とあるスイッチ
タクシー運転手である男は、夜の街中をドライブがてらに走り、客を探していた。すると一人の老紳士が手を上げたので、車に乗せてあげた。時間的に、最後の客であった。
スーツ姿にステッキを持った老紳士は、乗車した時から何かに怯えるように身体をせわしなく動かしていた。男は何に怯えているのか多少の興味はあったが、余計な詮索は行わず、取留めのない話をすることで乗客の怯えを和らげようとした。老紳士はそれでも気を落ち着かせることなく、常に緊張した面持ちを崩さなかったが、男としては別にそれでもよかった。カウンセラーでもセラピストでもない男はただのタクシー運転手でしかないので、乗客を目的地にまで連れていけばいい話だった。
そして数十分後に目的の場所に着いた。降りる際に老紳士が男に語りかけた。
「さっきは私のために話しかけてくれてありがとう。お礼と言ってはなんだが、これを受け取ってくれないかね」
老紳士が鞄から取り出したのは細いスイッチのようなものだった。ペンライトのような形をしていて、光が照射される部分に親指サイズのボタンが付いている、コードはついていなかった。遠隔操作用スイッチのようだった。そのよく分からない代物を見て、男はかぶりを振った。
「いや、乗車代以外は受け取れませんよ」
男はきっぱりとその贈呈を断った。だが老紳士は予想以上に食い下がってきた。
「頼む、お願いだ。私を助けるためだと思って何も言わずに受け取ってくれ。このスイッチをどうにかしろとは言わない。ただ持っとくだけでいいんだ」
切迫した態度でスイッチをぐいぐい押しつけてくるので、男は仕方なく受け取った。スイッチを手放した老紳士は、乗り込む時とは打って変って軽やかな足取りで夜の街に消えていった。
仕事が終わった男は木造アパートに帰宅した。未婚で彼女もいない一人暮らしの男は、買ってきたビールを開けて仕事の疲れを癒した。つまみをかじり、タバコを盛大にふかし、希少な自由時間を満喫した。そして何とは無しにテレビを眺めていると、男は老紳士から貰ったスイッチのことを思い出した。
別れ際に老紳士は「絶対にこのスイッチを押してはいけない。戸棚の奥にでも隠しておいてくれ」と言っていた。だが、絶対にするなと言われたら、逆にしてしまうのが人の性。御多分にもれず、男はなんの躊躇もなくスイッチをカチリと押した。
するとバラエティ番組を放送していたテレビが突如ニュース速報に切り替わった。内容は、全世界で唯一の独裁国家であるK国が、軍事国家のA国に核ミサイルを発射したという驚くべきものだった。その非現実的なニュースに男は興奮し、手に持っていたスイッチを偶然にもまた押してしまった。するとニュース番組で続報が流れ、K国が二発目のミサイルを発射したという情報を発信した。
そのニュースを見た男は、急に酔いも興奮もさめ、右手に持っているスイッチをジッと眺めた。
『絶対にそのスイッチを押してはいけない』
老紳士の声が思い出される。そして偶然と片付けるには余りにもタイミングの良すぎる今の出来事。
鈍い光を放つペンライト型のスイッチが実はとんでもない代物なのでは、と男は思い始めた。男は慎重な足取りでそのスイッチを戸棚に隠し、明日の仕事のために早めに就寝することにした。
そのスイッチをもう一度押す勇気はなかった。
その一時間後。住宅街の一角で火事が起こった。
全焼したのは木造アパートの一室で、亡くなったのはその部屋に住むタクシー運転手の男だった。火元は消し忘れた煙草の吸殻だった。
消火にあたった消防員が全焼した部屋を散策すると、一つだけ焼け焦げが全くついていない物が転がっていた。ペンライトのようだったが、よく見るとボタンのようなものが付いているので、何かのスイッチだと分かる。
そのスイッチを見つけた消防員には特殊な性癖があり、小学生の時に、学校に設置されている非常ベルを意味もなく何度も押して周りに迷惑をかけたという前科を持っていた。そんな癖というか衝動を抑えきれるはずもない消防員は、火災現場から見つかったよく分からないスイッチをなんの躊躇もなく押した。何度も、何度も何度も押した。
カチッ。カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチッ。
その数秒後。A国の核ミサイルが全世界の主要都市に向けて一斉に発射された。