おいしそうな音
相変わらずこのショッピングモールは混んでいる。オープンしてからもう十年近く経っているはずなのに、市外からやってきた家族連れだけでなく、毎日の散歩ルートになってそうな地元の爺さん婆さんまで、バラエティ豊かな人々がひしめき合っていた。
「よし、これで秋を迎えるための服はそろったね。それじゃあ最後に、今日の晩ごはんを買いに行こう」
来美は手元のスマートフォンを注視したまま、後ろをついていっている僕に話しかけた。片方の手には化粧品や生活雑貨の入った買い物袋を提げている。大きく左右に揺れるそれは、まるで生き物でも入っているかのようだ。
「来美、前のほうも気を付けてくれよ。買ったものが人に当たりそうじゃないか」
今日の買い物で使ったクーポンの内容を確認するのに夢中なようで、後ろで見ていると危なっかしい。僕はしっかり前を向いているものの、両手に持ったLサイズの紙袋がけっこうな幅をとっているので、体を傾けたり後ろに手を回したりしてなんとか流れゆく人々をやりすごしている。
「何にしよう、晩ごはん。今日も暑かったし、がっつりスタミナがつくものでも食べたいな」
「できることなら、あんまり重たくないものにしてほしいんだけど」
「肉、多めにして、ニンニクも……」
僕の手にかかる負担は二の次だと言わんばかりに、来美は食べ物の話を続ける。
細い身体のわりに、来美は食欲旺盛だ。もう毎度のことだけど、ショッピングの最後に食料品を買った後は、手荷物の重さが倍以上になる。その食料は数日で来美か僕の腹の中へおさまってしまうので、僕はすでに幸せ太りの兆候が見えはじめている。
付き合って4ヶ月、同棲して1ヶ月、このまま大学を卒業して結婚の流れになったら、いよいよメタボまっしぐらか。でも来美の手料理はいつもおいしいからな――そんなことを考えながら、エスカレーターの近くまできた時だった。
「すみません、ちょっとよろしいですか」
「あ、はい?」
白いシャツに黒いパンツを身に着けた会社員のような男に、来美が呼び止められた。よくエスカレーターの近くに陣取っている、ウォーターサーバーの販売員だろうか。普段なら呼びかけられても空気のように横をすり抜けていく来美なんだけど、今回は相手がエスカレーターの入り口をふさぐように近づいてきたので、そうはいかなかったようだ。
周りを確認してみると、この男の他にも同じ服装をした男性がエスカレーターの近くに二人いる。こっちを見て笑っているけど、なんだかぎこちない。いつもの販売員と比べて明らかに素人くさい感じがした。
「ねえ白斗、二千円分のお食事券がもらえるんだって。10分程度しかかからないみたいだし、やってみよ?」
どうやら、状況を確認している間にことは進んでしまっていたようだ。
「お食事券がもらえるって? それに10分程度って、何をやるのかちゃんと聞いたの」
「それについては私が説明しましょう」
僕と来美の間に入るようにして、男が話しかけてきた。手にはタブレットを持っていて、そこには大学の授業でよく見る簡素なスライドが表示されていた。
「我々は大学院で食事と脳の研究をしておりまして、簡単に言うと、食事に関する音が人間の食欲や味覚にどのような影響を与えるのか、その関連性を調査しているのです」
「食事と脳の研究?」
なるほど、この人たちは大学院の研究生だったのか。だったらこのシンプルすぎる服装も納得がいく。
「数分ほどですね、料理をしている音とか、食事をとっている音を、目隠しをした状態で聞いていただきます。その間、被験者の方々には脳波を測定する機械を頭にかぶってもらい、読み取った脳波から、どんな味覚を感じたのか、あるいはどんな感情をもったのか、解析するのです」
「おもしろそうじゃない、白斗」
来美はすでに乗り気だ。もっともそのやる気は、大部分がお食事券によるものなのだろうが。
「実験への参加は匿名で結構です。年齢や性別など、簡単な項目のアンケートに答えていただければ十分です。いかがです、参加していただけますか」
研究生と来美、ふたつの熱いまなざしを向けられて、僕は手荷物をぶら下げたまま、わかりましたと答えるしかなかった。
それから僕と来美はショッピングモールのラウンジへと案内された。ラウンジをまるまる貸し切って実験をしているらしい。入り口の上には『実験ブース』と簡素な張り紙がしてあった。
「けっこう大規模な研究なのかな」
来美が感想を漏らすのと同時に、ラウンジの扉から大学生ぐらいの女子がふたり出てきた。
「どうも、ご協力ありがとうございました」
出口付近にいた研究生の一人が、感謝を述べながら彼女らにお食事券を手渡していた。
ふたりは小さくうなずいて受け取っていたが、少し表情が強張っている。僕の横を通り過ぎたあとで、なにやらひそひそと喋っているのが聞こえた。
「次の方、どうぞこちらへ」
「あ、もう私たちの番なんだ。待たなくてよかったー」
来美はぜんぜん不安を感じてないらしい。出て行った二人と入れ替わるようにして、僕らはラウンジの中へと入った。
中にあったのは大方予想通りの――いや、イメージ通りと言うべきだろうか。様々なコードがつながれた椅子に、たくさんのモニター、そして脳波を測定すると思われる点々と穴の開いたヘルメットのようなものが椅子の上にあった。
窓のブラインドは全て降ろされていて照明も薄暗い。ラウンジのゆったりとした、余裕のある大人の休憩所みたいな雰囲気はどこかへ行ってしまっている。
「すっごい、本格的だね。大学院の研究ってこんなのが使えるんだ」
大学院研究室の実態を知らない僕には、そうだね、としか返せなかった。
「ではさっそく実験を始めましょう。おふたりとも、椅子に腰かけて、アイマスクを着用してください。ヘッドセットは我々が装着いたしますので」
言われたとおりにゴテゴテとした椅子に座り、顔の上半分を覆いつくすようなデカいアイマスクを装着した。これで目の前は完全に真っ暗だ。
「ヘッドセットを装着しますね。そのまま楽にしてください、30秒後に音声が流れます」
直後に、何かが頭の上に覆いかぶさり、両耳にぴったりくっつくヘッドフォンの感触が伝わった。しん、とした無音の空間がしばらく続く。
……パチパチ。
研究生が言った通り、次第に音が聞こえてきた。
パチ、パチ、ジュー。
なんの音だろう。何かが焼けている。食べ物と言うからには……焼き魚だろうか?
