第156話 神の降臨(3)
――選択の時だ。
このイエットワーに残るのか、それとも、日本に還るのか。
『……唯舞』
「深紅ちゃん……」
互いの瞳が揺れる。
深紅を太陽の化身から人に戻し、日本にも、エドヴァルトの元にも返してあげたい。
そう願うけれど……
「私達は、元の世界のどの時間に戻るんですか……?」
2012年に召喚された深紅と2025年に召喚された唯舞では生きていた時代が異なる。
もしもそのまま日本にいたら、巡り合うこともなかったかもしれない。
―― そうさな。それぞれ、この世界に来た時と同じ時間に戻そうかの。二人して半年しかこの世界におらなんだ。それならば元に戻すことも容易いて。
『……記憶は?』
―― 残すも、消すも、好きにするがよい。最も、覚えておれば苦しむじゃろうがな。
二人の子らに寄り添う異界の男達を眺めて、太陽神――天照大神は静かに答えた。
以前と変わらぬ生活が送れると言いながらも、柔らかな声色で紡がれるのはあまりにも酷な選択だ。
それが分かっているから、アヤセもエドヴァルトも、今はただ黙って見守る他ない。
『――――……私は、残る』
最初に決断したのは深紅だ。
18歳の少女が選ぶにはあまりにも重い選択なのに、それでも深紅の瞳は、凛とした強い意志を持って真っすぐに天照大神を見上げている。
『だから唯舞も、自分のことだけ考えて。私は、私の意志でこの世界に残る。……例え、人に戻れなくてもね』
「深紅ちゃん……」
ほう、と天照大神は薄く目を細めた。
この世界に残るというのなら人の身には戻さぬと告げようとした矢先、自らその可能性さえも潰すとは。
やはり人の子は面白いとにたりと口が歪みそうになり、意識してそれを緩やかな微笑みに変える。
深紅の強い決断に、唯舞はぎゅっとアヤセの腕を掴んだ。
目線の先にはまだゆらゆらと元の世界が水鏡のように揺れ、手を伸ばせば届く距離にある。
それなのに選べる選択は、いつだって一つしかない。
「……もし……もしも、帰らなかったら。……私達の存在はあちらの世界ではどうなるんですか?」
それは、唯舞がこの世界に来てから最も危惧していたことだ。
あの夜を境に消えてしまった唯舞を、今もまだ家族が探しているのかもしれない。
帰らぬ唯舞を、この先何十年と両親が探し続けるのかもしれない。
そう思ったら、選択に不安と迷いが入り混じる。
―― ……そうじゃの。全て記憶から消え、露と消えるじゃろうな。最初からおらぬ者として。
そんな無慈悲にも思える天照大神の答えにさえ、どこかほっとした。
苦しさは消えない。
けれど、唯舞の存在が家族の未来に影響を落とさないというのなら、それはほんの少しの救いにも思えた。
――例え家族の記憶から自分が消えてしまっても、自分があの温もりを忘れなければ、それでいい。
そう受け入れた唯舞は、どこか儚く、それでいて穏やかに微笑む。
「……残ります。この世界に」
―― …………そうか。命枯れし哀れな世界が捨てられぬか。さすがは強き名を持つ娘らじゃ、面白いの。
「……名前?」
唯舞と深紅が首を傾げる。
確かに二人とも、日本人にしてはかなり珍しい類いの名前という自覚はあったが、強き願いとは一体どういうことなのだろう。
ふいに女神は、楽しげに笑う。
―― 子に名付けを行う時、その名には"言霊"が宿る。故に、かつては名を真名と呼び、近しい者以外には明らかにはせんかっただろう?
『…………そうなの?』
「うん。歴史的にはそういう時代もあったよ」
こっそり聞いてくる深紅に唯舞は頷く。
それを見て天照大神は深紅に尋ねた。
―― お主の名の由来はなんじゃ?
『え? 由来? ……えぇっと、ママが深紅の薔薇が好きだったのと、昔は高貴さや美しさを表す名前で、生命の象徴だったって……』
深紅の言葉に、女神は口に弧を描き笑みを深める。
―― ふふ、良き名じゃの、深紅。……では、そなたは?
その見透かすような視線に、唯舞は女神の言わんとすることに気付いてしまった。
「――クリスマスイブが誕生日で……それと、イブという言葉には生命を与えるもの……という意味もあって、誰かを助けられる子になるように、と……」
その答えに、天照大神は満足げに微笑む。
―― そうじゃ。そなたらの名には生命が深く流れておる。故にこの世界でも願いが反転せぬ稀有な存在じゃった。――とりわけ唯舞。そなたの姓はわらわの水と大地を冠する水原。名はかつてわらわを"天岩戸"から誘い出した"天細女命"を示す唯舞。まさに強き名故に太陽神を喚び、またしてもわらわは舞い手に誘い出されたというわけじゃ。
大地に生命を与え喚ぶ、唯一の舞い手――水原唯舞とはなんとも強い名じゃの、と太陽神は笑う。
それを聞いた唯舞も、深紅も。
なんとなく自分達がこの世界に喚ばれた理由が分かったような気がした。
そしてそれと同時に、自分達は神々だけではなく、名に込められた両親の祈りによってずっと守られていたのだと、この時になって初めて気付くのだ。




