第68話 異文化交流(5)
「はぁぁぁぁ…………」
カポーン、と、ししおどしの幻聴でも聴こえてきそうな石造りの露天風呂。
そのやや熱めの湯に身を沈めながら、唯舞は盛大に幸福なため息をついた。
普段暮らすザールムガンド帝国はシャワー文化なのでお湯をためて浸かるという習慣はなく、そもそも宿舎のシャワー室には湯船そのものがない。
だからこうして湯に浸かるのは、日本以来の、実に二か月ぶりのことだった。
女将の配慮で一時間だけ貸切にしてくれるというこの広々とした豪勢な湯船は、今は唯舞だけのものだ。
美人の湯と謳われた水質は少しとろみのある滑らかな肌触りで、腕を撫でるよう触れれば絡みつくようにお湯が流れていく。蕩けるように両手を縁に預けて顔を乗せれば、心の底から幸せな気分になった。
「やっぱり、日本文化はいいなぁ……」
自分がリドミンゲル皇国に命を狙われている以上、アヤセ達アルプトラオムのそばにいるのが一番安全で正しいことなのは理解している。
アインセル連邦に来たのだって、彼らに理力を貸してくれる精霊との再契約のためだ。
それでも、一度思い出した過ごしやすさには抗いがたい気持ちがどうしてもある。
おにぎりも、緑茶も、お惣菜も、温泉も。
全て、ザールムガンド帝国では中々手に入れられないものばかりだ。
日本に帰れないと思っていた唯舞にとってのこの国は、あまりにも居心地が良くて、優しすぎて。
やっぱり帰りたくないなぁ……という一言は誰にも聞かれず、湯気と一緒に空へと溶けていった。
*
「……あれ? 中佐?」
唯舞が温泉から上がったら出入口付近の長椅子で待っていたのはアヤセだった。唯舞の声に、視線を向けたアヤセの目が、ふと止まる。
風呂上がりの唯舞の肌は全体的に淡く輝き、頬は薄桃色に上気して、少し熱を帯びたような色香さえも感じてしまう。しかも見慣れない服装が、何故か不思議なくらい煽情的に見えた。
「……その服は」
「え? あ、浴衣ですか? 女将さんが貸してくれて、久しぶりだったから着ちゃいました。こういう旅館とかホテルでしか着る機会ってないので」
嬉しそうに笑った唯舞は長い髪をひとつまとめにしている。
普段と違う服装もさながら、いつもは髪の毛で隠されている白い首筋が無防備に曝されて、思わず首筋、鎖骨、と目線が泳いだアヤセは意識を振り払うように、行くぞ、と踵を返した。
これ以上唯舞を直視するのは危険だと、本能が告げたからだ。
唯舞がアヤセの背中を追って廊下を進めば、ふいに聞き覚えのある威勢のいい声が唯舞を呼び止める。
「お! さっきのおにぎり嬢ちゃんじゃねぇか! なんだ浴衣も着たのか、似合ってるぜ!」
「……リッツェンさん?」
飲み物が売られている小さな休憩所には長椅子に腰かける赤帽子のにぎり屋リッツェンの姿があった。
風呂上りなのかタオルを肩に掛け、少々着崩した浴衣姿のリッツェンの隣には少し日に焼けた肌に赤銅色の髪が映える、いかにも活発げな青年がいる。
だが、彼は一度唯舞を見るなり、まるで惚けるように固まってしまった。
「……親父、知り合いか?」
「さっき話しただろう! ザールムガンドから来たっていうのにうちの文化に馴染みまくってるおにぎり嬢ちゃんだ」
「おにぎり嬢ちゃんは、ちょっと…………えと、唯舞といいます」
「がっははー! そういえば名前聞いてなかったな! イブちゃんか。……ん? もしかして露天風呂に行ってたのか?」
「はい、私だけ。すごく気持ち良かったです」
「さすがだな! 普通、他国人は温泉には入らんのだが。おぉ、そうだ忘れてた。倅のロウだ。これもなにかの縁、よろしくしてやってくれ」
そう言ってリッツェンがガシガシと豪快にロウの髪を撫でれば、唯舞を凝視していたロウがハッと嫌がるように顔を顰めた。
「ちょ、やめろよ親父! ガキ扱いすんな!」
「なぁにいっちょ前に言ってんだ! この前20になったばかりの若造が! 俺からみたらまだまだガキじゃねぇか!」
父親の手から逃げるように立ち上がったロウは、気恥ずかしそうに髪を整えながら再度唯舞のほうを見る。
どこかその視線は熱っぽくて、なんとなくアヤセは嫌な予感がした。
視線に気付いた唯舞が軽く首を傾ければ、顔を赤らめたロウがつかつかと歩いてきて唯舞の両手をガシッと掴む。
人に好かれそうな、まるで子犬のような彼の目は、熱に浮かされているけど真剣で。
だが、あまりにも簡単に唯舞に触れるロウに対し、アヤセが眉を顰めて制止しようとした、その時だった。
「あの、さ! ――俺と結婚してほしいんだけど!」
「…………へ?」
告白を通り越したまさかのプロポーズに、休憩室の空気と一緒にアヤセも固まる。
ロウに手を掴まれたまま、唯舞はぽかんと口を開けた。
「や! 違……っわねーんだけど! 付き合って、って言いたかったのに……!」
慌てふためくロウにアヤセの視線が鋭さを増す。
感情が音もなく冷えていき、あっという間に凍りついたのが、手に取るように分かった。




