第139話 揺るがぬ覚悟
ザァァ、とお湯が流れていく。
頭からシャワーを浴びながらアヤセはじっと虚空を見つめた。
"唯舞。……自分だけ助かっていいの? とか考えちゃダメだよ"
あの時の深紅の言葉に血の気が引いて、アヤセは足元が崩れ落ちるような感覚さえしたのだ。
その後の会話を聞いていれば、唯舞が何を考えていたかなんて聞かなくても想像がつく。
"優しすぎたのだよ、化身は。加護が……理力が"高天原"を希いながらも消滅していくさまが耐えられなかった"
優しすぎるが故に、自己犠牲もいとわないのだと。
そういう女神譲りの国民性なのだと、氷帝も、深紅も言った。
ぐっ、と爪が食い込むほどに力が入る。
(唯舞のことだ。お人好しなあいつの性格なら……深紅を捨てられない)
唯舞はアヤセのように割り切ることはできない。
アヤセにとっては唯舞だけが世界の全てだが、唯舞は違うから。
全てを守りたいわけではない。手の届く範囲だけを守りたいのに、今はそれが何よりも難しい。
(一度死んだ人間を生き返らせるなど、それこそ神の領域だ。太陽神が生命の象徴だというのなら、可能性はそこしかない)
全てが行き当たりばったりの可能性。太陽神さえ喚べるのかどうか分かっていないのに、その時にならないとどうにもならないことばかりで頭が痛くなる。
ふいに過ぎったのは、唯舞や深紅が言っていた、強い願いには強い力が宿るという異界の理。
「――言葉に力が宿る、か……」
きゅっとシャワーを止め、一度アヤセは深く息をついた。
もしもそれが本当なら、今のアヤセが願うことなどひとつしかない。
目を閉じても、瞼の裏に浮かぶのはいつだって小さく笑う唯舞の姿。
派手でもなく、淑やかなわけでもない。
頑ななところもあるし、抜けているところもある。
そんなごくごく普通の女を、アヤセはこんな世界よりも求めてるのだ。
「奪わせやしない。唯舞はもう……俺のものだ」
それは、傲慢すぎる願いだった。だが、何よりも強く、純粋な願いでもある。
唯舞さえ助かるのなら、世界丸ごと滅びても構わないと思うくらいには……アヤセはもう、戻れないほど溺れているのだ。
*
シャワーを終えたアヤセが部屋に戻れば、ナイトドレスに着替えた唯舞の姿があった。
以前実家で見た――母・ティアナのものより布面積は多いが、それでも一瞬どきりとする。
(そういえば、軍服は汚したんだったな)
抱きしめた時、唯舞のシャツにも血がついたことを思い出す。
元々この部屋にアヤセを放り込むつもりだったのか、唯舞の言う通りご丁寧にアヤセの服も準備されていた。
白シャツに黒のスラックスは、シンプルな分、アヤセ自身が引き立つ。
「……っ」
思わず、と言った顔で唯舞がアヤセを見てほんのり困ったように顔を染めた。
アヤセの実家の時と違い、今はこの部屋で寝食を共にすると思ったら何だかすごく気まずい。
(付き合ったその日から、一緒の部屋で過ごすだなんて……)
そんな軽い状況ではないことは分かっているが、二人きりのこの密室が、無性にアヤセのことを男として意識せざる得ない状況にしている気がした。
「……唯舞」
「は、はぃ?!」
動揺が声に出る。
おかしい。表情が出ないことが強みだったのに、アヤセと出会ってからというものどんどん崩れていってる気がする。
そんな唯舞の耳元でアヤセはそっと囁いた。
「そんなに心配しなくても、手は出さない。――ここではな」
「!?」
愉悦の滲んだ口元が恨めしい。
唯舞の情緒をかき乱すだけかき乱してからアヤセは並んでるボトルから緑茶を手に取った。
「これは、以前アインセルで見たやつか?」
その余裕にクッションの1つでも投げてやろうかと思ったがぐっと耐えて唯舞はこくりと頷く。
以前アインセル連邦に行った時はカイリしか飲まなかったはずだが、記憶としては残っていたらしい。
「緑茶です。私達の国でも馴染みのものなんです」
「なるほどな。さすがは聖女召喚の国というわけか」
ボトルを開けたアヤセがこくりと緑茶を飲む。
紅茶やコーヒー文化の彼に緑茶の風味が合うのだろうかとほんの少し緊張した。
「……想像より薄いな。それに独特の渋みがある」
「ふふ、紅茶は華やかですもんね。でも、紅茶も緑茶も、製法が違うだけで元は同じ茶葉なんですよ?」
「そう、なのか?」
驚いた目をするアヤセに唯舞は小さく笑った。
そんな緑茶を眺めていたアヤセが、ぽつりと呟く。
「また……今度、行くか」
「行くって、どこにですか?」
「アインセルだ。邪魔者はいらないけどな」
「ふ、ふふ。それってもしかして大佐達のことを言ってます?」
「あいつら以外にいるか?」
楽しげに笑う唯舞をアヤセはじっと見つめる。
約束は、未来への希望だ。
少しでもそれが唯舞を引き止める枷になるなら、アヤセはいくらでも唯舞をこの地に縛り付けるための約束をする。
それで唯舞が自分のそばにいてくれるのなら。
世界より唯舞を選ぶと決めたアヤセに、迷うことなど何もないのだ。




