第157話 神の降臨(4)
ふむ、と一拍置いて天照大神は言葉を続ける。
―― そなたらがこの世界に残るというのなら、少々考えるかの。この世界を再生することは出来るが、わらわの力で再生させるよりも……新しい女神を作ったほうが良いかもしれぬ。
「それ、は……!」
そうさせないために、わざわざ天照大神を喚んだというのに。
そんな唯舞の動揺を察したのか、女神は双眸を緩ませた。
―― あぁそう案ずるな。お前はその身に宿る我らの恩恵を捧げればよいだけじゃ。その代償に、その身からは神々の息吹と加護の全てが失われる。お前はもう二度と、故郷の大地を踏むこともない。それでも、よいのだな?
二度と、帰れない。
覚悟していた言葉に僅かに体が強張った。後悔はないはずなのに、それでも何度突き付けられてもその選択には底知れぬ恐怖がある。
「唯舞」
アヤセの声が耳朶に届いて、呼吸が浅くなっていたことに気付く。
見上げるように視線を合わせれば、宥めるように髪に口づけられほっと体の力が抜けた。
その温もりは、唯舞が神々の加護と元の世界を捨ててでも望んだものだ。
「……大丈夫です」
一呼吸ついてそっとアヤセの腕から抜け出せば、深紅もエドヴァルトから離れて唯舞の隣に立ち、まっすぐに太陽神を見上げる。
そんな二人の覚悟にも似た眼差しに、天照大神は今まで振り返ることのなかったキーラに言葉を向けた。
―― そなたはともかく、自ら理の外に出た者は救えぬぞ。
キーラの膝に抱かれたファインツの命は、すでに尽きていた。自らの命を対価に理を破ったファインツは、例え天照大神であっても、救うことは出来ない。
そんな断罪に近い言葉にも、キーラはただ、いいのです、と呟く。
『尊き太陽神。この世界に新たな女神が必要ならば、残された化身の私達が女神となりましょう。……ただ、どうかひとつだけ願いを叶えて欲しいのです』
―― なんじゃ?
キーラは血に濡れたファインツの顔を慈しむように撫でる。目から光が失われたファインツの瞳は、いつも以上に濁っていた。
『どうか、兄も一緒に連れて行きたいのです。兄も、聖女の血を継ぐ者……強い太陽の加護を受けているはず。どうか……どうか、最後は愛しい人の元へ……っ』
感情を耐えるキーラの声は、最後まで嗚咽に滲まないよう皇族としての誇りが垣間見えたが、それでもその瞳にせり上がる涙は止められなかった。
そこにはただ、兄を想う妹としての願いが込められ、そんな強い願いに、天照大神も静かに目を閉じる。
―― そうじゃな……よかろう。一柱では、神とて寂しいものだからな……
そう告げた途端、キーラの目の前でファインツの体が光の粒子と弾け飛ぶ。今までの歴代聖女達と同じく、人の体は残さずに、ただ淡い光となって。
違う点といえば、霧散した光がふわふわと集まり出したことだ。
光はやがて傷ひとつないファインツの姿となり、彼の漆黒の瞳がゆっくりと開かれる。
『…………これ、は』
『お兄様……!』
思わずキーラが駆け寄り、ファインツの胸に飛び込んだ。
まるで幼子のような妹をファインツは戸惑いながらも受け止める。
『……キーラ? これは、一体……』
『もう大丈夫よお兄様! もう、ずっと一緒にいられるわ……ほら……っ』
その言葉に導かれるように目線をやれば、ファインツの瞳がある一点で止まった。
ふわりと揺れる長い髪。かつて聖女と散った、ファインツの最愛の存在が37年前と変わらぬままに名前を呼ぶ。
『ファインツ様』
『ケ……イ……?』
目の前にふわりと舞い降り現れたケイコは、そっとファインツの手を取って笑った。
『もう、相変わらず無茶ばかりして。私が止めたの、忘れたんでしょう』
『…………忘れては、いない』
『ふふ、おねえさま。いっぱいお兄様を叱ってやってくださいね。お兄様ったらおねえさまの話しか聞かないの』
妹の言葉に、ファインツが少々バツの悪そうな顔をして目線をそらせば、それを見たケイコもまた楽しげに笑う。
『それは大変。でももう大丈夫よキーラ。今度は時間がいっぱいあるもの。――ねぇファインツ様、今まで話せなかったことも、伝えられなかったことも、全部、聞いてくれる……?』
そう見上げてくるケイコに、ファインツが初めて相貌を崩して小さく微笑んだ。
誰も見たことのない、穏やかな笑みだ。
『あぁ……いつまでも付き合おう、ケイ。お前の望むままに』
そう言ってファインツはケイコを強く抱きしめる。もう二度と離れぬよう、確かな温もりを逃がさぬように、きつく、きつく閉じ込める。
それに対しケイコは少し苦しそうに笑いながらもそっとその背中を抱きしめた。
二人の姿が柔らかな光となり祝福されるように大気にゆっくりと溶けていく。
「……伯父上……」
今までのことを、決して許せるとは言えない。それでも、彼もまた被害者なのだとエドヴァルトは理解している。
だから――
今生の別れは交わせなくとも、光と散った宙に向かって、最期の別れだけはそっと胸の内で呟いた。