第155話 神の降臨(2)
まるで春風のような清涼な空気が聖堂内に満たされる。
眠った息吹さえも目覚める光と、世界を焦がすような熱を孕んだ輝きは、人の身にはあまりにも眩い。
そんな天照大神と対峙した唯舞と深紅は、本能的に畏怖を感じながらも決して視線をそらそうとはしなかった。
全ての元凶は、アヤセ曰く、物忘れの激しいこの女神のせいなのだから。
しばらく二人を眺めていた女神が、何かに気付いたように声を上げる。
―― おぉ、どこかで見たことがあると思うたら、この世界はわらわのか。
「……思い出していただけて、何よりです……」
『できれば、自力で思い出して欲しかったんだけどねー……』
驚きを含んだ目で自分達を眺める女神を見て、疲れたように唯舞と深紅が口にした。
降臨の余波で体は癒されたというのに、精神疲労だけがずっしりとのしかかる。
―― そうかそうか。まれにわらわを喚ぶ声がすると思うたらこの世界じゃったのだな。
『なにそれ。気付いてたんならもっと早く応えて欲しかったんだけど』
―― そうは言うても、わらわにとっては花びらが髪に舞い落ちた程度の呼びかけじゃ。故にさほど気にも留めなんだ。
『うわぁぁ……スケールが違い過ぎてやだぁ……』
アヤセと同じく瞬時移動でそばまで来たエドヴァルトに深紅は疲れたように体を寄せる。触れられはしないが、それでもぬくもりを感じて脱力したように肩から力が抜けた。
今までの歴代聖女達含めた命がけのやりとりが女神にとってはそんなに軽いものだったなんてあんまりすぎる。
「――……この世界を、何とかできませんか?」
唯舞の声に天照大神の視線が動き、そんな女神を唯舞は真っすぐに見つめた。
「この世界に猶予はありません。あまりにも貴女から離れすぎたこの世界は終焉を辿り、多くの命が……失われました。……でも、それでもまだ、この世界で生きている人たちがいるんです」
唯舞の話を天照大神は表情を変えることなく静かに聞き入る。
太陽神が降臨したことでこの世界に残された加護が騒めき、それと同時に世界の記憶が彼女に流れ込んだのだ。
人の愚かしさ、逞しさ、尊さ、愛おしさ。
例えあの時千切り捨てたカケラが混じった歪な世界だとしても、神々が愛した高天原の血は、神の手が離れた不毛の大地であっても脈々と息づいている。
そして今、目の前にいるまだあどけない高天原の小さな幼子はそんな世界を救いたいと言っているのだ。
この世界を再生することなど、天照大神にとっては造作もない。
だが、ただそれを行うのは少々面白みもないと女神は口元を緩めた。――神の悪い癖である。
―― そうじゃの。じゃが、今さら捨ておく世界を戻してなんの意味がある? そなたは太陽神を含めた神々の加護を継ぎし愛し子。…………さぁ、夢から覚める時間じゃ。わらわの世へと戻るぞ。
「……!」
思わず動揺に瞳を揺らした唯舞を見て、天照大神は慈愛の笑みを深める。
ふぁん、と水面のように時空が歪み、そこに映った景色に唯舞は思わず言葉を失って両手で口元を覆った。
ひらひらと舞い散る美しい桜並木。
雄大な自然を望む、霊峰・富士山。
そびえ立つビル群、通い慣れた通勤路。
仕事帰りによく友人と過ごした、行きつけのカフェ。
近所の公園、そしてその先にあるのは――――自宅と、家族の姿だ。
まるで水鏡のように揺れながら映るそれらは、唯舞がこの世界にきてからずっと求めていた日本の風景。
溢れるようにボロボロと涙が零れる。帰れないと言われていた世界で、やっと帰れる手段が見つかったというのに。
唯舞はもう、素直に喜べないのだ。
こんな歪んだ世界でも……かけがえのない存在が出来てしまったから。
後ずさるようにアヤセの胸に背中を預ければ、ぐっと片手で腹部を抱き寄せられる。
天照大神はそんな唯舞を見て、やはり幼子を諭すように微笑んだ。
―― しようのない子じゃ。だが、そうじゃな……お主は迷い込んだこの世界さえも救わんとする心優しき子。ならばその褒美として……この世界を浄化し、ついでにそこの加護と消えそうな娘も人に戻し、共に連れ帰ってやろうかの。……それならそなたの憂いも残るまい?
「……っ!」
この世界を癒し、深紅も一緒に日本へ連れ帰ってくれると女神は美しい微笑と共に残酷なことを言う。
だがそれは、唯舞が望む選択としては一番の最良にも思えた。
全てが昔のままに元通り。
このファンタジーに溢れた半年間さえ忘れてしまえば、またあの電車でうたた寝してしまったあの日に戻れるというのに。――――還りたかったはずなのに。
それでも今の唯舞には、その選択を選ぶことが何よりも苦しい。
強く抱きしめるアヤセの腕を、振り払うことさえ出来ないというのに。
溢れる唯舞の涙に、天照大神は、ただ……女神の微笑みで最後の問いを課した。
―― さぁ、選ぶがいい、小さき子よ。




