第73話 異文化文化(10)
滲むように水平線の向こうから今年最後の太陽がゆっくりと顔を出す。
「おー……間に合ったなー」
「あら、オーウェンにあーちゃん。起きたの?」
カイリ達の背後からアヤセとオーウェンが姿を現した。
本来なら今日の午前と午後に分かれて再契約に行くつもりだったが、昨夜はアヤセと唯舞のちょっとした諍いがあったので、彼らは先発隊として夜のうちにそれぞれの再契約に向かったのだ。
「無事終わった?」
「おぅ、今回はアヤ坊が送ってくれたからな。12時過ぎには戻ってこれたぜ」
北の氷河地帯が契約地のアヤセと南の大樹林が契約地のオーウェンでは本当なら向かう場所が真逆なのだが、今回は昨夜のことでオーウェンに借りがある以上、アヤセも不満を言うことなく彼を契約地まで送り届けたらしい。
精霊との契約というのは、基本的にはその属性が強い地に赴いて行うのが一般的で、妖精の位が高くなるほど契約期間も短くなる。
高位以上の精霊契約を結ぶアルプトラオムの面々は常に短い期間での契約を余儀なくされたが、それを逆手にとって、いつしか仲間と小旅行をすることがヤーレスエンデの恒例行事にもなっていた。
以前、レヂ公国に行った際、アヤセが大公アーサーから二年ぶりだとと言われたのは、前回の契約はレヂ公国でおこなったからである。
「アヤちゃん。理力の回復はどう?」
北から南の移動となれば、そこそこ理力も消費するだろうとエドヴァルトが声を掛けるが、問題ない、とアヤセはそっけなく答える。
瞬時移動は取り扱いも理力の消費も激しい高難易度のものだ。特に他者を連れての移動など、カイリやオーウェンでさえ精々市街地内でしか移動はできない。
それなのに理力が潤沢にあるアヤセやエドヴァルトならば複数人連れてでも国中を移動することが出来るのだから、誰が何と言おうとも、二人はやはり化け物の中の化け物だった。
12時に戻ってきて休息が6時間あったからか、今のアヤセの意識はロウと楽しげに話す唯舞に向いている。
オーウェンに諭されたからか、僅かな不機嫌さを見せても、アヤセが唯舞に対してもロウに対しても何かを言うことはなかった。
ふいにどこからか複数の弦が奏でる音楽が聞こえ、異世界にはありえない聞き馴染みのあるメロディーにロウと楽しげに話していた唯舞の表情がぴたりと固まる。
「イブさん?」
「……イブちゃん?」
不審に思ったロウとカイリが唯舞に声を掛けるが、唯舞は心ここにあらずといったように震えがちに呟いた。
「こ、の曲……」
柔らかい弦の音色。それがゆっくりと合わさると魂が震えた。
唯舞の問いに対して答えたのはロウだ。
「あぁ、これはヤーレスエンデの名物曲なんだ。なんでも奏者がリドミンゲル旅行中に一度しか聴けなかった歌らしいんだけど。10年以上前の皇都で、歌われてたって」
「――!」
その瞬間、唯舞の手にしたカップがカタカタと揺れ、思わずカイリが唯舞の手からカップを取りあげる。
「イブちゃん? ……イブちゃん?!」
どこかカイリの声が遠い。はっきりと名前を呼ばれているのは分かるのに応えることが出来ない。
(……10年以上前に……リドミンゲル皇国の、皇都で……歌われていた……?)
震える手が、コートのポケット越しに一台のスマホに触れる。
封本に入れられた10年以上前のピンク色のスマホを、唯舞はどうしても手放せずにずっと持ち歩いていたのだ。
異変に気付いたアヤセ達がそばに寄ってきても、唯舞は流れてくる音楽にしか反応することが出来ない。
その懐かしい旋律に、唯舞は取り出したスマホをぎゅっと胸の前で抱きしめた。
知らず知らずにこぼれる涙にロウがぎょっとするのが分かる。
でも、止められない。止められないのだ。
この曲を――この曲を歌ったのは、間違いなく深紅だから。
人前で歌うのは苦手だったのに。それなのに、気が付いたら旋律に歌が乗っていた。
まさかこんなところで聞くとは思わなかったのだ。
こんな異世界で、100年以上も地球で愛され、歌い継がれてきたこの曲が生きているなんて。
涙が溢れて、止まらなくなる。
この曲を、――組曲「惑星」より木星――を、また聴ける日が来るなんて。
 




