのある兵士1000人を選び抜いて、鉄砲衆として組織した。

しかし生え抜きで結束力の高い弓騎兵隊とは異なり、色々な部隊から引き抜いた寄り合い所帯であるため、最初はギクシャクとしてまともに部隊運用できなかった。

この頃、ようやく結束を見せ始めたが、今も問題が絶えない。その事もあって訓練に大幅な遅れが出ていた。予定では終えているはずの訓練が、未だに半分以上も残っていた。

その事に頭を悩ませていた静子だが、ふと妙案が浮かんだ。間者対策にもなると思った静子は、訓練予定を大きく書き換えた。

進捗が悪いことが逆に幸いして、訓練内容を切り替えた影響は殆どなかった。


「後は時が満ちるのを待つのみ、か」


少し計画を修正したが、このままいけば形になるのは十二月十日前後になる見込みだ。その頃になれば、武田はもう三方ヶ原へ向かう以外の選択肢はない。

後は勝利の女神がこちらに微笑めば、織田家が勝ちを拾う事が出来る。

しかしいくさは予想のつかない事が起こる。それをどうやっていなし、自分達に都合が良いように軌道修正するか、それだけが気がかりだった。


(ああ、そう言えばもう十一月も終わりなんだ。そろそろお館様から、徳川へ後詰めを送るって話がきそうだな)


そんな事を考えているとふいに慌ただしい足音が、静子の耳に届いた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] やっとですね、史実を知るからそこの、アドバンテージを使って静子がどんな活躍するか、楽しみですね。 [気になる点] 史実と同じ事が必ずしも起こるとは、限らないとは思う。現状で静子が変えてしま…
2022/12/17 18:51 退会済み
管理
[良い点] 面白いです。徳川300年の太平、、、国民、日本人は?  幸せだった? まあ、そのギモンが吾輩は猫である。  ~なんだなぁ、、、とか考えて楽しんでいます。 [気になる点] 時節柄、豚の平和よ…
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