香ばしいにおいがしそうな音がしばらく続いたあと、わずかに音声が途切れ、また次の音が鳴りはじめた。
ジュワアアア。
あっ、これはわかる。天ぷらだ。いや、もしかしたら他の揚げ物かも。唐揚げとかだったりして。
ジュウウ、ジュウウウウッ。
おお、これは焼肉かな。なるほど、たしかに音だけでも、おいしそうな感じが伝わってくるような気がする。
トントントントン。ザクッ。ザクッ。
何だろうこれは……あっ、わかったぞ。キャベツの千切り、そしてトンカツだ!
次々と流される、おいしそうな音。数分が経過しただろうか、僕はすっかり夢中になってしまって、口の中は生唾であふれそうになっていた。
バキッ。
ん? これは。
ポキッ、ポキッ。
何かが折れている。骨かな。
グブッ、ビリッ。クチャクチャ。
噛み付いて……咀嚼している? なんだこれは、生で何かを食べてるのか。
今までとは雰囲気がまるで違う音だ。なんかグロい。咀嚼音がやたらはっきり聞こえるし。
口の中にあった生唾が引っ込んで、渇きすら感じるようになった、その直後だった。
ヤメテ。
えっ、声?
コナイデ。
人の声が……聞こえなかったか?
グチャッ。イタイ! ガブッ。ハナシテ!
聞き間違いじゃない。誰の声だ。いったい何が起こって――
ダレカ、ダレカ、タスケテエエエエ!
声は絶叫となり、僕の耳を貫いた。
「うわああああっ!」
たまらず椅子から飛び上がった。その拍子に、頭に取り付けられていた機器が脱げてしまった。
「ようやく特定できましたね」
「愛蔵大学の学生だったとは」
誰かの声がしたが、僕は視界を遮るアイマスクを取り外すのに夢中だった。
アイマスクを放り投げたあと目の前に現れたのは、堅苦しい制服を着た3人の男。その制服の左胸にあるバッジを見て、正体はすぐにわかった。警察だ。
「ご協力ありがとうございます。おかげで、我々の捜査がようやく実を結びました。」
声を聴いて、ようやく3人のうちのひとりが、先ほどまで話をしていた研究生の一人だとわかった。しかし、今までの雰囲気とは違い、慌てふためく僕を見る目は極めて冷静だった。
「あ、あなたたちは、警察の方々だったんですか」
「申し訳ありませんでした。素性を偽ったのは、この捜査を行うにあたってどうしても必要だったからです」
律儀にも、目の前の男は警察手帳を取り出し、僕に見せてくれた。段々と落ち着きを取り戻した僕は、静かに質問を口にする。
「警察が正体を隠してまで、なぜこんなことを」
「我々はある事件を追っていたのです。それも常軌を逸した、恐ろしい猟奇連続殺人を」
「り、猟奇連続殺人、ですか……」
「その犯行には明確な特徴がありました。被害者を殺害した後……あるいは生きたまま、その肉を食べていたのです」
舌の奥がけいれんを起こした。知らなかった。そんな恐ろしいやつが、この近所にいるっていうのか。
「犯人は痕跡を消すのが得意なうえに、用心深さも相当なもので、今までの捜査では外見の特徴をつかむことすら困難でした。唯一の手がかりは、被害者の体に付着した唾液からわかった、おおよその年代と性別、そして食人に強い執着を持っているという異常性のみ」
化物だ。僕は絶対に関わりたくない、そして来美にも関わらせたくない。僕たちは無関係だ。これは警察がどうにかする事件じゃないのか。
「ですから我々は大学院の研究を偽装して、このような捜査を行っていたのです。事件が起きているエリア内の女子大生に手当たり次第参加してもらうという、スマートとは言えない方法でしたが……」
「ですから、それが僕たちに何の関係があるというんですか!」
淡々とした口調で現実味のない言葉を並べ立てられ、僕はうんざりしていた。この場からとにかく立ち去りたかった。
研究と見せかけた捜査だって? 僕たち学生を騙して、怖い思いをさせて、いったいどんな成果が得られるって言うんだ。
「パブロフの犬をご存じですか。餌の時間に呼び鈴を鳴らすことを習慣にしていたら、その犬は呼び鈴を鳴らすだけで涎を垂らし始めるという現象です。我々の捜査はこれを応用して……」
「知りませんよ、とにかくもう帰らせてください!」
「とにかく、これで捜査は終了しました。あなたには謝礼をお送りしましょう。この結果はあなたにとって残念……いや、幸運だったと言うべきでしょうか」
「もう結構です、お食事券もいりませんから! 来美、帰ろう!」
そう言って隣の座っている来美を見たとき、僕はようやく気がついた。
来美の頭に、まだあのヘッドセットがのっかっていることを。
そしてその口からは、絶え間なく涎が溢れていた。
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