第77話 彼が知る真実(4)
ふわふわと、まるで雲の上にいるような感覚に唯舞はそっと瞼を開ける。
今、唯舞がいるのは宿舎のラウンジホールのソファだ。
目の前にはアヤセがいて、彼の手元には自分のスマホがある。
『イブ?』
白猫のブランが膝元で心配そうに声をかけ、黒猫のノアも唯舞の肩口に登るとその柔らかな毛並みを押し付けるようにすり寄せてきた。
(……そうだ、スマホを理力保存してくれるって話だった)
意識はまだ靄めいているが、レヂ公国から帰国した翌日の夜に、アヤセからラウンジホールに呼び出されたことを思い出す。
唯舞からスマホを受け取りラウンジのソファに腰を下ろしたアヤセは、手のひらサイズの氷の結晶型魔方陣を三つほど展開させ、理力をこめた。
その影響か、アヤセのアイスブルーの目が宝石のようにきらきらと輝いて、とても綺麗だ。
「――これでいい。……なんだ? ぼうっとして」
「……ぁ、いえ! すいません、ありがとうございます」
差し出されたスマホを慌てて受け取り、電源を入れてみる。
いつも通りに動き出したスマホに、ほっとしたのか、心からの笑みが零れた。
「これで、深紅さんのスマホと同じようにずっと使えるんですよね」
「あぁ、三重の理力掛けをしたから半永久的に問題はない」
「そう、ですか。本当に……本当にありがとうございます、中佐」
両手でスマホを胸に抱いた唯舞は、泣きそうな微笑みを浮かべてアヤセに頭を下げる。
イエットワーには日常的に頭を下げる文化はない。
だから唯舞のこの行動は実に不思議なものだが、あまりにも自然に深く頭を垂れるから、その仕草に、育ちだけではない心からの礼節さも滲んで見えた。
(そういえば、"すみません"もだったか)
本当に不思議な異界人だと思う。
芯が強く、礼儀正しく、それでいてどこか儚げで脆くて。
そう思ってたら自然と手が唯舞の髪に触れていた。
「?」
「泣くかと思ったが、泣かなかったな」
少しだけ口角の上がるアヤセが意地悪く見えたのか、少々不満げな顔がふいっと横を向いてしまう。
可愛らしい唯舞の抵抗に、喉の奥で笑いを噛み殺したアヤセは使い魔達の名前を呼んで唯舞から手を離した。
『はい、マスター!』
『お呼びですか?』
「お前達、理力の補充は必要か?」
そう作り主から尋ねられた黒と白の仔猫は一瞬きょとんとする。
彼らは元々理力で作られた存在なのだ。
今は仔猫の形をとっているが、本来は姿を持たない理力であり、物体としての姿を持つだけで本来は理力を消費している。
だから定期的な理力の補充が必要なのだが、それに対し二匹は互いを見合いながら不思議そうに首を傾げた。
『そういえばブラン、僕達……理力を全然消費してないよね?』
『うん……全然してない。どちらかといったら理力はいつも満タンだよ。イブの中はお日様みたいに温かくて、ぽかぽかしてて、中にいるだけで理力が回復してるみたい』
「……理力が、回復?」
理力を持たない唯舞が理力を回復させる。
思えばこの時にもっと違和感を持つべきだったのかもしれないと後にアヤセは思うのだが、それはアインセル連邦に行くまで深く言及されることはなかった。
*
微睡む意識で唯舞はゆるゆると瞼を持ち上げる。
ぼーっとした視界にカイリが映って、吐息に近い小さな声でカイリの名を呼べば彼の表情に安堵が浮かんだ。
「イブちゃん! 良かった……っ目が覚めたのね」
その声に反応して、ラタンチェアに身を預けていたアヤセもゆっくりと目を開く。
外はもう夕暮れ時なのか、窓の外はすっかり茜色に染まっていた。
「エドも起きたか、気分は?」
オーウェンの声にエドヴァルトも目覚めたことを知る。
カイリに抱き起こされる形で上体を起こした唯舞を、エドヴァルトの瞳がゆっくりと追い、ほっとしたように表情が和らいだ。
「嬢ちゃんはもう大丈夫だ。アヤ坊も必要なかった。お前が、救ったんだよ……エドヴァルト」
オーウェンの言葉に、表情を歪めたエドヴァルトは両腕で顔を覆うようにして泣きそうな声を吐息に漏らす。
"救った"
"救えた"
三度目にしてようやく。
自分は三度目にしてようやく世界に手が届いたのだ。
ぐっと握った拳が過去の喪失を思い起こさせる。
それでも、ようやく、ひとり。
「ほんと、唯舞ちゃんが無事でよかった……ッ」
かすかに震えるその声にはエドヴァルトの長すぎる歳月の悔恨が込められていて。
深い後悔と同じだけの安堵感に、誰も何も言うことはなく。
ただ静かに、静かに。
夕暮れだけが、そっと通り過ぎていった。




