第142話 最後の聖女
ふわふわとした意識が歓声に揺れる。
唯舞の思考はひどくぼんやりとして、誰かに手を引かれ、子供のようにただついていく。
足元には金糸をあしらった真紅のカーペット。ヒール越しの上質な感触に、微睡みさえ深くなりそうだった。
(何、が……あったんだっけ……?)
唯舞の手を引く男は、アヤセではない。のろのろと重たい視線をあげれば、少し長めの黒髪が視界に写った。
(……大、佐……?)
唯舞にとって、この世界で黒髪といったらエドヴァルトだ。
けれど違う。
彼はエドヴァルトではないと、本能が告げた。
階段を登る。
足が止まれば、レースで顔を隠した唯舞に民衆の視線が集まった。
一際高い特設壇は――今の唯舞にとってはまさに断頭台だ。
「我が尊きリドミンゲル。そしてそこに住まう、最愛のリドミンゲルの民よ。今日という幸ある日を私達はまた共に迎えることが出来た。長き戦乱の世において、これは母なるイエットワーと精霊の導きに他ならない」
(――あぁ、そうだ……ここは……)
男の声に、ようやく唯舞は思い出す。美しい純白のドレスは唯舞のためだけにあつらえられたもの。
だが、それを喜べるはずもなかった。
ここは聖女召喚の地・リドミンゲル皇国。
唯舞は、太陽の化身と昇華する、"最後の聖女"になってしまったのだ。
*
「ぐ……っ」
押し殺したアヤセの声が漏れる。
理力封じの首輪自体は大したことはない。だが、それに刻まれた隷属の術式は厄介だった。
抵抗すれば、喉元を締め上げられ呼吸さえ許されない。
ひとり部屋に残されたアヤセは、ようやく緩んだ首輪に忌々しげな表情を浮かべる。
唯舞は、いない。
アヤセが失った理力も、まだ4割程度しか回復していない。
「回復が追いつかない……早めに脱出しないと俺も唯舞もまずいな」
アヤセの理力なら眠れば回復するが、唯舞にとってそれは――命そのもの。
失われたら戻らぬ生命力をアヤセの理力で補充しているだけで、その供給が途絶えてしまったら……唯舞の命は尽きてしまう。
昼になる少し前に、唯舞は現れたファインツにより連れて行かれた。
渡す気などなかった。だが、呼吸を奪われたアヤセを見て、唯舞は、自らファインツの元へ行ってしまったのだ。
アヤセが生かされたのは、こうやって唯舞の"首輪"となる為だろう。
「くそ……俺が足を引っ張ってどうする」
すっかり鳴りを潜めた首輪が忌々しい。
だが、アヤセがこの部屋に残されたということは、恐らくはまた、唯舞はこの部屋に戻ってくるということだ。
そうでなければアヤセを生かす意味などありはしないのだから。
アヤセは一呼吸置いて意識を集中させると、深紅につけた使い魔ブランの理力を辿る。
無数に絡み合う理力の先にうっすらとブランの気配を感じた。
「ブラン。聞こえるか」
『――マスター!』
どうやら話は出来るようだ。
「深紅は?」
『眠ってます。でも、その間に別の聖女に会いました』
「……別の聖女? 誰だ」
そう言えば深紅が言っていた。女神の同化が進むと意識が一体化するから頻度は下がるが、他の聖女もたまに意識が戻ってくるのだと。
『栗色の髪の女の人。……大佐のお母さんだって言ってました』
「――キーラ・リドミンゲルか」
そうだ。エドヴァルトの母も、日本人である初代聖女サチの血を引く聖女だ。
ブランが聖女の繭で出会ったのは、眠りについた深紅の髪を撫で、そっとそばに寄り添うキーラだった。
『僕のことを聞かれたから、イブの護衛だって言ったんです。イブの話をしてるうちに大佐とマスターの話になって……今の状況を説明したら、マスターに伝えて欲しいことがあるって頼まれて』
「……なんだ」
『――リドミンゲル皇帝の……真意です』
そう言われて思い出したのは唯舞を連れ去ったあの男の深淵。
澄み渡るように美しい琥珀色の瞳はどこか闇を含んだように淀んでいた。
戦場で聞いた話によれば、かの皇帝も聖女に運命を狂わされた男の一人だ。
『想いを伝えあったわけではなかったそうですが、当時の聖女と皇帝は、恋仲だったそうです。でも、彼女を失った後に皇帝は、自ら文献を漁り、精霊に助力を乞い、太陽の化身となった聖女と再会して世界の真理を知ったとキーラさんは言っていました』
「その聖女の名は」
『キーラさんは、"ケイコおねさま"と……』
"確か……ケイコさん、だったと思います"
昨日の唯舞の言葉が蘇る。
間違いない、そのケイコという女の存在がリドミンゲル皇帝の原動力なのだ。
「それで世界の真理とは、複数の聖女を太陽の化身とし、最終的にこの世界の女神にするためか?」
『はい。だから皇帝は、いつかケイコさんが女神となるこの世界を守ろうとしているって』
「……守りたいのは世界ではなく……その女一人だろうがな」
どこまでも不器用で愚かしいほどの愛の果て。
例え触れることも、言葉を交わせなくても。
それでも女神になるたった一人のために。
あの男は――血を分けた妹ですら、世界に捧げる覚悟を決めたのだろう。